2-6.DNAのイタズラ



 爽やかな初夏の快晴が広がる朝。
 次々と登校する生徒たちの声で満たされた校舎内は賑わいをみせている。
 そんな、普段と何ら変わりのない一日の始まり。
「おはよー、琴実っ。昨日のドラマ観た? あの展開、かなり私のツボだったーっ」
 華やかで綺麗な笑顔を湛え、明るい声で話す彼女。
 一見そんな彼女の様子も、いつもと全く同じのように見える。
 だが……。
 彼女・美央の親友である聖子はふっと小さくひとつ息をつく。
 それから目の前で楽しそうに笑っている美央の姿を黒の瞳に映した。
 ……昨日の放課後に発覚した、思いがけない真実。
 さすがの美央も、その事実――琴実への航星の気持ちに気がついた直後は、目に見えて動揺していたが。
 まるで、何事もなかったかのような今の様子。
 今の彼女を見て違和感を感じる者など、誰もいないだろう。
 そのくらい、目の前の美央の様子は普段と何ら変わりはない。
 だが美央の性格を良く分かっていて且つ事情を知っている聖子は、敢えて何も言いはしないが、少し心配そうに親友に視線を向けていた。
 表には決して表さないが、本心は平気なはずがない。
 いやでも人目を惹く綺麗で派手な外見から誤解されることも多いが。
 美央は人一倍繊細で、他人に対して余計に気を使う性格である。
 さらに、美央の航星に対する真剣な気持ちを今まですぐ近くで見ている聖子には分かっていたのだ。
 美央が無理をして、普段と変わらぬ振る舞いをしていることが。
 そして、そんな美央の隣で。
 純粋無垢に笑うひとりの少女。
「うんうん、よかったよねっ。あんな恋愛、憧れるなぁ……来週はどうなるんだろうね」
 航星が恋に落ちた相手が彼女でなければ。
 美央も少しは自分から動いていたかもしれないし、聖子自身も美央の後押しが心置きなくできたのだが。
 よりによってその相手が、自分たちと仲の良い琴実だとは。
 いや、航星だけではない。
 航星の弟で美央の元カレである竜星の想い人も、同じく琴実なのである。
 そして琴実本人は、まさか自分に複数の恋の矢印が向いているなんて全く思ってもいないようであるし。
 美央も本命の航星に対しては妙に一途で奥手であるため、何とも今、複雑な状況が出来上がっているのだった。
 普段冷静な聖子も、この状況で自分がどう動けば一番いいかいまだ判断がつかない。
 とりあえず今は静観に徹しているところであるが。
 琴実には、まだこれらのことを黙っていた方が得策のようである。
 ――航星や竜星の気持ち、そして美央の想い人が誰であるかを。
 恋愛経験の少なそうな琴実がそれを知った場合、彼女にとってはまさに寝耳に水状態であり、きっと混乱すると思われるし。
 それに自分の想い人を琴実には内緒にして欲しいと、美央も言っている。
 状況的にもその方が事が大袈裟にならないだろう。
 何だか急に目まぐるしく恋愛事情が動き始め、正直戸惑ってはいる聖子だったが。
 唯一の救いは……まだ、琴実が恋愛をしてる様子がないということ。
 恋に憧れている気持ちは大きいとはいえ、特定の異性に恋をするには全く至っていないようだ。
 琴実はどうも周囲の恋愛事情に関して鈍そうであるし。
 当分、琴実には現状を伏せ、自分はしばらく様子見することが最善の行動であると。
 聖子は改めてそう思いながら、琴実と美央の会話に相槌を打っていた。
 それからチャイムが教室に鳴り響き始め、聖子はふとおもむろに視線を上げた。
 同時に、朝のホームルームを行うために現れた担任・葉山壱星の姿が目に入る。
 聖子は漆黒の瞳を細めて前に向き直った後、ふっと小さく笑んだ。
 確かに今の状況は複雑で、これからどうなるのか予測不可能だが。
 人が恋をすることは――決して、悪いことではない。
 そして、本人は全く気がついていないが。
 たくさんの淡い恋を運んできた、季節外れの転校生。
 しっかりしてるようでどこか抜けていて、大人しそうに見えて意外と大胆で。
 今時珍しい、擦れていない少女。
 見ていてとても微笑ましく、何よりも面白い。
 恋愛の渦のど真ん中にいながらも現在の状況を一番知らない暢気な彼女。
 そんな琴実を見つめ、聖子はもう一度小さく笑んだのだった。


 ――同じの日の夜。
 葉山家の三男・竜星は、夕食を取りながらじっとマロンウラウンを帯びる瞳で目の前にいる同じ年の兄を見ていた。
「? 何だ」
 そんな弟の視線に気がついた次男・航星は短く口を開く。
 竜星はふっと小さく嘆息した後、首を振った。
「何って、別に何でもないよ」
 そう言ってから竜星は味噌汁をひとくち飲む。
 それからふと顔をあげると、今日の食事当番である長男・壱星に視線を移した。
「ねぇ、兄貴。何か今日の味噌汁、いつもと違わない?」
 竜星のその言葉を聞いた壱星はニッと笑みを浮かべる。
 そしてふたりの弟を交互に見て、言った。
「よく分かったね、やっぱり違う? 味噌汁に少量のヨーグルトを入れたんだよ。コクと旨みが増す隠し味だって、料理の上手な琴実に教えてもらったんだ」
「……夏川に?」
 ピクリと壱星の言葉に反応を示し、航星は箸を止めて顔を上げた。
「…………」
 航星のそんな様子を見逃さずに竜星は瞳を細める。
 それからザッと瞳と同じ色をしたマロンブラウンの前髪をかきあげ、今度は壱星に目をやった。
 壱星のハンサムな顔に宿っているのは……何だか楽し気で、意味深な微笑み。
 そんな長兄の表情を見た竜星は、ようやく気がついたのである。
 壱星は――自分が恋をしていることを、どうやら知っているようだということを。
 そして航星も、同じ相手・琴実に恋心を抱いているということも。
「……てかさ、兄貴」
「何だい? 竜星」
 わざとらしく笑む壱星に竜星ははあっと大きく溜め息をつく。
 それから何かを言いた気な表情を浮かべつつも、本当に言いたいことを飲み込んで、代わりに仕方なくぼそりと言った。
「……おかわり」
「おかわり? はいはい」
 不服な様子で茶碗を差し出す竜星にさらに楽しそうに頷いた後、壱星は素直に彼の茶碗を受け取って席を立った。
 それからキッチンで白飯をよそいながら、誰にも聞こえない声で呟く。
「なるほどね、竜星は気がついているんだね。航星のことも、僕のことも」
 クスッと笑いながらも敢えて壱星はすぐに弟たちのいるダイニングには戻らず、彼らの様子を窺うことにした。
「夏川は、料理も上手なのか」
 ひとり何も気がついていない航星は味噌汁に視線を落とし、そうぽつりと呟く。
 相変わらずその顔にはキリッとした聡明さが健在ではあるが。
 竜星は、今まで見たことがないほどに表情が緩んでいる航星の様子に、彼の想い人が自分と同じであることを改めて確信する。
 そして、ある感情が心の中に芽生えてくるのを感じていた。
 例えほかの誰かが琴実のことを好きであろうと、自分にとってはどうでもいいし関係ない。
 琴実を振り向かせるために、自分がただ頑張るだけだから。
 それが兄の航星であっても例外ではなく。
 人は人、自分は自分、誰がどう動こうと気になどならない。
 そう……今まで思っていたのに。
 目の前の航星の姿を見ていると、何だか無性に気になって仕方がない。
 竜星はもうひとくち味噌汁を飲んでからひとつ息をつく。
 それから航星を見遣り、口を開いたのだった。
「てかさ、航星。みんなも言ってるけど、俺らって兄弟なのに顔も性格も全然似てないよね」
 航星は竜星の声にふと顔を上げ、彼に目を向けた。
 特に航星は何も答えはしなかったが。
 何を今更改めて言っているんだと思っている様子がその表情から汲み取れる。
 竜星はそんな航星の反応にも構わず、続けた。
「いや、似てないどころか、何でも正反対じゃん。航星の言動を見てると、本当にこいつと俺って兄弟なのって思うこともあるくらい」
「確かにそうだが、いきなり何だ?」
 竜星が何故そういう話を切り出したか全く意図が分からず、航星は首を傾げた。
 竜星はちらりと航星を見た後、さらに話を進める。
「でもさ、俺たちってひとつだけ、すごくよく似てるところがあるって気がついたんだよ。んで、あーやっぱり同じDNA持ってるんだなーって、初めて実感したの」
「俺たちが、唯一似ているところ?」
 それが何なのか思い当たることがない航星は、首を小さく傾げている。
 そんな航星を真っ直ぐに見つめたまま、竜星は彼に訊いた。
「ねぇ、覚えてる? 幼稚園の時に担任だった先生、俺らの初恋の人だったよね。んで、次が小学校の時同じクラスで引っ越しちゃった真奈美ちゃん、それでもって次が中学の時の家庭教師の先生……よく考えてみると俺らって、ことごとく好きになる人がかぶってるよね」
「そう言われてみれば、そうだな」
 ふむ、と納得したように頷き、航星は短く言葉を返す。
 竜星はここまで言って、はじめてふうっと一呼吸置いた。
 それから改めて航星に目を向け、こうゆっくりと続けたのだった。
「んでもってさ、DNAのイタズラか……次もまた、同じ琴みんだなんてね。ビックリしたよ」
「……え?」
 航星は思わず小さく声を上げ、僅かに両の目を見開く。
 そんな航星の反応をじっと見た後、竜星は敢えてストレートに問いを投げた。
「航星もさ、好きなんだろ? 琴みんのこと」
 さすがの航星も、思いがけない弟の言葉に驚きを隠せない表情をしたが。
 一言、短く竜星に返したのだった。
「竜星、おまえも夏川のことを?」
「そ。俺も航星と同じ、琴みんのことが好きになっちゃった。でもね、別にだからって航星と争って琴みんを取り合う気はないよ、そういうの面倒だし。俺は俺で彼女に好きになってもらうように頑張るし、おまえもおまえで勝手にすればいいし」
 実は何気にこれからの航星の出方が気になる竜星であったが、敢えて興味ない素振りを取る。
「…………」
 航星は黒を帯びる瞳を微かに伏せ、しばらく何かを考えるように口を噤んだが。
 ふと顔を上げ、再び竜星と向き合う。
 そして真っ直ぐ相手を見遣り、今度は逆に弟に問うたのだった。
「おまえ、本気で夏川のことを?」
「本気だよ。本気じゃなかったら、わざわざこんな話しないし」
「そうか。それならば、別に構わない。彼女に対しての気持ちが軽々しいものだとしたら放っておけないが……本気なら俺もおまえの行動に何も言う気はない」
 それだけ言って竜星から視線を外すと、航星は再び食事を取り始めた。
 竜星も航星の言葉に同意するように頷いてから、今度はおもむろに後ろを振り返る。
 そして今度は、ようやくキッチンから戻ってきた壱星をちらりと見た。
「……兄貴」
「ん? 何だい、竜星」
「何って味噌汁おかわり。てかさ、兄貴は前から気がついてたんだろ? それに何気にこの状況、かなり面白がってるでしょ」
「竜星は亭主関白だな、ごはんと一度に味噌汁のおかわりも言ってくれれば嬉しかったんだけど。それに、面白がってるって何のことかな?」
 白々しく惚ける壱星の様子に竜星ははあっと嘆息する。
 そして前髪をそっとかき上げて言った。
「さっきの話、兄貴も聞いてたと思うけどさ。別に俺と航星が同じ人が好きだからって、兄貴が期待してるような面白いことは何にも起きないよ? これが女の子同士だったら、昼ドラみたいな修羅場だったかもだけど」
 壱星はそんな竜星の言葉に笑顔をみせるだけで特に何も言わず、よそった茶碗と引き換えに空の味噌汁碗を受け取る。
 それからひらひらと手を振ると、再びキッチンへと歩を進めた。
「…………」
 そして、そんな兄と弟の普段通りのやりとりを聞きながら。
 航星はふと視線を自分の味噌汁碗に落とした後。
 漆黒の瞳を細め、琴実直伝というヨーグルト入り味噌汁を口に運んだのだった。