*3 雨のメロディー

 3-1.ホの字のホ



 季節は梅雨に入り、ここ最近の空はずっと雨雲に覆われていたが。
 この日は、久々に太陽が顔を見せた、梅雨の中休み。
 だが、雨の後の快晴は決して爽やかなどではなく、かなり蒸し暑い。
 しかも深幸学園高校は試験最終日のため、通学中のムッと空気のこもった電車内でも、参考書や単語帳に必死に目を落としている生徒が大多数である。
 ――そんな中で。
 見るからに頭の良さそうなその少年は、最後の足掻きに勤しむ他の生徒とは違い、試験勉強とは一切関係のない単行本を読み耽っていた。
 本に視線が落とされて、伏せがちになった黒の瞳。
 長くて量の多い睫毛がそんな両の目に綺麗にかかっている。
 近寄り難そうな堅物な印象こそ受けるが。
 その容姿は、間違いなく美形という部類に入るだろう。
 だが、本人にとってはそんなことはどうでもよく、自覚すらないのだった。
 ――その時。
 少年はふいに肩を叩かれ、本から視線を外して顔を上げる。
「よーう、航星。さすが学年トップの生徒会長は違うなぁっ。余裕だねぇ、コノコノ」
 ニッと笑いながらいつもと変わらない軽い口調で、彼・葉山航星に声をかけてきたのは。
 航星の幼馴染みである塚田憲二だった。
 長身でハンサムなはずなのに、相変わらずどうしてだか、その雰囲気は何故か三枚目である。
 相手を確認して本を閉じ、航星はかけていた眼鏡を外して制服の胸ポケットにしまう。
 それからふっと一息ついて言った。
「おはよう、憲二。そういうおまえこそ、特に試験勉強をしてるようには見えないが」
「俺? 俺はな、試験なんて目の前のちっちゃいことは気にしない、器の大きな男だからな。聞いてビビるなよ? 試験前日にテキストを開いて5分で寝る大物っぷり、自分でもビックリだったぜっ」
 大きな口を叩いて笑ってはいるが。
 憲二に浮かぶそれは、明らかに苦笑以外の何物でもない。
 航星は冷静にそんな様を見遣り、淡々と言葉を返した。
「そうか、昨日勉強に取り掛かる前に寝てしまったということか。おまえは、少しくらい足掻け」
「ということで航星くーんっ、今日の数学はどこがでると思う? 教えてくてよー、頼むっ」
 ちらりと自分を見る航星に憲二は両手を合わせた。
 だが、航星はいともあっさりとそれを断る。
「知るか。ていうか、試験など気にしない大物じゃなかったのか? 大物なら、自分で何とかしろ」
「そんな冷たいこと言うなよー、教えてくれたっていいじゃん。それになんてったって俺は、過去は振り返らない男だからな」
 ハハハッと暢気に笑う憲二に、航星はもう一度嘆息する。
 その冷静な言葉からは半ば呆れたような色も窺えるが。
 憲二の言動に慣れている様子が見受けられる。
 というのも、航星と憲二は、幼い頃から続く仲の良い友人である。
 堅い雰囲気を持つ航星と軽くて明るいノリの憲二は、一見友人であることが珍しく見えるが。
 むしろその性格の相違が、友人関係を円滑に保っているのだった。
「ま、試験はともかく、だ」
 そう仕切りなおすように言って、コホンとひとつわざとらしく咳払いをした後。
 憲二はその顔にニッと意味深な笑みを浮かべてから航星に言った。
「航星、最近どうだよ? 何か変わったこととか、あっちゃったりなんかして」
「最近? 特に変わりはないが」
 憲二の意味深な質問の意図が分からず、とりあえず短くそれだけ答えた航星だったが。
 ふと彼に視線を向け、その顔に浮かぶ表情を見た――その瞬間。
 航星は何かに気がついたように瞳を見開いてから、すぐにあからさまに眉を顰める。
 その理由は。
「……憲二、おまえは知ってるんだな」
「へっ?」
 じろっと自分に黒を帯びる瞳を向けている航星に、今度は憲二が目をぱちくりとさせる。
 航星はふうっと大きく嘆息し、それから心なしか小声でこう続けた。
「竜星に聞いているんだろう? あいつと、Aクラスの夏川のことだ。それに……俺のこともな」
 航星の遠まわしな言い方に、憲二は最初きょとんとしたが。
 彼の言わんとしていることに気がついた瞬間、思わず声を上げてしまった。
「えええっ!?? お、おまえっ、何でそのこと知ってんの!?」
「……やっぱりか」
 大声をあげて驚く憲二の様子に、何事かと周囲の人の目が集まる。
 ざっと前髪をかきあげた航星はぽつりと一言だけ呟いた後、そんな周囲の注目が憲二から解けるのを少し待つように一旦言葉を切った。
 憲二は、航星の幼馴染みでもあるが、同時に弟の竜星の幼馴染みでもある。
 そして長い付き合いで気心の知れた憲二に、竜星が今回の一連の事情を話していても何ら不思議はない。
 また航星も、すでに知られているのならば、特に幼馴染みである憲二にこのことをを隠す気もなく。
 状況が落ち着いたのを見計らい、まだ驚いた様子を隠せない憲二の先程の問いに、躊躇することなく答える。
「どうして知っているのかって? 竜星のやつに、直接言われたからだ」
「りゅ、竜星に直接言われたってっ。それってもしかして、いわゆる宣戦布告ってヤツ!? ひえーっ」
 ますます大きなリアクションを取る憲二に目を遣り、航星は逆に冷静に返した。
「兄貴といい、おまえといい、本当に大袈裟だな。ひえーっなどと言うようなことは何もない。竜星も言っていたが、これは個々の問題だ。だから別にお互い競い合うつもりも毛頭ないし、あいつが何をしようと俺の知ったことではない。よって、外野が期待しているようなことも起こりえない」
「お互い、競い合うつもりはない、か……」
 憲二は航星の言葉を聞いて何かを考えるようにそう呟いてから、ふと小さく首を傾ける。
 それと同時に、駅に到着した電車がホームへと入り、車内が少しだけ大きく揺れた。
 その後停車してドアが開くと、航星や憲二と同じ制服を着た生徒たちが一斉にホームに降り立つ。
 憲二はそんな人の波に逆らわずに歩きながら、ふっとその顔に再び笑みを浮かべた。
「まぁそれよりも、全然否定しないってところが、おまえも本気で彼女にホの字なんだなー、おい」
「ホの字って、一体いつの言葉だ。それに今の話で、特に否定するようなことはないから否定しなかっただけだ」
 定期券をポケットから取り出しながら、航星は相変わらず淡々と言った。
 憲二はうーんと大きく首を捻り、ぽつりと呟く。
「てか関係ないけど、ホの字の“ホ”って、何なんだろうな?」
「ホの字の“ホ”? それは、惚れるの“ホ”のことじゃないのか?」
 憲二の疑問にあっさりと答え、航星は定期券を改札口に通した。
「あー惚れるの“ホ”ねー、ナルホド。ま、そういう俺は、美央にホの字なんだけどなっ」
 納得した憲二も続いて改札を抜けてから髪をかき上げる。
 それからふと視線を上げて何かを見つけると、表情をパッと変えた。
 そして航星の肩をポンポンと勢いよく叩き、楽しそうに再び口を開いたのだった。
「おっ、あそこにいるのは、ウワサの琴実ちゃんじゃね? おまえ、朝からラッキーじゃんっ。行って来いよ」
「…………」
 憲二の言葉を聞き、航星もふと顔を上げる。
 そして、自分たちの少し先を歩いている、ひとりの少女の姿を見つけた。
 それは間違いなく、航星の今一番気になっている人物・夏川琴実その人であった。
 幸い、今の琴実はひとりのように見受けられる。
 憲二の言うとおり、この状況は彼女に話しかける絶好のチャンスなのであるが。
 だが航星は琴実から視線を外し、憲二に言葉を返す。
「行って来いと言われても、どうするんだ。それにいきなり不自然に話しかけられたら、彼女も困るだろう?」
「あのなー、何おまえ恋愛ビギナーみたいなコト言ってんだよ。それにどうするって、まずは基本の朝の挨拶“おはよう”だろ? 超自然で、且つ声を掛けるにはベストな言葉じゃない?」
「…………」
 ポンッと強引に背中を押され、航星は再び眉を顰めるが。
 ふうっと大きく嘆息すると、意外と素直にスタスタと琴実の元へと向かったのだった。
 憲二はそんな航星の後姿を微笑ましげに見守る。
 それからふっと苦笑し、小声ながらもこう口を開いた。
「お互い競い合う気はないってなー……竜星のヤツが航星に宣戦布告したのも、航星のヤツがムキになって竜星のことを気にしてない素振りをするのも、俺にはバリバリお互い意識してるよーにしか見えないんだけど」
 航星と竜星のふたりが同じ相手を好きになることは実は過去に何度かあり、その時も今回のようにふたりが表立って意中の相手を取り合うということはなかったが。
 ふたりと付き合いの長い憲二には、気のない素振りをしながらも、お互いがお互いを意識していたのがありありと分かっていた。
 そして航星とも竜星とも仲の良い憲二は、どうしてもその間に挟まれるような形になってしまうのだ。
 しかも今回は、何気に憲二にとっても、全く関係のない話ではない。
 憲二が想いを寄せる美央が、琴実に想いを寄せる航星のことを好きだからである。
「何だかややこしいなぁ……でもまぁ、みんな揃って青春を謳歌してるーってカンジでいっか」
 人の波を追い越し、琴実との距離を確実に縮めている航星を見つめながら。
 憲二はそう呟き、ふっとそのハンサムな顔に笑みを宿したのだった。


 琴実はふわっと小さく欠伸をし、持っていた定期券をカバンにしまう。
 それから駅を出て、久しぶりに見る快晴の青の眩しさに瞳を細める。
 今は梅雨真っ只中であるため、仕方ないといえばそれまでなのだが。
 せっかく晴れてもムッと蒸していて、ちっとも爽やかではない。
 しかもこの貴重な晴れ間を有効利用しようと朝から張り切って洗濯したのはいいが。
 いつ雨が降るか分からないため、結局部屋干ししかできなかったし。
 洗濯物はもちろん、梅雨の間はなかなか布団が干せないのが痛い。
 あまり暑いのも嫌であるが、早く心置きなく洗濯物が干せるような日光の恩恵を受けたいものである。
 ていうか……我ながら、なんて所帯染みたことばかり考えてしまうんだろうか。
 琴実はまるで主婦のような自分の思考に思わず苦笑する。
 それから気を取り直し、英語の単語帳でも見直そうかとバックに手を伸ばした。
 ――その時だった。
「夏川」
 名前を呼ばれた琴実はふと振り返る。
 それと同時に、彼女の瞳に飛び込んできたものは。
 若干近寄り難い印象を受けはするものの――見惚れるほどに整った、相手の綺麗な顔。
 だが、思わずほうっと見惚れてしまった琴実の様子にも気がつかず。
 声を掛けてきた相手はふと屈むと、あるものを彼女に差し出して短く言った。
「夏川、ハンカチ落ちたぞ?」
「え? あっ、ありがとう、葉山くん」
 琴実は慌ててペコリとお辞儀をし、声を掛けてきた相手・航星に礼を言った。
 そして彼の差し出す花柄の黄色いハンカチを受け取ってから胸を撫で下ろし、呟いたのだった。
「よかったぁ。ラッキーアイテム、失くしちゃうところだった」
「ラッキーアイテム?」
 航星は琴実の言葉に首を傾げつつも、さり気なく彼女の隣に並ぶ。
 ……憲二の助言通りの朝の挨拶ではなかったが。
 琴実がハンカチをタイミング良く落としてくれたため、航星は琴実との接触に成功する。
 そして少しぎこちないながらも、琴実と並んで歩き始めた。
 逆に琴実は、意識している彼の様子にも全く気が付かない様子で、何の疑問も持たずに航星との会話を続けた。
「うん、ラッキーアイテム。今日の占いでね、私の天秤座のラッキーアイテムが、“黄色い小物”だったんだ。だから、今日はこのハンカチにしてみたの。葉山くんは何座?」
「俺か? 俺は、牡羊座だ」
 突然の質問にも端的に答え、航星は隣を歩く少女を見つめる。
 女性は、本当に占いというものが好きなのだなと。
 全くそういう類のものに興味のない航星は客観的にそう分析しながらも。
 気の利いた話題を振る自信もまだないため、琴実の話に乗ってみることにした。
 いや、確かに、占いなどには興味はないが。
 だが、結果を気にかけて黄色のハンカチを選んでいたり、そのことを楽しそうに話をする目の前の彼女は。
 何だかとても女の子らしく、可愛いらしい。
 航星はそう思いながら、ほのぼのとした雰囲気に自然と表情を緩める。
 そして、そんな向けられている特別な視線にも気がつかずに。
 琴実は彼の星座を聞いて、納得したように頷いた。
「あ、そっか。葉山くんと葉山弟くんって同じ学年の兄弟だから、兄の葉山くんは牡羊座とか早い星座だよね。じゃあ、葉山兄くんが早い星座なら、逆に葉山弟くんは、魚座とか水瓶座の遅い星座かな?」
「ああ。確かに俺は牡羊座で、弟の竜星は魚座だが……」
 そこまで言って、航星はふっと一息つく。
 そして彼女に真っ直ぐ両の目を向けたまま、こう琴実に言ったのだった。
「葉山兄とか弟だとか、ややこしいだろう。俺のことは、航星でいい」
「え?」
 琴実は航星の意外なその言葉に、大きい瞳をぱちくりとしてしまう。
 だが、すぐに微笑んでコクリと頷いた。
「うん、航星くん」
 快い返事と同時に返ってきたのは――彼女の、あどけない笑顔。
 端から見たら、全く気がつかない程度であるが。
 航星はそんな彼女の笑顔を前に、動揺を覚えたのだった。
 だがそれは決して悪い動揺ではなく。
 恋をしたら誰もが感じる、胸の高鳴り。
 今まで、それなりの数の異性と付き合ってきたはずなのに。
 まるで少女マンガやトレンディードラマのような妙にくすぐったい気持ちは何だ。
 航星は自分の感情の揺れに苦笑しつつも、彼にしては柔らかな表情で琴実に黒を帯びた瞳を向けた。
「牡羊座といえば、私のお母さんと一緒だよ。だから牡羊座の今日のラッキーアイテムが何か、覚えてはいるんだけど……あまり、航星くんには関係ないものかも」
「牡羊座の今日のラッキーアイテムは、何だったんだ?」
 話を合わせるように、航星は琴実にそう訊く。
 琴実は少し申し訳なさそうな顔をしながらも、そんな彼の問いにこう答えた。
「牡羊座のラッキーアイテムはね、“花柄のハンカチ”だったんだ。男の子は花柄のハンカチとか持たないもんね……でも、所詮占いだからね」
「花柄の、ハンカチ」
 フォローするようにそう言う琴実を後目に、航星はそれだけ呟くとふと視線を下に落とす。
 そんな彼の瞳に映っているものは――琴実の手にある、黄色いハンカチ。
 それは、天秤座のラッキーアイテム・黄色い小物として、琴実が用意したものであるが。
 まさにその黄色いハンカチは、可愛らしい小花模様だったのである。
 琴実に話しかけるきっかけを与えてくれた、まさに航星にとってのラッキーアイテム。
 本来は、占いなど信じるどころか、見もしない航星だったが。
 たまにはそういう根拠のないものを信じてみてもいいかもしれないと、この時思ったのだった。
 そしてそんな自分の今の思考を、航星は自分自身でかなり意外に思っていた。
 相変わらずキリッとした表情は、何ら普段と変化がないもののように見えるが。
 
彼女との登校時間を彼なりに楽しんでいるように。
 航星は、自然とその端正な容姿に、彼にしては珍しい微かな微笑みを宿していたのだった。