2-4.高みの見物
琴実が深幸学園に転校し、一週間が経とうとしていた。
元々順応性の高い彼女はすっかり新しい環境にも慣れて生活のリズムも掴めてきて。
可愛らしい垢抜けした制服も、心なしかしっくりと馴染んできたような気がする。
そしてこの日も午後の授業が終わり、残すところ帰りのホームルームのみ。
琴実は美央と聖子と一緒にホームルームの行われる2年Aクラスの教室に戻っているところだった。
「あーどうすればさぁ、イッチーの頭の上に黒板消し当てられると思う?」
美央は思いのほか真面目な表情で首を傾げつつ呟く。
見た目美人顔で大人っぽい雰囲気を醸し出す彼女の、そんな幼い子供のような悩み。
琴実はそれを微笑ましく思いながらも、前から疑問に思っていたことを訊いた。
「どうしてそんなに美央は、葉山先生に黒板消しを落としたいの?」
転校初日もそうであったが、度々美央は黒板消しの悪戯を仕掛けては失敗している。
そしてただ悪戯心でやっている割には、いつも彼女は真剣なのである。
「それはね、葉山先生と美央が賭けをしているからよ」
琴実の問いに美央ではなく、聖子が端的に答える。
未央もそれに続いて大きく頷いた。
「そーそー。イッチーに黒板消しお見舞いできたら、私の出す条件を飲んでくれることになってるんだ」
「条件?」
「美央も美央だけど葉山先生もああいう性格だから、受けて立つ気満々なのよ。まぁ、見ている方は結構楽しいからいいんだけどね」
「ああいう性格、ね……」
聖子の言葉に、琴実は納得したように呟く。
壱星は、いろんな意味で今まで琴実が出会ったことのないタイプの教師で。
最初はその一挙一動に驚いていたが。
転校して一週間が経った今は、大分そんな彼の言動にも慣れてきたのである。
――その時だった。
「何? 僕のウワサ話かな、お嬢さん方」
そんな声が突然背後から聞こえ、琴実は驚いたように振り返る。
そしていつの間にかすぐ近くに立っている教師・葉山壱星に目を向けた。
「うん。どうしたらイッチーの頭に黒板消し落とせるか、作戦会議してたの」
「そして葉山先生が子供っぽいって言ってたんです」
美央と聖子は隠しもせずハッキリと壱星に言った。
さすが自分よりも彼への接し方に慣れているだけあるなと、琴実は妙に感心してしまう。
「子供っぽいって、大人の色気ムンムンの僕がかい? それに僕に黒板消しを落とすなんて至難の業だよ、美央」
「そういう言動が子供っぽいって言っているんですよ、先生」
さり気なくズバリとツッこむ聖子の様子に、琴実は彼女に対して大物感を抱く。
だが壱星はめげる事も全くなく、甘いマスクににっこりと笑顔を宿した。
「少年の心を忘れていない大人だからね、僕は」
どう考えたらそんなにプラス思考になれるのだろうか。
基本的に自分もポジティブな方ではあると思うが、この人には負ける。
そんなことを思いながらも琴実はふうっと小さく息をついた。
壱星は茶色を帯びた前髪をそっとかき上げた後、琴実に視線を向ける。
それからこう彼女に告げたのだった。
「琴実、今日で転校して一週間だよね。ホームルームの後、学校の決まりで個人面談をするから、職員室に来てね」
「こ、個人面談?」
何だか壱星が言うと、妙にいやらしい。
琴実は思わず構えたような表情を浮かべる。
そんな琴実の様子に壱星は苦笑した。
「その反応はないんじゃない? ちゃんと普通の個人面談だから、安心して」
「てか、普通じゃない個人面談って、どんな個人面談よ」
「そのうちセクハラで訴えられて敗訴しますよ? 先生」
すかざず美央と聖子は壱星の言葉にツッコミを入れる。
「大丈夫、腕利きの弁護士雇うから。って、俺ってそんなに信用ない? 参ったな、男前なのも罪だな」
ハハハッと笑う壱星を見て、やはりこの人は教師なのだろうかと思わず疑問に思ってしまう。
そして琴実は、本当に葉山兄弟は三人とも性格が面白いほど違うなと、改めて感じたのだった。
「くれぐれもイッチーのセクハラには毅然とした態度でね、琴実」
「何かされたらすぐに助けを求めるのよ」
美央と聖子にそんな見送られ方をしながら、ホームルームが終わった琴実は、言われた通りに担任である壱星との個人面談に臨む。
ていうか、生徒にそんな言われ方する教師ってどんな教師だ。
そう心の中で思いながらも、琴美は転校初日と同じ職員室の隣の会議室へと通された。
転校初日は八分割き程度だった窓の外に見える中庭の花壇の花も、この一週間で見事に咲き誇っている。
一週間前にここに通された時は、初めての転校に大して不安も大きかったが。
幸いにも周囲の人に恵まれ、すぐに新しい学園生活に馴染めることができた。
そして仲良くしてくれる美央や聖子に感謝しながら琴実はふっと瞳を細める。
友人である彼女らはもちろんだが。
担任の壱星も、何気に自分のことをよく気遣ってくれていて。
最初にこの会議室で彼と話をした時は正直一抹の不安を感じたが、今では逆にそんな彼の様子に親しみさえ感じる。
それが計算なのか、果たして素なのかはまだ分からないが……。
琴実は窓の外を見つめながらも彼が来るのを待った。
それから間もなくして、ガラリと会議室のドアが開く。
「ごめんね、お待たせ。じゃあ普通の個人面談を始めようか。こちらにどうぞ、かわい子ちゃん」
先程、美央もツッこんでいたが。
普通じゃない個人面談ってどんなのだよ。
改めてそう思いながらも琴実は促された席へと座る。
壱星はその隣の席に座ってから、じーっと琴実の顔を見つめた。
それから甘いマスクに笑顔を浮かべて口を開く。
「本当に琴実って、目が大きくて肌も綺麗だよね」
「……葉山先生。普通の個人面談なんですよね?」
すぐ近くにある彼のハンサムな容姿に思わずドキドキしてしまったが。
毅然な態度を取らなきゃと、琴実はそうビシッと言葉を返す。
「琴実、何かツッコミ方が聖子に似てきてないかい? まぁとにかく、普通の面談始めようか」
壱星はふっと笑んでから、改めて持っていた書類に目をやった。
「えーっと、普通の個人面談をするって言っても、まぁ月並みな事を訊くだけだよ。この一週間を過ごしてみてどうだった? 何か困ったことはない?」
「一週間を過ごしてきて……周りのみんなも親切だし、そのおかげで学校にも慣れてきました。困ったことも、今のところ特にありません」
「そっか、それならよかったよ。何かあったら、遠慮せずに美央や聖子や、そして僕に言ってね」
壱星は琴実の頭にポンッと手を添え、ぐりぐりと頭を撫でる。
その大きな手の感触に再び胸の鼓動を早めながらも琴実は彼を見つめた。
普段は何だか軟派な言動の多い壱星だが。
自分を含めた生徒たちを見つめるその瞳はとても優しい気がする。
教師らしくないけど、実は教師らしいのかもしれない。
琴実はそんなことを思いながらも思わず言葉を切ってしまった。
そして、そんな彼女の心境も知らず。
「そういうことで、普通の面談は終わり。これからはふたりのプライベートな面談にしようか」
普通の面談終わるの、早っ。
琴実はあっさりと普通の面談を終わらせた壱星に呆れた様に目を向けたが。
確かに特に学校生活に何か問題があるわけでも支障があるわけでもないために、別にこれ以上言うこともない。
それよりも、プライベートな面談って何だ。
琴実は首を傾げながらも彼の言葉を待った。
「えーっと、じゃあ手始めに。琴実って彼氏はいるの? どんな異性が好みなのかな。年上ってどう?」
どんな面談だよ、それ。
そう思いつつも、別に答えたところで何かあるわけでもないので、琴実は質問に端的に答える。
「彼氏や好きな人はいないです。異性の好みは……自分の作ったごはんを美味しそうに全部食べてくれる人、誠意のある人、かな。相手の年は、まだ異性を好きになったことがないから自分でもよく分からないけど……年下よりは年上の人の方が話しやすいかも」
「何、琴実の好みって、僕のこと? やっぱり僕たちって相性ぴったりなんだね」
勝手に何をほざいているんだ、この教師は。
だが彼に何を言っても無駄っぽいので、琴実は敢えて反論などはしなかった。
ただ、わざとらしくひとつ大きな溜め息をつく。
壱星は茶色の瞳を細め、琴実の頭をもう一度撫で撫でした。
それから今までの調子の良いものとは少し印象の変わった声で、こう言ったのだった。
「琴実はさ、自分に自信がなさすぎだと思うよ。異性に恋をしたことがないのも、それが原因かな。でも実際の琴実は、可愛いし頭もいいし、とてもいい子だよ。この僕のお気に入りなんだから、自信持っても大丈夫」
「……え?」
琴実は彼の言葉に、驚いたように顔を上げる。
――自分に自信がない。
普段は何事も前向きに振舞っている彼女だったが。
まさに今言われたその通り、実は琴実は自分に対して自信がないのであった。
自分は美央や聖子のような美人でも聡明でもなく、ごく平凡な人間。
何事にも波風が立たず、自分が我慢して事がうまくいくのであるのあれば、それでいい。
決してすべてが受身なわけではないが、そういう部分が自分にあることを琴実は分かっていた。
そしてそういうところが自分自身の嫌いな部分であり、それを周囲に悟られまいと明るく振舞ってしまうのだ。
それに恋をしたことがないのも、確かに自分に自信がないところからきているのかもしれない。
だが、この一週間だけでそれを見抜かれてしまうなんて。
琴実は壱星のさり気ない観察力に驚きつつも。
ふっと、彼に笑みを返す。
自分のことを根本から見てくれているのだなと感じ、琴実はちょっと嬉しかったのである。
そして逆にこう彼に訊いたのだった。
「そういう先生は、彼女いるんですか?」
壱星は琴実の質問に、相変わらず笑顔で答える。
「僕? 僕の恋人はね、生徒だよ」
「恋人は生徒、ねぇ……」
よく言えば教師の鑑というべき答えなのか。
本当は恋人がいるのに無難な答えでカモフラージュしているのか、恋人がいない言い訳なのか、それとも本気で第二の金八先生を目指しているのか。
そのいずれかであるかは分からないが……。
「あ、もしかして疑ってる? 僕は嘘はついてないよ」
壱星は自分をじっと見ている琴実の様子に笑って言った。
目の前の壱星は、確かに教師っぽくない教師だけど。
でも……何気に彼が、生徒思いな教師であることは確かだ。
そして恋愛対象かどうかはさておき、自分はそんな彼のことが嫌いではない。
むしろとても話がしやすいし、彼の優しさも感じる。
琴実は彼に笑みを返した後、楽しそうな口調でこう言ったのだった。
「ていうか、先生。生徒に彼氏がいるかいないか訊く行為自体、今の世の中セクハラだと思うんですけど」
「そう? 全然大丈夫だよ」
一体何が大丈夫なのか意味不明だ。
妙に自信満々な壱星の様子に、琴実は仕方ないと言ったように息をつく。
こういうタイプには、甘い顔はしてはいけない。
琴実は心で何度も自分に言い聞かせながら懸命にそう努める。
それに……こっそりと、心の中で。
自分のことを楽しませてくれたり気遣ってくれている彼に感謝してもいたのだった。
――その日の夜。
職務を終えて帰宅した葉山壱星は、スーツを着替えてから自宅のリビングに顔を出した。
兄弟三人で生活するには、広すぎる家。
だが母はもう随分昔に他界し、父は仕事で一年の三分の一も帰ってこない。
もうこの広い家での三人の暮らしが今では当然のものになっている。
壱星は先にリビングに来ていた弟たちに声を掛けた。
「ただいま、ふたりとも」
「あ、おかえり。てか、今日の食事当番って兄貴だよね? おなかすいちゃった」
「おかえり。今日は少し遅かったな」
「今日は職員会議があったからね。今からすぐ夕食作るよ」
兄弟三人、毎日の食事は当番制にしている。
そして、昔からこれだけはなるべく守るようにしていた。
夕食は極力三人揃って食べる、ということ。
それぞれ付き合いというものもあるために、毎日一緒にというわけにはいかないが。
生徒と教師という立場の違いはあるものの、幸い全員が同じ深幸学園に通っているために、生活のペースを合わせやすいのだった。
そして兄弟であるのに、その容姿や性格は似てるとは言い難い、三種三様なものであるが。
だがそれがかえっていいのか、彼らはそれなりに気が合っていて。
大して問題もなく平穏な共同生活を送っている。
「そういえばさ。兄貴って、琴みんのクラスの担任だよね?」
見ていたテレビを消し、末っ子の竜星はそう壱星に訊く。
そして本を読んでいた航星もふと眼鏡を外して兄に視線を向けた。
「そうだよ、琴実は僕のクラスの大切な生徒だよ。今日もそんな彼女と、ふたりっきりの楽しい個人面談をしてきたところなんだ」
「うそ、マジで? って、個人面談ってどんなのだよ。兄貴が言うと、何か犯罪っぽいよね」
「ふたりっきりの楽しい個人面談って……くれぐれも、生徒会長の俺に恥をかかせるようなことだけはしないでくれ」
兄の言葉にそれぞれそう言葉を返し、竜星と航星は同時に嘆息する。
「どんなのって、それはもう楽しいひとときだったよ。ふたりで、あんなことやこんなこととかね」
「いや、今に始まったことじゃないけど。琴みんは兄貴と違って純粋な子なんだから、あまり彼女にはちょっかいかけないでよ。可愛そうでしょ」
「そうだ、あまり彼女をからかうな。ただでさえ転校したてでまだ不安も多いだろうのに、担任教師にストレスを感じるようになったら気の毒だ。竜星の言うように、彼女は決してすれてなどない純粋な子なのだからな」
わざとそう冗談っぽく言う壱星に、竜星と航星は珍しく同意見で言い返した。
そんなふたりの様子に、壱星は瞳をぱちくりとさせる。
末っ子の竜星は、あまり特定の個人に深い興味を示すようなタイプではない。
次男の航星は責任感は強いが、特定の個人を贔屓目に言うようなことはしない。
そんな彼らの、先程のあの発言。
壱星はおもむろに何かを考える仕草をした後。
茶色を帯びた前髪をそっとかき上げて、意味深に微笑む。
「ふーん、そっか、そっか……そーいうことね」
「? 何ニヤニヤしてるの? てか、おかなすいたから早く夕食作ってよ」
「また何か、よからぬことでも企んでいるのではないだろうな? くれぐれも俺に迷惑をかける行為はやめてくれよ」
「はいはい、竜星。今から夕食作るから、もうちょっと待ってなさい。って、航星、今までも何も問題はなかっただろう? 心配しなくても、これからも今まで通りだよ、僕は」
そう弟たちに言ってから、壱星はキッチンへと歩みを進める。
それから弟たちに聞こえない程度の声で、こう呟いたのだった。
「ふたりとも揃って、彼女のことをね……しかもお互いの気持ちはまだ気づいていないみたいだし、面白いことになりそうだね。んじゃあ僕は……それを、高みの見物とさせてもらおうかな」