3-6.前言撤回



 朝から降る雨は、夜になった未だ、まだ止んではいなかったが。
 しとしとと優しく耳に響く雨音をBGMに本を読むことが、航星は好きだった。
 夕食後、静かなリビングで読みかけの本を読んでいた航星は、おもむろに黒を帯びる瞳を細める。
 そして文字を目で追いながらも、ふと思ったのだった。
 あの子は――一体、どんな本が好きなのだろうか。
 映画の趣向も驚くほど似ているのだから、好みの本の傾向も似ているかもしれない。
 機会があったら、今読んでいるこの本を彼女に勧めてみようか。
 ……そう思った後、航星はハッと我に返る。
 周囲が見えなくなるほどのめりこむというわけではないが、いつも読書中は内容に集中しているつもりなのに。
 自分が読書中に、こんなことを考えるなんて。
 いや、実は、読書中に限ったことではない。
 ここ最近は気がつけば、彼女のことを考えていることが多い気がする。
 自分は恋愛体質とは程遠い人間だとばかり思っていたが。
 今の自分は、滑稽なほどに、ベタな恋愛小説の登場人物のようである。
 そしてそれは、自分だけではない。
 他人に対して――恋人という契約を交わした異性にさえ、今までそれほど固執した興味を示さなかった弟が。
 彼女と出会ってから、大きく変わった。
 そう、航星は感じていたのだった。
 その変化は、竜星と関わりの薄い人間には一見分からないものかもしれない。
 だが、身近にいる航星は、そんな弟の変化に密かに驚いていた。
 それだけ……竜星も、彼女のことが好きなのだろう。
 航星は冷静にそう思いつつ、再び本に目を落とす。
 だが、すぐにまた顔を上げることになるのだった。
 カチャリとドアの開く音が静かなリビングに響いたのは、航星が読書を再開して僅か2ページ余りの時間しか経過していない時であった。
 とはいえ、同じ屋根の下にいる人間は限られているため、特に気にせずに航星は読書を続ける。
 だが、入ってきた人物が、それを許さなかったのである。
「ねぇ、航星。ちょっと話があるんだけど」
「……何だ」
 航星は顔を上げずに短く言葉を返した。
 そんな兄の様子に、リビングにやってきた弟・竜星は、すかさずこう付け加えた。
「てかさ、大事な話なんだけど」
 弟のその言葉を聞いて、ようやく航星は顔を上げる。
 そしてかけている眼鏡を外し、しおりを挟んだ本をテーブルに置いた。
 竜星の言う、大事な話。
 航星には、それが何に対してのものであるか、容易に想像できた。
 そしてまた竜星も、兄が今から自分が何についてを話をするのか察していることを、分かっていたのだった。
 竜星はキョロキョロと周囲を見回し、リビングにいるのが航星だけであることを再確認する。
 それからふっと一息つき、改めて航星に視線を向け、こう切り出したのだった。
「あのさ、ひとつだけ。俺、前言撤回するから」
「は?」
 航星は唐突に出た竜星の言葉に、思わず首を傾げた。
 竜星はきっと、琴実のことについて話をしようとしていることは分かっていたが。
 竜星の言っていることが一体どの件についてなのか、航星は分からなかったからである。
 だが竜星は、構わずマイペースに話を続ける。
「琴みんのことに関しては、基本的には、俺は俺、航星は航星で、お互いの行動にお互いが干渉しないって考えは今も変わんないんだけど。前も言ったように、争うとか競うとかそーいうの面倒だしさ。ただ……ひとつだけ、前言撤回なことあって」
「…………」
 航星は敢えて何も言わず、竜星の話をじっと聞くことにした。
 竜星は真っ直ぐに航星に目をやったまま、再びゆっくりと口を開く。
「俺は今までさ、琴みんに振り向いてもらうために俺が頑張ればいいってだけで、他人とか関係ないって思ってた。だから、航星がどう行動しようと勝手だし、気にもしないって言ったけど。でも、今は……正直、おまえが琴みんと話してたらそれだけでめっちゃ気になる。気になるし、ヤキモチっての? その上に琴みんが楽しそうだったりしたら、何かちょっと悔しくなる」
「おまえがそんなこと思うなんてな」
 相変わらず表情は変わらないように見えるが。
 心底意外そうに、航星は呟く。
 竜星はマロンブラウンの前髪をかき上げて苦笑し、首を微かに傾けた。
「そうなんだよねー。俺も、自分でビックリだし。てか、恥ずかしいくらいだよ」
「太宰治も言っている。“恋愛とはなにか。私は言う。それは非常に恥ずかしいものである”とな。それに……」
 そこまで言って、航星は口を噤む。
 ……それに。
 自分自身の言動が時々恥ずかしく思うのは、竜星だけではない。
 航星も同じことを自分に感じていたのだった。
 そして、改めて思うのである。
 自分たち兄弟は、お互い、本当に彼女に恋をしているのだということを。
「てかさ、航星はどうなわけ?」
「どうって、何がだ」
「だから、俺が琴みんと話してたら、やっぱ気になる?」
「…………」
 急に投げかけられた質問に、航星は少し考えるように俯く。
 それから、ぽつりとこう答えた。
「気にならないと言ったら、嘘になるかもな」
……何かそれ恥ずかしいよ、航星。大体、太宰治とか全然関係ないし。あー恥ずかしい」
「うるさい。恥ずかしいのはお互い様だ。それにこんな話をし始めたのはおまえだということを忘れるな」
 航星はふいっと竜星から視線を逸らし、読んでいた本に再び手をかける。
 竜星もこれ以上何も言わず、もう一度前髪をそっとかき上げた。
 そして――まさに二人の話が終わった、絶妙のタイミングで。
 再び、リビングのドアが開いたのだった。
「話は終わった? じゃあ、コーヒーでもいかがかな」
 航星と竜星を交互に見、部屋に入ってきた長兄・壱星はにっこりと微笑む。
 竜星はちらりと壱星に目をやってから、大袈裟に溜め息をついた。
「てか、兄貴……盗み聞きしてたでしょ」
「盗み聞きって、人聞き悪いなー。さり気なく聞いてただけだよ」
「それを盗み聞きと言うんだ」
 すかさずツッこむ航星の肩をぽんっと一度叩いた後、壱星はふたりに淹れたてのコーヒーを出す。
 それからソファーに腰を下ろすと、ふっと笑んだ。
「恋ね……かのスタンダールも言っているよ。“恋はうぬぼれと希望の闘争だ”ってね」
「ていうか、誰それ」
「スタンダールはフランスの小説家だ。それに兄貴も、俺たちを煽ろうと思っても無駄だからな。残念だが、これからも今までと何も変わりない」
「太宰治とかスタンなんとかって人が何て言ったかとか、ホントどーでもいいけどさ」
 竜星はそう言った後、壱星の淹れたコーヒーにスティック半分程度の砂糖を入れる。
 そして、こう続けた。
「気になるとは言ったけど、航星の言う通り、別に今までと何か変わったりとかしないよ。人の恋路の妨害したりするほど俺だって自分に自信ないわけじゃないから。そんなことするなら、琴みんを振り向かせるためにあの子に会いに行く方がよっぽど効率的だしね。てか、変な期待してる兄貴や憲二は、変なドラマの観過ぎなんじゃない?」
「ま、兄として、楽しませて……もとい、温かく見守ってるよ」
 ふふっとひとり楽しそうに笑い、壱星は自分の淹れたブラックのコーヒーを飲む。
「見守るだけならいいんだけど。琴みんにセクハラだけは絶対にしないでよね」
 竜星はもう一度わざとらしく嘆息した後、砂糖を入れたコーヒーをゆっくりとかき混ぜ始めた。
 航星も本を読むことを諦め、ソーサーに兄があらかじめ用意してくれているミルクをコーヒーに入れた。
 じわりとカップの中で、コーヒーとミルクの色が混ざていく。
 そんな様を両の瞳に映しながら。
 自分たち兄弟を変えた張本人・琴実は、今何をしているのだろうかと。
 ふとそんなことを思いつつも、航星はまだ止まない雨の音に耳を澄ませたのだった。


 ――同じ時、その琴実はというと。
 翌日の弁当の仕込みを終え、洗濯物を手際良く畳んでいた。
 相変わらず、仕事が忙しい母親の帰りは深夜になりそうだが。
 ひとりで家にいることに、琴実は慣れていた。
 洗濯物を所定の場所にしまい、琴実はテレビを消す。
 途端に賑やかなテレビの音が消えた室内に、シンとした静寂が訪れた。
 そして今まで聞こえなかった雨音を耳にした琴実は、まだ外の天気が回復していないことに気が付く。
「あ、そうだ」
 琴実はふとそう呟くと、おもむろに何かを作り始めた。
 それは……。
「明日こそ気持ちよくお布団が干せるように、どうか晴れになりますように……」
 そう願いを呟いて。
 まさか自分に恋焦がれている兄弟がいるとも知らずに。
 琴実は暢気に、可愛らしいてるてる坊主を窓に吊るしたのだった。