2-2.たまゆらラヴァーズ



 帰りのホームルームも終わり、学園内には放課後を迎えた生徒たちの声が溢れている。
 そんな賑やかな廊下を、美央はひとり2年Aクラスの教室へと歩いていた。
 歩みを進めるたびに彼女のしなやかなストレートの髪が微かに揺れる。
 美央は頬にかかった長い髪を手でそっと払い、廊下の角を曲がった。
 そしてようやく2年Aクラスの教室の前まで辿り着いた。
 ――その時だった。
「あ、美央。ちょっと」
 ふと声を掛けられ、美央は足を止める。
 そして声の主に大きな瞳を向けた。
「あれ、竜星。どうしたの」
 彼女を呼び止めたのは、葉山三兄弟の末っ子・竜星だった。
 すれ違う生徒がふたりをチラ見して通り過ぎて行く。
 学園でも美男美女と名高いふたりのツーショットは嫌が応でも目立ってしまうのだ。
 だが人の目を全く気にすることもなく、美央は小さく首を傾げてから彼に数歩近づいた。
 そんな美央に、竜星はこう訊いたのだった。
「ねぇ、おまえさ。ソーイングセットとか持ち歩いてる?」
「……は?」
 美央は突然の質問に数度瞬きをする。
 それから不思議そうな表情のまま答えた。
「持ってないけど。普通、誰も持ち歩いてないんじゃない? てか何、いきなり」
「やっぱり、普通は持ってないよね」
 うんうんとひとり納得したように頷き、竜星はマロンブラウンの髪をかき上げる。
 それからまだきょとんをしている美央に言った。
「美央ってさ、琴みんと仲いいんでしょ? ちょっと話あるんだけど」
「琴みん? それって……琴実のこと?」
「そうそう、居眠りの彼女。転校生の夏川琴みん」
 竜星は首をコクンと振ってから、おもむろに美央に手招きする。
 そしてさらに近づいてきた彼女の耳元で、こう言葉を続けたのだった。
「俺さ。その琴みんのこと、好きになっちゃったんだけど」
「……へっ?」
 突然の竜星の言葉に、美央は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
 それからぱちくりと瞬きをした後。
「えええっっ!?? あんた、何言ってんのっ!?」
「何って、言った通りだよ」
「い、言った通りって……マジで?」
「マジ。だから、彼女のことが知りたいんだけど」
 美央は驚きを隠せない表情のまま、目の前の竜星に視線を向けた。
 そんな竜星の目は真剣そのもので。
 ふざけているようには見えない。
 美央はそんな彼の様子にますます驚いた表情を浮かべ、しばらく返す言葉がでてこなかったのだった。
 
 
 ――その頃。
 琴実は職員室で用事を済ませ、2年Aクラスへと続く階段を上っていた。
 まだ校舎内で迷うこともあるが、さすがに職員室と教室の往復はもうお手の物である。
 見知ったクラスメイトに挨拶の声を掛ける余裕さえみせて軽快に歩を進めている。
 そして、今日の夕食の献立を何気に頭の中で考えていた、その時。
「……あ、そうそう。さっきね、城崎さんと葉山くんを見たんだけど」
 ふと、前を歩く二人組の女生徒の会話が耳に入ってくる。
 琴実のクラスメイトではないが、どうやら彼女らは同じ2年生らしい。
 そして城崎とは美央の苗字であるし、葉山といえばあの名物三兄弟の何れかであるだろう。
 琴実は女生徒たちの会話につい聞き耳を立てた。
 琴実が聞いているとも知らず、彼女たちは話を続ける。
「葉山くんって、兄? 弟?」
「もちろん弟よ。あのふたり、どうなんだろうね」
 それから話を振った方の女生徒は、心なしか小声でこう言ったのだった。
「城崎さんと葉山弟くん、今もまだ付き合ってるのかな?」
「……!?」
 琴実はその言葉に、思わず声を上げそうになる。
 近い知り合い同士の意外な恋の噂。
 それはあまりにも突然で、琴実は目をぱちくりさせてしまった。
 でも美央は、今は彼氏はいないと言っていたはず。
 なのに、美央と、葉山弟こと竜星が付き合ってるなんて、どういうことなのか。
 琴実は首を傾げつつも声を出すのを堪えて再び女生徒の会話に耳を傾ける。
「でもあのふたり、少し前に別れたって聞いたけど」
「うーん、私もそう聞いたんだけどさ。でもさっきは、ふたりで仲良さそうに話してたよ」
 確かに、天文部の部活動に行った時、美央と竜星は普通に話をしていた。
 恋人であることが現在進行形かはさておき、恋人であった素振りさえ見えなかったが。
 何だか聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、琴実はどうしたらいいか分からない表情を浮かべた。
 ――その時。
「琴実」
 ふいにポンッと肩を叩かれ、琴実は弾かれたように顔を上げる。
 それからオタオタしながらも振り返った。
「わわっ! あっ……せ、聖子さんっ」
「? どうしたの、そんなに慌てて」
 琴実の挙動不審な様子に現れた聖子は小さく首を傾げる。
 琴実はとりあえず落ち着こうと、ふうっと息をついた。
 それから周囲をきょろきょろと見回して人の波が途切れたことを確認し、小声で聖子に訊いたのだった。
「聖子さん……美央と葉山竜星くんって、付き合ってるの!?」
「え? どうして、そんなこと」
 琴実の口から出た言葉に、聖子は珍しく少し表情を変える。
「さっき、知らない子たちが話してたのを聞いちゃったの。って、本当なの!?」
「…………」
 聖子はひとつ嘆息して間を置いた後、ゆっくりと口を開いた。
「ええ。但し、過去形だけどね」
「そ、そうなんだ」
 琴実は思いがけない事実に目を丸くしながらも黒を帯びた前髪をそっとかき上げる。
 そして、こう続けたのだった。
「でも考えたら、すごくお似合いだよね。美男美女同士で、ふたり一緒にいたら誰もが振り返っちゃうよ。でも驚いたな、そんな風には見えなかったから」
 聖子はその言葉に釣り気味の漆黒の瞳を細める。 
 それから呟くように言った。
「ビジュアル的にはお似合いかもね。それにあのふたりは、付き合う前も付き合っている最中も、そして別れた今も、お互いに対する気持ちは変わらず同じだから、琴美がそんな風に見えなかったのも当然だわ」
「……? お互いに対する気持ちは同じ、って?」
 よく聖子の言っている意味が分からずに琴実は不思議そうな顔をする。
 そんな琴実に視線を向けて、聖子は上品に笑んだ。
「男と女の関係には、いろんなカタチがあるということかしら。あのふたりにとって、軽い気持ちで結んだ恋人という関係は、思った以上に居心地が悪かったのよ。だから、元に戻った。ほかにも理由はあったけど、要はそういうことよ」
「はあ……」
 恋をするということ自体まだ経験したことがない琴実にとって、その聖子の話は難しくよく理解できなかったが。
 とにかく、美央と竜星が昔は付き合っていて。
 そして別れた今でもふたりは仲が良いということは分かった。
 何はともあれ、人と人が仲が良いことはいいことだ。
 そういう結論に達して琴実はうんうんと頷く。
 それからにっこりと微笑み、言った。
「そっか。それじゃあ、良かったんだね」
「え? ええ、結果的には良かったけれど……琴実、何だかその返答が微妙にずれている気がするのは、私だけかしら」
 聖子はそう呟いてちらりと琴実に目を向ける。
 そして妙に納得したような表情の琴実を見て、敢えてそれ以上何も言わなかった。
 それからふたりは一緒に他愛のない会話を交わしながら、2年Aクラスの教室へと向かったのだった。


「ていうかさ、琴実は真面目ないい子なの。いつものようにただ単純な興味とか遊び程度な気持ちだったら、いくらあんたが友達とはいえ、私は断固反対するからねっ」
 竜星のいきなりの告白にまだ動揺を隠せないながらにも、美央はビシッと彼に言った。
 そんな彼女の言葉に、竜星はふうっと嘆息する。
「何かそれじゃあさ、俺がいつもいい加減な気持ちみたいじゃない。確かにおまえと付き合った時は遊び程度な気持ちだったけど、それはお互い様で同意の上でしょ」
「まぁ、ね。あの時はそうだけど。でも琴実は私たちと違って、純粋でいい子なのよ」
「分かってるよ。だから言ってるじゃない、俺は大真面目だし本気だって。それよりさ……おまえは最近、どうなの?」
「……え?」
 竜星の言葉に、美央は思わず言葉を切る。
 それからふいっと彼から視線を外した。
「私は……相変わらず、よ」
「相変わらずって何。てかさ、俺らが別れた理由、覚えてる?」
 竜星はじっと美央を見つめてそう言った。
 美央はバツの悪そうな顔をしながらも、ザッと茶色を帯びた髪をかき上げる。
「お、覚えてるわよ。これから頑張るわよ、これからっ」
「そう。じゃあ頑張って。俺も頑張るから。てなわけで、協力してくれるよね?」
「あんたが本当に本気なら、考えてもいいけど……」
 まだ疑り深い視線を竜星に向けて、美央はうーんと考えるような仕草をした。 
「本気に決まってるよ。じゃないと、おまえにこんなこと言わないし……あっ」
 竜星はそう美央に言葉を返している最中。
 何かに気がついて小さく声を上げる。
 それからおもむろにスタスタと歩き、綺麗な顔に小さな笑みを浮かべて言った。
「琴みん、こんにちは」
 彼の綺麗な瞳に飛び込んできたのは。
 ちょうど聖子とともに2年Aクラスの教室に戻る途中の琴実だった。
 琴実はその声に少し驚いたような表情を浮かべたが。
 すぐに竜星に笑顔を向ける。
「あ、葉山くん。こんにちは」
「ボタンありがと。しっかりくっついてるよ」
「ううん、どういたしまして。ボタンくらい、簡単につけられるから」
 ふたりはその場で立ち止り、会話を始めた。
 そんな様を見て、美央は瞳をぱちくりとさせる。
 そして楽しそうに話をしている竜星を見て、思わずポツリと呟いた。
「ていうか……ほ、本気?」
「? どうしたの、美央」
 聖子は唖然と立ち尽くしている美央の様子に首を傾げる。
 美央は聖子の肩をポンポンと叩いただけで、何も言えなかったが。
 すぐに微笑ましげに笑んで、ゆっくりと口を開いた。
「そっか、そっか。本気なら、協力してあげようじゃない」
 ――過去、自分たちはいろいろと理由があって。
 お互いがお互いに恋心を抱いていなかった、刹那的な恋人同士だったけれども。
 今目の前にいる竜星の顔は、そんな自分と一緒にいた時の表情とは明らかに違う。
 それはすなわち。
 彼の言うように、琴実に対する気持ちが本気だということ。
 それが、美央には分かったのだった。
 そして竜星と琴実の友人として彼の恋を応援しようと。
 そう、心の中で決めたのである。
 だが、この時――そこにいた誰もが。
 近いうちに、また別の恋の流星が生まれて新たに降り注ぐことになるなど、想像もしていなかったのだった。