1-3.モンゴリアンチョップ



 再び授業の始まった校舎がシンした静寂を取り戻す。
 そんな中、ひとり職員室の隣の会議室で編入書類に記入を終わらせた琴実は、ふと窓の外の景色に目を向けた。
 季節は初夏に入り、よく手入れの行き届いている花壇の花も大方咲き揃い始めている。
 そして色鮮やかな花たちの向こうには各クラスの教室がある本校舎が見え、琴実は再び緊張する。
 転校すること自体、生まれて初めての経験。
 どんなクラスだろうか、新しい友達はできるのか、果たして名門進学校の授業についていけるのだろうか……そんな様々な不安と。
 綺麗な校舎と可愛い制服、心機一転新しい環境でこれからどんな生活が待っているのだろうかという、微かな期待。
 そんなふたつの感情が交差し、琴実の心臓を一層ドキドキさせた。
 そして、そういえば小さい頃はどうやって友達を作っていたのだろうかと、何気に考える。
 子供の時は、不思議といとも簡単に友達を作ることができたが。
 年を重ねるにつれ、あんなに容易かったことがすんなりとできなくなるのは何故だろうか。
 これから訪れる新しい出会いがどんなものなのか、今の段階では全く想像もできない。
 いくら考えたところで、実際にその時になってみないと分からないが。
 やはり、最初の印象が大事だ。
 そう気合を入れながらも、琴美は先程出会った少年たちのことをふと思い出す。
 電車で肩を貸してくれた、マロンブラウンの髪のマイペースな美少年と。
 端正な顔立ちで黒髪黒瞳が印象的な、ちょっと融通が利かなそうな生徒会長。
 ふたりとも全くタイプは違うが、かなりその容姿は格好良かった。
 一日にいい男をふたりも見れてちょっとラッキーだったかもしれない。
 もしかしてこの学校は、あんな格好良い男子が多いのだろうか。
 ミーハー心にそう思いながら、琴美は緊張した表情をほんの少しだけ和らげる。
 そして、そういえば彼らのクラスや名前を聞いていないことに気がつく。
 生徒会長である少年はおそらくその役職からして二年生であるだろうし、ふたりの会話からマロンブラウンの髪の少年も同じだろうことは想像できる。
 ということは、同じ高校二年である琴実ともしかしたら同じクラスかもしれないし、もしそうでなくても同じ学校であるために校内で出会う可能性も大いにあるのだ。
 ふたりとも容姿がいいという少し邪な感情もあるが、何よりも初めて話をした深幸学園の生徒。
 そんな彼らに、少なからず琴実は興味を持っていた。
 ただ……やはりそれは、あくまで興味という段階のものでしかなかったのだが。
 そして琴実が取り留めなくそんなことをボーッと考えていた――その時。
 おもむろにトントンとノックが鳴り、会議室のドアがガラリと開けられる。
 琴実はハッと顔を上げて無意識に姿勢を正した。
 それから現れた相手に目を向け、再び緊張した面持ちになる。
 会議室に入ってきたのは、教師らしき若い青年だった。
 Yシャツにネクタイ姿、その上に長い丈の前開き白衣を羽織っていて、眼鏡をかけている。
 そのいかにも理系教科担当の出で立ちをした教師はにっこりとハンサムな顔に笑顔を湛えた。
 そして甘めな柔らかい声で彼女に言った。
「やあ、初めまして」
「あ、初めまし……!?」
 ――琴美が挨拶を返し終わる、その前に。
 彼女は大きく瞳を見開き、驚いた表情を浮かべた。
 その理由は。
 現れた理系教師がストンと琴実の隣の席に座ったと思うと。
 スッと、彼女の肩に手を回したのだった。
 彼の腕の感触と温もりが背中から肩にかけてじわりと伝わり、思わず琴実は頬を染めてしまったが。
 あまりにも自然で手馴れたその一連の動きに唖然とする。
 だがそんな彼女の様子も気にすることなく、彼はふと机に置かれている書類を手に取った。
「えーっと、夏川琴実ちゃん。血液型A型、成績も優秀だねー。ていうかそれよりも何よりも、僕好みのかわい子ちゃんで嬉しいよ」
「え? あのー……」
 いきなりそう言われた上にさり気なく手を握られ、琴実は瞳をぱちくりとさせる。
 この人、教師だよね?
 そんな疑問すら沸いてきたが。
 明らかに彼の格好は教師のものであるために、迂闊に言えない。
「琴実って、目がくりくりしてて綺麗だね。肌もすごく白いし」
「…………」
 ていうか、いつの間にか呼び捨てかよ。
 教師というよりもまるでホストかのような彼の言動に、琴実はすでに驚きを通り越して心の中でツッコミを入れる。
 彼はそんな彼女ににっこりと笑顔を向けると、囁くように言った。
「あ、失礼。僕は葉山壱星(はやま・いっせい)。琴実の新しいクラス、2年Aクラスの担任だよ」
「担任!? って、やっぱり教師なんだ……」
「やっぱり教師なんだ……って。琴実は可愛い顔して、意外とハッキリ言うねー」
 思わず出てしまった琴実の本音に、その教師・葉山壱星は苦笑する。
 だがすぐに笑みを取り直して再び口を開いた。
「れっきとした理科教師だよ、主に地学が専門なんだ。ちょうどこの時間は授業が空いててね、琴実とふたりきりでゆっくり話ができるからよかったよ。あ、そうだ、今度一緒にプラネタリウムにでもデートに行こうか。僕と個人授業なんてどう?」
 琴実はちらりと、相変わらず軽口を叩く壱星のハンサムな顔に視線を向ける。
 どうするよ、この人。
 厳しくて怖い担任の先生でも困るが、違う意味で対応に困る。
 琴実はそう思いつつ、はあっとわざとらしく溜め息をついた。
 そしてこういうタイプを黙らせるためには、どうしたらいいか。
 琴実はその方法を考えた後、ふと彼に向き直った。
「葉山先生」
 彼女の声に、壱星は改めて彼女に目を向ける。
 そして――次の瞬間。
「! ……てっ、!?」
 彼女のとった思わぬ次の行動に壱星は思わず声を上げた後、言葉を切ってしまったのだった。
 ――琴実の両の掌が、彼の両肩目掛けてビシッと振り下ろされたからである。
 そしてそんな彼女の行動を予想もしていなかったために、彼の肩に綺麗に両手のチョップが決まる。
「葉山先生。セクハラもほどほどに、今日からよろしくお願いします」
 こういうタイプは最初が肝心で。
 つけ込まれないように、毅然とした態度で接することが必要だ。
 そう、社会で男勝りに働く母に教わったことがある。
 琴実はそう思い出しながらも彼にピシャリと言い放った。
 そんな彼女の様子に、最初はさすがに面食らった表情をしていた壱星だったが。
「お、面白い……っ、面白すぎるよ、琴実。初日から遅刻した上に、この僕にチョップをお見舞いするその根性。しかもチョップはチョップでも、両手のモンゴリアンチョップなんて」
 彼はすぐに気を取り直して楽しそうに笑い出し、再び彼女の肩に手を回す。
「…………」
 全然、懲りてない。
 琴実は呆れたように嘆息し、どうしたものかと小さく首を振る。
 今までの言動をセクハラで訴えれば、確実に勝訴できそうだ。
 とはいえ、正直彼はハンサムであるし、まだこの程度なら嫌悪感を感じるというわけではないのだが。
 今後もこうやってからかわれるのは、いただけない。
 やはりもっと厳しい態度で臨まないといけないだろうか。
 そんなことを、琴美が考えていた――その時。
「少しは緊張も解れたみたいだね。その調子なら、もう大丈夫かな」
「え?」
 琴実はそんな彼の声に、ふっと顔を上げた。
 そして優しく自分を見つめている壱星の視線に気がつく。
 口調はふざけていて軽い感じだが。
 もしかして先生は、緊張して表情が堅かった自分をリラックスさせてくれたのだろうか。
 近くにあるハンサムな顔を急に意識して少し鼓動を早めながらも、琴実は小さく首を傾げた。
 壱星は琴実の肩からようやく手を外すと、机の上の転入に必要な書類を確認し始める。
 書類に落とされた彼の両の目は髪と同じ濃いブラウンを帯びていて。
 瞳にかかる睫毛は驚くほどに長い。
 物腰や声と同様に、その容姿も甘くハンサムである。
 以前の学校は年配の教師が多かったため、壱星のような若い先生は琴実にとって物珍しかった。
 前の学校でも一応若い教師もいたことはいたのだが。
 正直言うと、若くても冴えない場合が殆どだった。
 しかも壱星の振る舞いが、緊張していた自分の心を解してくれたのは確かで。
 つい勢いに任せて彼にモンゴリアンチョップをお見舞いしてしまったことを、琴実は少しだけ申し訳なく思ったのだった。
 壱星は一通り書類に目を通した後、再び琴実と向き合う。
 それからトントンと書類を整えつつ、笑んで言った。
「あ、そうだ。琴実はどんな異性がタイプ?」
 ……やっぱり懲りていない。
 そう思いながらも琴実は先程とは違う自然な笑顔を彼に向ける。
「私の異性のタイプですか? あまりこだわりはないんですけど、軽い感じの軟派な人はちょっと」
「じゃあやっぱり、寡黙でシャイな僕とは相性いいね。僕は琴実のこと気に入ったし」
 誰が寡黙でシャイだというのだろうか。
 少し皮肉っぽく言葉を返したつもりが、全く効果なしである。
 そんな彼の言動にツッコミたい気持ちを抑えた後。
 琴実はふっと小さく微笑む。
 ……何だか、新しい深幸学園での生活は。
 以前の学校のものとは、かなり違ったものになりそうだと。
 琴実はそう直感したのだった。
 だが、それは不安というよりもむしろ。
 刺激のある有意義なものになりそうな気がする……。
 そう、琴実の胸の中で。
 いつの間にか新しい学校生活への期待が、グンと大きくなっていたのだった。