*4 葉山家の食卓

 4-1.手練れのナンパ師



 窓の外は清々しいくらい真っ青な空が一面広がっているというのに。
 その少女の表情は、珍しく何故か冴えない。
 はあっと大きな溜め息をついては、何かを考えるように小首を傾げている。
 そして時折、教室から見える青の景色に目をやるが。
 瞳に映るその色は、彼女の頭の中まではどうやら届いてはなさそうである。
「琴実、どうしたの?」
 その少女・琴実のそんな様子に気が付いた美央はすかさず彼女に声を掛けた。
 ぽんっと肩に置かれた美央の手の感触で、琴実はハッと我に返る。
 そして覗きこむように自分を見ている美央にこう言ったのだった。
「ちょっと、悩んでることがあって」
「悩んでることって……私でよければ、話聞くよ?」
 何だか深刻そうに溜め息をつく琴実の様子に、美央はそう申し出たが。
 琴実は小さく首を傾け、遠慮気味に答える。
「ありがとう。でもね、相談に乗ってもらうような、そんな大層なことじゃないんだ」
「言いにくいことなら無理には聞かないよ。でも、悩みを自分の中で溜め込むのだけはやめなね」
「あ、いや、本当そんなに大したことじゃないんだけどね……」
 親身になって真剣に自分を見ている美央に、琴実は慌てるように手を振ったが。
 少し考えながらも、ゆっくりと口を開いたのだった。
「あのね、どうしようか悩んでて……どっちの気持ちに応えるべきか」
「えっ、ええっ!!?」
 琴実の口から出たその思いがけない言葉に、美央はつい声を上げてしまう。
 どっちの気持ちに応えるか……それって、もしかして。
 真っ先に思い当たる心当たりは、当然。
 あの、彼女に思いを寄せる、兄弟のことである。
 そしてそれは自分にも無関係なことではない。
 それよりも驚いたのは、琴実は何も知らないとばかり思っていたのに。
 何か自分の知らないところで、新たな展開があったのだろうか。
 まさかどちらかが告白でもしたのだろうか。
 それとも、第三者から聞いてしまったのか。
 兄弟の恋心を知る者はそう多くないはずだが……。
 事情を知っている人物といえば、彼らの兄である壱星と、二人の親友である憲二が思い当たるが。
 しかし二人とも普段は軽い感じではあるが、肝心なことを迂闊に口に出すようなタイプではない。
 では、一体どういう経緯から、琴実は兄弟の気持ちを知ったのだろうか。
 それに、彼らのことを琴実がどう思っているのか……彼女は、どんな答えを出すのか。
 全くもって想像がつかない。
 ……そんなことを一気に頭の中で考えながら。
 美央は大きな瞳をぱちくりさせつつも、必死に動揺を隠す。
 聞きたいことは本当にたくさんあるが。
 まずはとりあえず、琴実の次の言葉を待とう。
 焦る気持ちを抑え、美央は冷静にそう判断する。
 琴実はもう一度大きく嘆息してから、じっと自分を見つめる美央に視線を合わせた。
 そして、再び口を開いたのだった。
「悩んでる事っていうのはね、実は」
「うん、うん」
「今日のね、夕食のことなの」
「……へっ?」
 琴実のその言葉に、美央は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
 つぶらな瞳をさらに大きく見開き、有り得ないくらい瞬きをしている美央の様子にも気がつかず、琴実ははあっと大きく息をついて続けた。
「今日から3日間、遠方の取材でお母さんがいないの。それで、たまには家事休んで外食したらどうかって、食事代を置いていってくれてて。でも電車で1時間くらいの距離に住む伯母さんが、ひとりなら、よかったらうちに夕食食べにおいで、とも言ってくれててね……どっちの気持ちに応えるべきかって。でも外食代も勿体無いし、伯母の家まではちょっと学校帰りに行くのも遠いし……私としては、別に料理作るは好きだから普段通り自炊しようかなって。だから、余った食事代はお母さんに返して、伯母さんの申し出も断ろうと思うんだけど……それも失礼かなって、悩んでて」
 ……何とも琴実らしい悩みなのだろうか。
 それに、早とちりして、何か余計なことを言わなくて本当によかった、と。
 美央は自分の大きな勘違いに苦笑しながらも、ほっと胸を撫で下ろす。
 それから少し考え、琴実の悩み相談にこう答えた。
「んーそうねぇ。琴実が家で食べたいなら、それでいいんじゃない? お母さんや伯母さんの好意には、ちゃんとお礼は言ってさ。そしたら何も失礼じゃないと思うよ?」
 美央の助言に、琴実はパッと表情を変え、顔を上げる。
 そしてぎゅっと彼女の手を取ると、嬉しそうに頷いた。
「うん、そうだね。じゃあ、帰って夕食の買い物に行こうかな。今日は駅前のスーパーが特売日だし。美央のおかげで決心ついたよ、ありがとう」
「いや、お礼言われるほどのことじゃないよ。てか、本当に琴実は気ぃ使い屋でいい子なんだから」
 よしよし、と冗談っぽく琴実の頭を撫で、美央は彼女に笑顔を返す。
 少し照れたようにはにかみ、琴実は小さく首を傾けた。
 美央はそんな琴実の仕草を見つめながら、あの兄弟がこの子を好きになる理由が改めて分かるような気がする、と。
 そう、改めて思ったのだった。
 見ているだけで心が穏やかになる無垢な笑顔と、守ってあげたくなるような女の子らしい仕草、相手を思いやる細やかな心配り。
 何より、本人は所帯染みていると気にしているようであるが。
 抜群の家事の腕前は、同性でもお嫁さんにしたいと思うほどである。
 しかし、琴実自身は、そんな自分の魅力に全く気がついていない。
 だがそういうところも含めて、とても彼女らしく、微笑ましくもある。
 ……そして。
 自分が想いを寄せる航星が、そんな琴実のことを好きになってくれてよかった、と。
 相手が琴実であるならば、心から彼の恋を応援できるから……。
 美央はそう思いながら、そっと長い髪をかき上げたのだった。


 見上げた空は、青と橙が絶妙に混ざり合った不思議な色合いを醸し出している。
 夕陽がまるで青空に溶けこんでいるかような、こんな空の時間は、一日のうちでもほんの僅かだけで。
 そしてそんな刹那的で神秘的な空の色が、琴実は密かに好きなのだった。
 天を仰いで小さく笑んだ琴実は、一度帰宅し私服に着替えた後、買い物に向かうべく賑やかな大通り沿いの道を歩いていた。
 普段は自宅のそばのスーパーで買い物を済ませることが多いのであるが。
 今日は、駅前にある大型スーパーの、月に一度の特売日。
 特に夕方に行われるタイムセールでは、お買い得品が目白押しで。
 少し距離はあるものの徒歩圏内なため、琴実はのんびりと歩いて駅前へと向かっているところなのである。
 外出前に十分にチラシのチェックはしてきたが、もう一度琴実は自宅の冷蔵庫の在庫を考えながら、頭の中で本日の特売品をおさらいする。
 それから真剣に、数日分の夕食の献立の予定を立て始めたのだった。
 大通りも次第に賑やかになり、駅に近づくにつれ人の往来も活発になる。
 夕方のこの時間は、琴実と同じくスーパーのタイムセール狙いな主婦はもちろん、駅前であるために学校が終わった学生や会社帰りのOLの姿も多くみられる。
 そんな中、しばらく献立を考えることに勤しんでいた琴実であったが。
 ふと我に返って苦笑する。
 好きではあるし、必要なことではあるが。
 必死に特売品や献立のことばかり考えて歩いている自分は、本当にどこまで所帯染みているのだろうか、と。
 そう思い、琴実ははあっと嘆息した。
 ――その時だった。
 短い車のクラクションが耳に響き、琴実はおもむろに顔を上げる。
 そして、自分のすぐ横で止まった、バニライエローのフィアットパンダを不思議そうに見つめた。
「やあ、どこのかわい子ちゃんかと思ったら、琴実じゃない」
 愛車の運転席の窓を開け、ハンサムな顔に笑顔を宿していたのは。
「あっ、葉山先生?」
 それが生徒に掛ける第一声かよ、と思いつつも。
 琴実は運転席の彼・葉山壱星の顔を確認し、車に近づいた。
 壱星はふっと笑むと、そんな琴実にこう言ったのだった。
「あ、もしかして、琴実もスーパーの特売に行くの? 奇遇だね、僕もそうなんだ。やっぱり僕達は運命の赤い糸で結ばれてるのかも」
「……えっ!?」
 琴実は彼の言葉に、驚いたように瞳を見開いた。
 今から自分がどこに行こうとしているのかを言い当てられたことにも驚いたが。
 何より、このハンサムで軟派な理科教師と、スーパーの特売が、全く結びつかなかったからである。
 いつの間にか車を降りてきた壱星は、スマートに助手席のドアを開けた。
「目的地は同じなんだし、よかったら乗っていかない? まぁ、すぐそこではあるけど、ここで会ったのも何かの運命だしね」
 ぽかんとしている琴実を優しく促し、壱星はにっこりと微笑む。
 目的のスーパーは、確かにもう目視できる程度の距離ではあったが。
 琴実は素直に、言われるまま彼の車へと乗り込んだ。
「今日は卵も牛乳も安い上に、こうやって琴実とドライブができるなんて、僕は幸せだな」
 自分の思考や発言も相当所帯染みていると思うが。
 壱星のその言葉も、軟派なようで、微妙に所帯染みている。
 ていうか、特売の卵と牛乳と同格かよ。
 そう思いつつも琴実はふうっと嘆息する。
 そして、何気なく。
 ちらりと運転席の壱星に目を向けた……次の瞬間だった。
 琴実は思わず、目を瞠り、言葉を失ってしまう。
 自分を見つめる彼のブラウンの瞳が、思いのほか近くにあることに気付いて。
 琴実はドキドキと早くなる胸の鼓動に動揺を覚える。
 弟である航星や竜星とはまた全く違った、甘く柔らかな印象を受ける整った容姿。
 そして弟たちにはない、大人の色気。
 しかも学校以外で彼と二人きりだという、この状況。
 途端に妙に意識してしまい、琴実はどうしたらいいのか固まってしまう。
 壱星はそんな琴実の心情を知ってか知らずか、優しく両の目を細め、彼女の頭にぽんっと左手を添えた。
 それから楽しそうに笑いながら、こう言ったのだった。
「ていうか、琴実。僕ほどの手練れのナンパだったら仕方ないかもしれないけど。男の車に、こんなにカンタンに乗っちゃダメだよ?」
「えっ!? あ……っ」
 琴実は壱星の言葉に、カアッと顔を真っ赤にする。
 突然の遭遇で判断力が鈍ったのか、すっかり油断してしまったが。
 日頃の言動を考えると、いくら教師といえど、あの壱星の車に誘われるまま乗ってしまうなんて。
 しかも……不覚にも、彼のハンサムな顔に、ドキドキしてしまうなんて。
 何度も瞬きをし慌てる琴実の反応を見て壱星はくすくすと笑う。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。僕は普段から、これでもかってくらい紳士でしょ」
「紳士……どこが?」
 動揺しつつもツッこむことは忘れず、琴実は気持ちを落ち着かせるために小さく息をつく。
 そして無事に車がスーパーの駐車場に入ったことを確認し、心からホッとしたのだった。
「てか……そんなに僕、信用ない?」
 壱星は本気で心配している琴実の様子に思わず苦笑する。
「えっ、いや、葉山先生とスーパーの特売が、あまり結びつかなかったし」
 一応そうフォローのようなことを口にしてみた琴実だったが。
 まだドキドキしている胸をそっと右手で押さえた。
 それから壱星は器用に駐車し、エンジンを切ってから、言った。
「葉山家の夕食は、兄弟で当番制にしているからね。僕はね、家計にも女性にも優しい紳士だよ? 琴実」
「兄弟で、当番制……」
 琴実はそれを聞いて、ふと以前竜星が話していたことを思い出す。
 父親は仕事で家には殆どおらず、母親は幼い頃に他界した、と。
 それにそういえば壱星とは、学校でも雑談で、料理の話をすることが多いことに気がつく。
 壱星はその時、料理は趣味だとは言っていたが。
 料理をすることは、壱星にとって、ただの気が向いた時のみの趣味ではなかったのだ。
 自分と同じように……。
「さ、もうすぐタイムセールの時間だね。どうぞ、かわい子ちゃん」
 車を止めて運転席を出、壱星は紳士的に助手席のドアを開けて微笑む。
「あ……ありがとうございます」
 慌てて車を降りてから、琴実はぺこりと壱星に頭を下げる。
 ――そして。
 顔を上げた琴実は、小さく彼に笑みを返したのだった。
 軟派でたまに教師あるまじきセクハラまがいなことを言ったりしたりするけれど。
 何故か憎めず、その言動を不快には思ったことがない。
 むしろ、彼に対して、親近感のようなものを不思議と感じていたのだが。
 その理由が……何となく、分かったような気がする。
 琴実はハンサムな壱星の顔を見上げながら、この時、そう思ったのだった。