1-4.輝く一等星



 先程までの静寂がまるで嘘のように、授業の合間の休み時間を迎えた本校舎には活気が戻ってきている。
 琴実は担任である壱星に連れられ、そんな校舎の中を2年Aクラスの教室に向けて歩いていた。
 電車を乗り過ごしてしまったり土管を潜ったりと、少し遠回りはしたが。
 ついに新しいクラスメイトと対面する時が刻一刻と近づいているのだ。
 そう思うと、自然と緊張して表情が固まってしまうが。
 琴実は必死に落ち着こうと深呼吸をする。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。この僕がそばについているからね、琴実」
 教室に近づくたび顔が強張ってきている彼女の様子に笑い、壱星は相変わらずな口ぶりで琴実に声を掛けた。
 そして彼女の緊張を解すかのようにおもむろにゆっくりと肩を揉む。
 琴実は壱星の心遣いに僅かに笑みを取り戻してから制服のリボンを整える仕草をした。
 何事も、最初が肝心なのであるが。
 転校初日から、すでに居眠りをして遅刻という前代未聞の失態をやらかしており、初っ端から早速躓いている。
 だからせめて、クラスメイトの第一印象くらいはいいものにしたい。
 緊張で固まった頬をパシパシと両手で軽く叩いた後、琴実は大きく頷いた。
 それと同時に始業のチャイムが鳴り響き、生徒たちが慌しく自分の教室へと戻っていく。
 そしてあっという間に人の捌けた廊下を歩きながら、琴実は隣の壱星をちらりと見た。
 偶然にも琴実が編入する2年Aクラスの次の授業は、壱星の担当する地学で。
 そのため、こうやって彼と一緒に教室に向かっているのだが。
 まるで恋人をエスコートするかのように、壱星は琴実の腰を抱いて歩いている。
 学校が違えば教師の印象もかなり違うのだなと。
 琴実は彼のスキンシップに半ば諦めたようにひとつ息をつく。
 そして2年Aクラスが目前に迫った――その時。
「あ、琴実。ちょっとだけ、僕から離れてて」
 壱星はそう琴実に言って彼女を自分から少し遠ざける。
「え? あ、はい……」
 さすがにセクハラしたまま教室に入ることに気が引けたのだろうか。
 予想外の彼の言葉を意外に感じながらも、琴実は少しホッとしたように胸を撫で下ろした。
 ピタリと彼にくっつかれたままだったら、クラスメイトの印象も悪かったかもしれないからである。
 だが……壱星が琴実を遠ざけたのは、実は別の理由があったのだった。
 その理由とは――。
 壱星は少しだけ開いている2年Aクラスのドアに手を掛け、勢いよく開けた。
 それと、同時だった。
 何かが彼を目掛け、落下してきたのが琴実には見えた。
 だが壱星は表情を変えるもことなく、素早く持っていた出席簿でそれを防ぐ。
 咄嗟に掲げられた出席簿にバシッと弾かれ、バフッと音をたててそれは地面に落ちた。
 そして、その正体は何だったかというと。
 チョークの粉がたっぷりとついた、黒板消しだったのである。
 そして床に落ちた黒板消しを拾った壱星は振り返り、琴実に視線を向ける。
「もう大丈夫だよ、琴実。さ、中に入って」
 ……黒板消しの悪戯がドアに施されていたなんて、気がつかなかった。
 それにしてもあんなに鮮やかに落下する黒板消しを防ぐとは、実は只者ではないのかもしれない。
 妙に先程の壱星の動きに感心しながらも、琴実は促されるまま教室の中へと歩を進めた。
 思いがけない季節外れの転校生・琴実の登場に、途端に生徒たちがざわざわと声を立て始める。
 そしてそんな生徒たちの視線が一気に集まるのを感じて、琴実は再び緊張の面持ちになる。
「はいはい、静かにしようねー。授業の前に、新しい僕のかわい子ちゃんを紹介するから」
 誰だ、僕のかわい子ちゃんって。
 壱星の言葉にそう反論する余裕もなく、琴実は少し落ち着くためにふっと息を吐いた。
 そして、緊張しつつも自己紹介をしたのだった。
「あ、今日からこの学校に転校してきた、夏川琴実です。よろしくお願いします」
 ペコリとお辞儀をする琴実に、パラパラと拍手が鳴る。
 前の日、いろいろと一生懸命自己紹介の言葉を考えてきたが。
 結局は何の捻りもないことしか言えずに終わってしまった……。
 そう苦笑する琴実に、壱星はポンッと頭に手を添えてからグリグリと撫でる。
 それから、ふと教室内のひとりの生徒に目を向けた。
「美央。そういうことで、琴実のことよろしく頼む」
 そして壱星はニッと笑い、こう言葉を続けたのだった。
「それに悪戯するなら、もっと凝ったものにしないとダメだよ、美央。あんなベタなものに、この僕が引っかかるとでも思った?」
「んー、意表をついてシンプルにしたんだけど、やっぱ引っかからなかったかぁ」
 美央と呼ばれた少女は、そう無邪気に言葉を返す。
 今時、あんな古典的な悪戯をするのはどんな人だろうか。
 何気に琴実はその美央という少女に視線を向けた。
 そして――彼女を見た瞬間、驚いたように瞳を見開いてしまったのだった。
 目に飛び込んできたのは、あのような悪戯をするようには到底見えない、目を見張るような綺麗な容姿の少女。
 背中を流れるほんのり茶色を帯びたストレートの長髪に、強い目力を感じる大きな瞳。
 まさに美少女とは、こういう人のことを言うのだろうなと。
 そう思わせるほどに彼女は整った顔立ちをしていた。
 琴実もよく目が大きいと人に言われるのだが。
 目が大きいことと容姿がいいことはイコールではないと、実は気にしていて。
 小さい頃は意地悪な男子に出目金などと言われて傷ついた記憶もあるくらいである。
 だが目の前にいる美央は、まさに大きな瞳と長い睫毛が印象的な、正真正銘の美少女。
 思わず琴実は、ほうっと彼女に見惚れるように溜め息をついてしまう。
 美央はそんな琴実のそばまで歩み寄り、申し訳なさそうに手を合わせる。
「ごめんねっ、貴女がこの時間に来るって知らなくて。黒板消し、イッチーだけを引っ掛けるつもりだったの」
「……イッチー?」
「あ、イッチーってこの人。壱星だから、イッチー」
 にっこりと微笑んで美央は壱星を指差す。
 壱星はわざとらしく大きくふうっと溜息し、それから口を開いた。
「琴実。この小学生みたいな思考の彼女は城崎美央(じょうざき・みお)、琴実の隣の席の子だよ。何か分からないことがあったら、彼女に聞くといいから」
「よろしくね、何でも聞いて。って、イッチー……小学生はヒドイんじゃない?」
 壱星の言葉に苦笑した後、美央は気を取り直して琴実の手を取り、彼女を席まで促す。
 琴実はまだ瞳をぱちくりさせながらも案内された席につき、そして明るい印象の彼女にようやく表情を少し緩める。
 転校生を迎えた教室はいつの間にかかなり生徒たちの声で賑やかになっている。
「転校生が来て嬉しいのは分かるけど、そろそろ授業を始めるよ」
 壱星は生徒たちにそう声を掛け、チョークを手に黒板に向き直った。
「あ、まだ教科書ないよね? 一緒に見よう、机くっつけちゃおうか」
 そう言ってガタガタとふたつの机をピタリとくっつけてから。
 美央は、こう続けたのだった。
「待ってたよ、琴実ちゃん。私のことは美央でいいから」
「待ってたって、何で私のこと……あ、私も琴実でいいから」
 不思議そうに首を傾げつつも琴実は言葉を返す。
 そんな琴実の問いに、美央はちらりと教卓に視線を向けて答える。
「琴実ちゃんって転校生が来るから仲良くしてくれって、イッチーに前から頼まれてたの」
「あ、そうだったんだ。よろしくね」
 微妙にセクハラ気味ではあるが。
 何気に壱星は、転校してくる自分のことを考えて行動してくれていて。
 ただの軽い軟派な教師なわけではないんだなと、琴実は彼のさり気ない気遣いに心の中で感謝した。
 そして自分のことを待っていたと言ってくれた美央の言葉がとても嬉しかったのだった。
「どんな子が転校して来るのかなって、すごく楽しみにしてたんだ。ね、聖子」
 美央は前の席に座っている生徒にそう話しかける。
 前の席の聖子と呼ばれた少女はその言葉に振り返り、琴実に小さく微笑みかけた。
「ええ、そうね。夏川さん、私は井出川聖子(いでがわ・せいこ)っていうの。よろしくね」
 華やかで派手な雰囲気を持つ美央とは対称的な、静かで落ち着いた奥ゆかしい雰囲気。
 聖子と呼ばれた少女はショートカットの黒髪がよく似合っている、大和撫子な印象が強い美人であった。
 今日出会った男子や女子は揃いも揃って、みんな格好良く可愛い人ばかりだな、と。
 やはり都心の学校の生徒はどこか皆垢抜けているのだろうかと思いながら、琴実は隣に座っている美央の綺麗な顔に目を向けた。
 美央はそんな琴実の視線に気がつき、にっこりと笑む。
 そして嬉しそうにこう言ったのだった。
「何だか私たち、すごく仲良くできそうな気がするよ、琴実」
「うん、そうだね。美央」
 心配することなんて、何もなかった。
 運命の星はきちんと自分を導いてくれて。
 出会うべく人たちと出会わせてくれるのだと。
 美央の輝く一等星のような綺麗な瞳を見つめ返しながらそう思いつつ、琴実は大きくコクンと頷いたのだった。