3-2.小さな変化、大きな動揺



 ――数日後。
 一体いつになったら再び太陽を拝めるのだろうかと。
 思わずそう考えてしまうほどに、梅雨のこの時期は毎日雨ばかりである。
 ポツポツと傘に落ちる雨粒の音を耳にしながら、琴実は偶然駅で出会った美央と一緒に登校していた。
「梅雨ってさー、湿気多いから髪も広がっちゃうしイヤになっちゃうよ。早く爽やかな夏が来ないかなぁっ」
 そう言いつつも、湿気の影響を受けているとは思えないくらいサラサラの髪を触りながら、美央ははあっと嘆息する。
 琴実も同意するように頷いて口を開いた。
「そうだよね。お洗濯も気持ちよくできないし、カビとか臭いも気になるよね」
 ……ていうか、主婦かよ。
 言った後で自分でそう密かに突っ込みながら琴実は思わず苦笑する。
 母親がキャリアウーマンで家を空けていることが多いため、家事全般は自分の仕事であることは事実だが。
 もう少しくらい、年相応な発想ができないものかと。
 改めて湿気にまつわる他の話題を探してみたものの。
 思いつくのは、水とりぞうさんの在庫がそういえば切れかかっているから補充しておかないといけない、ということくらいで。
 琴実はどこまでも所帯染みた自分の思考にそっと溜め息をついた。
 だが美央は、思いのほかこの話題で会話を続ける。
「この時期の洗濯物、洗っても臭いが気になっちゃうよね。バッグの持ち手とかもさぁ、何か心なしかベタベタしてるような感じするしさー」
 美央の言葉に、琴実はぽんっとひとつ手を叩く。
「あ、洗濯物の臭い、洗濯の時に酢や重曹を入れたら減るよ。バッグの持ち手もね、重曹で拭いたら綺麗になるよ」
 学校に到着し、傘をたたんで雨露を払いながら、琴実は美央に言った。
 美央は数度大きな瞳をぱちくりさせると、感心したように呟いた。
「やっぱ私、琴実みたいなお嫁さん欲しいわぁ」
「えっ、私? 私なんかより、断然美央みたいな子の方がお嫁さんに貰いたいよ。すっごい美人だし、話題も豊富だから一緒にいたらすごく楽しいし。自慢のお嫁さんだよ」
「いやいやいや。男ってのはね、掃除の行き届いた綺麗な家で、美味しいご飯を作って待っててくれるような、そんな琴実みたいな大和撫子な女の子が好きなんだって。もう少しさ、琴実は自分に自信持ってもいいんだってー」
「そうかなぁ……」
 どう考えたって、誰もが自然と目を惹かれるような美少女・美央の方が、地味な自分よりもお嫁さんにしたいと思う人が多いに決まっている。
 それに美央は美しい容姿だけでなく、成績も優秀であるし、何よりも性格も明るくてすごくいい子で。
 同性から見てもこんなに魅力的なのだから、異性が放っておくはずがないだろう。
 ……そんな美央だが。
 今彼女は片思い中で、特定の彼氏はいないという。
 美央みたいな何でも揃った子の好きな人とは一体どんな人なのだろう。
 相手はこんな素敵な彼女から想われていて、なんて幸せ者なのだろうか。
 琴実は美央の想い人に少なからず興味を持っていた。
 だが、あまり琴実は人の色恋沙汰を追求するようなことをするタイプではないし、美央が具体的に相手の名前を言わないということはきっと自分の知らない人なのだろう、と。
 そう思って、興味はあるものの、特に自分から美央に詳しい話を訊こうとしなかったのである。
 そしてそんな琴実の性格が、航星への想いを彼女には秘密にしておきたい美央にとって幸いしているのであった。
 琴実と美央は楽しそうに雑談を交わしながら、教室へ向かうべく靴箱を後にする。
 それから何かに気がついた琴実は、ふと不思議そうに美央に訊いた。
「あれ? あそこ、何かな?」
 琴実の視線の先には、たくさんの生徒で人集りができている。
 美央は少し考えた後、答えた。
「掲示板ね。そういえば今日って、テストの成績上位者が張り出されるんだっけ。行ってみる?」
 言葉とは裏腹に美央はそれほど興味がなさそうな様子であったが。
 琴実は一応コクンと頷き、彼女とともに掲示板に足を向けたのだった。


「あら、お二人さん。おはよう」
 成績上位者の掲示にざわめく生徒たちを少し遠めに見ていた聖子はいつもと変わらない様子で、通りかかった彼らに声を掛けた。
「てか、何かあったの?」
 彼らのひとり・竜星は足を止めると、犇く人集りをちらりと見て彼女に訊いた。
 それに答えたのは聖子ではなく、隣にいた彼の親友・憲二だった。
「お、そういや今日は、テストの成績上位者発表の日だったっけ」
「ふーん、そうなんだ」
 憲二の言葉に竜星は気のない返事をする。
 そんな様子の竜星を見、聖子はふっと笑んで言った。
「あまり掲示板には興味なさそうね、竜星くん。でも琴実が登校してきたら、この掲示を見にくるんじゃないかしら?」
「……琴みんが?」
 琴実の名前を聞くやいなや、竜星は途端に顔を上げる。
 そしてブラウンの前髪をそっとかき上げてスタスタと掲示板に歩み寄った。
 手の平を返すように態度の変わった竜星に、憲二は思わずニヤリとして呟く。
「ホント、あいつも青春真っ只中だねぇ」
「そういう貴方も、美央の姿を探してたりしてるでしょ」
「もちろんっ。俺はいつでも美央センサー張り巡らせてるからな。伊達に自他共に認めるストーカーじゃないぜっ」
「自信満々に自分でストーカーって言える貴方って、ある意味すごいわ」
 そう言った後、聖子は竜星に遅れて掲示板に足を向ける。
 憲二も笑いながらそんな彼女の後に続いた。
 聖子は掲示の見える位置まで辿り着くと立ち止まり、一通りざっと成績上位者の名前に目を通す。
 そして、ふと漆黒の瞳を細めた。
 特にいつもと代わり映えのない面子かと思いきや。
 ある名前が、彼女の漆黒の瞳に飛び込んできたからである。
 その名前は……。
「あ、聖子」
「聖子さん、おはよう」
 ふと肩を叩かれ、聖子は振り返る。
 そこには、掲示を見にやって来た琴実と美央の姿があった。
「おっ、美央! やっぱ今日もカワイイなっ、おはよう」
「あ、琴みん、おはよ」
 それぞれお目当ての人物の登場に、憲二と竜星は揃って駆け寄る。
 琴実は竜星ににっこりと微笑み、彼に挨拶を返した。
「おはよう、葉山くん」
 それから琴実は、少し緊張した様子で成績上位者の掲示に視線を移す。
 そして感心したように周囲の友人たちを見回した。
「わぁっ、すごいねぇっ。美央が総合3位で、聖子さんが8位だよっ」
「え? あ、そうなんだ」
 自分のことのように嬉しそうな琴実を後目に、別段驚くこともなく美央は言った。
 生徒副会長を務める彼女にとっては、いつもと変わらない順位だからである。
 聖子は優しく笑んで、逆に琴実に言った。
「そういう琴実も名前載ってるわよ? 転入して最初のテストなのに、すごいじゃない」
「えっ?」
 聖子の思わぬ言葉に、琴実は瞳をぱちくりとさせる。
 転入して初っ端の試験ということで、気合入れて試験勉強はしたものの。
 進学校と名高い深幸学園で、自分の成績がどれほどのものか全く自信がなかったからである。
 琴実は聖子に言われ、慌てて自分の名前を探す。
 そしてある場所で視線を止めてパッと表情を変え、手の平を口に当てた。
 目の前には、成績上位50位までの者の名が掲示されているが。
 35位の場所に、確かに“夏川琴実”の名前があったのだった。
「すごいね、琴みん。琴みんって、頭もいいんだね」
 竜星は髪と同じブラウンの瞳を細め、そっと彼女の頭を撫でる。
 そんな彼の大きな手の感触に少しドキッとしながらも、素直に琴実は頷く。
「自分でもビックリしたよ。ありがとう、葉山くん」
 自分に向けられる彼女の笑顔に、竜星は満足そうな表情を浮かべた。
 彼女のこういう純粋な反応が、また竜星の心をくすぐるのである。 
 だが……。
 次の彼女の発言で、周囲の人間の心境に大きな変化が生じるのだった。
 琴実はもう一度成績上位者の掲示に目を戻してから、こう言ったのである。
「でもすごいねぇっ。航星くんが、学年トップなんだね」
 ――何気ない、そのひとこと。
 もちろん、特に何の意図もなく発せられた言葉であったが。
「えっ?」
「……!?」
 美央と竜星は同時に琴実を見つめ、驚いたように表情を変える。
 そして二人が何を思ったのか察した聖子と憲二も琴実に目を向けた。
 だが、琴実はそんな友人たちの様子にも気がつかず、続ける。
「でもよく考えたら、航星くんって生徒会長だったね。見るからに頭良さそうだし。でもトップだなんてすごいね」
「あ……そうね。会長は、入学してからずっと学年トップだから」
 美央は動揺を隠しつつも琴実にそう答える。
 竜星は複雑な表情のまま、何も言えずに琴実を見つめた。
 それは……ほんの、小さな変化。
 だが、竜星や美央にとっては、大きな動揺を生んだのだった。
 竜星は無意識的に拳を握り締め、ザッと前髪をかき上げる。
 ……一体、いつからなんだろうか。
 自分は“葉山くん”なのに――兄は、“航星くん”だなんて。
 恋のライバルである兄に差をつけられた感じがして、竜星の胸に何とも言えない感情が込み上げてくる。
 悔しさとともに、自分も負けていられないという、強い想い。
 そしてこの時、竜星は改めて認識したのだった。
 自分は本当に目の前の彼女に惚れているのだな、と。