1-1.微睡んで360゜
ただでさえ休み明けの月曜日はどことなく普段よりも怠い気持ちになるというのに。
それがゴールデンウィーク明けとなると、さらに陰鬱になる。
満員の山手線内も心なしか、だらしなく欠伸をする人や自然と溜息を漏らしてしまっている人が、いつもより多く見受けられる気がする。
だが、そんな大半の人とは反対に。
緊張の面持ちで座席に座っている、ひとりの少女がいた。
それもそのはず。
その少女――夏川琴実(なつかわ ことみ)は、季節外れの転校生なのである。
琴実は本日付けで、都心にある私立・深幸(みゆき)学園高校に転入することになっていた。
どうしてよりによって、大型連休明けという中途半端な時期に転校なのかというと。
琴実の両親がつい先日、離婚した。
そして母親と暮らすことになった琴実は、長年住み慣れた郊外の古い一軒家を母とともに出て、都内の高級マンションへと移り住むことになったのだった。
かなり中途半端な時期に離婚が決まったために、以前の学校に今学期まで通おうかとも思ったのだが。
以前の学校までは、新居からだと通学に片道2時間以上の時間を費やすことになる。
毎日片道2時間はさすがに辛いし、どうせ遅かれ早かれ転校しないといけないのならば、早い方がいいと。
そういった経緯から琴実は、季節外れの転校生となったのである。
そして琴実が緊張している理由は、自分が転校生だということが一番大きいが。
だが彼女の緊張を高める要因はそれだけではなかった。
彼女の転入先・深幸学園高校。
この学校は都内屈指の進学校として名高い。
琴実は学校の成績も決して悪くはないため、何とか編入試験をパスできたが。
この有名進学校に転入することは、本人よりも、母親のたっての希望だった。
母親は大手出版社に勤めるキャリアウーマンで、性格も仕事も男勝りである。
それ故にプライドも高く自分に自信を持っている。
そんな仕事第一な母親に、確かに寂しい思いをさせられたことも少なくなかったが。
でも琴実は、社会で男性に負けずバリバリと働く母親が格好良いと思ってるし、自慢でもあった。
外でやり甲斐のある仕事をしている時が、一番母らしい。
そしてそんなプライドの高い母親は、離婚したら自分が琴実を引き取ると言い張った。
どのみち自然と、圧倒的に父親よりも生活力のある母親が、彼女を引き取ることになっていただろうが。
離婚をしても、都心のマンションに居を構えて今まで通り仕事をこなし、子供も都内の私立の進学校に行かせる。
母親は、女手ひとりでもそれだけの暮らしができるのだということを、世間に知らしめたいのだ。
そしてそれが、今の母のステータス。
別に琴実はそれが嫌なわけでもなかったし、深幸学園の制服は上品で可愛いので気に入ってる。
何よりそんな母の思考にとっくに慣れっこになっていたため、素直に編入試験を受けたのだった。
だが、実際に名門校へ編入となると。
今までのほほんと過ごしてきた郊外の学校とは、やはり勝手が違うだろう。
そう考えると余計に琴実は緊張していたのである。
おかげで今朝は異様に早く目が覚めてしまった。
琴実は満員の車内から視線を逸らし、横目で窓の外を見やる。
外は、春から初夏へと変わりつつあるあたたかい陽気である。
ぽかぽかと背後から降る柔らかな陽の光に包まれて、急にほわんとした眠気が琴実を襲う。
運良く席に座れてよかった、と。
人で犇く車内を他人事のようにもう一度見つめて。
そう思ったところまでは……覚えている。
だが、次に琴実が気がついた、その時は――。
肩より少し長い彼女の黒髪が、首の動きに合わせて微かに揺れはじめる。
そして髪と同じ色の両の目が無意識のうちに垂れ、瞼と瞼が重なるのに、そう時間はかからなかった。
絶え間なく寄せては引く波は、一体いつまで続くのだろう。
不規則で、それでいて絶妙な心地良さを感じる揺らぎ。
その波があまりにも気持ち良くて。
無防備に身体を預けてしまいたいって思ったけれど。
大海原の沖に流されて迷子にならないように。
私は近くを泳いでいたイルカに身を委ねた。
そしたら身体に、あったかい温もりがじわり染み渡ってきて。
ドクンと脈を打つ生命の鼓動を感じる。
そして、流星の降る空を見上げながら。
広い海を、イルカと一緒に旅をするような。
そんな、夢――。
――どれほど時間が経っただろうか。
「……っ、!?」
ガタンと電車が大きく揺れ、突然琴実の眠りが妨げられる。
琴実は面食らったように飛び起き、まだ寝ぼけ眼の顔で周囲を見回した。
そしてここが山手線の電車の中で、自分が居眠りをしていたという状況に気がつくのに、数秒の時間を要した。
いつの間にか満員だった電車もかなり人が捌けて空いている。
ふわっとひとつあくびをしてから、琴実はまだトロンとしている目を軽くこすった。
――その時。
「あ、起きた? おはよ」
すぐ耳元で聞こえてきたのは。
穏やかな印象の、低い響きを持つ声。
その声はあまりにも近くて。
ふわりと柔らかな吐息が耳をくすぐった。
そんな感覚に小さくピクリと反応を示した後、琴実はその声のした方向をふと向く。
そして――次の瞬間。
一気に眠気が吹っ飛んだように大きく瞳を見開き、有り得ない速度で瞬きをする。
「え? ……!? げっ! ちょっ、あわ……っ!?」
言葉にならない言葉を発した後、琴実はサアッと血の気が引くような感覚に陥った。
一体、いつからだったのだろうか。
隣に座っている声の主は、同じ深幸学園の制服を着た少年だったのだが。
彼の肩に……琴実は、堂々とその身を委ねていたのだった。
慌てて彼から離れ、琴実はアタフタと髪を手櫛で梳き、少し曲がっていた制服のリボンを結びなおす。
だがそんな慌てふためいている琴実とは対称的に、当の少年は特に気にしている仕草も見せず暢気に笑う。
「すごいね、寝起きいいんだ。なんか妙に動きにキレあるし」
「えっ、あの……」
琴実は申し訳なくて、なかなか少年を見ることができない。
でも、きっと状況を察するに、かなり大胆に肩を借りていたみたいだし。
きちんと謝って、お礼を言わなければと。
そう思い、琴実は思い切って少年の方を向いた。
だが……少年を見た、琴実は。
ますますその口を開くことができなかったのだった。
マロンブラウンのサラサラの髪と、同じく色素の薄い瞳。
くっきりと描かれた二重が綺麗で、その瞳にかかる睫毛も驚くほどに長く伸びていて。
肌は窓から差す陽の光に透けるように白い。
上品で垢抜けた制服の似合う、目を見張るほどの美少年。
都会って、やっぱりこんな格好良い人がいるんだな、と。
琴実は感心したように彼をまじまじと見つめてしまった。
そして少年は自分を見ている琴実の様子に気がついて、彼女に視線を返す。
ブラウンの瞳が自分の姿を映し、琴実は思わず頬を染める。
もしかしてこれって、運命の出会いというやつなのかもしれない――。
少女漫画のようなシチュエーションに、琴実はドキドキと胸を高鳴らせる。
そんな琴実の心境を知ってか知らずか、少年は彼女の顔をしばらくじっと見つめていた。
それからふっとその顔に笑みを宿し、こう彼女に言ったのだった。
「てかさ。鼻の頭、寝汗かいてるよ?」
「えっ!? ぎゃっ、うそっ!?」
……少女漫画のようなロマンティックな展開なんて、やはりそう簡単に訪れるものではない。
顔を真っ赤にしながら慌てて汗を拭い、琴実は心の中で理想と現実の差に溜息する。
そしてどこかほかにも落ち度がないかチェックした後、ふうっとひとつ息をついた。
どうやらいつの間にか寝てしまい、隣の彼にも迷惑をかけてしまったようであるが。
とにかく、何とかようやく落ち着けた……。
――そう思ったのも、束の間。
「……は!? ちょっと、待って!?」
琴実はそう声を上げ、再び表情を変えることになったのだった。
その理由は。
「ちょっ、何で!? 次の停車駅……さっき、過ぎた駅じゃ……」
「さっきって、いつの?」
「いつのって……つい、さっきよ」
琴実は相変わらずマイペースな少年に、そう返答になってない答えを返して窓の外を見た。
琴実の耳に飛び込んできたのは、車内のアナウンス。
だが、そのアナウンスが告げた次の停車駅は、眠る前にすでに通り過ぎたはずの駅だったのである。
ということは、まさか。
「さっきって、一周前のこと?」
「い、一周……っ!!?」
琴実は少年の言葉に、思わず大きな声を上げてしまう。
そして腕時計を見て現在時刻を確認した後、愕然としたのだった。
居眠りをしている間に山手線内360°ぐるりと一周してしまっていたのである。
転校初日に遅刻するとは、何たることだ。
琴実は今のどうしようもないこの状況に青ざめた。
だが、ふとひとつの疑問が生じる。
寝ていた自分はともかく、同じ深幸学園の制服を着ているこの少年は。
もうとっくに授業が始まっているようなこの時間に、何でここにいるのだろう、と。
琴実はそう思い、おそるおそる彼に訊いてみた。
「ていうか、寝てた私はともかく。何で貴方はまだ電車に?」
「何でって、あまりにも気持ち良さそうに寝てるのに、俺が動いたら起きちゃってたでしょ」
「え……?」
サラリとすぐに出てきた、彼のその言葉に。
琴実はきょとんとして目をぱちくりとさせる。
自分が肩を借りて寝ていたために、彼にも山手線一周をつき合わせてしまったのだ。
申し訳ないという気持ちの反面、琴実は普通にそんな行動ができる彼に驚きを隠せなかった。
そんな琴実を後目に、彼はふとおもむろに立ち上がる。
それから、まだ席に座ったままの琴実に言った。
「てか、降りないの? もう一周する?」
「え!? あっ! いや、しないしないっ」
学校の最寄り駅に到着してドアが開いたことにようやく気がつき、琴実は慌てて席を立つ。
そして荷物を抱えると、スタスタと前を行く彼に続いて電車を降りたのだった。