*2 恋の流星群

 2-1.最上級の賛美



 各クラスの教室のある本校舎は昼休みを迎え、生徒たちの声で賑やかである。
 琴実は2年Aクラスの教室で、美央と聖子と一緒に昼食を取っていた。
 転校してきて数日が経ち、琴実も深幸学園の生活にも大分慣れてきて。
 クラスメイトや先生の顔と名前も殆ど覚えたし、友達も増えてきた。
 転校前の不安も今はどこへやら、新しい学園生活はとても新鮮で毎日が楽しいのだ。
「ねぇ、琴実。いつも思ってたんだけどさ」
 美央は紙パックのジュースをひとくち飲んでから、琴実にそう話を切り出す。
 そして彼女の弁当箱を覗き込む様にして続けた。
「琴実のお弁当って、いつもすごく美味しそうだよねっ。お母さん、料理上手なんだ」
 そんな美央の言葉に、琴実は少し照れたように言った。
「あ、このお弁当、毎日自分で作ってるの」
「えっ、自分で!? マジで!? すごーいっ」
「彩りも綺麗だし、栄養バランスもとてもいいわね。お料理得意なのね」
 美央と聖子は関心したようにそう言って、まじまじと琴実の弁当箱に視線を向ける。
「料理は得意というか、働いているお母さんの代わりで毎日小さい頃からやってたから。今はお母さんのお弁当作るついでに、自分のも作ってるの」
「お母さんのお弁当まで作ってるの!? うわー、めっちゃ尊敬するよぉっ。この玉子焼きとか、マジできれいなんですけどっ」
「そんな大袈裟だって。照れるじゃない」
 琴実は嬉しそうに笑顔を宿しながらも謙遜するように小さく首を振った。
 料理は、琴美の特技のひとつである。
 幼少の頃から外で働く母親のかわりに毎日食事を作っていたため、必然的にできるようになったのだ。
 毎日自分と母親の分の弁当を作っている琴実であるが、別にそれが当然になっていて慣れているために、特に大変だとも思っていないし。
 夕食を少し多めに作っておいて弁当に入れることも多いのでそれほどに手間がかかっているわけでもない。
 だから尊敬されるようなことだとは全く思わないが。
 でもやはり、褒めてもらえると嬉しい。
 琴実は素直に笑んでから、そっと頬にかかる髪を耳に掛ける。 
「いやいや、すごいってっ。だってニンジンが桜の花形で、ウインナーがタコさんだったじゃんっ」
「よく見てるねー、美央。でも簡単だし、そんなに大したことじゃないって」
 確かにニンジンは花に型抜きし、ウインナーはタコにしていたが。
 それは殆ど自己満足の世界で、まさか気がついてもらえるとは思わなかった。
 美央の何気ない観察力に逆に感心しながらも、琴実はもう一度照れたように笑う。
 そんな琴実に視線を向けてふっと小さく微笑み、聖子も美央に同意した。
「そうね、何気に一品一品とても凝っているし。琴実はいいお嫁さんになりそうね」
「やだ、ふたりとも。そんなに褒めても何もでないよ?」
 普段お世辞を言わない聖子にまで褒められて、琴実はさらに嬉しくなる。
 そしてパクリと最後のタコウインナーを口に運んだ後、弁当箱をしまいながらふと時計を見た。
 それからガタッと席を立ち、ふたりにこう言葉を掛ける。
「あ、頼んでいたテキストが届いたから、昼休みに数学教室に取りに来いって言われてたんだ。ちょっと行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃーい」
「まだ午後の授業まではしばらく時間あるから、慌てなくても大丈夫よ。行ってらっしゃい」
 琴実に小さく手を振り、美央と聖子は琴実を数学教室に送り出す。
 琴実は一度振り返って彼女たちに手をふり返してから2年Aクラスの教室を出て行った。
 美央はそんな琴実の後姿を見送りながらこう呟いたのだった。
「琴実って、本当にいい子だよねぇ。明るくて話しやすいけど、実は気ぃ使い屋だし。それに料理も上手なんて、私がお嫁さんに貰いたいくらいだよ」
「そうね。あの子自身、自分がしてやっているとか大変だとか、そういうことを全く思っていないところが本当にいい子なんだなって感じるわ」
 聖子も小さく頷き、黒の瞳を優しく細める。
 そして琴実が見えなくなったことを確認して、自分の昼食を上品に口に運んだのだった。


 窓の外は、まるで夏であるかのように太陽が輝いている、雲ひとつない快晴である。
 数学教室で無事にテキストを受けとった琴実はきょろきょろと周囲を見回しながら、2年Aクラスの教室へと戻っている途中だった。
 学園生活自体には大方慣れた琴実であったが。
 このモダンで少し入り組んだ校舎はまだ少し慣れておらず、迷ってしまう時もある。
 多分この方向で、特別教室棟から教室のある本校舎へと戻れる気がするが。
 イマイチ自信がなく、どこか知っている風景がないかと左右に視線を向ける。
 昼休みの特別教室棟は本校舎と違って殆ど人影がなく静かで。
 開け放たれた窓から風が吹き抜け、ふわりと彼女の髪やスカートを揺らした。
 琴実はスカートの裾を押さえながら、ふと窓の外に目をやる。
 そして……次の瞬間だった。
 何かを見つけ、驚いたように瞳を見開いてしまう。
 その理由は。
「えっ!? 何事……っ!?」
 琴実は何度も目をぱちくりとさせ、そう呟いてしまった。
 彼女の視線は、特別教室棟の外にある小さな中庭に向けられていた。
 いや、正確に言えば、中庭にいる人と言うべきか。
 芝生の敷かれた中庭に――なんと、ひとりの生徒が倒れていたのだった。
 琴実はしばらく呆然とその場に立ち尽くしていたが、ハッと顔を上げるとバタバタと中庭に駆け出す。
 それから慌てたようにその人物に駆け寄り、声を掛けたのだった。
「大丈夫ですか!? 具合でも悪いんですか!?」
 琴実はしゃがみこみ、その生徒を覗き込む。
 そして、さらに驚いた表情を浮かべた。
 その生徒は――琴実の知っている人物だったのである。
「……ん? もしかして、午後の授業始まっちゃった?」
「あっ、あなたは……」
 暢気にムクッと起き上がり、ひとつあくびをする人物。
 綺麗なマロンブラウンの髪には寝転んでいたために芝生がついていたが、そんな様も全く気にする様子がない。
 琴実は数度瞬きをしながらも、その彼・葉山竜星に言った。
「ううん、まだ午後の授業は始まってないけど……」
「あ、誰かと思えば。居眠りの彼女」
 てか、居眠りの彼女って。
 もっと違う覚え方をして欲しいと思ったが。
 彼との接点は今のところ初日の電車内と天文部の部活動だけなので、仕方がない。
 琴実はふうっと嘆息し、改めて自己紹介をする。
「私は2年Aクラスの夏川琴実よ。こんなところで何やってるの?」
 竜星はもう一度ふわっとあくびをした後、まだ少し眠そうな目をこすりながら答える。
「何って、光合成」
「こ、光合成?」
「そう。今日天気いいからね」
 光合成って、小学校の時に理科で習った、植物が行うアレのことだよね。
 てか、葉緑体あるのかよ、とツッこみたかったが。
 何気に分かりにくいツッコミなのでやめてみる。
 おそらくニュアンス的に、ひなたぼっこをしているというものなのだろうし。
 それにしても、中庭で人が倒れているのかと思ってびっくりしたが。
 ただ竜星が中庭で昼寝をしていただけだったことがわかり、琴実はホッとした。
 ……それにしても。
 太陽の光を浴びた彼のマロンブラウンの髪が、より一層その輝きを増していて。
 改めて近くで見ても、肌は雪のように白いし、何よりも綺麗で整った顔をしているなと。
 琴実はほうっと溜め息をつき、まだ眠そうな目の前の彼を思わず見つめてしまった。
「? どうしたの?」
 そんな琴実の視線に気がつき、竜星は小さく首を捻る。
「えっ!? あ、いやっ、何でもないよっ」
 慌てたように大きく首を振って彼から視線を外し、琴実は恥ずかしそうに俯く。
 それからふと、視線を落とした先にあったものに目を向けて口を開いた。
「あれ、ブレザーの袖……ボタンが取れかけてるよ?」
「ボタン? あ、本当だ」
 校章と同じ模様があしらわれた、金色のボタン。
 彼の袖についているそれが取れかかっていたことに琴実は気がついたのだった。
 だが当の本人は特に気にする様子もない。
「まぁ、いいんじゃない? まだついてるし」
 その言葉に、琴実は大きく首を振る。
 そして竜星に目を向けると、はっきりと言ったのだった。
「駄目よ、よくないっ。このボタン、買うと結構高いのよ? 付け直さなきゃ、落ちるのも時間の問題だってば」
 琴実の発言に、竜星は一瞬きょとんとする。
 だがすぐにクスクスと笑いながら口を開いた。
「買うと結構高いって……発言が所帯じみてるよ」
「しょ、所帯じみてるってっ」
 確かに我ながら貧乏くさい発言だと思うし、過去何度か所帯じみていると言われたこともあったが。
 そんなに面と向かって言わなくてもいいじゃないか。
 何だか楽しそうに笑っている竜星の様子にちょっとムッとしながらも、琴実ははあっと息を吐く。
 そして仕方ないように制服のポケットからあるものを取り出した。
「袖、貸して。付け直してあげるわ」
「付け直してあげるって……ここで?」
「すぐ終わるから、ほら」
 琴実は持っていた携帯用のソーイングセットから制服に近い色の糸を取り出し、器用にスッと針に通す。
 それから取れかかっている彼の制服のボタンを、慣れた手つきで手早く付け直したのだった。
「はい、終わり。もう動いていいよ」
 パチンと縫い終わった糸を切り、琴実は竜星の腕をポンッと軽く叩く。
 竜星は二重の瞳を数度瞬きさせた後、ポツリと口を開いた。
「てか……何か、すごくない?」
「? すごいって、何が?」
「すごいよ、めっちゃ早業だったしっ。それに、ソーイングセットを携帯してるってことがまずすごい」
 付け直してもらったボタンと琴実を交互に見ながら、竜星はそう感心したように言った。
「え? 女の子なら、ソーイングセットくらい誰でも持ってるんじゃない?」
 だが当の琴実は、そんな竜星の様子に不思議そうに首を傾げている。
 竜星はまだボタンを見つめながら、その美形の顔に笑顔を宿した。
 そして、こう呟いたのだった。
「何か、オカンって感じ……」
「オ、オカン!?」
 所帯じみているの次は、オカンかい。
 言われても全然嬉しくないんですけど……。
 別に彼に良く思われようと思ってやったわけではないが、オカンとはどうよ。
 琴実はそうガクリと肩を落とす。
 そんな琴実の様子に、竜星は首を捻った。
「どうしたの、そんな暗い顔して」
「どうしたって……そりゃオカンなんて言われたら、誰でもショックでしょ」
「何で? 女性にとってそれって、最上級の褒め言葉だよ」
「…………」
 どこが? と訊き返す気力もなく、琴実は口を噤んでしまう。
 そして改めて竜星に視線を向けたが。
 その瞬間――琴実は思わず、ドキッとしてしまった。
 竜星の両の瞳が、真っ直ぐに自分の姿だけを映していたからである。
 その表情は真剣で、冗談を言っている様子もない。
 何よりも彼の顔は本当に綺麗で。
 こんな格好良い人が自分のすぐ近くにいるという今の状況に、琴実の鼓動が早くなる。
 そして竜星は、そんな琴実の心境も知らず、ゆっくりと話を始めた。
「俺ね、小さい頃に母親を病気で亡くしてて。だから何かこういうの、すごく憧れてたんだ」
 付け直してもらったボタンを指差して竜星は小さく笑う。
 その彼の笑顔に、再び琴実はドキドキしてしまう。
 それから竜星はマロンブラウンの髪をそっとかき上げ、こう言葉を続けたのだった。
「だから俺にとってオカンっていう言葉は憧れで、女性に対しての最上級の賛美なの」
 琴実はそんな竜星の言葉に、先程までムッとしていた気持ちが一気に吹き飛んでしまうのを感じる。
 そしてにっこりと微笑み、彼に言葉を返した。
「そっか。じゃあ、またボタンが取れそうになったら付け直してあげるよ」
「本当に? うん、ありがとう」
「あ、私もこの間肩を貸してくれたお礼、言ってなかったよね。ありがとう」
「ああ、別にお礼言われるようなこと何もしてないよ。山の手一周も結構楽しかったし」
 竜星はそう言って笑った後。
 目の前の彼女に、こう訊いたのだった。
「えっと、名前……なんだっけ」
「名前って、私の? 私は夏川琴実よ」
「琴実ちゃんか。じゃあ、“琴みん”だ」
「“琴みん”?」
 竜星の言葉に、琴実は再び首を傾げる。
 相変わらずマイペースに竜星はコクンと頷いて言った。
「そう。でもそういえば昔、ピクミンってあったよね? 何だかそれっぽいね」
「よく知らないけど……それ、ゲームか何かだっけ? そういえば前はマリオとか言ってたし、ゲーム好きなの?」
「ゲーム? ううん、全然興味ない。マリオは、十歳年上の兄貴が持ってたファミコンでちょっとやってたけど」
 てか、興味ないんかい。
 そう心の中で思いながらも、見た目からして目の前の竜星は確かにゲームなどに興味なさそうではある。
 かと言って、何に興味がありそうなのかも分からないのだが。
 そんなことを考えていた……その時。
「! あっ、始業5分前のチャイム!? 早く教室戻ろっ」
 おもむろに午後の始業5分前のチャイムが鳴り始め、琴実は焦ったように顔を上げる。
 そして教室に戻ろうと竜星を促した。
 だが竜星は、何故か暢気にクスクスと笑っている。
 琴実はそんな竜星の様子に怪訝な表情を浮かべる。
 竜星は前髪をそっとかき上げた後、不思議そうにしている彼女に言った。
「てか、琴みん。本校舎ってこっちだよ?」
「えっ!? あっ」
 まだよく校舎の構造が把握できていないため、違う方向に行こうとしてしまった。
 そのことに気がつき、琴実はカアッと恥ずかしそうに顔を赤らめる。
 そんな琴実の様子を、竜星は微笑ましげにじっと見つめる。
 それからもう一度、付け直して貰ったボタンに目をやって、小さく微笑んだのだった。
 そしてこの時――彼の胸の中で。
 恋という名の流星が、流れ落ちた瞬間でもあったのだった。