――6月25日・月曜日。
「! はっ、あっ!」
 ビクンと身体を震わせ、孝子は思わず声を上げる。
 今日だけでも、これで何度目だろうか……自分の中にいる何かが暴れだすような、この感覚。
 途端に呼吸が苦しくなり、汗が噴出す。
 数時間に一度の間隔で、この苦しみはやってくる。
 こんな状態になって、今日で5日目。
 そして原因が何によるものなのか、孝子には分かっていた。
 5日前――自分の身体の中に、“邪”を取り込んだから。
 自分で望み、決めたことではあるのだが。
 一体この苦しみは、いつまで続くのだろうか……。
「く……っ」
 孝子は肩で大きく息をしながらも、ベッドの脇に置かれている携帯電話を手に取った。
 この時間なら……もう、授業も終わっている時間のはず。
 携帯電話を開き、孝子は震える指で誰かにメールを送る。
 そして送信し終わると、もう一度呼吸を整えるように深く息を吐いたのだった。




 ――その頃、聖煌学園。
 この日の授業もすべて終わり、渚は特別教室から自分の教室へと戻っている途中であった。
 賑やかな廊下を歩いていた彼は、おもむろに何かに気がついて背後を振り返る。
 そして、パッと表情を明るいものに変えた。
「清家先輩っ」
 想いを寄せる眞姫を見つけ、渚は足を止める。
 眞姫はその声に顔を上げると、にっこりと彼に微笑んだ。
「あ、渚くん。こんにちは」
 渚はふと、きょろきょろと眞姫の周囲を見回す。
 どうやら今彼女の周囲に、邪魔な“能力者”たちはいないらしい。
 渚は可愛らしい顔に笑顔を宿し、眞姫の隣に並ぶ。
「清家先輩とふたりでお話するのって、結構久しぶりですよね。嬉しいな、僕」
 最近は孝子の相手ばかりしていたので、眞姫に会いに行く時間がなかなか取れなかった。
 元々学年も違うし、何よりも眞姫のそばにはいつも誰か邪魔者がいる。
 そんな状況が続いていたため、久々に憧れの眞姫とふたりきりになれて、渚は上機嫌だった。
「そうだね。渚くんとふたりでお話しするの、久しぶりかもね」
 眞姫は渚の言葉に小さく頷いた後、ふと言葉を切る。
 それから、大きな瞳をちらりと渚に向けると、ゆっくりとこう続けたのだった。
「ねぇ、渚くん。今日も……明石さん、学校お休みなんだよね?」
 その眞姫の言葉に、渚は微妙に表情を変える。
 それから気を取り直したかのようにジャニーズ顔に微笑みを宿し、彼女の問いに答えた。
「はい。今日も彼女、欠席しています。まだ体調が安定しないんでしょうね」
「…………」
 眞姫は複雑な表情を浮かべ、俯く。
 5日前、彼女の身体に“邪”が取り込まれるのを阻止できなかった。
 彼女が完全に“邪”の力を自分のものにする前に、何とかしないといけない。
 だがあの日以来、孝子は学校を休んでいる。
 結局この5日間、眞姫は何もできないでいるのだった。
 渚は口を噤んでしまった眞姫の横顔を見つめ、何かを考えるような仕草をする。
 それから、相変わらずの猫撫で声で言った。
「清家先輩……明石さんのことなんですけど」
 渚の言葉に、眞姫はその顔を上げる。
 彼女の栗色の髪が、ふわりと小さく揺れた。
 渚はそんな眞姫を見つめたまま、こう続けたのだった。
「明石さんに“邪者”の素質があるって気がついたのも僕ですし、彼女に“邪者”にならないかって言ったのも僕です。でも僕も杜木様も、決して彼女に“邪者”になるようにって、強要してはいません。今回、彼女が“邪”を取り込んだのも、“邪者”になろうとしているのも……最終的には、彼女が自分で決めたことなんです」
 黙って渚の言葉を聞いていた眞姫は、小さく頷く。
「うん、それは分かってるの。渚くんの言っていることも、明石さんが自分で“邪者”になるって思ったってことも。でもね、私は“能力者”も“邪者”も、誰も傷ついて欲しくなんてないの。もし彼女が完全な“邪者”になっちゃったら、“能力者”と戦うことになるでしょ? そんなの私、黙って見ていられない」
「清家先輩……」
 真剣に自分を見つめてそう言う眞姫に、渚は“浄化の巫女姫”としての強い使命感を感じた。
 “浄化の巫女姫”とは――万人を救う力を持つ、唯一無二の存在。
 渚は改めて眞姫に目を向け、にっこりと笑顔を浮かべる。
「清家先輩って、本当に優しい人なんですね」
 それから、鳴り出した予鈴を聞き、ぺこりと頭を下げた。
 眞姫は1年と2年の教室の分岐点である階段に差し掛かったことに気がつき、渚に小さく微笑みを向けて手を振る。
「じゃあ、渚くん。またね」
「失礼します、清家先輩」
 もう一度頭を下げ、渚は階段を上がっていく眞姫の後姿を見送った。
 そして眞姫の姿が見えなくなってから周囲をふと確認し、ふとポケットの中の携帯電話を取り出す。
 それから渚は未開封だったメールの内容を確認した後、眉を顰める。
「てか、面倒増やさないでよね……」
 渚はそう呟いてふっとひとつ大きく溜め息をついて携帯電話をしまうと、自分の教室へと向かって歩きだしたのだった。




 ――その日の放課後。
 眞姫と“能力者”の少年たちは臨時ミーティングが行われるため、視聴覚準備室に集まっていた。
 鳴海先生は全員をぐるりと見回した後、ゆっくりと口を開く。
「おまえたち各々に与えた指示は、分かっているな」
「ていうかよ、いつまでこうやって待機しとかないといけねーんだ? モタモタしてると、明石孝子のヤツが完全な“邪者”になっちまうぞ」
 机に頬杖をつき、不服気に拓巳は先生をじろっと睨む。
 そんな拓巳の言葉に大きく嘆息し、先生は相変わらず淡々と言った。
「急いては事を仕損じるという言葉を知らないのか? 言ったはずだ、私の指示があるまで動くなと」
「でもな、本当に孝子ちゃんが完全な“邪者”になる前に、何か動きをみせるんか?」
 首を捻り、祥太郎も先生に目を向ける。
 鳴海先生は頷き、ブラウンの瞳を細めた。
「彼女は、確実に動きをみせる。それも、今日か明日か……近いうちに、必ずな」
 それから先生は、改めて全員に視線を移す。
 そして、続けた。
「再度、指示を確認しておく。明石孝子が動きをみせた瞬間から、行動を開始する。准、拓巳、祥太郎、健人で“邪者四天王”の足止めをし、詩音はここで“邪者四天王”の場所を各“能力者”に指示しろ。そして……」
 鳴海先生はそこまで言って、ふと言葉を切る。
 その瞬間、眞姫は思わずドキッとしてしまった。
 先生の両の目が、自分の姿を映し出したからだった。
 鳴海先生は眞姫を見た後、再び口を開いた。
「清家、“能力者”が“邪者四天王”の足止めをしているうちに、おまえは明石孝子の元に向かえ。そしておまえの特殊能力を使い、彼女の中の“邪”を浄化しろ」
「でも先生、姫ひとりで明石さんのところへ行くのは危険じゃないですか? まだ完全に“邪者”になっていないとはいえ、彼女は“邪”を身体に取り込んでいます。まだ安定こそしていないけど、彼女はもう“邪気”を使うことができます」
 心配そうに眞姫を見た後、准は先生にそう訊く。
 ほかの少年たちも、その言葉に同意するように頷いた。
 だが鳴海先生は、はっきりとこう言ったのだった。
「確かに、今の明石孝子はすでに“邪気”を使える状態にある。だが清家は“浄化の巫女姫”だ。“浄化の巫女姫”は守られる存在ではない、万人を守る存在だ。指示を変更する気はない」
「守られる存在ではなく、万人を守る存在……」
 眞姫はそう呟き、グッと掌を握り締める。
 鳴海先生は、そんな眞姫に向かってゆっくりと訊いた。
「完全に“邪”の力を自分のものにした“邪者”に対しては、“浄化の巫女姫”の力をもってしてもその身体から“邪”を引き離すことはできない。だが、まだ完全な“邪者”になるその前の状態ならば、“邪”を身体から引き離すことが可能だ。明石孝子の“邪”をその身体から引き離す機会は、今しかない。清家……おまえに、それができるか?」
 先生のその言葉に、眞姫は顔を上げる。
 そして、大きく首を縦に振って答えた。
「はい。私、やります」
 先生は眞姫の決意に満ちた表情を見つめた後、小さく頷く。
 それから、ブラウンの瞳をおもむろに細めたのだった。
 ……その時。
「鳴海先生。先生の言っていたこと、どうやら間違っていなかったみたいだね」
 ふと詩音が、そう口を開く。
 そして普段通り優雅な笑みを湛え、続けた。
「明石孝子が、動き出したようだよ」
 詩音の言葉を聞いて、その場にいる全員の表情が無意識に引き締まる。
 先生は自分の“空間能力”でそれを確認した後、言った。
「臨時ミーティングは以上で終了する。指示通り、速やかに行動しろ」
 その言葉と同時に、少年たちは思い思いに椅子から立ち上がり、準備室を出て行く。
 眞姫も、そんな彼らの後に続いた。
「……姫」
 健人はふと振り返り、眞姫に声を掛ける。
 その声に、眞姫は健人に目を向けた。
 ブルーアイを細め、健人はポンッと軽く彼女の頭に手を添えた。
「頑張ろうな、姫」
「うん。頑張ろうね」
 にっこりと微笑み、眞姫は栗色の髪をそっとかき上げる。
 それから凛とした光を宿す瞳を健人に向け、こう続けたのだった。
「明石さんは絶対に、完全な“邪者”になんてさせない。私の手で、それを止めてみせるから」
「姫……」
 健人は少し意外な表情をしたが、すぐに彼女に微笑みを返して頷く。
 普段は、穏やかでのんびりした性格の眞姫であるが。
 今目の前にいる彼女からは、強い意志ような光を感じる。
「…………」
 眞姫と健人のやり取りを黙って見ていた鳴海先生は、ふっと何かを考えるような仕草をした。
 それから切れ長のブラウンの瞳を窓の外に向け、瞳と同じ色の前髪をそっとかき上げたのだった。




 ――それから、数分後。
 ちらりと時計を見て、渚は図書館を出た。
「まったく、大人しくしてればいいのに。一応他の四天王にも連絡したけど、あー面倒だよ、ホントに」
 ブツブツ文句を言いながら、渚は大きく嘆息する。
 そしてポケットから携帯電話を取り出し、あるメールの内容を確認した。
 そのメールとは。
『渚くんに、どうしても会いたいの。今日の17時半に、例の公園で待ってます。孝子』
 渚はもう一度時計を見た後、ふっと顔を上げる。
 それからその可愛い顔には似合わない、眉間にしわを寄せるような表情を浮かべたのだった。
 そんな渚の、視線の先には。
「おい、今からどこに行く気だ? 相原」
「そんなコト、先輩には関係ないでしょう? 目障りだから、さっさと消えてくれませんか?」
「相変わらずムカつくヤツだな、ったく」
 渚の毒舌に、彼の前に現れた少年・拓巳は気に食わない顔をする。
 渚は大袈裟に満面の作り笑顔を宿すと、さらに口を開いた。
「生憎ですけど僕、先輩みたいに暇人じゃないんですよね。んじゃ、失礼しまーす」
 ひらひらと手を振り、渚は再び歩き出す。
 そんな生意気な態度の渚に嘆息した後、拓巳は大きな漆黒の瞳を細めた。
 そして、言ったのだった。
「相原、今から明石孝子のところに行く気なんだろうけどよ、そうはさせないぜ」
 その拓巳の言葉に、渚はピクッと反応を示す。
 それからふっと笑い、歩みを止めた。
「ふーん、なるほどね。この僕の足止めってワケですか、小椋先輩。ま、ちょうど明石さんのトコに行くの面倒くさいなーって思ってたし、先輩に付き合ってあげてもいいですよ」
 そして渚は、こう続けたのだった。
「先輩方が何をしようとしているのか知りませんけど、どんな結果になろうとも、僕たち“邪者”の思惑通りになる結果が出るのは分かってるし」
 拓巳は渚の動きに注意を払いつつ、首を傾げる。
「何? どういうことだよ」
「そんなこと、先輩に教えるとでも思いますか? ま、とにかく先輩方のやってることは、無駄ってコトですよ」
 渚はそう言って、不敵に笑った。
 余裕な渚の様子に顔を顰めつつ、拓巳はふうっとひとつ息をつく。
 そして右手に“気”を漲らせると、渚の前に立ち塞がった。
「何企んでいるか分からないけどよ、とにかくおまえは、明石孝子のところに行かせない」




 ――その頃。
 祥太郎は、繁華街に程近い駅前にいた。
 人の行き来が多いその場所で、祥太郎はふと顔を上げる。
 そして、やって来たある人物に視線を向けた。
「はろぉ、祥太郎くんっ」
 長い黒髪を揺らし、その場に現れた少女・綾乃はいつも通り屈託なく笑う。
 祥太郎もハンサムな顔に笑顔を宿し、軽く片手を上げた。
「これはこれは、綾乃ちゃん。今日もカワイイなぁ」
「ふふ、ありがと。でも祥太郎くん、綾乃ちゃんはいつだってカワイイよー」
 悪戯っぽく笑い、綾乃は漆黒の瞳を細める。
 それから、わざとらしく小首を傾げて言葉を続けたのだった。
「それで今日は、デートという名の足止めかな? 祥太郎くん」
 祥太郎はふと表情を変え、前髪をかき上げる。
 そして小さく溜め息をつき、苦笑した。
「何や、バレバレか。んじゃ、話は早いわ……そういうことやから、俺としばらく楽しいデートしてような、綾乃ちゃん」
「祥太郎くん、もしも綾乃ちゃんが嫌だって言ったら?」
 くすっと悪戯っぽく笑うと、綾乃は祥太郎の表情の変化をうかがうように覗き込む。
 祥太郎は挑発するように自分を見ている綾乃に、微笑みを向けた。
「ま、イヤなら無理は言えんけどな。あーでもせっかく、綾乃ちゃんと一緒にケーキでも食べたいなぁって思っとったのにな。フラれたら泣くで、俺」
「ふふ、祥太郎くんって本当に優しいのね」
 綾乃はそう言った後、ポンポンッと祥太郎の肩を叩く。
 それから、楽しそうに笑顔で頷いたのだった。
「いいわよ、デートしましょっ。渚から孝子ちゃんが動いてるってメール来たから、その場所に行こうかなーとも思ったんだけど。でも孝子ちゃんが“邪者”になってもならなくても、私たちの欲しい結果が出るのは分かってるからね」
「孝子ちゃんが“邪者”になってもならなくてもって……どういうことや?」
「どういうって、言葉の通りよ、祥太郎くん。さ、ケーキ食べに行きましょっ」
 綾乃は祥太郎の腕を取り、歩き出そうとする。
 ――その時だった。
「……綾乃ちゃん、どういうことか教えてくれんか?」
 ガッと綾乃の腕を掴み、祥太郎は彼女を見つめる。
 綾乃は自分を映す真剣な彼の眼差しに、漆黒の瞳を細めた。
 祥太郎は綾乃の腕から手を離さず、こう続ける。
「分かるよな、今の俺が“能力者”として動いとるってことは。ケーキ食べに行くのは、その後や」
「…………」
 綾乃は、少しだけ考える仕草をする。
 そしてその顔に笑みを取り戻すと、口を開いた。
「そうねぇ、まぁ話してもどうなるわけでもないし。分かったよ、祥太郎くん」
 それから綾乃は、祥太郎に話を始めたのだった。




 ――同じ頃。
 准と健人は、眞姫とともに孝子がいる公園に向かって歩いていた。
「今、残りの四天王はどう? ……うん。分かったよ、ありがとう」
 携帯電話で詩音と話をしていた准は、ピッと通話終了ボタンを押す。
 それから健人に目を向け、言った。
「残りの四天王は、ふたり一緒にこっちに向かってるって」
「そうか」
 健人は短くそう答えて頷くと、隣にいる眞姫に目を向ける。
 だが眞姫はそんな健人の視線にも気がつかない様子で、ただ前だけを見据えていた。
 その瞳に宿るのは、強い決意の光。
 准もそんな眞姫の様子を、黙って見守っている。
 それからふっと健人に視線を戻し、口を開いた。
「健人、どうする?」
 准の言葉に、健人は何かを考えるようにブルーアイを伏せる。
 その真意は敢えて言わなかった准だが、健人には彼が何を考えているか分かったのだった。
 鳴海先生からは、“邪者四天王”一人に対し“能力者”一人が足止めするようにと言われていた。
 今回詩音は、学校に残って“空間能力”で“邪者四天王”の居場所を探り、各“能力者”に教えるという役割に回っている。
 すなわち孝子の元には、眞姫一人で行くことになるのだ。
 眞姫の身に危険が及ぶことを人一倍させたくないと思っている准は、彼女を一人で孝子のところに行かせることが心配だと思っているのである。
 もちろん健人も、准と同じく眞姫を一人にさせたくない。
 何なら自分が眞姫のそばで、彼女のことを守ってやりたい。
 そう、思ってはいるのだが。
 今回の一番の目的は、孝子の“邪”を浄化させることにある。
 そのためには、“邪者四天王”の邪魔が入ることを阻止しなければならない。
 もしも二人のうちどちらかが眞姫のそばに付くとしたら、“邪者四天王”二人を一人で足止めしないといけなくなる。
 確実に“邪者四天王”を止めるには、やはり先生の指示通り、一人ずつ彼らの足止めをする必要があるのだ。
「…………」
 健人は眞姫を見つめたまま、どうすべきか思考を巡らせる。
 その時だった。
「!」
 孝子がいると思われる方向を見ていた眞姫は、ハッと顔を上げる。
 それから表情を引き締め、健人と准を交互に見ながら言った。
「明石さんの“邪気”が、ものすごく乱れてる……何だかすごく、苦しんでるみたい。早く行ってあげなきゃ」
「え? 姫、そんなことが分かるの?」
 准は眞姫の言葉に、驚いたようにそう訊いた。
 普通の“能力者”でも、自分のすぐ近くに強い“気”や“邪気”を持つ者がいれば、その存在を感じ取ることができる。
 また、少し離れていても“結界”が張られていれば、その中にいる者の“気”や“邪気”は知覚できるのであるが。
 だが“空間能力者”以外の者が、“結界”内にいない遠くの者の詳細な位置を知ることはできない。
 まして、その者の“邪気”や“気”の状態まで感じ取ることなどできないのである。
 眞姫は准の言葉に大きく頷いた後、再び遠くに視線を向けた。
 そして、こう言ったのだった。
「私、行ってくるね。明石さんのことを助けられるのは、私だけだから」
「姫……」
 健人は使命感に満ちた眞姫の顔を、じっとそのブルーアイで見つめる。
 そして、ふっと笑って頷いた。
「分かった、姫。ここは俺たちに任せて、おまえは明石孝子のところに行け」
「気をつけてね、姫。姫なら、きっとできると思うから」
 准も優しく眞姫に微笑み、そう言葉を掛ける。
 それからおもむろに表情を変え、健人に目を向けた。
「健人」
「ああ、分かってる」
 准の言葉に短く答えると、健人は背後を振り返った。
 それと同時に、准の右手に“気”の輝きが宿る。
 刹那、眩い光が周囲を包み込み、強固な“結界”が形成されたのだった。
 そんな准の作り出した“結界”内にいるのは。
「あれ? どっちかがお姫様の護衛に回るんじゃないかなーって、そう思ってたんだけど。だからわざわざ、智也と二人で一緒に来たのにな」
 准の張った“結界”を見回し、その場に現れた男のひとり・涼介は意外そうな顔をした。
「ていうか、また眞姫ちゃんに会えなかったよ。あー俺って、どうしてこうツイてないんだろ」
 智也は少し残念そうに、漆黒の前髪をかき上げる。
 それから、目の前に立ち塞がる“能力者”のふたりに目を向けた。
「どうしても俺のこと、眞姫ちゃんのところに行かせてくれないってカンジだし」
「悪いけど、先には行かせないよ。明石さんの“邪”を姫が浄化するまで、ここにいてもらうから」
 准は軽く身構え、智也と涼介を見据えてそう言い放つ。
 涼介はその言葉を聞いて、ふっと笑った。
「勘違いしないで欲しいな。別に僕たちは、お姫様があの孝子って子の“邪”を浄化するのを邪魔する気なんて、全くないし」
「どういうことだ?」
 健人は涼介に鋭いブルーアイを向け、訊いた。
 それに答えたのは、涼介ではなく智也だった。
「どういうって、言葉のままだよ。今回の僕たちの目的は、孝子ちゃんが“邪”を取り込んだ時点でほぼ完了したも同然だから」
 智也の言葉に補足するかのように、涼介は彼に続けて口を開く。
「僕たち“邪者”の目的は、ふたつ。そのうちのひとつでも達成できれば、今回のことは僕らの思惑通りだと考えている。ひとつは君たちも分かっているように、素質があるあの孝子っていう子を“邪者”にすること。彼女が“邪者”になれば、僕たち“邪者四天王”クラスの“邪気”を扱えるようになるだろうからね。そして……もうひとつは、“浄化の巫女姫”の早期能力覚醒を促すこと」
「姫の、能力覚醒を?」
 眉を顰めて聞き返す准に、涼介は頷いた。
「そうだよ。強大な“邪”に触れるほど、お姫様の能力は刺激され、覚醒が早くなると考えているからね。あの孝子っていう子の潜在能力を考えると、これは“浄化の巫女姫”の能力覚醒を促す、またとない機会だから。すなわち僕たち“邪者”は、あの孝子って子が“邪者”になるのも良し、例えそうならなくても良しと考えてるんだよ。あの孝子って子が“邪”を取り込んだ時点で、僕らの目的のどちらか片方は確実に達成されることになるからね」
 健人は涼介の言葉を聞き終わった後、ふっとひとつ嘆息する。
 それからキッと“邪者”のふたりを見据え、言った。
「おまえらが姫の邪魔をしないというのなら、俺たちにとっても好都合だ。だが、勘違いするな。姫の能力覚醒が早まったところで、おまえらの思惑通りにはいかない。姫の能力覚醒を促し、姫の中の強大な“負の力”を蘇らせるつもりだろうが……そんなこと、俺たちが絶対にさせない」
「“能力者”って、“浄化の巫女姫”が自分たちだけの巫女姫だと勘違いしすぎなんだよ。その上自分たちの都合いいように、眞姫ちゃんの秘めたる大きな力の芽を摘んでる。俺たち“邪者”が、そんな彼女の可能性を伸ばしてあげようとしているんだよ。違う?」
 智也はそう言って漆黒の瞳を細め、“能力者”のふたりに向ける。
 准は大きく首を振り、それに反論した。
「それは違うよ。“負の力”は、元々は人間の中に眠っている力だ。それを“邪”を取り込んでまで蘇らせるなんて、自然の摂理に反している。それにそんな危険を伴うこと、姫に絶対させられない」
「ま、どんなに君たちと話しても、一生平行線だろうしね」
 ふうっと溜め息をつき、智也は前髪をかき上げる。
 そして、涼介を見て言った。
「それで、これからどうする? 俺たち、何気に“結界”に閉じ込められてる状態なんだけど」
「そうだな、じゃあ……僕たちを閉じ込めてるこの“結界”を破ってみる、とか?」
 ふっと不敵に笑みを浮かべ、涼介はその手に“邪気”を漲らせる。
「言ったはずだよ、姫が明石さんの“邪”を浄化するまでは、ここにいてもらうってね」
「おまえたちの好きなようには、絶対にさせない」
 准と健人も“邪気”に対抗すべく、その手に“気”を宿した。
 次の瞬間――“結界”内に大きな衝撃音が轟き、複数の眩い光が弾けたのだった。




 ――その頃。
 准の張った“結界”を背に、眞姫は孝子がいると思われる公園の中にひとり足を踏み入れていた。
 孝子の不安定な“邪気”を、先程よりも強く感じる。
 確実に彼女の元に近づいていることを確信しながら、眞姫は歩みを進めた。
 孝子を救えるのは、“浄化の巫女姫”である自分だけである。
 そして“浄化の巫女姫”は、守られるだけの存在ではない。
 万人を守るための存在なのだから。
 そう自分に何度も言い聞かせながら、眞姫は歩く速度を上げた。
 感じる“邪気”はとても不安定で、大きく乱れているのが分かる。
 人間が完全に“邪”と一体化するためには、想像を絶するような痛みと苦しみを克服しなければいけないと聞いている。
 それを乗り切った者が“邪者”となり、意のままに“邪気”を操れるようになるのだと。
 眞姫は、今日渚が言っていたことをふと思い出す。
『彼女が“邪”を取り込んだのも、“邪者”になろうとしているのも……最終的には、彼女が自分で決めたことなんです』
 それは、分かっている。
 だが、もし彼女が“邪者”になってしまったら、“能力者”と敵対することになってしまう。
 そうなるのを、黙って見ているわけにはいかない。
 例え“邪者”になると孝子自身が決めたとしても、“浄化の巫女姫”としてそれを止める力が、自分にはあるのだから。
 眞姫はグッと手のひらを握り締め、顔を上げる。
 ――その時だった。
 眞姫は瞳を大きく見開き、その場に立ち止まった。
 そんな彼女の目に映っているのは……。