3-3.雨に咲く花



 放課後になってもまだ止まない雨を窓越しに見上げながら、琴実は廊下をゆっくりと歩いていた。
 いつになったら洗濯物が気持ち良く干せるようになるのだろうか。
 高校生が考えるような内容ではないそんな悩みに小さな溜め息をつきながらも、琴実はひとり理科教室へと向かう。
 この日は、隔週一度の部活動の日。
 結局、見学したその日に、琴実は天文部へ入部したのであった。
 決して運動音痴というわけではないが、どう見ても体育会系ではない琴実の性に文化部は合っていたし、何よりも、友人が多く在籍していることが入部を決めた一番の理由である。
 しかも、同じクラスでいつも一緒にいる美央や聖子はもちろんだが。
 クラスの違う竜星や航星も、天文部に所属している。
 担任である壱星を含めた、あの性格も顔の系統も全く違うウワサの3兄弟に、琴実は少なからず興味は持っていたのだった。
 とはいえ、それが恋愛感情を含んでいるかというと、話は別で。
 竜星や航星の気持ちに気づきもしていない今の時点では、残念ながら否である。
 まして、自分の発言が波紋を呼びまくっていることさえも琴実は気がついておらず、暢気に洗濯物の心配をしているくらいであった。
 ある意味、こういうタイプを好きになったら一番厄介なのかもしれない。
 だが……恋に落ちるということは、理屈ではない。
 証拠に、恋に縁遠そうな琴実に、複数の恋の矢印が向いている現状。
 当の本人だけがそのことを知らないのだが……。
 むしろ彼女に想いを寄せる彼らにとって当面の一番のライバルは、梅雨時の洗濯物なのかもしれない――。
「あっ、琴みん」
 背後からテンポ良く駆けてくる足音と自分を呼ぶ声が聞こえ、琴実はふと振り返る。
 それから相手を確認した後、にっこりと笑んで立ち止まった。
「あ、葉山くん」
「琴みんも部活行くんでしょ? 一緒に行かない?」
「うん、一緒に行こう」
 すぐに返ってきた快い琴実の返事に、その人物・竜星も、綺麗な顔に安堵の笑みを宿す。
 そして彼女と歩調を合わせて歩き始めた。
 琴実が入部する前は、ただでさえ隔週である部活にさえ、顔を出すことが珍しかった竜星だが。
 意中の相手の琴実に会える可能性が高いため、ここ最近の出席率は著しく良くなったのである。
 しかも、偶然琴実と一緒に部室に行けるこの現状に、竜星は幸せを感じていた。
 だが……。
 隣で楽しそうに話す琴実をちらりと見て、竜星は小さく息をつく。
 その理由は――今朝の、あの出来事にあった。
 一体、いつからかは分からないが。
 琴実は恋のライバルである兄・航星のことを、名前で呼んだのだった。
 なのに、自分はいまだ、苗字のままで。
 それはほんの些細なことに思えるが、彼の心を大きく動揺させた。
 一時は、あまり物事に執着しない彼にしては珍しく、凹んだりもしたが。
 ライバルに追いつき追い越せと、再び気持ちを奮い立たせたのである。
 ……とはいえ。
「そういえば葉山くんって、Dクラスだったよね? Dクラスっていえば……」
「……葉山くん……」
 全く悪びれも無く発せられる彼女の言葉が、やはりさり気なくショックであるのは事実だった。
 だが竜星も、決して黙っているタイプではない。
 竜星はスウッと小さく息を吸い込むと、真っ直ぐに琴実に視線を向けた。
「ちょっとストーップ、琴みん」
「えっ?」
 突然話を遮られ、琴実は驚いたように竜星を見る。
 それから自分に向けられている彼のブラウンの瞳に気づき、ドキッとしてしまう。
 いつ見ても、なんて綺麗な顔なんだろう。
 竜星目当てに天文部に入部してくる女の子が大勢いるのも納得だと。
 何故か感心するように、琴実はまじまじと目の前の竜星を見つめる。
 竜星は瞳と同じ色の前髪をかき上げた後、ストレートに言った。
「あのね、俺のこと、今から名前で呼んでよ。俺も琴みんのこと、琴みんって言ってるんだから」
「え? あ、そうだね」
 琴実はまだ目をぱちくりとさせながらも、竜星の言葉に頷いた。
 それでも竜星はそんな彼女から視線を外さずに続ける。
「じゃあはい、どうぞ」
「?」
 竜星の意図することが全く分からず、琴実は一瞬きょとんとしたが。
 竜星は柔らかな印象の声で、琴実にこう言ったのだった。
「俺のこと呼んで、琴みん。竜星って、名前で」
 耳をくすぐるような、心地よい響きを宿す声。
 琴実は思わず鼓動を早めてしまう。
 そして、少し照れくさそうに言った。
「う、うん、じゃあ……竜星くん」
「はい、よくできました」
 くしゃっと大きな手で頭を撫でられ、琴実は驚いたように数度瞬きをする。
 だが、その手の大きさに少し恥ずかしそうにしながらも、笑顔を彼に返した。
「よく考えれば、私たち、いいお友達だもんね。苗字だとよそよそしいよね」
「いい、お友達……いや、そうなんだけど。てか琴みん、実はわざと?」
 爽やかにお友達宣言をされ、竜星はがっくりとうな垂れる。
「えっ、何?」
 琴実は何のことだか分からず、再度きょとんとしている。
 ていうか……どれだけ自分は、この子に恋しまくっているんだろうか。
 相変わらず鈍い琴実の様子に苦笑しながらも。
 竜星は、想いを寄せる彼女と一緒にいられる今の幸せを、じっくりとかみ締めていたのだった。


 天文部の活動は、放課後17時半開始である。
 時間に几帳面な航星は、もちろん時間よりも早く部室に来ていた。
 そして部長という立場であるために、同じく早めに来ていた聖子と世間話をしていたのだが。
 ある人物が部室に姿を現したことに気がつくと、自然と口数が減ってしまっていた。
「行って構わないわよ? 気になるんでしょう?」
 航星のそんな様子に気がついた聖子は、ふっとクールビューティーな容姿に笑みを宿し、彼にそう言ったが。
 航星はひとつ溜め息をついただけで首を左右に振る。
「……行けると思うか? あの状況で」
 そんな航星の、深い黒を帯びる瞳に映っているのは。
 意中の相手・琴実と。
 彼女とともに部室に現れた、恋のライバルである弟・竜星の姿であった。
「別にいいんじゃないかしら。遠慮しているの? 竜星くんっていい男だし、琴実は意外と手強いわよ。そんな調子じゃ取られちゃうわよ?」
 その言葉を聞いてじろっと聖子に視線を向け、航星はもう一度嘆息する。
「余計なお世話だ。それに、遠慮だと? 誰にだというんだ、竜星にか?」
「どうでしょうね。でも逆の立場なら、迷わず竜星くんは割り込んでるでしょう?」
「だろうな。だが、あいつはあいつ、俺は俺だ。俺は、そんな無粋なことはしない」
「無粋、ね……会長って、面白いわね」
 クスクスと笑い出した聖子に、航星はムッとした表情を浮かべた。
 それからバツが悪そうに前髪をかき上げた後、強引に話題を変えようとぼそりと口を開く。
「それはともかく、だ……一向に、止む気配はないな」
「え? ああ、雨ね。そうね、今日は一日雨の予報だったから」
 聖子は航星に続いて窓の外に目を向ける。
 その雨音は部室にいる生徒たちの声に消され、耳を澄まさないと聞こえないが。
 朝方よりも勢いを増した雨粒が、次々と窓の桟に当たっては弾けていた。
 聖子は何かを考えるように窓の外を見つめている航星に再び目を向ける。
 それから、彼にこう語りかけた。
「雨といえば会長、知っているかしら?」
 聖子の言葉に、航星は再び漆黒の瞳を聖子に向ける。
 雨の景色から自分に視線が戻ってきたことを確認すると、聖子はゆっくりと続けた。
「雨に咲く花といえば、紫陽花よね。その紫陽花の、花言葉よ」
 誰が持ってきたのか、部室にも群青の紫陽花が飾られている。
 航星はその紫陽花を見ながら、首を傾げた。
「花言葉? さあな」
「紫陽花の花言葉。強い愛情、家族の結びつき、よ。何だか複雑ね、会長」
「…………」
 上品に笑む聖子に、途端に航星は怪訝な表情をした。
 そして冷たく言い放つ。
「おまえ、楽しんでいるだろう?」
「ええ、もちろん。でもね、心配もしているのよ?」
「心配? 心配など無用だ。俺も竜星も、お互いの行動に興味もなければ、干渉する気もない。全く、兄貴といい、おまえといい、面白がって……不愉快この上ない」
 竜星の行動に興味がないとは思えない航星の様子に可笑しくなりながらも、ブツブツと愚痴る彼に、聖子は再びクスクスと笑う。
 だが、ふと新たに部室に現れた友人に気がつき、それ以上は彼にツッこまなかった。
 やってきたのは――思わず目を惹くような、美少女。
 その容姿だけでなく、彼女の明るく元気な雰囲気が、さらに拍車をかけて皆の注目を浴びるのだ。
 だが、彼女の一見明るいその振る舞いが。
 時に、友人である聖子を心配させるのである。
「やっほー、聖子に会長っ。プリント提出してきたから遅くなっちゃった。てか、琴実と竜星は……あ、もう来てるね」
「ええ、美央。じゃあ私、そろそろ部長の仕事に戻るわ」
 聖子は現れた友人・美央にそう言って、さり気なく席を立つ。
 それから、何気に嬉しそうに航星と話を始める美央と。
 先程からずっと楽しそうに会話をしている竜星と琴実を交互に見つめながら。
 雨音にさえかき消されそうな小声で、こう呟いたのだった。
「みんなのこと、心配しているわよ……とてもね」