4-3.オイシイ夕食
彼らをすれ違い様に振り返り、その容姿に胸をときめかせる乙女は数知れずだが。
まさかこのふたりが兄弟だとは誰も思わないだろう。
駅で偶然一緒になった全く似ていない兄弟・葉山航星と竜星は、何気ない雑談を交わしながら揃って自宅へと歩いていた。
特に約束してまで一緒に帰宅するほどべったりな仲では全くないが。
避け合うような犬猿の仲でも決してなく、むしろ普通に兄弟の関係は良好である。
しかも、彼らを含む葉山家の三兄弟には、ある決まりごとがあった。
それは――特に用事がない日は、兄弟全員一緒に夕食を取ること。
両親が自宅にほぼ不在の彼らの夕食は、当番制という形式を取っている。
そのため、夕食に間に合う時間を見計らった彼らが偶然駅で鉢合わせたことも、そのまま揃って帰宅している今の状況も、至って自然なことなのだ。
「そういえば、今年の天文部の夏合宿っていつだっけ?」
マロンブラウンの瞳を向け、竜星は暢気に兄に訊いた。
そんな弟の様子にひとつ嘆息してから、航星は律儀に答える。
「先日の部活で、詳細を載せたプリントを配布したばかりだろう? 今年の夏合宿は、八月の第三週11日〜13日の日程だ」
「プリント? そんなの貰ったっけ?」
首を傾げる竜星に、航星はじろりと視線を投げ、それからすかさず言った。
「人の説明も一切聞かず、事もあろうか紙飛行機を折り、おまえがさり気なく窓の外へと飛ばしていたものがそのプリントだ」
「あーあれね。結構よく飛んだでしょ、あのキュリオス。てか、こっそり飛ばしたのによく見てたねぇっ、さすが目ざとい」
「よく飛んだじゃないだろう、しかも名前まで付けて。目ざとくて悪かったな」
先日行われた部活動で、毎年恒例である天文部の夏合宿の詳細が発表されたのだが。
長い説明を聞き飽きた竜星が人目を忍んでプリントを飛ばしていたことを、航星はしっかり見逃していなかったのであった。
だが、それでも。
今まで殆ど部活動に参加していなかった弟が。
毎回一応部室に顔を出していること自体、奇跡に近い。
いや、もちろん、だからといって、彼が天文という分野に目覚めたわけではなく。
その場に――意中の彼女が、いること。
それが彼を部活動へ赴かせる理由だということが、航星には分かっていた。
ただ、どういう理由であれ。
弟が部活動に出席するようになったことはいいことであるため、航星は特にその事に関して彼に苦言は呈することはしなかったのである。
とはいえ、夏合宿の詳細の書かれたプリントでキュリオスとやらの紙飛行機を作成し、さらに窓の外に飛ばすという行為に対しては一言言わずにはおれず、何よりそんな弟の行動自体が航星にとっては理解不能なものであった。
だが、そんな航星の気持ちも知らず。
マイペースな弟は、全く反省した様子もなく言った。
「てかさ、よく紙飛行機の作り方って、航星知ってる? もう少し遠くまで飛ぶヤツ作りたいんだけど」
「よく飛ぶ紙飛行機の作り方だと?」
航星はそう呟いて漆黒の前髪をかき上げる。
それから滑舌の良い声で、こう続けたのだった。
「そうだな……紙飛行機の原理を考えれば、より遠くまで飛ばせるものが作成できるだろうな。まず、紙飛行機は少しずつ下降しながら飛行する。したがって重心を前へと持ってくることが必要だろう。そして揚力を大きくするために風を多く捕らえる必要があり、そのためには翼の大きなものを作ればいいな。それから、紙飛行機を飛ばす際だが……」
「あー今日の夕食、メニューなんだろうね」
ふわっとひとつ欠伸をし、竜星は兄の言葉を遮るように口を開く。
そんな弟に不服そうな瞳を向け、航星は再び大きく溜め息をついた。
「おまえが訊いてきたのだろう!? それなのに何だ、その態度は」
「ん? だっておなかすいたし」
「……会話が全く成立していないと思うのは、俺だけか?」
「てかさ、この匂い、今日の夕食は和食っぽいね」
頭を抱えるような仕草をする航星にも構わず、竜星はふと顔を上げて言った。
そして目前に迫った自宅から漂う、食欲をそそる匂いに、マロンブラウンの瞳を細めた。
航星は小さく息をつきながらも、同じく美味しそうな匂いのする自宅に目を向ける。
この日の食事当番は、長男の壱星である。
主婦顔負けなスキルで裏技を駆使し買い物をすることが得意なため、スーパーの特売日の夕食は決まって長兄の担当なのだ。
航星と竜星は玄関を開けて中に入ると、まず兄がいるだろうキッチンへと足を向ける。
だが……その時だった。
「あれっ? 兄貴、こんなところで何してんの?」
「夕食の準備はどうしたんだ?」
食事当番のため、キッチンにいるはずの長兄・壱星であるが。
何故か、キッチンへ行く途中にあるリビングのソファーで、のんびりと寛いでいたのだった。
そんな壱星の姿を見つけたふたりは同時に不思議そうに兄に問う。
壱星は読んでいた本をパタリと閉じ、ハンサムな顔に笑みを宿した。
そして、焦らすようにゆっくりと口を開く。
「やあ、お帰り。これはこれは、ふたり揃ってご帰宅なんだね」
「てかさ、何さぼってんの?」
「もう夕食の準備は完了しているのか?」
キッチンからは確かに本日の夕食であろう良い匂いがしてはいるが。
妙に優雅に寛いでいる長兄の様子に、弟たちは怪訝な顔をしている。
だがふたりの質問攻めにも壱星は何ら余裕の表情を崩さない。
それどころか、この状況を楽しむかのように笑んでいる。
それから、壱星はわざとらしく少し首を傾けつつ、弟たちにこう言ったのだった。
「夕食の準備? ああ、今日は彼女がしてくれてるんだよ」
――その時だった。
「葉山先生、夕食の準備が……あっ、お帰りなさいっ」
男所帯のはずの自宅に響く、可愛らしい少女の声。
その声に、航星と竜星は素早く反応を示す。
そして慌てたように頭を下げているその少女・琴実の姿を見つめ、一瞬言葉を失った。
エプロン姿でリビングに顔を出した琴実もどうしていいか分からない様子で、遠慮気味に二人を交互に見ている。
ひとり楽しそうな壱星はリビングのソファーから立ち上がると、琴実の頭に軽くぽんっと手を添える。
それから、弟たちに状況を説明したのだった。
……スーパーで買い物を済ませ、葉山家に到着した壱星と琴実であったが。
この日の食材費は壱星持ちであったため、琴実から、それならば自分が料理を作ると。
そう申し出があり、彼女が四人分の夕食を作っていたのである。
携帯電話やメールなどで、事前に弟たちにこのことを伝える手段はあったのだが。
琴実に対する彼らの気持ちを知っている壱星がそんな連絡などするはずはなく。
逆に、彼らと彼女の反応を楽しみにしていたのだった。
そして想像通りのこの展開に、壱星は満足そうに笑んでいる。
「ちょっ!!? こ、琴みんの手料理ってっ、マジで!?」
有り得ない速度で瞬きをしながら、竜星はようやく驚きの声を上げる。
琴実は申し訳なさそうに小さく頷いた。
「う、うん。気の利いたもの作りたかったんだけど、何だか普通のごはんになっちゃって……ごめんね」
「夏川が謝ることは何もない、むしろ俺たちが礼を言う方だ」
一見すると表情は変わっていないように見えるが。
気を取り直したようにコホンとひとつ咳払いをした後、航星は彼女にそう声を掛けた。
「ていうか、ものすごくいい匂いしてるんだけど。メニューは何かな?」
逸る気持ちを抑えきれない竜星はキッチンへと目を移す。
そんな竜星の様子に微笑み、琴実は三兄弟をダイニングへと促した。
「あ、ちょうど夕食できたところだから、冷めないうちにどうぞ」
「ありがとう、琴実。ごめんね、琴実はお客様なのに、料理なんてさせちゃって」
さり気なく腰を抱こうとした壱星の手に気付いてそれをかわしてから、琴実は首を左右に振る。
「いいえ、私の方こそお邪魔しちゃって……料理作るくらいさせてください。でもその割には、本当に地味な献立になっちゃったんだけど」
「てか地味などころか、めっちゃめちゃ美味しそうなんだけどっ!?」
ダイニングに並べられた夕食を目にした竜星は、思わず感嘆の声を漏らす。
好きな女の子の手料理というだけでも自然とテンションは上がるものであるが。
控えめな彼女に相応しく上品な、それでいてさり気なくひと手間かけられていて、そして家庭的な料理が並んでいるのであった。
航星も何気に満足そうに漆黒の瞳を細める。
全員が席についたのを確認し、琴実は手際よく汁物と白飯を器に装った。
そして琴実が席についたところで、全員で手を合わせる。
普段ひとりで食事を取っている琴実にとって。
このように、“いただきます”と面と向かって改めて言われることが不慣れで、何だかくすぐったい感じがする。
照れたように薄っすら頬を赤く染めながらも、琴実は三兄弟を順に見回す。
それから、くすくすと笑い出した。
「どうしたんだ? 夏川」
急に笑い出した琴実に、航星は不思議そうに尋ねる。
竜星は顔を上げながらも箸は止めず、柔らかな彼女の笑顔につられて表情を緩めた。
壱星は特に何も言わなかったが、ひとくち料理を口に運んでから、微笑まし気な顔で全員を見ている。
琴実はそっと揺れる横髪を耳に引っ掛けた後、航星の問いにこう答えた。
「あ、笑っちゃってごめんなさい。葉山くんたちって、兄弟みんな容姿の雰囲気や性格も全く違うじゃない? なのにそれだけじゃなくて、最初にお箸をつける料理もみんなバラバラだったから、ちょっと面白いなって思って」
「そういえばホントだ、みんな違う。よく気がついたねぇ、琴みん」
竜星は兄たちが手をつけている料理を確認し、関心したように頷いた。
長男の壱星は、スマートに和風ドレッシングのかけてあるシンプルな野菜サラダを。
次男の航星は、慎ましやかに小鉢に盛られたオクラとトマトのお浸しを。
三男の竜星は、ストレートにメインの肉じゃがを食べていたのである。
そして、琴実は。
ゆっくりと箸を取った後、ナスと茗荷の味噌汁を口に運んだのだった。
「琴実。このドレッシングは市販のもののはずだけど、アレンジしてあるのかな?」
「あ、はい。市販の和風ドレッシングを、だし汁とめんつゆで伸ばしたんです」
「このお浸しは、さっぱりしていて上品な味だな。さっぱりしているが薄すぎもしない、絶妙な味だ」
「それね、野菜を茹でた直後に調味料につけておくの。そしたら味が馴染むから」
「てか、こんな美味しい肉じゃが食べたことないんだけど、俺」
「ありがとう。でもそんなに褒めてくれても、おかわりくらいしかでないよ?」
琴実は三兄弟とのそんな会話に、再びくすくすと笑ってしまう。
テレビの音だけが響く部屋で、ひとり夕食を取ることが日常になっていたが。
このような会話を交わし合いながらの食事は思いのほか楽しく、つい、本来の目的であるはずの食べることを忘れてしまいそうになる。
しかも三兄弟は料理を作り慣れているからか、料理に一工夫加えたことを何気に気がついてくれる。
別にそれは趣味のようなもので、気付いて欲しくてやっているわけではないのであるが。
でもやはり、分かってくれると嬉しい。
和気藹々とした雰囲気で進む夕食に、琴実は終始笑顔が絶えることはなかった。
最初に壱星に誘われた時はどうすべきか悩んだけれども。
結果、本当に楽しいひとときが過ごせたと。
琴実は誘ってくれた壱星はもちろん、美味しく手料理を食べてくれた航星と竜星に、心から感謝していたのだった。
――食事後。
いつもなら、食器洗いの担当だと少し憂鬱である竜星だが。
今日は、この日自分が食器洗い当番であることを、神様に感謝したのであった。
その理由はもちろん、言わずもがな。
自分の隣で一緒にお皿を洗ってくれている、少女の姿。
可愛らしくてほわんとしたいつもの雰囲気とは逆に、食器を洗う手際はかなりいい。
そんな彼女のスキルに、竜星はますます惚れ惚れとするのであった。
「琴みんって、食器洗いもプロいんだね。ますますオカンだ……」
「オ、オカンって……てか、プロい? 毎日洗ってるから、ただ慣れてるってだけかも」
オカンという言葉に少し抵抗を持ちつつも。
琴実は竜星の言葉に謙遜しつつ、笑んだ。
普通なら、同級生にオカンなんて言われると凹むが。
どうやら彼にとってそれは、女性に対する最高の称号らしい。
なので琴実は、彼からの褒め言葉として、なるべく有難く受け取るようにしているのだった。
竜星は一生懸命食器を洗っている琴実から、ふとリビングにいる兄たちの様子をちらりと窺う。
……こんな千載一遇のチャンスはないし、この機会を逃すことはできない。
竜星はうんうんとひとりで小さく頷く。
そして、琴実にこう言ったのだった。
「ねぇ、琴みん。今度の日曜って暇?」
「今度の日曜? ううん、特に予定はないけど」
「じゃあさ、ちょっと一緒に付き合って欲しいところがあるんだけど。駅前に11時とかで、待ち合わせ大丈夫?」
「……えっ?」
さらりとそう提案され、琴実は食器を洗う手を一瞬止めてしまう。
日曜、駅前11時に……この目の前の美少年と自分が、待ち合わせなんて。
琴実は思わぬ展開に対応しきれず、目をぱちくりとさせた。
そしておそるおそる、こう返すのが精一杯だった。
「って、私なんかで……いいの?」
「もちろん。こっちこそ、俺なんかじゃダメ?」
「ダ、ダメなんかじゃ全然ないよっ。私でよければ、何時でもどこでも待ち合わせ大丈夫だからっ。休日の朝も、家事済ませるために早く起きてるし」
勢いにまかせて大きく首を振り、琴実は早口でそう言ったが。
竜星は慌てる琴実とは逆にクックッと笑う。
整った容姿の彼が無邪気に笑う姿も、また何とも絵になって格好良い。
琴実はしばし彼の綺麗な顔に見惚れてしまうが。
そんな彼女に、竜星はようやく口を開いた。
「どこまでも所帯染みてる琴みんの発言って……やっぱ、面白すぎ」
「しょっ、所帯染みてるってっ」
カアッと頬を赤くしてから、琴実はガクリとうな垂れる。
どうして自分は、こうも家事から意識を外せないのだろうか。
せっかく誘ってくれたというのに、あの返しではロマンティックのカケラもない。
そう自己嫌悪に陥り、琴実ははあっと大きく嘆息する。
そんな琴実を見つめる竜星は優しく微笑んでから、彼女の頭をそっと撫でて言った。
「じゃあ、日曜。待ち合わせ時間は、家事してたりしたら11時じゃ早い? 俺は何時でもオッケーだから、琴みん決めていいよ」
「えっ? ううん、11時でも大丈夫だよ」
「じゃ、決まり。日曜11時に駅前ね。約束」
自分を映す彼の瞳は吸い込まれるかと思うほどに綺麗で、ふわりと頭に触れた大きな手の感触があたたかくて。
囁くような声と流れるように紡がれる言葉は、とても柔らかい。
琴実は急に心拍数が跳ね上がるのを感じる。
そして改めて、日曜日の彼の相手が、こんな平凡な自分でいいのだろうかと思う。
それよりも何よりも、彼が何故いきなり自分のような普通の子を誘ったのか、琴実には分からなかったが。
竜星のような格好良い男の子に誘われて、純粋に嬉しかったのである。
竜星にとっては、琴実でないといけないことも知らずに……。
――その時だった。
「お話はひと段落ついたかな? さ、琴実、僕と交代だよ」
いつの間にキッチンに入ってきたのか、その声の主・壱星は、にっこりと笑んで琴実に言った。
「あ、葉山先生?」
「兄貴、てか交代って」
きょとんとする琴実と、明らかに不服そうな竜星を見比べてから、壱星は続ける。
「これ以上お客様の琴実に家事をやらせるわけにはいかないからね。琴実はさ、リビングで寛いでて」
「いえ、むしろお邪魔した立場だから、これくらいはさせてください。それにお料理した後に片付けなくていいなんて、何だか慣れなくて落ち着かなくて」
「もう琴実は十分すぎるくらいいろいろしてくれたよ。ゆっくり座って休んでてよ。ね、竜星」
「……そうだね。琴みん、いろいろ手伝ってくれてありがと」
二人だけの時間が終わってしまうことは惜しかったが。
兄の言う通り、琴実にこれ以上家事をやらせるわけにもいかない。
日曜日の約束を取り付けることはできたことだしと、竜星も素直に兄の言い分に同意する。
琴実は壱星と竜星の顔を交互に見た後、申し訳なさそうに頷いた。
「じゃあ、すみません。お言葉に甘えて……」
スッとエプロンを外し、ペコリと一礼をしてから、琴実はキッチンから出て行く。
そんな彼女の後姿がドアの向こうへ消えたのを確認して。
竜星は、ぼそりと言った。
「せっかくのふたりの時間を邪魔されたのは少し不満だったけどさ。ま、それよりも何よりも、琴みん連れてきてくれたのは本気でめっちゃでかしたよ、兄貴。たまにはいいことするんだ」
「ふふ、いろんな意味で、オイシイ夕食だっただろう?」
壱星はハンサムな顔ににっこりと笑みを宿し、自前のギャルソンエプロンを付ける。
そして軽く腕まくりをすると、琴実から引き継いだ食器洗いを再開させたのだった。
――同じ頃、リビングでは。
キッチンからやって来た琴実は、広い部屋の中をきょろきょろと見回す。
部屋には、眼鏡姿の航星がひとりソファーに座って本に目を落としていた。
リビングに来たものの、どの位置のソファーに座ればいいのか琴実は迷ったが。
少し遠慮気味に、航星の正面に座ってみる。
だが、彼の読書の邪魔はできないと判断したために言葉を発することもできず、琴実は所在無さ気にただ座っているだけであった。
……その時。
「! あっ」
琴実は短く声を発し、顔を上げた。
いつの間に立ち上がったのだろうか。
眼鏡を外した航星が、ある曲のCDをデッキへと入れたのだった。
途端に耳に聞こえ始める旋律に、琴実は大きな瞳を細める。
「この曲……コーリング・ユー、いつ聴いても癒されるね」
スピーカーから流れてきたのは。
航星が目の前の彼女に恋するキッカケとなった曲、“コーリング・ユー”だったのである。
「インスタントで申し訳ないが、コーヒーでも淹れよう」
口調や表情は相変わらず淡々とした印象を受けるが。
どうやら彼なりに、気を使ってくれているらしい。
琴実は何気に航星が面倒見のいいことを思い出しつつ、素直に頷く。
「ありがとう、航星くん」
航星はそんな琴実の返事に視線だけ返し、彼女のためにコーヒーを用意し始める。
そして、シンプルなコーヒーカップに淹れられたミルクのみ添えてあるコーヒーを、琴実は受け取った。
コーリング・ユーの響く部屋の中で、香りの良いコーヒーを飲む。
食後の贅沢なひとときだなと思いながら、琴実はふっと息をついた。
そして何気に自分を見つめている航星に視線を向けて、言ったのだった。
「やっぱりいいよね、大勢で夕食を取るって。しかも航星くんたちは、兄弟揃って食事をするようにしてるんでしょう? 素敵だし、毎日楽しそうよね」
「食事は兄弟で交代制だ。全員が揃わずバラバラの時間に食事をすると、何かと面倒だからな」
そんな相変わらず現実的な意見をぴしゃりと述べた後で。
航星はひとくち、自分用に入れたコーヒーを飲む。
それから呟くように、こう続けたのだった。
「兄弟揃って食事をすることが楽しいかはともかくだ。兄弟揃って食事をする決まりを、今まで苦痛に思ったことはないな……」
航星の言葉に、琴実はにっこりと笑顔を宿す。
「うん、羨ましいよ。私はひとりで夕食を取ることに慣れてるから、今日すごく新鮮で楽しかったし、嬉しかったよ」
「我が家でよければ、いつでも夕食を取りにくればいい。これからは、今日のように夏川が気を使うことも必要ない。大勢の方が賑やかだし、兄や弟も喜ぶだろうしな」
それだけ言うと、航星は再び眼鏡をかけ、開いた本に目を落とす。
一見、彼のそんな表情は、普段と変わらないように見えるが。
小さく咳払いしてページをめくるその姿は、彼なりの照れ隠しであったのかもしれない。
もちろんそのことに、琴実が気がついているわけはないのであるが……。
琴実はすっかりリラックスした様子で、癒しの旋律に耳を傾けながら、そっとカップに口をつける。
そしてコーヒーの香ばしさとミルクのまろやかさが混ざる味に、満足そうに微笑んだのだった。