2
4月8日――木曜日。
おろしたての真新しい制服に袖を通したその少女・清家眞姫(せいけ
まき)は、満足そうに自分の晴れ姿を見つめた。
「鏡と睨めっこもいいけど、入学式に遅れるわよ」
そんな眞姫の様子に、彼女の叔母はくすっと笑う。
「大丈夫、もう用意できているから」
もう一度胸のリボンの形を整えてから、眞姫はまだ皮の匂いが抜けないピカピカの鞄を持った。
「じゃあ、行ってきます。入学式は10時からだから、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる眞姫に、叔母は手を振る。
「眞姫の晴れ姿、楽しみにしていたもの。喜んで出席させてもらうわ」
「うん、ありがとう。じゃあ、またあとで」
嬉しそうににっこり微笑んで、眞姫は家を出た。
今日4月8日は、眞姫の高校の入学式である。
今日から長年憧れだった名門・聖煌学園(せいおうがくえん)の門をくぐることになる眞姫の心は、希望に満ち溢れていた。
そんな彼女を祝福するかのように澄んだ青空の下、眞姫は学校までの道のりを歩く。
「嬉しいな、このエンブレム。憧れだったんだよね」
ブレザーの左胸に記された羽を象った気品のある校章を、満足そうに眞姫は見つめる。
このエンブレムをはじめてみたのは――10年前。
目を瞑ると、瞼の裏にその頃の記憶が蘇る。
俯いて、眞姫はぎゅっとブレザーの胸に記されているそれを握り締めた。
荒れ狂う炎、大きな背中……そして、羽のエンブレム。
立ち止まって何か考え込む仕草をしたあと、ハッと眞姫は我に返る。
「今日は待ちに待った入学式なんだから、元気に行かなきゃ」
制服を掴んでいた手をパッと離し、眞姫は改めて歩き出した。
生まれつき色素の薄いその栗色の髪を、春のそよ風がさわさわと揺らす。
そんな眞姫の姿は、どこにでもいるごく普通の15歳の少女に見える。
そう、見た目は普通の少女と、何も変わらない。
肩より少し長いその髪を一度かきあげてから、眞姫は地下鉄に乗るために駅の階段を下り始めた。
そしてちらりと、叔母に高校の入学祝として貰ったお気に入りの腕時計に目をやる。
時間は、8時05分を指している。
「やだな、この時間だったら通勤通学ラッシュで電車混んでるだろうな」
そう眞姫が呟いて、定期券を改札口に通した、その瞬間。
「えっ?」
眞姫は、立ち止まった。
異様なほどにガランとした、地下鉄のホーム。
人っ子ひとりいないどころか、不気味なくらいに静かである。
「時間、間違えてないよね?」
眞姫は、もう一度時計に目を移す。
午前8時07分、時間は間違えていない。
それを確認して首を捻った、次の瞬間。
「……っ!」
ぞくっと背中に悪寒がはしった。
そして、反射的に視線をホームの隅に向ける。
眞姫は目前に現れたそれに、驚いた表情を浮かべた。
「なっ、何っ? あれ……」
それは、人のようだった。
いや、正確にいえば違うようだ。
それは人の形をした、何かだった。
ぼうっと青白い光を放ちながら、それはゆっくりと眞姫に近づいてくる。
そしてそれの顔を見た瞬間、眞姫は全身が震えた。
「!?」
その瞳に眼球はなく、空洞のようにぽっかりと穴があいていたのだ。
それなのにその眼球のない瞳は、じっと眞姫を見ているような気がした。
本能的に眞姫は、数歩後ずさりをする。
「! な、何っ!? 近寄らないでっ」
ゆっくりと自分に近づいてくるそれ目掛けて眞姫は鞄を振り回してみたが、何故か鞄はそれを通り抜け空を切っただけだった。
近づいてくるそれは、確かに人の形はしている。
だが、この世のものとは眞姫には思えなかった。
……生気が、全く感じられないのだ。
異様なくらいの静けさが、眞姫の恐怖心を倍増させた。
そしてゆっくりと近づいてきたそれは、ぬうっと眞姫に手を伸ばす。
自分の腕を掴もうとするそれを見て、眞姫の血の気が一気に引いていく。
「!!」
あまりの恐怖に眞姫は言葉を失い、ぎゅっと目を瞑った。
……その時。
ふっと肩に人の手がかかる感触がした。
温かい体温を感じ、それが生きた人間のものだと眞姫が確信した瞬間。
ぐいっと、身体を後ろに引っ張られる。
「っ!! えっ!?」
「危ないから、後ろに下がってろ」
突如聞こえてきたその声に、眞姫はそっと目を開く。
そこにはいつの間に現れたのか、眞姫をかばう様にひとりの少年が立っていた。
少年は眞姫と同じ聖煌学園の制服を着ている。
少年に言われた通り数歩下がってから、眞姫は顔を上げる。
生気のないその物体は、突如現れた少年に不快感を覚えているようにみえた。
邪悪な気配がその場に立ち込め、眞姫は全身にぞくっと鳥肌がたつ。
少年はそんな物体に臆する様子もなく、すうっと左手を掲げた。
「!」
次の瞬間、眞姫は思わず目を見張る。
ぼうっと少年の左手が、美しい光を帯び始めたのだ。
青白い物体の光を覆い消すような、大きな光。
そして少年が、その左手をふっと振り下ろした。
「……きゃっ!!」
その瞬間、カッと光が弾け、衝撃音があたりに響く。
余波が立ち込めるその場に、眞姫は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
数秒後、その余波がはれたその場には……あの恐ろしい、生気のない物体の姿は消えていた。
少年は何事もなかったように涼しい表情をしたまま、眞姫に視線を移す。
「大丈夫だったか?」
「う、うん。わ、私は何とも……あっ」
突然カクンと膝が折れ、眞姫はその場に座り込んだ。
立ち上がろうとしても、何故か足に力が入らない。
「邪気に触れて力が抜けたか? ほら」
すっと、少年は眞姫に手を差し出す。
「え?」
「え? じゃないだろう。手、掴まれ」
眞姫は思わず、その少年の顔をまじまじと見つめた。
よく見ると、少年はとても整った顔立ちをしている。
そして彼の瞳は、右の目だけ美しい蒼を帯びていた。
金色に近い少年のブラウンの髪の毛が、ふわりと揺れる。
……こんな綺麗な人、初めて見た。
眞姫は、その少年の顔を思わずじっと見つめてしまう。
そんな眞姫に、少年は嘆息した。
「怖い目にあった後だから仕方ないかもしれないけど……人の親切は素直に受け取れ」
「あっ、ごめんなさいっ」
ハッと我に返り、眞姫は少年の手を取った。
少年の手を借りてゆっくりと立ち上がったあと、眞姫はちらりと彼を見る。
「あの……」
「まずはここから出ないとな」
ふっと顔をあげた少年は、独り言のようにそう呟く。
「ここから出るって?」
「いいから、おまえは下がってろ」
眞姫の言葉を遮って、少年はすうっと目を閉じた。
「あっ」
眞姫は短く叫んで、再び目を見張った。
先程も感じた美しい光が、再び少年から立ち上っている。
そして、それが弾けたと思うと……。
「あっ、あれ?」
眞姫は、驚きを隠せない表情を浮かべざるを得なかった。
さっきまであんなに閑散としていたホームが、気がつけば人で溢れ返っている。
賑やかないつもの光景が、一瞬にして目の前に現れたのだ。
そして満員の電車がホームに入ってくるのが見える。
慌しく人の波が、電車に向かって動き出し始めた。
「あのっ!」
眞姫は、咄嗟にさっきの少年に声をかけた。
相変わらず表情を変えないまま、少年は眞姫を見る。
「何だ?」
「さっきは、どうもありがとう」
「ああ、別に」
それだけ素っ気無く言って、少年は歩き出そうとした。
眞姫は、そんな少年の腕を反射的に掴む。
少し驚いた顔をした少年だが、ふっと視線を眞姫に向けて言った。
「おまえも聖煌の生徒だろう? 電車、行くぞ?」
「えっ? あっ!」
プルルル……と発車の合図がホームに鳴り響いていることに気がつき、眞姫は急いで電車に乗り込んだ。
満員の車内で、眞姫はすぐ隣にいる少年に視線を向ける。
「あの……」
「何?」
ちらりと少年は、眞姫に目を移した。
彼のブルーの瞳に見つめられ、眞姫はドキッとする。
声をかけてみたものの、改めて何を言っていいのかうまく言葉が見つからない。
それから少し遠慮気味に、眞姫は少年に言った。
「すごく、綺麗だったなぁって」
「は?」
「いや、あの青白いヘンな物体消したときに貴方から見えた光が、すごく綺麗だったなって」
眞姫の言葉に、少年の表情がふっと変わった。
「おまえ、あの“邪”の姿が見えてたのか? 俺の力も?」
「“邪”? あの、生気のないお化けみたいなもののコト?」
「…………」
少年は眞姫から視線をそらし、何か考える仕草をした。
「?」
急に黙った少年の顔を見てから、眞姫は電車の窓に視線を移す。
地下を走る電車の外は、たまに照らす白い明かり以外、真っ暗で何も見えなかった。
眞姫は、ふっと俯いた。
……小さい頃から自分には、他の人には見えないものが見えていた。
最初は、誰にでもそれらが見えていると思っていた。
あそこに人がいてこっちを見ていると言っても、そんなものはいないと笑われた。
不気味なものに見つめられ怖がって泣いている眞姫を、みんなは不思議そうに見ていた。
そして、次第に眞姫にも分かってきたのだ。
それらを見ることができるのは、自分だけだと。
日常的に見えるそれらは、普段は生活に何も害を及ぼさない。
宙にただ漂うように浮いていたり、時には一定の場所にずっと留まっていたり。
いわゆる、それらはTVの怪奇番組で面白おかしく取り上げてあるような「霊」みたいな存在なんだと、そう幼い頃の眞姫は認識したのだ。
そして普通に見える風景のようなものとして、今では殆ど気にならなくなっていた。
ただ……。
ただ極稀に、恐怖を感じる体験をすることもあった。
それは、今日然り……10年前の、あの時もそうだった。
「……おい」
「えっ?」
俯いていた眞姫は、少年のその声に慌てて顔をあげる。
相変わらず表情を変えず、少年は言った。
「おまえ、名前は?」
「私? 私は清家眞姫。今日から、聖煌学園の一年よ。あなたは?」
「蒼井健人(あおい けんと)。俺も、今日から聖煌の一年だ」
同じ学校、しかも同じ学年。
何だか少し眞姫は嬉しい気持ちになった。
そんな眞姫をちらりと見て、その少年・健人は言葉を続けた。
「おまえ……こういうことって、結構あるのか?」
「こういうこと?」
首を傾げる眞姫に、健人は言った。
「今日みたいに、俺たちにしか見えないような得体の知れないものに襲われたりすることだよ」
「う、うん。いつもはただ妙なものが見えるだけなんだけど、たまに」
少しオタオタしながら、眞姫はそう答えた。
その言葉に、健人はまじまじと眞姫を見る。
「それで今まで、よく生きてこられたな」
「ちょっと待って、“俺たち”にしか見えないって」
眞姫がそう呟いた、その時。
下車する駅に到着し、同じ制服を着た生徒たちが一斉に電車を降りる。
その波に押し出されて、眞姫はホームに出た。
ドッと寄せる人の流れに押され、眞姫は改札口を出る。
そして、あたりを急いできょろきょろ見回したが……。
どうやら、あの少年・健人とはぐれてしまったようだ。
(「もっと、話がしたかったのにな」)
自分以外で、“この世に存在しないはずのもの”が見える少年。
今まで誰にも話せなかったこと。
それに、あの美しい光。
不気味な存在を消し去ることのできる、彼の不思議な力。
右目の澄んだ青が、彼の雰囲気をさらに神秘的にさせていた。
そしてあの少年は、自分よりもその“この世に存在しないはずのもの”について詳しく知っていそうだった。
(「蒼井健人くんだったっけ、同じクラスだといいな」)
ふうっとひとつ嘆息して、眞姫は学校に向けて歩き出したのだった。