「ったくよぉっ、冗談じゃねーぞっ!?」
 水滴の落ちる前髪をかきあげて、拓巳は漆黒の瞳を天に向ける。
 拓巳の隣で大きな溜め息をつき、祥太郎はガクリと肩を落とした。
「うそやん、いい秋晴れやなーって布団干してきたのに……ああ……」
「おまえ、発言が妙に所帯じみてるぞ」
 急にポツポツと降り出してきた雨が大振りになるまでに、それほど時間はかからなかった。
 夕方から急に振り出した雨に、街を行き交う人たちはびしょ濡れになりながら雨宿りできる場所を探している。
 拓巳と祥太郎のふたりも、例外ではなかった。
 ようやく屋根のある場所に身を置き、拓巳は雨で濡れてしまった上着を脱いでバサバサと叩いた。
 その隣で祥太郎は、恨めしそうに空を見上げる。
「ああ、出かける前に布団取り込もうと思っとったんやけどなぁ……バタバタしとったし、今日はお洗濯指数も高かったからええかーって思ったのが間違いやった、とほほ」
「ていうかおまえ、お洗濯指数までチェックしてるのかよっ」
「当たり前やん、俺は一人暮らししとるんやで? 家事全般ならお手のものや。自慢やないけどいつでも嫁入りできるで、俺」
「嫁入りかよ! そう言ってる矢先、布団取り込むの忘れてるじゃねーか」
 ちらりと自分を見る拓巳に、本当にショックを受けている表情で祥太郎は溜め息をつく。
「うっ、亭主関白やなぁ、たっくんは。瀬崎祥太郎、一生の不覚やで……しくしく。もう今からダッシュで帰っても手遅れやしなぁ」
「亭主関白ってなぁ……ていうか朝は晴れてたのによ、ったく急に降ってきやがって」
 怪訝な顔でそう言う拓巳に、祥太郎は諦めたように顔を上げて言った。
「まぁせっかくやから、俺んちで服乾かしていくか? ここやったら俺んちの方が近いやろ」
「そうだな、このままびしょ濡れのまま帰るのも何だしな。お邪魔するか」
 腕時計を見て、拓巳は祥太郎の提案に頷く。
 祥太郎は拓巳の返事を聞いて彼の肩をぽんっと叩いた後、ハンサムな顔に笑みを浮かべ言った。
「よしっ、んじゃ家までダッシュするでっ。このままここにおっても当分止みそうにないからなぁっ」
 そう言ったと同時に、激しく雨が降る中を祥太郎は走り出す。
「えっ? あっ、待てよっ! イキナリかよ!?」
 拓巳はそんな祥太郎に一歩遅れ、慌てて続いた。
 どしゃ降りの雨の中を走るふたりの少年に、一向に雨足の弱まりそうもない大粒の雨が容赦なく降りつける。
 靴の中にまで雨水が滲みてくる感触に顔を顰め、ひょいっと水溜りを避けてから、拓巳は祥太郎に追いつこうと走る速度を上げたのだった。




「いやぁ、参ったなぁ。いくら祥太郎くん水も滴るイイ男って言っても、あの大降りはかなわんわ」
「自分で言ってれば世話ないよな、おまえって」
 雨の中を走ること、10分余り。
 ふたりは、祥太郎の家に到着した。
 渡されたタオルで濡れた髪を無造作に拭き、拓巳はぐるりと室内を見回す。
 ひとり暮らしの祥太郎の家は、必要最低限のものしか置かれていないシンプルなものである。
 だが、統一感のある家具や生活用品からは、お洒落な彼のこだわりが垣間見えていた。
「それにしても、相変わらず物が少ない部屋だよな」
「いろいろ物置くと散らかるやろ? 結構こう見えても潔癖症なんやで、俺。うわ、やっぱ布団濡れとるし……」
 慌ててベランダから布団を取り込んだ祥太郎は、そう言って大きく嘆息した。
 ベランダには屋根はあるが、激しく振る雨で布団はすっかり湿っていた。
 もう一度深く溜め息をついて、そして気を取り直して祥太郎は拓巳を見る。
「服もびしょ濡れやろ、シャワーでも浴びてくるか? その間に服乾かせばいいし、着るものは何か貸すしな」
「おう悪いな、んじゃ遠慮なく」
 そう言って拓巳はもう一度くしゃくしゃと髪を拭いてから、浴室へと足を進める。
 しばらくしてシャワーの水音が聞こえてきたのを確認し、祥太郎は新しいタオルと着替えを脱衣所に用意した。
 それから、何かを思いついたようにニッと顔に笑みを浮かべる。
 そして。
「旦那様ーっ、お背中でも流しましょーかっ」
「だーっ!! 誰が旦那様だっ!! いきなり開けるなコラッ!」
「つれないなぁ、新婚さんいらっしゃいなのになぁ」
「何が新婚さんいらっしゃい、だっ!」
 突然祥太郎に浴室を開けられた拓巳は、慌ててピシャリと乱暴にドアを閉めた。
 祥太郎はその反応に笑いながら、丁寧に自分の濡れた髪を拭く。
「本当からかうと楽しいよなぁ、拓巳って」
 それから間もなく、シャワーを浴びてあがってきた拓巳が脱衣所から出てきた。
 しかし、何故かその表情は浮かない。
 拓巳は怪訝な表情をしたまま言った。
「おい、着替えを用意してくれたのは有難いけどよ……何で上だけなんだよ? しかもこのTシャツ、大きくてブカブカだし」
「ああ、下の着替え出すの忘れとったわ。って、たっくん……何や、その格好っ」
 浴室からリビングに出てきた拓巳の姿を見て、祥太郎はワハハと大声で笑う。
 それにムッとしつつも、拓巳は顔を真っ赤にして祥太郎を睨んだ。
 身長182cmの長身の祥太郎のTシャツは、170cmの拓巳には少し大きかったのだ。
 余ってる袖をぐいっと肘まで上げ、拓巳はまだ大笑いする祥太郎にじろっと目を向ける。
「笑い事じゃねーよっ! ったくよぉっ」
「いやー生足が超セクシーやで、たっくん」
「なっ、触るなっ! しかも擦るな、おまえっ!!」
 何気にTシャツの裾から出ている自分の足をスリスリと触る祥太郎の手をバシッと払い、拓巳は耳まで真っ赤にさせた。
 そんな様子におなかを抱えて笑って、祥太郎は下の着替えを用意して拓巳に渡す。
 それをバッと取り上げるように受け取り、拓巳はブツブツ言った。
「あぁ、真っ直ぐ帰ればよかったぜっ」
「照れ隠しか? 可愛いわぁ、たっくんっ。んじゃ、祥太郎くんもシャワー浴びてくるけど覗いたらあかんでっ」
「あのなっ……もう何も言う気が失せるぜ」
 はあっと溜め息をつき、拓巳はドカッとリビングに置かれているソファーに座ってテレビのスイッチを押す。
 そんな様子を楽しそうに見てから、祥太郎もシャワーを浴びに浴室へと向かったのだった。




     




 時間は、すでに夜の10時を回っていた。
 テーブルにはすでに数本のビールの空き缶が並んでいる。
 ぐいっとひとくちビールを飲んでから、拓巳は祥太郎を見た。
「そーいえばよ、どういう経緯でおまえって大阪から東京に来たんだ? 聞いたことなかったよな」
「ん? 話しとらんかったっけ? 鳴海センセに捕獲された時の話」
「捕獲かよっ! って、詳しくは聞いたことないぜ」
 拓巳の言葉に、祥太郎は昔を思い出すように宙に瞳を向ける。
 それからゆっくりと話し始めた。
「俺が中2の時の秋やったな。修学旅行の引率やった悪魔に捕獲されたのは……」




 ――2年前・大阪。
 学校が終わりそのまま真っ直ぐ帰るのも気が進まなかった祥太郎は、賑やかな街を歩いていた。
 次第に日も短くなる季節になり夕焼けが空を赤く染めはじめ、吹き抜ける秋風が心地よい。
 そんな過ごしやすい秋の夕暮れとは逆に、祥太郎の表情は浮かないものだった。
 何事にも多感な中学生という年齢になり、祥太郎も例外なく様々な物事を深く考えることが多くなっていた。
 何気なく学校に行けば、一緒にいて楽しい友達がいる。
 友達と何となく楽しく学校生活を送り、そして何となく日々を過ごして卒業していくのだろう。
 それは一見、平和な日常。
 だが、そんな何となく日々を送る同じことの繰り返しの生活に、彼は物足りなさを感じていた。
 かと言って、自分が何をすればいいのかもまだはっきりと見えてこない。
 そんな自分に、この頃の祥太郎は苛立ちを感じていた。
 しかも彼を苛立たせているのは、それだけではなかった。
 ――平凡な毎日を送っている自分の中にある、非凡な力。
 自分には、ほかの人には備わっていない力がある。
 それが分かっていても、どうしてそんな力が自分にあるのかは分からなかった。
 そして祥太郎は、使い道も分からないこの能力を疎ましく思っていたのだ。
 大きく嘆息し、祥太郎は秋風に揺れている前髪をかきあげる。
 それから、ちらりと背後に視線を向けた。
「ストーカーはストーカーでも、女の子やったら大歓迎なんやけどなぁ」
 そう言って、祥太郎はふと足を止めて振り返る。
 そんな彼の視線の先にいたのは……。
「…………」
 祥太郎を見つめる、切れ長の瞳。
 その瞳の印象は威圧的であり、人に有無を言わせないような雰囲気を醸し出している。
 祥太郎は表情を引き締め、その人物を見据えた。
 彼の身体からは、今まで感じたことのないような大きな力が漲っている。
 その人物はそんな祥太郎に向かって、表情を変えずに口を開いた。
「名前は」
「は?」
「おまえの名前だ」
 突然そう聞かれ、祥太郎はきょとんとする。
 だが気を取り直し、警戒しながらもフッとハンサムな顔に笑みを浮かべた。
「人の名前を聞くときは、自分から名乗るのが礼儀やないか? おにーさん」
「……口の減らないヤツだ」
 ふうっとひとつ嘆息して、その人物は言葉を続ける。
「私は鳴海将吾。東京の私立聖煌学園高校で教師をしている」
「何や事務的な自己紹介やなぁ。もっとこうユーモアも取り入れんといかんで、センセ?」
 そうおどける祥太郎に、鳴海先生はじろっと視線を向ける。
 祥太郎はそんな先生の様子に苦笑しつつ、言った。
「冗談の通じんセンセやな。それで東京の学校のセンセが、どうして大阪におるんや? そしてこの瀬崎祥太郎くんに、何の用や?」
「大阪には、修学旅行の引率で来ている。瀬崎祥太郎、か」
 それだけ呟き、先生はスッと右手を掲げる。
「……!」
 祥太郎は先生を見て、驚いたように瞳を見開いた。
 大きな光がその右手に瞬時に集まり眩い光を放ち始めたからである。
 そしてそれがカアッと弾けた、その瞬間。
「なっ!?」
 祥太郎は目の前の光景に目を見張った。
 先程まであれだけ賑やかだった街並みが、シンと静まり返ったのである。
 周囲を囲んだ先生の“結界”に、祥太郎は表情を変える。
 そんな祥太郎をちらりと見て、先生は言った。
「おまえには人には使えない力がある。そうだな?」
「!」
 先生の言葉に、祥太郎はピクッと反応を示す。
 彼の返事を待たず、その反応で十分と言わんばかりに鳴海先生は言葉を続けた。
「自分のその力の意味を知りたければ、東京に来い」
「東京に? このワケ分からん力に意味があるって言うんか?」
 祥太郎の問いには答えず、先生は祥太郎を見る。
 それから切れ長の瞳を閉じて、言った。
「東京に来るか、それとも大阪に残るのか?」
「ていうか、せっかちなセンセやなぁ……まぁ行けるんなら、花の東京に行きたいけどな」
「そうか……分かった」
 それだけ呟いて、そして先生は再び“気”を纏った手を天に掲げる。
 先程と同じように、先生の右手を中心に大きな“気”の流れが出来上がった。
 そして、集結した光が一瞬にして弾ける。
 それと同時に、祥太郎の目の前に見慣れた街の風景が戻ってきた。
 周囲に張った“結界”を解いた先生は、祥太郎に背を向けておもむろに歩き出す。
「あっ、ちょっと待てや! 一体、アンタは何者なんや?」
「おまえの意思は先程すでに聞いた。もうすぐ修学旅行の引率の職員会議が行われるため、私は宿泊所に戻らなければならない。これ以上、今ここでおまえと話すことはない。東京行きの手筈は私の方で整えよう」
「へ? 東京行きの手筈って……ちょっと待ってやっ!」
 引き止める祥太郎の言葉に構わずに足を止めず、先生は人波の中に消えて行く。
 祥太郎はきょとんとした表情を浮かべ、しばらくその場に立ち尽くしたままだった。
 それから気を取り直し、首を傾げる。
「一体何やったんや? あのセンセ。それにしても、あの眩しい光……」
 それだけ呟いてから、祥太郎は自分の両手を見つめた。
 掲げた先生の右手に集まった、大きな輝きを放つその光。
 自分の力の意味を知りたければ東京に来いと、そう鳴海先生は言っていた。
「とはいえ、いきなり東京に来いって言われてもなぁ……」
 うーんと考える仕草をして、祥太郎は自分を見つめる威圧的な切れ長の瞳を思い出す。
 それから大きく溜め息をつき、そして前髪をかきあげて賑やかな街並みを歩きだしたのだった。


 

「相変わらず強引なヤツだな、人の都合なんておかまいなしかよ……それで? どうなったんだよ」
「どうなったもこうなったもないわ」
 拓巳の問いに、祥太郎は苦笑して話を続けた。
「その日家に帰ったら、何とあの悪魔がうちにおったんや。で、俺の両親言いくるめたらしくてな、鳴海先生の下でしっかり勉強してくるんやでーとか親にも言われる始末やし。本当に東京に行けるとか思わんで軽い気持ちで答えただけやったのに、めっちゃびっくりしたわ」
「ていうかアイツ、一体おまえの親に何て言ったんだよ? それ以上に何でおまえの家が分かったんだ?」
「さぁな、何を言ったかは今でも謎なんやけどな。家はたぶん、俺の着てた制服から学校名特定して、それから名前で住所調べたんやないか? でもな……」
 そこまで言ってから、祥太郎はふっと笑う。
 そしてにっこりと微笑んで言葉を続けた。
「大阪を離れる時は寂しかったけどな、東京に来て後悔はしてないんや。大阪に残っとっても目的もなく何となく過ごしとったやろうし。今はやるべきこともしっかりあるし、何よりも近くにお姫様や仲間もおるしな」
「祥太郎……」
 自分に視線を向ける拓巳に、祥太郎は悪戯っぽく笑う。
「そういうたっくんこそ、あの悪魔にどうやって捕獲されたんや?」
 祥太郎の言葉に、拓巳は途端に怪訝な表情を浮かべた。
 そして、持っていたビールをぐいっと飲む。
「鳴海の野郎……初対面の時からボコボコに殴りやがって」
「え?」
 ほんのり頬が赤くなってきた拓巳を見て、祥太郎は首を捻った。
 拓巳は面白くなさそうに舌打ちをして続ける。
「アイツ、訓練も受けていない俺をマジでボコボコにしやがったんだよ。初対面でだぜ!? 絶っ対にいつかアイツをぎゃふんと言わせてやるって、その時俺は決めたんだよっ」
「たっくんも、ある意味根性だけはあるからなぁ。いくらボコボコにされても全然これっぽっちも懲りんし。ていうか、初対面からボコボコにされるって……おまえ一体、何したんや?」
「……その時のことは、二度と思い出したくないんだよ。それに、今は話したくない」
 ぷいっとそっぽを向いて、険しい表情のまま拓巳はテーブルに頬杖をついた。
 そんな拓巳の肩をポンポンッと叩いて、祥太郎は笑う。
「ま、話したくないことは無理して話さんでもええしな。さぁ旦那様、気を取り直してぐいっと飲もうやっ」
「誰が旦那様だよっ! ていうか眠い……俺は寝るっ」
 そう言ったかと思うと、おもむろに拓巳はクッションを枕にしてソファーに横になった。
「おいおい、こんなところで寝るなや……って、早っ! もう寝息立てとるし」
 仕方ないなぁと呟き、祥太郎は立ち上がる。
 そして持ってきた毛布を寝ている拓巳にそっとかけた。
「ま、明日は日曜やしな。それにしても拓巳、アホ面で寝とるわ。あ、後で携帯で寝顔写しとこっ」
 アルコールがほどよく入り、気持ち良さそうにスースーと寝息をたてている拓巳を見て微笑んでから、祥太郎は新しいビールの缶を開けた。
 そして拓巳の飲みかけのビールの缶に、カチンとそれを当てる。
 それからハンサムな顔に笑みを浮かべて、言った。
「愛しのお姫様と良き仲間たちに乾杯、ってカンジか?」
 祥太郎は照れたように瞳にかかる前髪をそっとかきあげて、そしてビールを口に運んだのだった。






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