ちらりと彼女は時計を見た。
 時間は、18時を少し回ったくらいだった。
 いかにもOL風な今年流行りのカラーのスーツをまとっている彼女は、ぽつんと呟く。
「ああ、間に合うかなぁ」
 仕事が思ったよりも長引き、30分ほど残業をしてしまった。
 これでは、楽しみにしているTVが始まってしまう。
 今の時間なら家にいるだろう妹に、念のためにビデオ録画を頼もうか。
 そう考え、彼女は携帯電話を鞄から取り出した。
 そしてその携帯の画面を見て……ふと、表情を変える。
 ――4/13(火)18:06。
 4月13日……。
 もう、あれから何年経ったのだろうか。
 ある友人の顔を思い浮かべながら、彼女は溜め息をつく。
 この日は毎年、ろくな思い出がない。
 去年も、一昨年も……あんなことがあったし。
「早く、家に帰ろう……」
 青ざめた表情で、彼女は普段通らない公園の中に歩を進めた。
 この公園を突き抜けると、彼女の家までの道のりを短縮できる。
 ただ、この公園はいつも薄暗く、いつもは明るい大通りを通っている。
 だが、いつも薄暗い公園であったが……今日はさらにその静かさが増している気がした。
 さらに歩く速度を早める彼女は、携帯電話のボタンを焦るように押した。
 彼女の耳に、呼び出し音が鳴り響く。
「あ、もしもし、私だけど」
 数度の呼び出し音が鳴ったあとに相手の声が聞こえ、彼女は少しホッとしたように歩調を変えないまま、携帯で話を始めたのだった。





「ねえ、詩音くん」
 その車内で、眞姫は隣の詩音に視線を向け、口を開いた。
「どうしたの、お姫様?」
 普段の姿勢を崩さないまま、詩音はにっこりと微笑む。
「今から、どこに行くの?」
「今から? そうだね、青い瞳の騎士のところ、かな?」
「え?」
 眞姫は、詩音の言葉にきょとんとした表情を浮かべた。
 そんな眞姫から視線を逸らし、詩音はおもむろにその瞳を閉じる。
「さて、今その騎士はどこにいるかな?」
「!?」
次の瞬間、眞姫は目を見張った。
目の前の詩音から……ボウッと眩い光が立ち上り始めたからだ。
そして数秒後、詩音は、すうっとその瞳を開く。
「次の角を左に曲がって。曲がってすぐのところでいいから」
「はい、かしこまりました」
 詩音の言葉に、運転手はこくんと頷いた。
 車は次の角で左折し、そこで停車する。
「さ、到着だよ。お姫様」
「ここは?」
 車から降りた眞姫は、首を傾げた。
 そこは、薄暗い公園の入り口。
「帰りは迎えにこなくても構わないよ。お疲れ様」
 運転手に労いをかけ車のドアを閉め、詩音は走り去る車を見送る。
 そしてまだ不思議そうな顔をしたままあたりを見回す眞姫に、視線を向けた。
「さぁ、お姫様。青い瞳の騎士のもとへ急ごうか」
「え?」
 眞姫の手をひいて、詩音はその公園の中へ歩を進めた。
 薄暗い公園には、人がまばらにしかいない。
 そして、しばらく歩いたその時。
「あっ」
 眞姫はある人物の姿を見つけ、驚いた表情を浮かべる。
 そこには。
「詩音と、姫か」
「あれ、健人?」
そこには、右目だけ青い瞳の少年・蒼井健人の姿があった。
「僕のお姫様を連れてきたよ。そっちの様子はどうだい?」
「今のところ、まだ目立った動きはない。だが、もうそろそろかな」
 ふっと表情を変え、健人は詩音にそう言った。
 青い瞳の騎士。
 詩音の言っている意味がようやく理解でき、眞姫は納得したように頷いた。
 でも、どうして自分がここに連れてこられたんだろう。
 それ以前に、どうして私の居場所が詩音にはわかったんだろうか。
 そして今から、何が起こるんだろうか。
「ねぇ、詩音くん。どうして私のいるところが分かったの? それにこれから、何があるの?」
 眞姫の問いに答えたのは、詩音ではなく健人だった。
「詩音には、誰がどこにいるか、ある程度近くにそいつがいれば分かる能力がある。そして、青白い物体を作り出しておまえにちょっかいかけているヤツのその正体……おまえも知りたいだろう? 姫」
「え?」
 眞姫は、健人の言葉に顔を上げた。
 そういえば以前、拓巳が言っていた。
 詩音には、補助的な能力がある、と。
 眞姫のいるところが分かったのも、その能力を使ったためだろう。
 車内で見た詩音を包む眩い光は、健人の居場所をその能力で探っていたのだ。
 そして。
 青白い物体を作り出している、張本人。
 その正体を健人の言うように、眞姫にも興味があった。
 あの物体に襲われそうになったことを思い出すと、恐怖で背筋に悪寒がはしる。
 だが今は、健人と詩音がそばにいてくれる。
 眞姫は、ゆっくりと言った。
「その物体を作り出している張本人って、誰なの?」
「それは……!!」
 健人が眞姫の問いに答えようとした、その瞬間。
 目の前の空気が、ぐにゃりと歪んだように眞姫には見えた。
 そして数秒後には、何事もなかったかのように薄暗い公園の風景に戻る。
 だが眞姫は、その風景に違和感をおぼえた。
 健人と詩音は、ほぼ同時にふっと目の前に手を翳す。
 まるで、目の前に見えない壁があるかのように。
「これって、“結界”?」
「そうだ。ターゲットを“結界”に閉じ込めたようだな」
 健人の言葉に、眞姫は首を捻る。
「ターゲットって?」
 まだ状況が飲み込めない眞姫に、詩音は笑顔を向けた。
「手をかしてごらん、お姫様」
 そう言って手を差し出す詩音に、眞姫は自分の右手を重ねる。
「えっ!?」
 眞姫は詩音に手を重ねた瞬間、驚いたように声をあげた。
 目の前の風景が、突如表情を変えたのだ。
「今、お姫様が見ているのは“結界”の中の様子だよ。今回のターゲットは、どうやら彼女のようだね」
 詩音の言葉に、眞姫はその瞳をさらに大きく凝らした。
 結界の中に閉じ込められているのは、ひとりのOL風の女性。
 女性は、自分が“結界”に閉じ込められていることも分からない様子で、誰かと携帯電話で楽しそうに話をしている。
 だが、その女性の背後には……。
「! これってっ!?」
 眞姫は、思わず息をのんだ。
 その女性の背後には、例の青白い光を放つ物体が、ぴったりとついてきているのだ。
 しかも彼女には、どうやらその姿が見えないようである。
「姫、青白い物体の後ろ……見てみろ」
 健人は、眞姫に静かにそう言った。
 その言葉どおりに視線を向けた眞姫は、驚いたように短く叫ぶ。
「えっ!? 何で!?」
 そこには、青白い物体と女性を、不敵な笑みを浮かべ交互に見つめている人物がいた。
 そしてその顔は、眞姫の知っているものだったのだのだ。
「どうして……」
「彼が今回の黒幕ということだよ、お姫様」
 表情を変えず、詩音は眞姫にそう言った。
 眞姫が言葉を続けようとした、その瞬間。
 話が終わったらしく、OLが携帯を鞄にしまった。
 それを待っていたかのように、青白い物体の腕がぬうっと伸びたのだ。
「な……っ!?」
 ガッと青白い物体の手が、OLの首を絞める。
 何が起こったのかわからない様子で、OLはもがき始めた。
「健人、そろそろじゃないかい?」
 詩音は、健人に視線を向ける。
 健人はこくんと無言で頷き、すうっと瞳を閉じた。
 眩い光が健人の身体を包み、そしてその見えない壁“結界”の中に彼の身体が吸い込まれているように眞姫には見えた。
 そして、次の瞬間。
 健人の右手が、急速に光をおびる。
 瞬間、その光がカッと弾け、青白い物体に向けて放たれる。
 そして健人の手から繰り出された光が、OLの首を絞めていた青白い物体に直撃した。
 その物体はその光によって、一瞬で消滅する。
 そして気を失っているOLの身体を支え、健人はそばのベンチに彼女を寝かせた。
「何っ!! 何者だ!?」
 健人の出現に、その人物は驚いた表情を浮かべた。
 そして物体を作り出してた、その人物とは……。
「! その制服、聖煌学園の生徒、か」
「俺のクラスは、先生の授業は受けてないけどな」
 健人はそう言って、その人物に視線を向ける。
 そんな様子をじっと見ていた眞姫は、呟いた。
「! 桑野先生、国語の桑野先生!?」
 健人の目の前にいるのは、眞姫たちのクラスの国語を担当している、桑野先生だった。
 女生徒に好かれそうなハンサムな顔立ち、ブランドのスーツを身にまとった、ナルシストっぽい雰囲気。
 だが、普段の見慣れた先生と違うのは……体に、“邪気”が漲っている。
 眞姫はその邪気を感じて、ぞくっと鳥肌がたった。
「どういうこと? 何で桑野先生が」
「…………」
 詩音は眞姫の言葉には答えず、じっと状況を見つめている。
 同じ時“結界”の中では、健人と桑野先生が一定の間合いを取りながら話を続けていた。
「そうか、おまえ“能力者”だな?」
「だったら俺がここにいる理由、先生ならわかるだろう?」
 そう言ってから、健人は続けた。
「何でこの人を、殺そうとした?」
 そして、ちらりとベンチで気を失っている女性に視線を向ける。
 その言葉に、桑野先生の表情がふっと変化した。
 その顔に浮かぶのは、憎悪の念。
「おまえには関係ないことだ! この女を殺せば、もう思い残すことはない」
 そんな桑野先生の様子を伺うように見て、そして健人は言葉を続ける。
「姫にちょっかいかけていたのは、あんただな」
 健人の問いに、桑野先生は笑った。
「“浄化の巫女姫”まさか、Bクラスの清家眞姫だとはな。あの身体を手に入れれば、さらに大きな力が得られるだろう?」
 その言葉に、健人はすうっと表情を変える。
 そして、静かに言った。
「残念だったな、そうはさせない。おまえを片付ける」
「ただ人型の物体を作り出すだけが私の能力と思っていたら、間違いだぞ」
 不敵に笑い、桑野先生はふっと身構えた。
 そして、その右手を天に掲げる。
「!!」
 途端にその右手に“気”の力が宿ったかと思うと、その光が一気に健人に襲いかかった。
 大きな光が、健人目がけて唸りをたてる。
 そしてドンッと衝撃音があたりに響き、その余波が周囲に立ち込めた。
 そんな様子を見て、桑野先生はニッと笑みを浮かべる。
「! 健人!?」
 眞姫は思わず声をあげ、目を見張った。
 詩音は何も言わず、冷静に戦況を見守っているままだ。
 そしてその余波が少し晴れてきた時、桑野先生はその表情を変える。
「攻撃を受ける直前に“気”の防御壁を張ったか」
 怪訝な表情を浮かべ、桑野先生は前方を見据えた。
 桑野先生のその視線の先には、何事もなかったように健人が立っている。
「覚悟はいいか?」
 そう言って健人は、すうっと身構えた。
 刹那、その右手に光が宿る。
 そして健人は、その右手をふっと振り下ろした。
「!! くっ!」
 唸りをたてて襲ってくる攻撃を、桑野先生は跳躍して避ける。
 その行動を読んでいたかのように間髪いれず、次の攻撃が健人の右手から放たれた。
 桑野先生は、それをガッと両手で受け止めてから邪気を放ち、ジュッとその光の効力を無効化させる。
 そして反撃といわんばかりに、バッと邪気を健人に向けて放った。
 健人は表情を変えないまま、右手に“気”を漲らせる。
 その右手を再び振り下ろし、健人の“気”と桑野先生の“邪気”が、両者の中間で激しくぶつかった。
 そして中間でぶつかったそのふたつの光は、お互い威力を失い、相殺される。
 眞姫はその目まぐるしい攻防に、すでについていけていなかった。
 桑野先生の持つ力は、青白い物体どころの力ではない。
 そして、健人たちが放つ“気”とは明らかに性質の違う“邪気”を宿している。
 桑野先生の見せた、憎悪の表情。
 ベンチで気を失っている女性と桑野先生の間に、何があったのだろうか。
 第一、何故今自分がここに呼ばれたのだろうか。
 自分は大きな力を持っているというが、この状況でも何もすることができない。
 力があったとしても、自分にはそれを使うことができないのだ。
 眞姫は思わず、詩音の手にのせていた自分の手を離した。
 途端に、ふっと目の前の風景が変化する。
 まばらではあるが、今まで存在しなかった人の姿が見え、健人たちの姿も見えなくなった。
「あ……」
 眞姫は、ふっと顔をあげた。
 そして不安気な表情を浮かべる眞姫に、詩音は優しく微笑む。
「大丈夫。お姫様のそばには、ちゃんと姫を守る王子がいるから。さあ、手を貸してごらん?」
 眞姫の頭をそっと数度撫でて、詩音は手を差し出した。
「お姫様、青い瞳の騎士の姿、目を逸らさずに見てあげて」
「……詩音くん」
 眞姫は再び詩音の手のひらに、自分の手を重ねる。
 瞬間、“結界”の中の様子が目の前に広がった。
 詩音の手の温もりを肌で感じながら、眞姫は再び目を凝らす。
 相変わらず構えを解かないままで、健人は桑野先生に言った。
「わかっているのか? “邪”とどんな“契約”を交わしたか知らないが、“邪”に身体を乗っ取られるんだぞ?」
「私はその女を殺せれば、思い残すことはもうないと言っただろう!?」
 ギロッと鋭い視線をベンチの女性に向け、桑野先生は怒りをあらわにする。
 そんな様子に、健人は冷静な表情のままで言った。
「俺も言っただろう? そうはさせない、と。おまえを片付ける」
「くっ」
 険しい表情を浮かべて、桑野先生はおもむろに右手を掲げる。
 次に予想される攻撃に備えて、健人も右手に力を込めた。
 その時。
「!!」
 ハッと、今まで冷静に状況を見守っていた詩音が、顔をあげる。
 次の瞬間、目の前の空気が、大きく歪んだように見えた。
 そして“結界”の中を見ていたはずの眞姫の目の前に、再びまばらな人の存在が目に飛び込んでくる。
 いつの間にか、目の前に存在していた“結界”が解かれたのだ。
「詩音!」
 突如として眞姫たちの目の前に現れた健人が、詩音の名を呼ぶ。
「大丈夫だよ、健人。お姫様は無事だよ」
 眞姫の盾になるように位置を取ってから、詩音は健人に目を向けた。
 健人は眞姫の姿を確認して、少し安心した表情を浮かべる。
 そして暗闇を見据え、健人は短く呟く。
「逃げられた、か」
「えっ、何がどうなったの? 桑野先生は!?」
 状況が飲み込めない眞姫に、健人は言った。
「桑野先生は、自分の張った“結界”を解いて逃げたみたいだな。あとは、鳴海先生が説明してくれるんじゃないか?」
 健人の言葉に、詩音も大きく溜め息をついている。
「え?」
 眞姫はその健人の言葉に、ふとおもむろに振り返る。
 そこには、いつの間に来ていたのか、鳴海先生の姿があった。
「あっ、鳴海先生?」
「清家、君に話がある。私の車に乗りなさい」
 相変わらず有無を言わせぬ口調で鳴海先生はそれだけ言い、歩き出す。
 眞姫は驚いた表情をしながらも、その後について歩を進めた。
 そして一瞬振り返って、健人と詩音を見る。
 健人は何も言わず、ただ眞姫を見送っているだけだった。
 逆に詩音は、仕方ないなという表情をみせつつ、眞姫に微笑みを向けて手を振る。
 眞姫と鳴海先生が見えなくなってから、健人は溜め息をついた。
「あいつのご要望通り、ヤツを殺さないで逃がしたのに、あの態度だからな」
「まぁ、こうなることは予想できたからね。騎士はいつの時代でも、影では苦労するものなんだよ」
「ていうかおまえ、青い瞳の騎士はやめろって言ってるだろう?」
 はあっと溜め息をつく健人の言葉も耳に入っていない様子で、詩音は言った。
「自分を守る騎士を見ているときの、お姫様の美しく切ないあの表情。インシピレーションをかきたてる、最高の宝石だったよ」
「姫……」
 健人は、すでに見えなくなった眞姫の姿を思い出し、ふっと深く嘆息したのだった。




 眞姫を乗せて、鳴海のダークブルーのウィンダムが、ゆっくりと走り出す。
 眞姫は、隣の鳴海先生に目を向けた。
 相変わらず先生は表情を変えず、前を見据えて運転をしている。
 そんな先生に、眞姫は聞いた。
「あの、鳴海先生。どういうことなんですか?」
「どういうことか、とは?」
 眞姫の方を見ないまま、鳴海先生は逆に問う。
 その言葉に少し考えるように、眞姫は言った。
「え? 質問はたくさんあるんですけど」
 ちらりと先生の顔をもう一度見て、眞姫は続ける。
「どうして私があの場所に、呼ばれたんですか?」
「百聞は一見に如かず、という言葉があるのを知っているだろう? その言葉の意味そのままが理由だ」
「え?」
「口で説明をするよりも、実際に自分の目で見る方が勉強になる」
 眞姫の言葉を遮るかのように、鳴海先生はそう言った。
「実際に自分の目で見るって、桑野先生があの青白い物体を作り出していた正体、っていうことをですか?」
「それもあるが、それだけではない。実際に“憑邪”(ひょうじゃ)を目にした方が、それの説明もしやすいからな」
「“憑邪”?」
 聞いたことがない単語を耳にし、眞姫は首を傾げる。
 邪、と付くくらいだから、いいものではなさそうである。
 鳴海先生は、眞姫の様子をちらっと見てから、話を続けた。
「“邪”の生態は、いくつかの種類に分類される。“憑邪”とは、その一種だ。“憑邪”は、人間の身体を得るために人間の弱みにつけこみ、その人間に甘い言葉をかけ“契約”を交わさせる。その人間の望みを叶えることを条件に、人間の身体に憑依するのだ。今回の桑野先生の場合、あのOLの命を奪うというのが“契約”の条件だったようだな」
「あのOLの人の命を、何で桑野先生が?」
「彼が聖煌学園に赴任してくる以前のことを、少し調べてみた。前の学校は女子校だったらしいが、彼は生徒からいじめを受けていたようだ」
「いじめ?」
 授業を受けた感じでも、いじめられるような要素は微塵も感じないように眞姫は思えた。
 むしろ、生徒から人気がある先生と言ってもいいだろう。
 鳴海先生の言葉が信じられず、眞姫は考える仕草をする。
 そんな眞姫の様子に、鳴海先生は言った。
「彼は前の赴任先が、教師としてはじめての職場だった。君の思っている通り、彼は最初は生徒に人気のある教師だったが、若さ故その行動が生徒の鼻についたのだ」
「え?」
「生徒のひとりと彼は、教師と生徒以上の関係になったのだ。それが生徒たちの間に広まり、桑野先生自身と彼の恋人だったその生徒、両方がいじめの対象になったのだ。そのいじめに耐えられず、彼の恋人だった生徒は3年前の今日、自殺した」
「3年前の、今日」
 眞姫は、桑野先生の憎悪に満ちた表情を思い出す。
 鳴海先生は、話を続けた。
「当時、その自殺した女生徒をいじめていた中心的な生徒が3人いた。だがそのうちのふたりは、2年前の今日、そして1年前の今日、原因不明の死に方をしている。そして3人目であるいじめの首謀者の最後の人物が、あの今日襲われていたOLということだ。恋人を奪われた、逆恨みだろう。それを、“邪”につけこまれたのだ」
「じゃあ、その原因不明の死に方をしたふたりは、桑野先生が?」
 眞姫の言葉に、鳴海はこくりと頷く。
「そうだ。間違いなく桑野先生が、先生に憑いている“邪”の力が殺したのだ。そしてその“邪”と交わした“契約”……復讐をすべて果たし終わったその時、桑野先生の身体は完全に“邪”のものとなる。君を数度襲ったのは、君が“浄化の巫女姫”だと憑いている“邪”が偶然に気がついたのだろう。前にも言ったとおり、“邪”は大きな力を持つ媒体を得たいと思うものだからな」
「じゃあ、桑野先生を助ける方法、憑いている“邪”を追い出せる方法って、あるんですか?」
 はじめて鳴海先生が、眞姫の問いに一瞬言葉を失う。
 少し間を置き、そして言った。
「映研メンバーのように“邪”と戦える力を持つ者を一般的に“能力者”と言うが、残念ながら“能力者”が“憑邪”を退治するためには、その媒体になっている人間ごと消滅させなければならない。だが、例外もある」
 信号が赤になり、鳴海先生はブレーキを踏む。
 そして、はじめてその切れ長の瞳をふっと眞姫に向けた。
 鳴海先生に見つめられて、眞姫はドキッとする。
 鳴海先生は眞姫に視線を向けたまま、言葉を続けた。
「憑依されている人間の中に潜んでいる“憑邪”だけを消滅させる唯一の方法、それは“浄化の巫女姫”だけの特殊能力のひとつ“憑邪浄化”の能力をもってしてだけだ」
「“浄化の巫女姫”だけの、特殊能力!?」
 眞姫は、鳴海の言葉に驚いた表情を浮かべる。
 信号が青になり、鳴海先生は車を発進させた。
 そして、静かに言った。
「桑野先生を“憑邪”から救う方法は、君の能力をもってして可能なことであるが、君の能力はまだ目覚めていない。それに桑野先生は、すでにふたりの人間をその手にかけている。同情の余地はない。君の能力を使わずに“憑邪”を消滅させるように、映研メンバーの彼らにはすでに指示してある」
「! それって」
“浄化の巫女姫”の力をもたずして“憑邪”を消滅させる方法、それはその媒体ごとその存在を滅する、ということになる。
 つまり、桑野先生ごと“邪”を退治するということだ。
 眞姫は、納得いかない表情で鳴海先生を見た。
 自分の力で桑野先生を救えるのならば、いくらふたりの人間を手にかけていようとも、みすみす殺すなんてことできない。
 そんな眞姫の考えを察してか、鳴海先生は冷静に言い放つ。
「清家、そんな甘い考えでは、これからの試練に到底立ち向かえない。そのくらいシビアなのだ、現実は。君は桑野先生には近づくな。分かったな」
「でも、先生!」
「明日は木曜日、映画研究部の部活動の日だ。文字通り、明日活動を行う。君は部活動を欠席しなさい。これは、顧問の私の命令だ」
「そんな! 私はそんなの、納得いきません! 私の力で何とかなるならっ」
 明日活動を行うということは、明日桑野先生を“憑邪”を退治するのだと、眞姫には分かった。
 まだ納得いかない眞姫は、抗議の目で鳴海先生を見るも。
 再び車が信号に引っかかり、鳴海先生は再び眞姫にその瞳を向け、言った。
「聞こえなかったか? 清家、君を危険な目に合わせるわけにはいかない」
「先生……」
「とにかく、君は明日は早々に学校が終わり次第、帰路に着くように。拓巳と祥太郎をボディーガードにつける。彼らにも部活動欠席の旨を伝えているからな」
 それだけ言って、鳴海先生は口を噤む。
 車内が、シンと静まり返る。
「…………」
 眞姫はこれ以上何も言えないまま、黙って俯いた。
 自分に救う力があるかもしれないのに、肝心なときでさえ守られる役割なのだ、自分は。
 たとえ大きな力がこの身体に宿っているとしても、それでは意味がない。
 きゅっと唇を噛みしめる眞姫の方を見ずに、鳴海先生は車を止めた。
「清家、到着だ。しっかり今日は休むように」
「…………」
 その言葉に眞姫はただ俯いて、自分の無力さに嫌悪感をおぼえることしかできなかったのだった。