2-3.コーリング・ユー
この日は、朝から晴れたり曇ったりを繰り返している、不安定な天気であった。
先程まで辛うじて顔を見せていた青空も今ではすっかり雲に覆われて隠れている。
だが、そんなすっきりしない天気とは裏腹に。
授業が終わり放課後を迎えた学園内は活気に溢れている。
琴実も賑やかな2年Aクラスで帰り支度をしていた。
だが突然、短く、あっと声を上げる。
そして一冊のノートを手に取り、困ったような表情を浮かべた。
「美央の数学のノート、返すの忘れてた……っ」
そう呟き、琴実はうーんと考える仕草をする。
美央は生徒副会長の仕事があるためにすでに2年Aクラスの教室を出ていた。
だが、明日も数学の授業があるため、このノートがないと困るだろう。
予習復習もできないし、宿題も出ているし。
琴実はどうしようか考えた挙句、ちらりと時計を見た。
それから自分のカバンに美央のノートを入れてから帰り支度を急いで終わらせ、教室を出て行った。
「確か、こっちだった気がするんだけど……」
周囲を見回し、琴実は早足で歩みを進める。
美央にノートを届けようと思い立ち、琴実は彼女がいるだろう生徒会室に向かったのだが。
普段行き慣れていないために、イマイチ生徒会室の方向が正しいのか自信がなかった。
だが、その時。
偶然通りかかった知り合いの姿を見つけてパッと明るく表情を変える。
そして、タタッと彼に近づいた。
「あのっ、こんにちはっ」
突然そう琴実に声を掛けられ、相手は少し驚いたように顔を上げたが。
すぐに人懐っこい笑みを宿して琴実に目を向けた。
「おっ、誰かと思えば、マイフレンド・琴実ちゃんじゃん。どうしたの?」
「こんにちは、塚田くん。あのね、生徒会室に行きたいんだけど、こっちでよかったかな?」
その場を通りかかったのは、天文部の副部長で自称・美央のオッカケである塚田憲二であった。
長身でハンサムなのに何故か三枚目なその雰囲気は相変わらずである。
美央の友人は自分の友人だと、彼は天文部の部活動で知り合って以来、姿を見かけるたびに琴実にも気さくに話しかけてくれていた。
なので、琴実にとっても声が掛けやすい人物なのであった。
「生徒会室? この先すぐだよ。美央がよくいるから俺もよく行くんだけどさ、会長にすぐ追い返されるんだぜ? 親友なんだから大目に見てくれてもいいじゃんね、そう思わない?」
「会長といえば……葉山兄くん?」
「そーそー、葉山航星。あいつ、よく言えば真面目というか、アタマ堅いからなー。葉山兄弟とは幼馴染みなんだけどさ、あの兄弟は性格極端すぎでしょ。足して二で割ればちょうどいいんじゃね?」
琴実は憲二の言葉に、うんうんと頷く。
そんなに葉山兄弟のことを詳しく知っているわけではないが。
マイペースで自由人っぽい弟・竜星と、いかにも融通が利かなそうな常識人っぽい兄・航星。
少し話しただけででもふたりの雰囲気や印象は対称的で。
性格だけでなく、容姿も兄弟とは思えないほど系統が違う。
ふたりに共通しているのは容姿がかなり良いということくらいで。
物腰柔らかに見える美少年の弟・竜星とは逆に、兄の航星はキリッとした端正な顔立ちをしている。
彼らの兄である葉山先生こと葉山壱星も、またふたりとは感じの違う甘い容姿であるが。
ここまで似ていない兄弟も珍しいし、しかも揃いも揃って三人とも格好良いというのがまた不思議である。
そんなことを考えていた琴実だったが。
憲二はふと思い出したようにポツリと口を開く。
「そうそう、そういえば琴実ちゃんと言えば、竜星のヤツが……」
そこまで言って、憲二はハッと口を噤む。
そして、しまったというような表情を浮かべた。
そんな彼の様子に琴実は首を傾げる。
「? 葉山くんが、何?」
「えっ、い、いやいや、何でもない、何でもないっ。あっ、俺、もう行かなきゃだっ。生徒会室はこの先だから。んじゃっ」
「……? あ、うん。ありがとう」
そそくさとその場を退散する憲二の様子に、琴実はもう一度首を捻りながらも手を振った。
それから、生徒会室へと歩き出したのだった。
憲二はちらりと小さくなっていく琴実の後姿を見送った後、胸を撫で下ろす。
どうやら琴実は自分の失言には気がつかなかったようである。
兄の航星だけでなく弟の竜星とも仲の良い憲二は、竜星の琴実に対する気持ちを知っていた。
普段から男女問わず、ひとりの人に対してあまり興味を示すことがなかった竜星だが。
そんな彼から、真面目に異性を好きになったと聞いた時は相当驚いた。
あまりに意外すぎて季節外れのエイプリルフールかと思ったくらいだ。
だが、彼の表情や話を聞いていると、どうやら本気らしくて。
ここは友人として協力してやろうと思った矢先だったが。
あやうく、口が滑りそうになってしまった。
琴実が勘の鋭いタイプでなくてよかったと、憲二はもう一度ほうっと息をつく。
これが自分の想いを寄せる美央ならばきっとピンときていただろう。
彼女はそういう恋愛沙汰には敏感で、よく人の言動や表情の変化を見ている。
そういうところがまた好きなんだけどなと、憲二はハンサムな顔に小さく笑みを宿す。
それから生徒会室に向かう琴実とは逆方向に歩き出したのだった。
――ようやく目的の生徒会室にたどり着いたのはいいが。
琴実はそのドアをノックすることを少しだけ躊躇していた。
会議中の場合は、“会議中”と記されたプレートがドアに引っ掛けてあることは知っている。
そして今、そのプレートはかかっていない。
だが代わりに“在室”のプレートがかかっていて、誰かが生徒会室内にいることは確実だ。
この室内にいるであろう美央に用があるのだから、在室プレートがかけてあって当然といえば当然で。
逆に“会議中”であった方がノートを届けられないから困るのだが。
何だか生徒会室というだけで、妙に緊張してしまう。
とはいえ……この場でこうやっていても、始まらない。
琴実は意を決してドアをノックし、ゆっくりと開けた。
「あの、失礼しまーす……」
おそるおそるそう言って室内に目を向けた琴実だが。
次の瞬間、大きな瞳を何度も瞬きさせた。
生徒会室に美央の姿はなかったのである。
そのかわり、その場にいたのは……。
「君は、2年Aクラスの。何か用か?」
「あっ、はい。美央に、用事があって来たんですけど」
琴実は自然と背筋を伸ばし、そう声を掛けてきた彼に答える。
「美央? 彼女は先程までここいたが、今は少し席を外している」
「あ……そうですか」
琴実はどうしようかと少し考える仕草をした。
ノートを返さないと美央は困るだろう。
だが、彼女は今ここにいないという。
いないのなら仕方ない、出直すべきだろうかと、そう思った時。
室内にいた彼・生徒会長の葉山航星は、相変わらずハッキリと通る声で琴実に言ったのだった。
「それならば、ここで待っていればいい。じきにあいつも戻ってくるだろう」
「えっ? いいんですか?」
「別に今日は会議などはないからな。俺は構わないが」
「じゃあ、待たせてもらおうかな。美央が戻ってきたら、すぐに終わりますから」
琴実は航星にそう断り、近くの椅子に遠慮気味に座る。
逆に航星はおもむろに席を立ち、そして琴実にこう訊く。
「コーヒーは好きか? 良かったら淹れよう」
「あっ、す、すみません……てか、いいんですか?」
いきなり押しかけた上に、コーヒーまで出して貰えるなんて。
何だかかなり恐縮して琴実は何度も瞬きをする。
そして思ったのだった。
見た目や口調は厳しそうだけど、この人は世話好きで親切な人なのだと。
転校初日も自分を事務室まで連れて行ってくれた上に学校案内までしてくれたし。
思わず琴実は、じっとコーヒーを淹れる航星を見つめる。
彼は今、普段かけていない眼鏡をかけていて。
それがまた、知的な彼の雰囲気をますます際立たせている。
弟の竜星とは全くタイプが違うが、やはり格好良い。
「……どうした?」
あまりにじっと琴実が見つめていたため、航星は怪訝な表情で彼女に問う。
琴実はハッと顔を上げてから、慌てて言った。
「あっ、ごめんなさいっ。あの……普段は、眼鏡かけてないのになって思って」
咄嗟にそう言い訳をした琴実に、航星は納得したように頷いた後、続けた。
「ああ、これか。授業中や本を読む時はかけているんだ」
「眼鏡といえば、葉山先生も授業の時だけかけてますよね?」
琴実はふと、担任であり航星の兄である壱星のことを思い出してそう口にした。
その言葉に航星は苦笑し、言った。
「兄貴の……葉山先生の眼鏡、あれは伊達眼鏡だ。白衣と眼鏡はセットだと、訳の分からないこだわりがあるそうだ」
「…………」
白衣と眼鏡のセットって。
確かに、先生のような容姿のいい青年のその様ないでたちは、独特の色気を感じなくもないが。
てか、わざわざ伊達眼鏡かけてるのかよ。
そう思ったが、何だかあの先生らしいと、琴実は妙に納得してしまう。
そんな琴実に、航星は淹れたコーヒーを出しながら訊いた。
「砂糖とミルクは? それよりも俺と君は同学年だろう、何故敬語なんだ?」
「あ、そういえば……じゃあ、ミルクだけ」
言われてみれば、同じ学年の彼に何で敬語で喋っていたのだろうか。
雰囲気的に敬語を使わないといけないような気がしていたが。
考えればおかしいなと思い直し、琴実は慌てて言葉を改めてタメ語で返事をしてみた。
「……ミルクだけ?」
琴実の返答に、航星は思わず手を止める。
琴実はコクンと頷いておそるおそる言った。
「変わってるって言われるんだけど、コーヒーはミルクだけ入れるのが好きなの。やっぱり、おかしいかな?」
その言葉に、航星は首を振る。
それからこう返したのだった。
「いや、何もおかしくはない。俺も、コーヒーはミルクしか入れないからな」
「本当に? よかった、よくおかしいって言われるから。でも同じだなんて、ちょっとビックリ」
思わぬ共通点に、琴実の表情が自然と和らぐ。
そして渡されたミルクをコーヒーの中に入れた。
航星はストンと元座っていた席に座る。
同時に、ふたりの間に、シンと沈黙が訪れた。
何か話をした方がいいのか、それとも下手に喋りかけない方がいいだろうか。
琴実はコーヒーを口に運びながらも、どうしたらいいか分からない表情を浮かべる。
それは航星も同じだったのだろう。
ふと彼は1枚のCDをコンポにかけ、再生ボタンを押した。
途端に生徒会室を支配していた沈黙が静かに耳に響く旋律へと変わる。
それに合わせてだろうか、雲間から夕陽が顔を見せ、夕方に差しかかった生徒会室を赤く染めた。
そして、静かに流れ出した曲を聴いた琴実は。
「あっ、この曲……」
そう呟いて顔を上げる。
ゆっくりと耳に響く曲に、聞き覚えがあったからである。
航星は彼女のそんな反応に視線を向けた。
「この曲を知っているのか?」
「うん、映画のテーマ曲だよね? そうそう、“バグダッド・カフェ”だ」
「確かにこの曲は、映画“バグダッド・カフェ”のテーマ曲“コーリング・ユー”だ。この映画を観たことがあるのか?」
「観たことあるどころか、好きな映画だよ。随分昔の映画だけど、好きで何度も観たんだ。この映画って、観るっていうよりも眺める映画っていうか……映像や音楽がすごく大好きで、観ているとゆっくりと時が流れる気がするんだよね」
琴実はそう言って思い出すようにふっとその顔に笑みを宿す。
今はあまり映画をゆっくり観る時間はないが。
まだ両親が離婚する前、映画が好きな父親と昔の映画をたくさん観た。
その中でもこの“バグダッド・カフェ”は好きな映画である。
航星は眼鏡の奥の黒を帯びた瞳を琴実へと向ける。
それから、珍しく小さく笑んで言ったのだった。
「この映画が好きだという人に、初めて会ったな。俺たちの年代では、好きだという以前に観た事がある人さえ少なかったからな。俺もこの映画が好きで、サントラを買ったくらいだ」
「そうなんだ! コーヒーのミルクといい、好みが似てるんだね」
「ああ。弟の竜星は、この映画は眠くなるだけで、何が面白いのかさっぱり分からないなどと言う。あいつは派手なアクションものが好きだからな。この映画の良さを分からないなんて、俺からしたらその方がさっぱり分からん」
「アクションみたいな展開の早い映画が好きな人には、確かに退屈かもしれないわね。私はどっちも好きだけど……この映画は、本当に昔から好きよ」
容姿や性格だけでなく、映画の好みも違うんだ。
どこまでも似ていない兄弟に可笑しくなりながらも、琴実はそっと髪をかきあげる。
航星は、普段からそれほど感情を表に出すタイプではないようであるが。
何気に嬉しそうな表情で話を続けた。
「あの映画で一番のシーンは、デビーが『仲が良すぎよ』と言って去るところだと俺は思っている。そしてストーリーもだが、何よりもあの埃っぽい映像と、無音の中ふと響いてくる“コーリング・ユー”、これが絶妙なんだ」
「デビーって、女刺青師だよね。それにあの砂漠と青空とタンク、それにブーメランが飛ぶ映像にこの曲っていうのが本当に心に染みる感じがして、すごく好き」
うんうんと頷きながら琴実は航星に同意する。
航星はひとくち自分のコーヒーを飲んだ後、さらに彼女に訊いた。
「俺もどちらかというと昔の映画を好んでよく観る。君は、ほかにはどんな映画が好きなんだ?」
「ほかに? “ニュー・シネマ・パラダイス”とか“フライド・グリーン・トマト”とか……って、古いのばっかりだね」
「“ニュー・シネマ・パラダイス”に“フライド・グリーン・トマト”だと?」
琴実の返答に、航星は驚いたように呟く。
それからこう言葉を続けたのだった。
「二作とも俺の好きな映画じゃないか。こんなに趣向が同じな人は初めてだ」
「本当に。私もビックリしたよ。つい話しこんじゃった」
琴実はそう言って笑い、ふとノック音が聞こえた生徒会室の入り口に目を向ける。
それと同時に、ガラリとドアが開いた。
「あれ、琴実? 何でここに」
「あ、美央。数学のノート借りっぱなしだったから、返しに来たの。返しておかないと、明日美央困るかなって」
「そっか、わざわざ生徒会室まで来てくれたんだ。ありがとーねっ」
ようやく戻ってきた美央は琴実からノートを受け取り、綺麗な顔に笑顔を宿す。
「ううん。お礼を言うのはノート借りてた私の方よ」
琴実は美央に微笑み返した後、今度は航星へと視線を向けた。
それからペコリとお辞儀をして彼に言った。
「コーヒー、ご馳走様。それにいろいろお話できて楽しかった。じゃあ、失礼します」
「なに、礼には及ばない。コーヒーといってもインスタントだからな」
「ううん、インスタントでも美味しかったし。じゃあ、お邪魔しました。美央、またね」
「じゃあ琴実、また明日ね」
琴実は美央と航星に手を振って生徒会室を退室する。
航星はそんな彼女を見送った後、ふとかけていた眼鏡を外した。
それからCDの選曲ボタンを押し、再び曲を“コーリング・ユー”に戻す。
「あれほど趣味趣向の合う人と、初めて会った……」
再び流れ始めた“コーリング・ユー”が室内に響く中、航星は誰にも聞こえないくらいの声でそう呟く。
そして差し込める夕陽の赤を漆黒の瞳に映して浪々と流れる名曲を耳にしながら。
心の奥底から、言葉にし難い感情が湧き上がってくるのを感じていた。
そう――彼の胸の中に。
ひとすじの恋の流星が、流れた瞬間だったのである。