3-4.自称・永世中立



 窓の外は、雨こそ降ってはいないが。
 どんよりと雲に覆われた空は、一向に晴れる気配はない。
 まだしばらくはすっきりしない梅雨の季節が続きそうである。
 ――そんな日の昼休み。
 賑やかな廊下を親友の憲二と歩きながら、航星は職員室へと向かっていた。
「そーいや、航星。今年も部活の合宿に参加するよな?」
「ああ。天文部員として、合宿に参加することは当然だろう」
「ま、今年は竜星のやつも参加するだろうしな。ある意味楽しみだよなー」
 意味あり気に笑う憲二にちらりと目を向け、航星は小さく首を傾げる。
「竜星のやつが?」
 弟の竜星は、最近こそ出席率はいいとはいえ、普段隔週である部活にさえあまり顔を出していなかった。
 今まで数回行われた合宿に至っては、面倒だと言って参加したことがない。
 なので、航星は、憲二の言葉を不思議に思ったのだが。
 何故憲二がそう言ったか……次の言葉で、ようやく分かったのである。
「おまえなー、結構鈍いんだな、おい。竜星が来ないわけないだろ? 今年はあの子もいるのに」
 敢えて実名を避けた憲二だったが。
 さすがの航星も、そこまで言えば彼が何を言いたいか察しが付く。
 長身の憲二にちらりと切れ長の瞳を向け、航星は微かに眉を顰めた。
「彼女が来るから参加だと? 何のための部活動だ。動機が不純すぎるとは思わないのか?」
「おいおい、俺に怒るなよー。まぁ俺も、美央が毎年参加するから行くんだけど」
「天文部の合宿とは、本来正課のみでは困難な天体の観測を行うための課外活動であるべきだろう? なのに、何を考えているんだ、全く」
「……そんなコト思ってるの、おまえくらいだと思うぜ」
 実際、天文部に所属している生徒の中で、本当に天文に興味がある者が何人いるだろうか。
 興味が全くないわけではないにしても、航星の言う不純な動機で入部している生徒が大多数である。
 そしてその要因に自分が一役買っていることなど、航星は知りもしない。
 憲二はまだ少し立腹気味な親友の様子にふっと小さく笑む。
 それから、彼の肩をポンッと叩き、楽しそうに言ったのだった。
「おまえも何だかんだ言って、彼女が参加すれば嬉しいだろ? よかったなー、航星」
「な……っ」
 わははっと笑う憲二に、航星は漆黒の瞳を見開いた。
 そして彼にしては珍しく、僅かに動揺の色が表情に表れる。
「何を言うっ。おまえは、俺がそんな不純なことを考えているとでも思っているのか!?」
「素直に喜べよー。たまにはいいじゃん、不純でも。てか、それが健全な男子の在り方ってもんだ、な?」
「な? などと同意を求められても、全くもって頷けんっ。本当に何を考えているんだ? 部活動の合宿を何だと思っているんだ。俺は純粋に天体観測を行うために参加する、ただそれだけだ」
 ブツブツとひとり納得がいかないように呟く航星に、憲二はクックッと笑う。
 そんな憲二に顔を顰めて嘆息し、航星は目的である職員室のドアを開けた。
 ――その時である。
 憲二はふと職員室の中に目をやると、数度瞬きをする。
 そして、ある場所に視線を向けたまま、航星に言ったのだった。
「合宿に一番不純な動機で臨むのは、ある意味あの人だろ。てか、何気に横から掠め取られたりして」
 憲二の言葉に航星は再び首を傾げたが。
 憲二の視線の先にいる人物の姿を確認し、漆黒の瞳を細めた。
 ――彼の目に映っている光景とは。
「今日の夕食当番は僕なんだけどさ。キャベツがいっぱいあって使えなくなったら勿体ないから、ロールキャベツでもしようかなーって。でもあれって、キャベツを1枚ずつきれいに剥がすのが難しいよね」
「あ、それなら、芯だけ取って丸ごと茹でちゃったらきれいに取れますよ。あと、キャベツって、芯に小麦粉をつけて新聞紙で包むと少し長持ちしますよ」
 どんな井戸端会議なんだという内容で盛り上がっているのは。
 航星のよく知っている人物と。
 今、一番気になっている、彼女。
 その彼女・琴実は、彼の兄・壱星と何やら楽しそうに話をしている。
 琴実は航星の存在に気がつかなかったが。
 壱星の方は目ざとく、自分たちを見ている視線に気がつく。
 そしてふっとハンサムな顔に笑みを浮かべた後、彼女に訊いた。
「琴実はさ、ロールキャベツは何味が好き?」
「え? 私は、いつもコンソメですけ、ど……っ!」
 琴実は次の瞬間、驚いたように大きな瞳をさらに見開く。
 本当にさり気なく、手馴れたように。
 壱星の長い腕が、スルリと琴実の腰に回ったからである。
 さらに琴実を自分に引き寄せてにっこりと微笑み、壱星は彼女の耳元で囁くように言った。
「本当に? 奇遇だね、僕もコンソメ味が好きなんだ。ロールキャベツはコンソメ以外有り得ないよ。気が合うね、琴実」
 壱星はそう言いながらも、ちらりと弟の方に目をやる。
 そして視線の先の人物の、思った通りの反応に、楽しそうな表情を浮かべた。
「……! な……っ」
 航星は壱星の予想通り、目の前で繰り広げられる光景に唖然としている。
「あらら。さすが、公共の面前でも全然平気だもんなー」
 暢気にそう言う憲二の声も聞こえていない様子で、航星はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
 だが。
 すぐに気を取り直してくるりと向きを変えると、自分の用事を済ませるべく航星は歩き始める。
 憲二は仕方ないようにふうっとひとつ溜め息をついてから、そんな彼の後に続いたのだった。
「……あの、葉山先生」
「ん? 何、琴実」
 まだ腰を抱いたまま、壱星は柔らかな印象の瞳に琴実を映す。
 琴実ははあっとわざとらしく大きく嘆息し、はっきりと壱星に言った。
「葉山先生。このどこからどう見てもなセクシャルハラスメント、やめてもらえませんか?」
「ひどいな、教師と生徒のスキンシップだよ。これのどこがセクシャル……あいたたっ」
 壱星は腰に回していた腕を咄嗟に離して、思わず苦笑する。
 琴実が――彼の腕を、思いっきり抓ったのだ。
 壱星のセクハラには毅然とした態度を、と。
 親友である美央や聖子からの教えを、琴実は実行したのである。
 これで少し懲りてくれればいいのだが……。
「本当に琴実って面白いなぁ。ますます好きになったよ」
 クスクス笑う壱星に、残念ながら全く懲りた様子は無い。
 琴実はもう一度嘆息した後、無造作に持っていたプリントを彼のデスクに置く。
「提出するプリント、ここに置いていきますね。じゃあ、失礼します」
 これ以上ここにいると、何をされるか分からない。
 身の危険を感じ、琴実はそそくさとその場を去ろうとしたが。
「琴実」
 ふと呼び止められ、思わず琴実は振り返ってしまう。
 そして……不覚にも、ドキッとしてしまった。
 自分に向けられる、優し気な眼差し。
 整った容姿は葉山三兄弟の共通項であるが、壱星の持つ雰囲気はとてもソフトで。
 ふたりの弟たちにはない、大人の包容力のようなものを感じさせるのだった。
「ロールキャベツのコツ、教えてくれてありがとう。今日作ってみるね」
 特に琴実を引き止めることはせず、壱星はそう言って彼女に軽く手を振る。
「え? あ……は、はい」
 琴実はどう反応していいか分からず、それだけ言うと、職員室を後にした。
 そんな琴実の背中を見つめ、壱星は満足そうに微笑む。
 そしてちらりと弟の様子を伺うように職員室を見回した後、琴実の提出したプリントに目を落としたのだった。


 ――その日の夜。
「…………」
 食卓に並べられたロールキャベツを見て、航星は怪訝な表情を浮かべる。
 その理由は。
「あれ? 今日のロールキャベツ、コンソメなんだ。いつもはトマト味なのに」
 一番最後に席についた竜星は、今日夕食当番である兄・壱星に言った。
 航星は何も言いはしなかったが、ますます気に食わない顔をする。
 実は、普段の葉山家のロールキャベツは、コンソメ味ではなくトマト味なのである。
 なのにどうして今日はコンソメ味なのか、航星は知っている。
 そして嫌でも、昼休みに見た光景を思い出してしまうのだった。
 それが兄の思惑通りだと分かっていながらも……。
「琴実とロールキャベツの話をしていてね。彼女がコンソメ味が好きだっていうから」
「へえ、そっか。琴みん、コンソメ味が好きなんだ」
 いただきまーすと手を合わせ、竜星は暢気にぱくりとコンソメ味のロールキャベツを口に運ぶ。
 そんな弟を横目で見ながらも、航星は大きく溜め息をついた。
「航星、どうしたの? 小難しい顔して……って、元々か。でも何か、いつもより多く眉間に皺が寄ってるよ」
「小難しい顔で悪かったな」
 じろっと竜星に目を向けた後、航星は今度は壱星に厳しい口調で言った。
「だいたい、教師が生徒に、ああいう行為をしてもいいと思っているのか? しかも人の目も多い、職員室でだ」
「また兄貴なんかしたの? いつものように、生徒にセクハラとか」
「ああいう行為って……それにセクハラだなんて心外だなぁ、教師と生徒のスキンシップだよ」
 クスッと笑む壱星に、航星はますます怪訝な表情を浮かべる。
「何がスキンシップだ。夏川も嫌がっていただろう?」
 航星のその言葉を聞いて。
 竜星は顔を上げ、はじめて長兄に非難の目を向けた。
「何、兄貴、まさか琴みんにセクハラしたワケ!?」
「だから、スキンシップだよ。そんなに怒らないでよ」
 口調とは裏腹に壱星は非常に楽しそうである。
 そしてあの後琴実に腕を抓られたことは、もちろん言うはずがなかった。
 だが、そのことを知らない航星は、睨むように兄を見ながら続ける。
「あの行動は、俺に対する嫌がらせだろう? そんなくだらないことに、彼女を巻き込むな」
 竜星は兄たちのやり取りを聞きながらも、もうひとくちロールキャベツを口にする。
 それからふと壱星にこう訊いたのだった。
「てかさ、兄貴って、俺らの敵なの味方なの? それよりもさ、恋人とかいないワケ?」
 竜星の問いに壱星は意味深な笑みを宿す。
「敵か味方か……さて、どっちだろうね。それに言っているだろう? 僕の恋人は生徒だってね」
 ある意味予想していた通りの曖昧な返答に、竜星と航星は呆れたように同時に嘆息した。
「恋人は生徒って……兄貴の場合、職権乱用のセクハラ行為でしょ。それよか、琴みんには手ぇ出さないでよね」
「味方なわけがないだろう。きっとあの時、職員室に入ってきたのが俺ではなく竜星でも、同じことを面白がってやっただろうからな」
「ひどいな、僕は自他共に認めるブラコンのつもりなんだけどなぁ」
「百歩譲ってブラコンだとしても、どんだけドSだよ、兄貴の愛情表現って」
 竜星は何気にそう言いながらも、コンソメ味のロールキャベツが気に入った様子で、最後の一口を頬張る。
 一方の航星の皿は、まだ手付かずのままであった。
 壱星はふっと瞳を細め、言動も性格も正反対なふたりの弟を交互に見る。
 一見、何もかも正反対かと思われがちではあるが。
 そんなふたりの、意外な共通点。
 それを再確認させてくれたのは、誰でもない琴実である。
 壱星はもう一度楽しそうに微笑んで軽くブラウンの前髪をかき上げた。
 それからふと、少し印象の変わった声でこう言ったのだった。
「弟たちは可愛いと思っているよ? でも僕は基本、永世中立ってカンジかな。誰の味方でもなければ、敵でもない」
「永世中立って、そんなに兄貴が平和主義とも思えないけどね」
 はあっと息をつく竜星に、航星は大きく首を振る。
「永世中立が平和主義だと? それは少し違うぞ。中立を宣言している故に軍事的同盟が結べないため、自力で国を守らなければいけない。そのため永世中立国は、強力な軍事力を保有している場合が多いんだ」
「第二次世界大戦時のスイスがいい例だね。中立を維持するため、領空侵犯してくる軍用機は問答無用で迎撃する措置を執ったんだよ」
 うんうんと頷き、壱星はそう説明を追加する。
 テーブルに頬杖をつきながらも、竜星は兄たちの言葉に納得した。
「ふーん、そっか。それなら兄貴っぽいな」
「僕っぽいって……それ、どういうイメージ? 自分では、超平和主義なつもりなんだけど」
 悪戯っぽく笑う壱星に、ふたりの弟はお決まりのようにツッコミを入れる。
「超平和主義……どこの誰が?」
「中立は中立でも武装中立だろう、どう考えても」
「まぁまぁ、いろんな意味で、僕は永世中立ってことで。僕は僕の領域を侵されない程度に、可愛い弟たちを見守っているよ。それよりも航星、早くロールキャベツ食べないと冷めちゃうよ?」
「いろんな意味でってどんな意味だ。見守るのは勝手に構わないが、夏川を巻き込むことはやめろ」
 ようやく言われて夕食に手を付け始めながら、航星は釘を刺すように口を開く。
 それに同意するように竜星も続けた。
「そうだよ、琴みんにはもうセクハラしないでよね」
 この長兄が、そう言われて素直に首を縦に振る性格ではないことくらい、十分に弟たちは分かってはいたが。
「えー、ふたりにそう言われると、ちょっかい出したくなっちゃうなぁ。琴実は可愛いし」
 案の定クスクスと愉快に笑う兄に、航星は大きく嘆息した。
「……つい先程、見守るって言っていたのはどこの誰だ?」
「てか、そのうちセクハラで逮捕されるんじゃない? むしろ一度逮捕されてみたら?」
 竜星はおかわりを要求するように壱星に空になった皿を突き出しながら、さらりと言った。
 壱星は立ち上がって竜星の皿を受け取ると、笑みを絶やさないまま、不平を言うこともなくキッチンへと向かう。
 そんな、兄の後姿を見つめながら。
 航星は憲二と職員室で交わした会話を思い出していた。
『てか、何気に横から掠め取られたりして』
 まさかそんなことはあるまいと否定しながらも。
 よく考えると、ライバルは何も竜星だけとは限らないのだと。
 普段食べなれているものとは違うコンソメ味のロールキャベツを口にしながらも、航星は何度目か分からない溜め息をもう一度だけ漏らしたのだった。