5


 ――4月15日、木曜日。
「いつもの電車、間に合うかな」
 眞姫は時計を見て、歩く速度を早める。
 昨日の夜、眞姫はなかなか寝付けなかった。
 布団に入ってからもずっと、いろんなことが頭の中をぐるぐる回っていた。
 自分が“邪”に襲われたこと、映研のみんなのこと、自分のまだ目覚めていない能力のこと。
 そして、鳴海先生から聞いたこと。
「…………」
 眞姫は、ふっと俯く。
 鳴海先生の話では、“邪”を、桑野先生を、今日映研部員のみんな・いわゆる“能力者”が消滅させるというのだ。
 眞姫は、昨日見た桑野先生の憎悪に満ちた表情を思い出した。
 確かに“憑邪”と“契約”を交わして、2人の人間を殺したかもしれない。
 でもそれでも、桑野先生自体を消滅させるなんて、何だか納得がいかない。
 それに、そんな恐ろしい“邪”と対峙する映研部員のメンバーが心配でもあった。
 そして眞姫は、自己嫌悪に陥っていた。
 何も打つ手立てがないわけじゃない、自分の中に秘めている力があれば、“憑邪”だけを退治できるというのに。
「せっかくの力も、使えないんじゃ何も意味がないよ……」
 そうぽつんと呟いて、眞姫は足を止める。
 そして、その瞳を宙に向けた。
 どんよりと曇った空が、今の眞姫の心理そのもののようであった。
 ちらりと、再び眞姫は時計を見る。
「もう間に合わないかな、次の電車で行こう」
 普段はぎゅうぎゅうの満員電車に乗るのがイヤなので、ラッシュがピークを迎える電車の1本前の時間のものに乗っている。
 それでも人が多いことには変わらないのだが、心持ち少しでも早く登校した方が安心できるからということもあった。
 眞姫はいつもの時間の電車に乗るのを諦め、歩調を緩める。
 そして溜め息をついてから、地下鉄の駅の階段を下りた。
 その時。
 眞姫は、階段を下ってすぐの改札口の前で、驚いたようにふと立ち止まる。
 その瞳に映っていたのは。
「あ、姫。おはよう」
「あれ、健人?」
 そこには、忙しく流れる人ごみの中、右目だけ青い瞳の少年・健人が、誰かを待っているかのように近くの柱にその背中を預けていた。
 いつももう1本早い電車に乗っているはずの健人の姿に、眞姫は首を傾げる。
「どうしたの? この時間の電車なんて、珍しいね。いつもひとつ前の電車なのに」
「いつもの時間に、姫の姿が見えなかったから待ってたんだ。寝坊でもしたのか?」
 そう言って健人は、ポケットから定期券を取り出した。
 眞姫は、小さく溜め息をつく。
「私のこと、待っててくれたの? うん……何か昨日、ちょっと眠れなくて」
「そうか」
 それだけ言って、健人は眞姫の隣に並んで歩き出した。
 それから定期券を改札口に通して、ホームで電車が来るのをふたりは無言で待った。
 昨日の出来事が、頭の中に思い出される。
 どう話を切り出していいのか分からず、眞姫はずっと俯いたままである。
 そんな眞姫を、健人は複雑な表情で見つめていた。
 数分後電車がホームに入ってくると同時に、どっと人の流れが動き始める。
 その流れに逆らわず、眞姫と健人は車内に押されるように乗り込んだ。
 満員の車内でろくに身動きが取れないまま、眞姫はもう一度深々と溜め息をつく。
 そんな眞姫を見て、健人が言った。
「姫……そんな顔、するな」
「え?」
 ふと、眞姫は俯いていた顔をあげて健人に視線を移す。
 その健人の青い瞳が、じっと自分を見つめていた。
 そんな健人の視線にドキッとしながら、眞姫は健人の整ったその顔を、驚いたような表情で見上げる。
「おまえがそんな顔してると、俺もどうしていいかわからなくなる」
 健人は眞姫の目を見つめたまま、そう言葉を続けた。
「健人……きゃっ!」
 その時、ガタンッと大きく電車の車両が揺れる。
 電車が思わぬところで急停車したため、眞姫は背後から人の波に押されてよろめいた。
 健人はそんな眞姫を、自分の胸の中でしっかりと支えた。
『突然の急停車、大変失礼致しました』
 そんなアナウンスが車内に響いて、そして再び電車が動き出す。
 だが眞姫には、そんなアナウンスが耳に入っていなかった。
 聞こえているのは、ドキドキと早い鼓動を刻む、自分の心臓の音。
 カアッと、顔が真っ赤になっていく自分が、眞姫には分かった。
 そしてそれから、健人に抱きかかえられるような格好になっている自分にハッと気がつき、眞姫は彼から慌てて離れようとする。
「あっごめんね、健人っ。あ、ありがとう」
「…………」
 だが、そんな自分の胸の中から離れようとした眞姫を、健人は再び自分の胸の中に引き寄せた。
 そして、ぎゅっとその腕を眞姫の背中に回す。
 驚いた表情を浮かべる眞姫に、健人は言った。
「もう少し、このままでいろ」
 華奢に見える外見とは違うその健人の胸板の厚さに眞姫の心臓はさらにその鼓動を早め、その身体は、固まったまま動かなかった。
 正確に言うと、あまりにびっくりして動けなかったのだ。
 ぎゅうぎゅうの満員電車だったため、眞姫と健人の状態は、ほかの客からは見えない。
 眞姫はどうしていいか分からない顔をしながらも、あたたかい健人の胸の中で心地よさも感じていた。
 そして顔を真っ赤にして俯く眞姫に、健人は言った。
「おまえは何も心配するな。だからそんな顔しないでくれ、姫」
 その言葉に、眞姫は言葉を返す余裕すら、すでになくなっていた。
 下車する駅に到着するまでの数分間が、眞姫にとって、ものすごく長い時間に感じた。
 そして駅に到着し、同じ制服を着た人の波が一斉に出口へと動き出す。
 パッと抱きかかえていた眞姫からその手を離し、健人は何事もなかったかのように出口へ向かう。
 そんな健人とはぐれないように、眞姫は一生懸命その後姿を目で追った。
 だが普段乗りなれていない電車の人の多さに、眞姫は健人の姿を見失った。
 まだ火照っている顔を手で抑えて、眞姫は深く息を吐いてから。
 定期券を通して駅を出てから少し気持ちを落ち着かせようと、眞姫はもう一度深呼吸をした。
 その時。
「何やってるんだ、姫? 遅いぞ、おまえ」
「わっ、け、健人っ! 先に行っちゃったのかと思ったっ」
 見失ったはずの健人が急に目の前に現れ、眞姫の心臓は再びドキドキと鼓動を刻む。
 そんな眞姫に、健人は普段どおりの表情で言った。
「結構鈍くさいよな、姫って」
「ど、鈍くさいって……健人がすぐ先に行っちゃうんじゃない」
「俺が普通じゃないか? 姫が鈍いってことだろ、つまり」
 そう言って健人はふっとその顔に微笑みを浮かべて、眞姫の頭をくしゃっと撫でる。
 そして続けた。
「ほら、ボーッとしてないで行くぞ」
「え? あ、待ってよ、健人っ」
 健人にくしゃくしゃにされた髪を手で撫でてから、眞姫は急いでそのあとに続いたのだった。





 1本遅い電車に乗ったため、眞姫が教室に着くとすぐにホームルーム開始5分前の予鈴が鳴り始めた。
「あっ眞姫、おはよー」
「おはよう、梨華」
 梨華は、そう言って席に座った眞姫を見て、意味ありげに笑う。
「ねーねー、何かいいことでもあった?」
「えっ?」
 梨華の言葉に、眞姫は驚いたように目を見開く。
 そんな眞姫の様子を見て、梨華は続けた。
「何かいつもと様子が違うカンジだもんっ、何かさぁ、ときめきイベントでも発生した?」
「と、ときめきイベントって」
 そういうことに目ざとく敏感な梨華に、眞姫は少し慌てる。
 うーんと少し考えてから、梨華は楽しそうに言った。
「例えばさぁ、眞姫好きだぁっ! とか男に言われて、きゅーっと抱きしめられる、とかぁ」
「きゅ、きゅーっとって、そ、そんなコトないって」
 一瞬、電車の中で感じた健人の胸板の厚さを思い出した眞姫であったが、すぐに頭を振る。
 きっとあれは、電車が混雑してたし、電車の揺れによろける自分を健人は仕方なく支えていただけだ。
 それなのに、何を勘違いしてるんだろう。
 そう思いなおし、眞姫は梨華に視線を向ける。
「そういう梨華こそ、何か嬉しそうな顔してるよ?」
 眞姫の言葉に、梨華はパッと明るい表情を浮かべた。
「うそ、分かるー? 今日ね、珍しくアイツと会って一緒だったの、学校来るのが」
「祥ちゃんと? よかったじゃない、梨華」
 素直に喜んでいる梨華に、眞姫は微笑む。
 そんな眞姫に目を向けてから、梨華は机に頬杖をつく。
「まぁね、でもアイツ、相変わらず女にばっかり声かけてさっ。○○ちゃん、今日も一段と可愛いわぁ〜、とか隣で言ってるのよ? それがアイツらしいって言えばそうなんだけどさ」
 そう言ってから、梨華はふっと笑って続けた。
「でもね、一緒にいられただけで、嬉しかったんだけどね」
 恋をしている女の子は自然と綺麗になるということを聞いたことがあるが、眞姫は梨華を見て、それは本当だなぁと感じる。
 そして、そんな梨華を羨ましいとも思った。
 そんなことを話しているうちに、ホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴り、鳴海先生が教室に入ってくる。
 号令をかけて席に座った眞姫は、教卓で連絡事項を相変わらず淡々と伝えている鳴海先生の顔を、見れないでいた。
 昨日車の中で話した内容が、再び頭の中で繰り返される。
 やはり、今日桑野先生を消滅させるんだろうか。
 自分には何もできないんだろうか。
 そう思った、その時。
「それでは、前日皆に配った“学校生活に対するアンケート”を回収する。後ろの席の者が一列分集め、私に提出しなさい」
 その言葉に、一番後ろの席である眞姫は立ち上がった。
「はい、姫。って、どうしたの?」
 前の席で眞姫にアンケート用紙を渡した准が、眞姫の表情が冴えないことに気がつき、言葉をかける。
「え? ううん、何でもないよ、准くん」
 映研メンバーに桑野先生を消滅させることは伝えてある、そう言っていた鳴海先生の言葉を思い出し、もちろん准もそのことを知っているだろうと眞姫は思った。
 だが、そんな准に何て言っていいか分からない眞姫は、笑顔を作って彼に向けることしかできなかった。
 そんな眞姫を、准は心配そうな表情で見ている。
「姫、何でもひとりで抱え込まないでね」
「うん、ありがとう」
 にっこりと准に微笑んでから歩を進め、眞姫は自分の列のアンケートを集めた。
 そしてそれを、教卓の鳴海先生のところへ持っていく。
 鳴海先生の顔を見ないようにしていた眞姫だったが、ふとその顔をあげた。
 鳴海先生の切れ長の瞳は何かを言いたいかように、じっと眞姫に向けられていた。
 その澄んだ瞳にドキッとしながら、眞姫は鳴海先生からスッと視線をそらす。
 そんな眞姫に、鳴海先生は言った。
「清家、昨日の私の指示には必ず従うように。いいな」
「…………」
 どう答えていいか分からない様子で眞姫は一瞬その足を止めたが、そのまま自分の席に戻ろうと歩き出す。
 鳴海先生の言葉に頷くことが、まだ眞姫にはできないでいたのだ。
 准は、眞姫と鳴海先生の様子を複雑な表情で見守っている。
 アンケートをクラス分集めた鳴海先生は、一瞬だけ眞姫に視線を向けたが、何事もなかったかのようにホームルームを続けた。
 そしてホームルームが終わり、鳴海先生が教室を出て行く。
 眞姫は1時間目の国語の教科書を机に準備しながら、俯いた。
「あ、ねぇねぇ、眞姫」
 梨華に呼ばれるその声で眞姫は我にかえり、梨華に視線を向けた。
「え? あ、何?」
「そういえば昨日桑野先生に、今日使う国語のプリントを朝取りにこいって眞姫、言われてなかったっけ?」
「! えっ!?」
 その梨華の言葉に、前の席の准が反応を示した。
 眞姫は、ハッと顔をあげる。
 そういえば昨日の帰り、桑野先生にそう言われていた。
 すっかりそのことを忘れていた眞姫は、困ったような表情を浮かべる。
 行くべきか行かないべきか、眞姫は悩んだ。
 先程鳴海先生に、あんなことを言われた矢先なのに。
「あ、そうだったね。ありがとう、梨華」
 そう言って眞姫は、とりあえず席から立ち上がる。
 そんな眞姫に、ガタッと前の席の准も立ち上がった。
「姫、ひとりじゃ大変だから、僕も行くよ」
 眞姫の様子を気遣いながらも、准のその表情は険しいものに変わっている。
 眞姫は准の申し出に、こくんと頷いた。
 そしてふたりは教室を出て、桑野先生の待つ国語準備室へと足を運ぶ。
 ホームルームの終わった廊下は、楽しそうに雑談をする生徒たちで賑わっている。
 そんな中を、眞姫と准は黙々と歩いていた。
「……姫」
 准はふと、眞姫に声をかける。
「何? 准くん」
 眞姫は、その瞳を准に向ける。
 そんな眞姫の目を真っ直ぐ見つめて、准は口を開いた。
「昨日、鳴海先生に聞いたよね」
 桑野先生のこと、と小声で続ける准に眞姫は頷く。
「うん」
「僕のそばから絶対に離れないで、姫」
 緊張した面持ちで、准はそう言った。
 その時だった。
「おっ、姫に准じゃないかよ」
 1年Hクラスの前の廊下で、ふたりの姿を見つけた拓巳が声をかける。
 その拓巳の言葉に、隣にいた祥太郎も微笑んだ。
「姫、今日も相変わらずめっちゃめちゃ可愛いなぁ。おふたり揃って、どこ行くん?」
「うん、ちょっと、職員室に」
 准は祥太郎の言葉に、そう言った。
 下手に桑野先生のところだと言えば、自分もついてくるというに違いない。
 ふたりの性格をよく知っている准は、あえて国語準備室に行くことを言わなかった。
「あ、そうだ姫、今日学校終わったら一緒に帰ろうぜ。俺は部活に出たかったんだけどな」
 拓巳は少し納得のいかない様子で、そう言った。
「白馬の王子がBクラスに迎えに行くからな、俺らと一緒に帰ろうや。ラブラブデートやと言いたいところやけど、邪魔者もおるからなぁ」
「どっちが邪魔者だよ、まったくっ」
 いたずらっぽく笑う祥太郎に、拓巳はむっとした表情をする。
 そんなふたりの言葉を聞いた眞姫は、ふと顔をあげて言った。
「私も部活に出たいよ。だって、私にしかできないことなんでしょう? 桑野先生を助けること」
 その言葉に、3人は驚いた表情を浮かべる。
 眞姫は、そんな3人に交互に視線を向けて言葉を続けた。
「やっぱり納得できないの。いつも私、守られるばかりで。大きな力があったって、役に立たなかったら何も意味ないと思う。鳴海先生は、私のこと心配してあんなこと言ってるってことも分かってるんだけど」
「僕は鳴海先生と同じ考えだよ。姫を危険にさらすなんてこと、できないよ」
 眞姫の隣で、准はそう言った。
 その言葉に、拓巳は首を振る。
「姫が納得できないって言ってるんだ、姫の身はオレたちが守ってやればいいだろ? 姫がしたいように行動させるべきじゃねーか? 鳴海にそれを止める権利はないと思うぜ。オレが姫のこと、どんなことがあっても守ってやる」
「拓巳」
 眞姫は、拓巳の言葉に顔を上げる。
 准は険しい表情のまま、溜め息をつく。
「僕は、肉体的にも精神的にも、姫を傷つけたくないんだよ」
「じゃあ、姫の行動を制限するっていうことは、姫を傷つけることじゃないって言うのかよ? 十分に姫、思いつめてるじゃねーかよ」
「…………」
 祥太郎はその顔に不安を浮かべている眞姫に気がつき、優しく微笑んだ。
 そして、言った。
「准の気持ちも、拓巳の言い分も分かるし、姫が思ってることももっともや。まだ放課後まで時間あるんやし、もう一度よく考えてみたらどうや、ここで言い合っても何も変わらんしな」
 祥太郎の言葉に、准と拓巳も気を取り直して頷く。
「そうだな。とにかく姫、放課後はBクラスに迎えに行くからな」
「うん、わかった」
 眞姫は拓巳に目を向けこくんと頷いてから、笑顔で言った。
「拓巳、准くん、祥ちゃん、ありがとね」
 そして准と眞姫は、再び国語準備室に向かって歩き出す。
「ありがと、か。姫って、かわいいよな」
 眞姫の背中で揺れる栗色の髪を見つめ、拓巳はそう呟いた。
 祥太郎は、そんな拓巳にくすっと笑う。
「たっくんもカワイイで、そのデレッとした締まりのない顔がな」
「なっ、おまえだって姫に笑顔向けられて鼻の下伸ばしてたじゃねーかよっ」
 そう言っているうちに、授業開始が間近であることを告げる予鈴が鳴り始めた。
「あ、祥太郎、1時間目って何の授業だったっけ」
 そう聞いた拓巳に、祥太郎は苦笑して答えた。
「あの悪魔の数学や、拓巳」
「数学、鳴海かよっ」
 ふっと怪訝な表情を浮かべ、拓巳は何かを考える仕草をしたのだった。




 国語準備室の目の前で、眞姫は足を止めた。
「姫、大丈夫? 僕だけで行こうか?」
「いや、私も行くよ。准くん」
 自分を気遣う准に笑顔を作り、眞姫は意を決したように国語準備室のドアをノックする。
 そして、そのドアをゆっくりと開けた。
「失礼します。Bクラスの授業のプリントを、取りに来ました」
「ああ、わざわざすまなかったね。そのプリントだから」
 予想外の准の姿に少し表情を変えたが、普段どおりその顔に微笑みを浮かべ、桑野先生はそう言った。
 その表情の変化に、准は口を開く。
「清家さんひとりじゃ大変だと思って、僕も手伝いに来ました」
「そうか、授業が始まる前に全員にそれを配っておいてくれ」
 険しい表情の准とは対照的に、桑野先生は慌てる表情も見せずに椅子に座っている。
 眞姫は、目の前の先生が“憑邪”に取り憑かれているなんて、信じられなかった。
 昨日あんなに身体中に漲っていた先生の邪気は、今は微塵も感じない。
 准は常に眞姫の盾になる位置を取りながら、注意深く状況を探っていた。
 そしてクラスの人数分プリントがあることを確認し終わり‥眞姫たちは、国語準備室のドアに歩を進める。
「失礼しました」
 そう振り返って眞姫が礼をした、その時。
 背筋に、ぞくっと悪寒がはしった。
「!!」
 准は、素早く眞姫の前にかばうように立った。
 そしてその右手が、急速に光を増す。
 次の瞬間、バチッと何かがぶつかるような音が眞姫の耳に響いた。
「“気”の防御壁か。やはり君も“能力者”というわけだね、芝草くん」
 そう言ってそのハンサムな顔に笑みを浮かべる桑野先生の身体からは、昨日感じたものと同じ“邪気”が漲っていた。
 准は険しい表情を浮かべながらも、冷静に言った。
「姫には手を出させないですよ、桑野先生」
 桑野先生は、准から眞姫に視線を移す。
 そして、構えをふっと解いてから笑った。
「今ここで君たちとやり合う気はないよ。もうすぐ授業のチャイムが鳴るはずだ。教室に戻りなさい」
「…………」
 まだ警戒を解かない准に、桑野先生は不敵に笑みを向ける。
「僕も無謀なことはしないよ。今の状況で君と戦っても、僕が優位に立てるわけではないからね」
「姫、先に準備室を出て」
 どうしていいか分からない様子の眞姫に、准は短くそう言った。
 眞姫は頷いて、そしてドアを開け退室する。
 准も桑野先生に鋭い視線を向けたまま、準備室を出て行った。
 ふたりが出て行ったあと‥桑野先生は、何かを考えるような仕草をする。
「“浄化の巫女姫”の身体をいただいてから“復讐”を成し遂げても、遅くはないな」
 そう言って桑野先生は、にやりと不敵に笑みを浮かべた。
 そして、おもむろに授業の始まりのチャイムが鳴り始め、桑野先生も準備室から出て行ったのだった。


      


 ――その日の夕方。
 今日の最終授業が終わって、鳴海先生は職員室へ向かって歩いていた。
 生徒たちの賑やかな声で溢れる廊下から、比較的人の少ない階段へと差し掛かる。
 そして階段の踊り場に足を踏み入れた、その時だった。
「おい、待てよ」
 気に食わない表情で声をかけてきた拓巳に、鳴海先生は振り返る。
 そして、その切れ長の瞳を向けた。
「何か用か? 数学の質問か? おまえの今日の小テストの点数は、無残なものだったからな」
「数学の質問のワケないだろっ、もっと重要なコトだよ」
 その鳴海先生の嫌味に顔をしかめてから、拓巳はじろっと先生を睨みつけて言った。
 拓巳から目を逸らし、鳴海先生はふうっとわざとらしく溜め息をつく。
「おまえの数学の危機的な点数も、かなり問題があると私は思うのだがな」
「数学なんて今はどうでもいいんだよっ、姫のことで話がある」
 鳴海先生の言葉に少し苛つきながら、拓巳はそう言った。
 その言葉に、鳴海先生は冷静に言い放つ。
「私はその件については、おまえと話すことなどない」
「おまえにはなくても、俺にはあるんだよ」
「…………」
 もうこれ以上話すことはないと言わんばかりに、鳴海先生は鋭い目を拓巳に向けてから再び歩き出した。
 そんな鳴海先生の行く手に立ちふさがるように前に出て、拓巳は口を開く。
「姫は、自分の力で桑野先生を助けたいって言ってた。なのに、どうしてそうさせてやらないんだよっ! オレは、姫を何があっても守ってやるつもりだ。おまえに、姫の行動を指図する権利があるのかよ!?」
「言ったはずだ。清家はもちろんだが、おまえと祥太郎も今回は動くなとな」
「勝手に決めるんじゃねーよっ! 何様のつもりだ、おまえっ」
 声を荒げる拓巳に、鳴海先生は威圧的に言った。
「黙れ。何度も言わせるな、おまえは今回手出しするな」
 その言葉にクッと唇を噛んで、拓巳は鳴海先生を睨みつける。
 そして、言った。
「何て言われようと、今回はおまえの指図になんか絶対従わないからなっ!!」
 拓巳はその瞬間、ハッと顔をあげた。
 空気が一瞬にして変化し、閑散とした空間に表情を変えたのだ。
「! “結界”!? どういうつもりだ、おまえ」
「勝手な行動をされては困る。おまえには、これ以上何を言っても無駄だ。ならば、力づくで理解させるまでだ」
「何だと? できるもんならやってみろよっ」
 キッと鋭い視線を鳴海先生に向け、拓巳は身構えた。
 その瞬間、拓巳の右手の手刀に気の力が宿る。
 鳴海先生はそんな拓巳を見て動じることもなく、その表情を変えない。
 そして拓巳がその気を放とうとした、その時だった。
「!!」
 突然、ガッと背後から右腕を掴まれ、拓巳は、驚いたような表情を浮かべて振り返った。
「おいおい、何やっとるんや」
「離せ、祥太郎! アイツの方から喧嘩売ってきたんだぜっ!?」
 鳴海先生の張った“結界”に入ってきた祥太郎は、ふうっと大きく溜め息をつく。
「鳴海センセも、一体どーいうつもりや? こんな学校の中で立派な“結界”張るなんてな」
「…………」
 祥太郎の言葉に、鳴海先生はその瞳をふっと閉じた。
 そして、言った。
「今回のことは、桑野先生に憑いている“憑邪”の問題ではない。その背後にいる“ヤツら”に、まだこちらの手の内を見せるわけにはいかないからな」
「!! ヤツらって“邪者(じゃしゃ)”か!?」
 鳴海先生の言葉に、拓巳は驚いたように声を上げる。
「“邪者”が動き出しとるっていうのか? 何でそれを先に言わんかな、この人は」
 そう言って苦笑する祥太郎に、鳴海先生は言った。
「おまえたちに言って何になる? 今あえて言わなくても、いずれ分かることだ」
「そーいう意味やなくてなぁ」
 鳴海先生の言葉に、祥太郎は溜め息をつく。
 祥太郎に掴まれた右腕を取り返して、拓巳は舌打ちをした。
「ちっ、何だよ。そういう事情なら最初から言えよなっ」
 そう言って構えを解く拓巳を見てから、鳴海先生はスッと右手をあげる。
 閑散とした空間が、生徒たちの声で活気溢れる普通の学校の風景に戻った。
「そういうことだ。おまえたちは今回の行動からは外す」
 それだけ言って、鳴海先生は職員室に向かって再び歩き出す。
 その後姿を睨みつける拓巳に、祥太郎は笑った。
「感謝してな、たっくん。あの悪魔におまえ、ボコボコに殺されとったで」
「うるせーなっ、おまえに止められなかったとしても、もうあんなヤツに負けねーよっ!」
 クッと悔しそうに拳を握り締める拓巳を見てから、祥太郎はふっと表情を変える。
「それにしても驚いたわ。もう“邪者”が、動き出しとるとはな」
「…………」
 その祥太郎の言葉に、無言のまま拓巳は険しい表情を浮かべたのだった。




 同じ頃。
 眞姫は、ひとり廊下を歩いていた。
 その足は、手を洗うためにトイレへと向かっていた。
 授業中ノートを取っている時、使っていたペンからインクが漏れて、手が汚れたのだ。
 だが、授業が終わったあとの女子トイレは、人でいっぱいである。
 仕方なく眞姫は、空いていると思われる近くの別館のトイレへと向かう。
 眞姫の教室からはほど近いその別館には、音楽室などの特別教室がある。
 人で女子トイレが混雑している時は、この別館のトイレを使うようにしているのだ。
 そして眞姫が、別館と教室のある本館を繋ぐ渡り廊下に差し掛かった、その時。
 眞姫はふと、その表情を変えた。
 そしてピタリと足を止める。
 そんな眞姫にふっと笑顔を向けてから、目の前に現れた桑野先生は言った。
「清家さん、君とふたりきりで話がしたかったよ」
「! 桑野先生」
 眞姫は桑野先生の姿を見て、数歩後ずさりする。
「ふっ、“結界”で君を閉じ込めたりはしないよ。“結界”を張ったら、厄介な“能力者”にここの場所が分かってしまうからね」
「…………」
 近づいてくる桑野先生に、眞姫は厳しい視線を向けた。
 桑野先生は、もう一度笑ってから言葉を続ける。
「君は本当に魅力的な媒体だよ。大きな力を持ちながら、まだその能力に目覚めていないんだからな」
「!!」
 ぞくりと、眞姫の全身に寒気がはしった。
 そして後方に走り出そうとした、その瞬間。
 ガッと、すごい力で腕を掴まれる。
 そこには桑野先生が作り出した青白い物体が、眞姫の右腕をぐっと握っているのが見えた。
 腕を掴まれ自由を奪われた眞姫に向かって、桑野先生はゆっくりと歩を進める。
 眞姫の目の前まで来てその歩みを止め、桑野先生はそのハンサムな顔に微笑みを浮かべた。
「大丈夫。邪魔な“能力者”を始末してから、この僕のものになってもらうだけだからね」
「な……っ!!」
 ドスッと、鈍い音がした。
 鳩尾に衝撃を受け、眞姫の身体が床に崩れ落ちる。
 そんな眞姫を抱えて、桑野先生はふっと笑った。
「“浄化の巫女姫”を餌に、まずは邪魔な“能力者”を殺す」
 その、同じ頃。
「姫、どこに行ったか知らない?」
 眞姫の姿が見えないことに気がつき、准は梨華に聞いた。
「眞姫? さっきトイレに手を洗いに行くって、教室出て行ったよ?」
「そう、ありがとう」
 それだけ言って、准はふと表情を変える。
 今のところ邪気は感じないが、校内には眞姫を狙う桑野先生がいる。
 准は何だか胸騒ぎがして、その席を立った。
 まだ担任の鳴海先生がくるまで、もう少し時間がありそうだ。
 教室を出て、准はあたりを見回した。
 そして、女子トイレの方に向けて歩き出す。
 だが准のその足は、数歩歩いたその場で止まった。
「芝草くん、ちょうど君に話があったところだよ」
「……桑野先生」
 警戒する准に、桑野先生は微笑んだ。
「君たちの大切な“姫”は今、僕のところにいるよ。どういうことか、分かるよね」
「なっ!?」
 その言葉に、准は顔をあげる。
 そして、その右手に力を込めた。
 そんな准の行動を見て、桑野先生はふっと笑う。
「“結界”を張るつもりかい? 言っただろう、清家さんは今僕のところにいる、とね。彼女がどうなってもいいのなら、ここで一戦交えても構わないが?」
「! くっ」
 准は、ぴたりと動きを止めた。
 ここで今桑野先生とやりあっても、眞姫の身の安全を考えると、良策とは言えない。
 桑野先生に鋭い視線を向けたまま、准はその右手をおろした。
 それを見て、桑野先生は言った。
「僕は逃げも隠れもしないよ? 放課後、僕の居場所が分かるように“結界”を張って待っているから。是非君の“能力者”のお友達と一緒に来てくれ」
「…………」
 無言でそれを聞いている准に、桑野先生はニッと笑みを浮かべる。
「朝、言っただろう? 僕は無謀なことはしない、優位に立てる状況になるまではってね」
 それだけ言って、桑野先生は准に背を向けて歩き出した。
 その後姿を、准はクッと唇を噛んで見送る。
 しばらく准は桑野先生の後姿を見つめたまま、その場から動けないでいた。
 眞姫を、危険な目に合わせてしまった。
 その悔しさに、准はぎゅっと拳を握り締める。
 その時。
「ホームルームを始める、教室に戻れ」
 目の前に現れた鳴海先生に、准は目を向けた。
「姫が、桑野先生に捕らわれたそうです」
「まだ彼も、清家にすぐには手は出さないだろう。どちらにしろ、今日仕掛けることには何ら変わりはない。教室に戻れ、准」
「! 姫が危険な目に合ってるかもしれないんですよ!? 何を悠長にっ」
「教室に戻れと言っているのが、聞こえなかったか?」
 威圧的に鳴海先生にそう言い放たれ、准はふっと溜め息をつく。
 それから素直に鳴海先生の言葉に頷き、教室へと歩き出した。
 鳴海先生はそんな准を見たあと、おもむろにその切れ長の瞳を閉じる。
 そして何かを考える仕草をしてから、鳴海先生も准のあとに続いて教室へと向かったのであった。