2-5.早い者負け



 ドアを開けるのと同時に耳に聞こえてくるのは。
 最近特に彼が気に入っている、あの曲。
 それは切なく心に響き、壊旧の情に駆られる。
 うっすらと放課後の教室に差し込める夕陽とそのノスタルジックな曲。
 その雰囲気がよく合っていて。
 ここが学校だということをしばし忘れてしまう。
 そして不思議とこの場だけ、時間がゆっくりと流れているような。
 いつもそんな錯覚にさえ陥るのである。
 それに――何よりも。
 彼と、ふたりだけの空間。
 彼女にとってはそれが何よりも幸せで。
 美しい旋律を耳にしながらうっすらと夕陽で赤に染まった彼の横顔を見つめては、恋する少女の表情を垣間見せるのだった。


「最近は、この曲がお気に入りなんだ」
 いつものように“コーリング・ユー”が響く生徒会室で。
 美央は綺麗な顔に微笑みを宿しながら彼にそう言った。
 だが、そんな彼女の問いが意外であったらしく。
 彼――葉山航星は、見直していた書類から美央へと視線を移す。
 美央は航星の様子に瞳を細めて続けた。
「最近、生徒会室にこの曲かかっていることが多いでしょ。だからそうなのかなって」
「意識はしていなかったが……言われてみれば、そうなのかもしれんな」
 航星はふっと小さく笑んで、しばし教室内に流れる曲に耳を傾ける。
 この曲を知っている人も、その曲が使われていた映画を観たという人も、航星と同年代の友人知人にはあまりいなかったが。
 先日生徒会室を訪れた、ひとりの少女。
 その少女は、この曲はもちろん、この曲が使われていた映画も好きだと言うのだ。
 話をすればするほど、驚くほどに自分と趣味趣向が合っていて。
 あんなに話が合う人は初めてかもしれないと、航星はあの日以来、密かにその少女・琴実のことが気になっていたのだった。
「どうしたの、会長?」
 あまり自分の感情を出さない彼にしては珍しく、微妙にその表情が緩んでいることに美央は気が付く。
 そんな彼女の言葉に、航星はふと我に返ってひとつ咳をした。
 それから一度手に持っていた書類に目を通して口を開く。
「美央、昨日の予算会議のことだが。おまえが文化部長を前もって説得してくれて助かったよ。彼は頑固だから、会議で議論になると時間を要しそうだからな」
「ううん、生徒会役員として当然の仕事しただけだってば。それに文化部長の説得には、聖子にも協力してもらったんだ。いつも生徒会の仕事は会長に任せてばっかりだし、たまには副会長も役に立たないとね」
「おまえはよくやってくれてるよ、美央」
 謙遜するような様子の美央に、航星は小さく首を振ってそう言った。
 それは短かい言葉ではあったが。
 航星は人に対してお世辞を言うタイプではない。
 それをよく知っている美央は、素直に彼の言うことに笑顔をみせる。
 航星は黒を帯びる瞳を昨日行われた生徒会会議の議事録へと向けて、念のためもう一度内容を確認した。
 そして書類を丁寧にファイリングした後、かけていた眼鏡をふっと外した。
 昨日までは生徒会会議の準備のために生徒会役員全員が生徒会室に集まっていたが。
 その会議も昨日で終わり、今日生徒会室を訪れたのは、生徒会長の航星と副会長の美央のふたりだけである。
 美央はさり気なく立ち上がって、前もって淹れていた珈琲をふたつのカップにそれぞれ注ぐ。
「はい、会長。昨日の会議も無事に終わってよかったね、お疲れ様ーっ」
 少し渋めの模様が入ったカップの方にミルクだけを添え、美央は航星にそれを出した。
 航星は鼻をくすぐる珈琲の香りに黒を帯びる瞳を僅かに細めてから、同じ色をしている前髪をそっとかき上げる。
「ああ。ありがとう、美央」
「でも珈琲淹れるの、私よりも会長の方が上手なんだけどね」
 美央は綺麗な顔に笑顔を宿し、ひとくち自分の淹れた珈琲を口にした。
 彼女に続いてミルクを入れた珈琲を口にした後、航星はふっと一息つく。
 ふたりの会話が途切れ、再び美しい旋律だけが教室内を支配する。
 航星はコトンとコーヒーカップを机に置き、美央に目を向けた。
 そしてこう彼女に訊いたのだった。
「そういえば美央……おまえは、あの子と仲がいいんだったな」
「あの子?」
「先日転校してきた、2年Aクラスの夏川琴実だ。彼女と仲がいいみたいだが」
「琴実? うん、本当にあの子ってすごく純粋でいい子だし、転校してきたばかりとは思えないほど仲良しだよ」
 美央の言葉に航星は無意識に首を小さく縦に振る。
「純粋でいい子、か……」
「てか、何で琴実のこと? あ、そういえば会長は、琴実とは何度か会ったことあるんだよね。天文部の時と、この間生徒会室にあの子がノート届けてくれた時か」
「ああ。転校初日も校内で迷っている彼女を事務室まで案内したのだが」
 航星はそこまで言って、少し間を置く。
 それから、こう呟くように続けたのだった。
「あんなに俺と趣味趣向が合う子は、初めてだ」
「……え?」
 美央はブラウンの大きな瞳を再び彼へと向ける。
 だがその表情は、今までのものとは微妙に変化していた。
 航星はそれに気が付かず、頷いて言った。
「あの子……夏川だよ。彼女は、“コーリング・ユー”の曲だけでなく、これが使われてた映画“バグダッド・カフェ”についても知っていた。それに話を聞くたび、驚くほど俺と趣向が似ていたんだ」
「“コーリング・ユー”……」
 美央はそうぽつりと呟き、口を噤む。
 この時――美央は、気付いてしまったのだ。
 何故最近の生徒会室に“コーリング・ユー”が流れていることが多かったのか。
 どうして航星が琴実のことを自分に訊いてきたのか。
 そして……いつも誰よりも近くで見ている彼の表情が。
 今までにないほど、柔らかであるその理由を。
 美央は何も言えずに、教室内に流れる曲をじっと聴いている彼を見つめる。
 知的でキリッとした面立ちが夕陽に照らされ、僅かに開いている窓から吹く風がほんのり赤を帯びたその髪をそっと揺らしている。
 そして、そんな彼を見つめる美央の耳にも。
 切なく胸を締め付けるような美しい旋律だけが静かに響いていたのだった。


 ――その頃。
 調べ物を済ませて図書館を出た聖子はちらりと時計を見る。
 思ったよりも調べ物に時間を要したため、窓の外に広がっていた青空もいつの間にか夕焼け空へと変わっていた。
 人の姿が殆どない廊下を歩きながら聖子はふと顔を上げる。
 それからひとつ首を傾げ、立ち止まった。
 そんな彼女の目に飛び込んできたのは。
 偶然通りかかった、ある人物の姿。
 聖子は意外な表情を浮かべながら、その人物に声をかけた。
「あら。こんな時間まで学校にいるなんて、どうしたの?」
 そんな彼女の声に振り返ったのは。
「あ、誰かと思えば、聖子りん。そういう聖子りんは、いつもの如く図書館にいたみたいだね」
 彼女の小脇に抱えられている数冊の本を見て、声を掛けられた人物・葉山竜星はそう返した。
 聖子はそんな彼の言葉に小さく息をつく。
「別に構わないんだけど……その呼び名、私みたいな人間が一番不似合いなものだと思うわ。生憎私は、港区もしくは千葉県茂原市にあるといわれている某こりん星の住人ではないわよ」
「そう? てか、こりん星って港区とか千葉にあるの? 聖子りんはやっぱ物知りだねぇ」
 妙に感心したように竜星は頷いた後、ふあっとひとつあくびをする。
「てかさ、中庭で光合成してたんだけど。気が付いたらこんな時間で、ちょっとビックリしちゃった」
「光合成ね……」
 どうやら竜星は、今までずっと中庭で寝ていたらしい。
 放課後を迎えてかなり時間が経っているが、まさかその間一度も起きなかったというのだろうか。
 そうは思った聖子だったが、相手は何に対してもあまり神経質ではなく、周囲の目など気にしないタイプの竜星である。
 彼のそんな性格を知っているためにひとりで納得し、敢えてその件に関しては何も言わなかったが。
 ふと釣り気味の漆黒の瞳を細め、聖子は彼に別のことを訊いたのだった。
「そういえば、琴実のことはどう? 今回は本気らしいわね」
「琴みん? うん、本気だよ。でもまだ特に何も行動おこしてない……てか、行動起こそうにも起こせずにいるっていうか」
「行動を起こせずにいる? 貴方にしては珍しいわね」
 竜星の言葉に、聖子は意外な表情を浮かべる。
 目の前の竜星は特にプレイボーイというわけではないのだが。
 その美形の容姿ゆえに、寄ってくる異性も少なくない。
 そして彼自身が別に拘りを持っている性格でもないために、今までそれなりの数の異性と付き合ってきているのだった。
 そんな恋愛に関してある程度慣れていそうな彼のこの発言が、聖子には意外だったのだが。
 すぐに彼女は次の彼の言葉で、彼がどうして琴実に対して行動を起こせずにいるのか納得するのだった。
「琴みんってさ、今まで俺が付き合ってきたタイプとは全く違うタイプだし。それによく考えたら、今までこういう状況ってあまりなかったかも」
「ああ、そう言われればそうなのかもね。貴方から行動する必要性が今まではあまりなかったから、こういう状況は貴方にとってはレアケースなのかもしれないわね。でも、別に恋愛ベタってわけでもないでしょう? 意外と貴方は器用そうだもの」
「うーん、器用なのか分かんないし、琴みんが俺のことどう思ってるのかも謎だけど。まだあの子が転校してきて間もないからライバルもまだそう多くないだろうし、焦らずやってこうと思うよ」
「琴実はああいう子だから、当然まだ友達という枠の中ではあるけれど。葉山くんのことは、決して悪い印象ではないようよ」
「マジで? よかったー、聖子りんにそう言われたら何かホッとするね。友達って枠から、徐々に琴みんにとって気になる存在になれるようにいろいろやってみるよ」
「そうね。私も影ながら見守っているわ」
 聖子は綺麗な竜星の顔を見つめながら、自然と表情を和らげる。
 不思議と――人が、恋という魔法にかかると。
 それまでと、纏っている空気の印象が大きく変わるものなのだなと。
 目の前の竜星を見て、聖子は密かにそう思ったのだった。
 恋する乙女は綺麗になると言うが。
 もしかしてそれは女性に限ったことではないのかもしれない。
 惰性で異性と付き合うことも幾度かあった竜星とは思えないほど、何だか今の彼からは異様にピュアな雰囲気が漂っている。
 好きになった相手・琴実の影響なのだろうか。
 聖子は何だかそんなことを考えて少し可笑しくなりながらも、そんな彼の恋を純粋に応援しようと。
 そう……思ったのだったが。
 その考えは、一時保留になることになるのだった。
 『彼女』が――この場に、現れるまでは。
 竜星はうーんと大きく伸びをした後、ふと視線を聖子から外す。
 そして『彼女』を見つけて、再びその口を開いた。
「あれ、美央?」
「あ……竜星と、聖子」
 竜星に声を掛けられ、その『彼女』・美央は顔を上げる。
 生徒会の残務を終え生徒会室を後にした美央が、ちょうど廊下を通りかかったのだった。
 聖子は振り返り、親友の姿を確認する。
 それから首を傾げると、彼女に言ったのだった。
「どうしたの? 何だか様子がおかしいようだけど」
「えっ? あ、うん……」
 美央は聖子の鋭い指摘に驚いた表情をし、どうしたらいいか分からないように一旦口を噤む。
 だがおもむろに顔を上げると、ぽつりぽつりと話を始めた。
「うん……今まで、会長と生徒会室にいたんだけどさ。私ね……気が付いちゃったんだ」
「航星と? って、気が付いたって、何を」
 兄の名が出てきて、竜星も彼女に改めて視線を投げる。
 美央はザッとストレートの長い髪をかき上げ、大きな瞳を交互に竜星と聖子に向けた。
 そしてひとつ深呼吸をし、こう続けたのだった。
「会長なんだけど……会長、琴実のことが、好きみたい」
「えっ?」
 美央の言葉に、聖子は思わず声を上げる。
 逆に竜星は言葉こそ発しなかったが、その表情は先程までとガラリと変わっている。
 それから数度瞬きをして、竜星は美央に訊いた。
「ちょっと、何それ。航星が、琴みんのことを好きだって?」
「多分……いや、確実にそうだと思う」
 美央はそう断言して無意識に視線を落とす。
 聖子はそんな彼女の様子に、ふっとひとつ息をつく。
 そしてはっきりと美央に問うた。
「それで、美央はどうするの? 美央は……会長のこと、好きなんでしょう?」
 美央は聖子の問いに思わず苦笑する。
 その後、首を小さく左右に振ってふたりに言った。
「どうすればいいか、今は正直混乱してるよ。でもね……琴実には、私が会長のこと好きだって内緒にしてくれない?」
 美央は大きく嘆息し、それから改めて言葉を続ける。
「あの子はいい子だからさ、きっと私が会長のことを好きだって知ったら、琴実の中で会長は恋愛対象から自然と外れちゃうと思うの。それは、絶対に避けたいから」
「何で? 俺にとってもだけど、おまえにとってもそれって願ったり叶ったりじゃない? 恋敵になるどころか応援してもらえるなんて、それに越したことないでしょ」
 不思議そうにそう訊く竜星に、美央は今度は大きく頭(かぶり)を振った。
「駄目よ、そんなの。もちろん会長のことは好きだし、会長と両思いになれたら嬉しいけど……でもそしたら、会長の琴実への気持ちはどうなるの? 好きな人には、やっぱり幸せになって欲しいし」
 今度は竜星が彼女の言い分を否定するようにマロンブラウンの髪をかき上げてから首を傾げた。
「何それ、意味わかんない。俺は例え琴みんが誰を好きであろうと、俺の方を振り向かせたいって思う。それがさ、相手を好きってことじゃないの?」
「でも、会長の気持ちが私のせいで成就しないかもしれないなんて、そんなの嫌なの。会長には、辛い思いをさせたくないもん……」
 そう言って再び俯く美央を見て、考え方の違うふたりの意見はこのままではいつまでも平行線だと。
 聖子はそう思いながら、もう一度溜息をついた。
 それから美央に言ったのだった。
「本当に美央って、本気の恋になると途端に不器用になるんだから。気持ちは分からなくはないけど、琴実が会長のことを好きならまだしも、そうじゃないでしょう? 今後も琴実が会長のことを好きになるかも分からないのに。妙に純粋というか、それだったら会長の気持ちに早く気が付いた美央の負けはもう目に見えているじゃない。もう少し、恋に我侭になっても構わないんじゃないの? 恋っていうものはね、何も敵は恋敵だけではないの。恋をする相手とも、ある意味戦わないといけないものよ。竜星くんの言うように、相手の気持ちを自分に振り向かせてなんぼだと私も思うわ」
「てか……聖子りんって、一体何者?」
 竜星はほうっと感心したように声を上げながらパチパチと軽く手を叩き、ぼそりと呟く。
 美央は聖子の意見を否定することなくコクンと頷きつつも、こう返したのだった。
「そうね、会長の気持ちに気付いちゃった時点で、私の考え方じゃ恋愛では負けが濃厚なのかもしれない。でもね……やっぱり私は、会長のことを応援したいんだ。理由は、会長のこと本当に好きだから」
「俺にはやっぱり、美央の言ってるコト分かんないや。俺だって、琴みんのこと本当に好きだよ。でも琴みんが例え誰かのこと好きでも、その気持ちが自分に向けられるように足掻く。相手のこと好きだからこそそう思うんだと俺は思うもん」
「相手のことをどれだけ好きかなんて考え方は人それぞれだし、それをはかるものさしなんて何もないわ。ていうか、美央って本当に損な性格ね……会長が本当に琴実のことを好きなのであれば、かなり相手が悪かったというか」
 聖子はそう言った後、思わず苦笑する。
 これ以上美央に何を言っても、彼女の考えが変わることはないのを聖子は分かっていたし。
 それに何よりも、これからのことを密かに心配する。
 妙に純粋に会長のことを想う美央の心情ももちろんだが。
 問題は、それだけではない。
 とりあえず琴実には、現在発覚している恋愛事情は一切話さない方がいいと。
 琴実はこういうことに鈍そうなタイプであるために、下手なことを言えば混乱が生じるし、逆を言えば誰かが彼女に何も言わなければ彼女自身この状況には気がつかないだろうと聖子は考えたからである。
「それにしても、航星が琴みんのことを……」
 竜星はそう呟き、綺麗な二重を描く瞼をそっと閉じる。
 それから最近航星と交わした琴実に関する会話を思い出してみる。
 ……その時は、全く気が付かなかったが。
 確かに最近兄の航星は、何気なく琴実のことを口にすることが多い気がすることに、竜星はようやく気が付く。
 航星の性格的に彼の口から頻繁に特定の誰かの話題が集中して出ることは、とても珍しいことなのだ。
 美央は色恋沙汰に関してはかなり敏感なタイプなので、彼女の勘は信用できるし。
 おそらく、いや十中八九、航星も自分と同じ琴実のことが好きなのであろう。
「…………」
 竜星は何かを考えるような仕草をした後、閉じていた瞳を開く。
 そして女性陣ふたりに視線を向けた。
 美央は俯き加減でさすがにまだ混乱気味な様子が見て分かるし、逆にいつも冷静な聖子は微妙に困った表情を見え隠れさせつつも相変わらずのクールビューティーぶりである。
 正直、最初はかなり竜星も驚いたのだが。
 よく考えればこのような状況が起こるのも何も不思議なことではないし、それに気にはなるが、もし航星が琴実のことを好きだとしても大して問題はないのではないかと竜星は思い始める。
 その根拠はというと……。
 三人がそれぞれ思い思いの表情を浮かべ、しばらく沈黙がその場を支配する。
 恋愛に対する考え方は三種三様で微妙に違ってはいるが。
 これだけは、三人とも同じ思いであったのだった。
 恋の流星が次々と降り注ぐ状況下――これからどうなるのか、全く予想がつかないもので。
 そして、恋愛に疎そうな琴実は。
 まさか今、こんなことになっているなんて、全く知りもしないのだろうな、と。