――同じ頃。
 学校を出てしばらく歩いていた孝子は、近くの薄暗い公園の中へと足を進める。
 陽の沈みかけている中途半端な時間であるせいか、木の多い茂る公園内に人の姿は見られない。
 そして孝子のその表情は、いつもの彼女のものと全く印象が違っていた。
 今、彼女の心を覆っている感情は……不安と緊張。
 いくら決意したこととはいえ、自分の選択したことが果たして正しかったのかどうか。
 孝子はふっと小さく息をついて立ち止まり、そっと目を閉じる。
 それから、自分に言い聞かせるように呟いた。
「“邪者”になれば、渚くんの近くにもっといられるじゃない。杜木様もすごく優しいし……それに……」
 そこまで言って、孝子は無意識的にギュッと強く唇を噛み締める。
 そしてスッと閉じていた瞳を開き、続けた。
「それに……あの清家先輩にも、負けないんだから」
 本性を隠してはいるが、渚は孝子に対して今のところ優しく振舞っている。
 孝子はそんな渚に優しくされるたび、幸せを感じていた。
 だが……気がついていたのだった。
 眞姫に向けられる笑顔が、自分に向けられるものと違うことを。
 しかも眞姫は同性の孝子から見ても、可愛い容姿と雰囲気を持っている。
 それに聞いた話によると、眞姫は常に成績も学年上位だという。
 見た目人形のような綺麗な顔で成績も学年トップの渚と、彼が憧れているであろう眞姫は、並ぶと悔しいが美男美女でお似合いである。
 このままじゃ、勝負にならない。
 何とか少しでも渚に近づき、彼の気持ちを自分に向けたい。
 渚が実はあんな性格だとは思いもしない孝子は、自分好みである渚の可愛らしい笑顔を思い出す。
 そして意を決したように頷くと、再び歩き始めたのだった。
 ――そんな孝子を待っていたのは。
「あ、孝子ちゃーんっ。こっち、こっちーっ」
 孝子の姿を見つけて大きく手を振り、その場にいた少女・綾乃はにっこりと笑う。
「孝子ちゃん、こんにちは。来てくれてよかったよ」
 綾乃の隣にいる智也も、優しく孝子に声をかけた。
「こんにちは、孝子ちゃん。渚なんだけど、彼がこれから何をするのか、何か言っていた?」
 心配そうな表情をしつつ、四天王の彼らと一緒にいたつばさは孝子にそう訊く。
「綾乃ちゃんに智也くんに、つばさちゃん……」
 孝子はそんな彼らの姿を見て、少しだけホッとした表情をする。
 そしてつばさに視線を向けると、思い出すように言った。
「えっと、渚くん、自分も一緒に来たかったけど別にやることがあるって」
「そう。渚の“結界”も感じるし、今回はちゃんと仕事してるみたいね」
 何かと面倒なことを嫌う渚がとりあえずきちんと仕事をしていることに安堵し、つばさは漆黒の瞳をふっと細める。
 渚の本性を知らない孝子は、そんなつばさの様子にきょとんとしながらも、ちらりと腕時計を見た。
「あーっ、その腕時計カワイイーっ。それって、今年の春限定モデルのやつだよね?」
「あ、うんっ。もう何ヶ月も前から予約して、やっと手に入れたの」
 キャピキャピとはしゃいで自分の腕時計を覗き込む綾乃に、孝子は表情を緩める。
 杜木と会って、すぐに“邪者”になる決意をした孝子だが。
 そんな彼女を少しでも安心させるため、事前に綾乃たちは孝子と会っていた。
 猫をかぶりまくっている渚はともかく、綾乃と智也は元々物怖じするようなタイプではない。
 それに自分の役割をよく分かっているふたりは、孝子の緊張を解そうとマメに彼女と親交を深め、連絡を取っていたのだった。
「あ、そうそうっ。孝子ちゃん、昨日のドラマ観た? 面白かったよねーっ」
 綾乃は緊張気味だった孝子をリラックスさせようと、彼女の好きそうな話題を振って盛り上げる。
 その効果は大きいようで、孝子は姿を現した時よりもかなり肩の力が抜けているようであった。
 智也はそんな孝子の様子を密かにうかがいながら、ふとつばさに目を向ける。
 そして、ゆっくりと口を開いた。
「渚はあの関西弁の彼、涼介は青い目の彼の足止めをしてるみたいだけど。残りの“能力者”の様子はどう?」
 つばさは探るように視線を遠くへ向けた後、彼の問いに答えた。
「残りの“能力者”はみんなここから少し離れたところにいるし、こちらに向かってくる様子はないようね。あの“能力者”の統率者・鳴海将吾も、まだ聖煌学園にいるわ」
「……そっか」
 智也は少し考える仕草をし、漆黒の前髪をかき上げる。
 そして腕時計を見て、時間を確認した。
 その時。
「! あ……」
 つばさは何かに気がついたように、ふと声を上げる。
 その声に、智也は再び視線をつばさに戻した。
 つばさは漆黒の瞳を細めて表情を変えると、智也に向き直る。
 そして、言った。
「智也、どうやらお仕事のようよ。あの人たちが……こっちに、向かって来てるわ」
 つばさの言葉を聞いた智也は、ふっと笑みを浮かべる。
 それから、もう一度時計に目をやった。
「そっか。んじゃ、俺も一仕事してくるかな。あ、もうすぐ時間だから、こっちはよろしくね」
 そう言って智也はひらひらと手を振ると、公園の出口の方向へと歩を進める。
「あれ? 智也くん、どこ行くの?」
 綾乃と雑談をしていた孝子は、この場を離れようと歩き出した智也の様子に気がつき、ふと首を傾げる。
 つばさはそんな孝子ににっこりと微笑み、彼女の言葉に答えた。
「智也はね、別の仕事が入ったの。でも大丈夫よ、貴女のそばには私たちがいるから」
 それからふっと表情を変えると、ゆっくりとこう続けたのだった。
「そろそろ時間ね。始めましょうか」




「そのペガサスなんだけどね、王子が夢の国の森で道に迷った時、始めて出会ったんだ。そして迷子になっていた王子を、お城まで連れて行ってくれたんだよ」
「わぁっ、そうなんだ。何だか運命的な出会いって感じで、すごく素敵ね」
 学校を出た詩音と眞姫は、相変わらず妙に噛み合っている不思議会話を展開させながら、蒼から紅へと変わり始めた空の下を歩いていた。
 詩音はにっこりと穏やかな微笑みを眞姫に向け、彼女の風に揺れるブラウンの髪を撫でる。
 眞姫は細くて長い詩音の指の感触に、照れたように顔を上げた。
 そして、うっすらと頬を赤らめる。
 彼女の大きなブラウンの瞳に映るのは、優しく自分を見つめている詩音の美形の顔。
 同じ美形でも、健人や杜木とはまた違った、上品で繊細な雰囲気。
 改めてその綺麗な顔を間近で見て、眞姫はほうっと小さく息をつく。
 そしてそんな詩音の穏やかな笑顔は、彼の伯父である傘の紳士とよく似ていると思ったのだった。
 息子の鳴海先生よりも、甥の詩音の方がずっと紳士に似ているなんて。
 そんな鳴海一族のことを面白いなと思いながらも、眞姫は大きな瞳を楽しそうに細める。
 ――その時だった。
「……!」
 眞姫はふと足を止め、おもむろに背後を振り返る。
 彼女の表情の変化に気がついた詩音も立ち止まると、眞姫に声をかけた。
「お姫様?」
 眞姫は自分を不思議そうに呼ぶ声を聞いて、詩音を見上げる。
 そんな彼女の表情は、複雑な色を浮かべていた。
「詩音くん……何だか今、すごく嫌な予感がしたの。詳しくはよく分からないんだけど……私、行かないといけない気がする」
「…………」
 詩音はその眞姫の言葉に、ふっと色素の薄い瞳を細める。
 それからいつも通りの優しい笑みを宿し、彼女に訊いた。
「行くって、どこに行くんだい? お姫様」
「あっちの方向にね、何かは分からないんだけど、邪悪な気配みたいなのを感じるの。詩音くん、行こう」
 詩音は真剣な瞳で自分を見ている眞姫に目を向けてから、視線を遠くへと移す。
 眞姫には言わなかったが……“空間能力者”である彼には、分かっていたのだった。
 複数の“邪者”と、そして例の明石孝子の気配が同じ場所にあることを。
 そして、彼らが何かをしようとしていることも。
 だが詩音は、いてもたってもいられない様子の眞姫を穏やかに宥める。
「お姫様、お城へ帰る途中に寄り道なんていけないな。さ、王子がお城まで送って差し上げるから」
「詩音くん……」
 眞姫は俯きながらも詩音に促され、数歩足を進めた。
 だがすぐに立ち止まり、大きく首を振る。
「ねぇ、詩音くん。詩音くんは“空間能力者”だから、分かるんだよね? 今、“邪者”が集まっていることも……何か分からない邪悪な気配があることも。詩音くん、お願い」
 詩音は少し考えるようにサラサラの髪をかき上げ、必死に自分に頼む眞姫を見た。
 それからふっと一息つき、彼女の頭にそっと手を添える。
「参ったな……さすがの王子も、愛しのお姫様には勝てないよ。お供しましょう、お姫様」
「詩音くん、ありがとう」
 にっこりと眞姫は笑顔を返し、詩音の手を取った。
 そして彼とともに、元来た道を引き返し始めたのだった。




 綾乃は隣で不安そうな表情をしている孝子に、明るい笑顔を向ける。
「……手順はこんな感じかなっ。オッケー?」
「え? う、うん」
 緊張の面持ちながらも、孝子は綾乃の言葉にコクンと頷く。
 綾乃は、そんな彼女の様子を気遣うように笑った。
「大丈夫だよ、ちゃんと出来るから。“邪”を召還するまでは、綾乃ちゃんも手伝ってあげられるし。まぁ、取り込んでからがちょっと大変だけど……んじゃ、始めよっか」
 そう言って綾乃は、スッと瞳を閉じた。
 それと同時に、その身体から強大な“邪気”が開放される。
 孝子も同じように目を伏せ、綾乃に事前に言われていた通りに精神を集中させた。
 途端に身体中が熱を帯び、ふわりと軽く茶色に染めた髪が揺れる。
 自分の中にある何かが、ゆっくりと目覚めるような……そんな不思議な感覚に、孝子は陥る。
 これが終わって、“邪者”になりさえすれば。
 きっと、もっともっと大好きな渚に近づけるはず――……。
「!」
 その瞬間、孝子の様子をじっと見ていたつばさは、驚いたように瞳を見開く。
 綾乃のサポートする“邪気”に共鳴するように、孝子の身体から大きな漆黒の光が弾けたのだった。
 今まで不完全であった孝子の“邪の波動”が、今ははっきりと目に見えて感じることができる。
 つばさはそんな孝子を見つめながら、ふっと口元に笑みを浮かべたのだった。
 そして――まさに、同じ時。
「!」
「えっ!?」
 孝子たちのいる公園内に足を踏み入れた眞姫と詩音は、同時に顔を上げた。
 眞姫はゾクッと全身に鳥肌が立つのを感じながら、詩音を見つめる。
「詩音くん、今……」
 そんな眞姫を安心させるかのように、普段通りの微笑みを美形の顔に宿した後、詩音は彼女の栗色の髪をそっと撫でた。
 それから再び顔を上げると、その穏やかな印象の声を前方に向けて発したのだった。
「これはこれは、黒い騎士のお出ましだね。僕たちの足止めかな?」
「こんにちは、“能力者”の王子様。眞姫ちゃん、会えて嬉しいよ」
 ――いつの間にか、ふたりの前に現れたのは。
「智也くん……」
 眞姫は自分ににっこりと笑顔を向けるその少年・智也に、視線を移す。
 そんな眞姫に、嬉しそうにもう一度笑みを浮かべてから、智也は詩音に言った。
「足止め、ね。そうだな、ここで“結界”張って、王子様の夢の国を体験してもいいけど」
 そこまで言って、智也はふっと笑う。
 そして眞姫を見つめながら、こう続けたのだった。
「せっかくだから、眞姫ちゃんも見ておかない? 孝子ちゃんが、召還した“邪”を身体に取り込む瞬間を。“邪者”が誕生する、第一歩をね」
「えっ、明石さんが!?」
 智也の言葉に、思わず眞姫は驚いたような声を上げる。
 智也たち“邪者”が、彼女に対して何かしようとしていることは話に聞いていたが。
 まさか、孝子が“邪者”になるだなんて。
 驚きを隠せない眞姫とは対称的に、詩音は予想通りだったかのように表情を変えない。
 詩音はふと智也に色素の薄い瞳を向け、彼に訊いた。
「それで君がお姫様と王子を、黒の騎士誕生の場にエスコートしてくれるということなのかな?」
「王子様とお姫様が望むのならばね。でも……“能力者”の君には、一切手出しはさせないけど」
 詩音は、智也から視線を眞姫に戻す。
 そんな彼の様子に気がつき、眞姫はコクンと頷いた。
「私、行くよ。明石さんのところに」
「眞姫ちゃんなら、きっとそう言うと思ったよ。じゃ、行こうか」
 智也はそう言って、ゆっくりと歩き出す。
 智也の様子をさり気なくうかがいながらも、詩音は紳士的に眞姫を伴ってそれに続いた。
 眞姫はまだ鳥肌の立っている腕を擦り、得体の知れない“邪”の気配に表情を引き締める。
 そしてギュッと手のひらを強く握り締め、孝子の元へと向かったのだった。




 ――その頃、聖煌学園。
「あーっ! もう俺、我慢ならねーよっ!」
 すでにふたり以外誰もいない2年Bクラスの教室で、拓巳はイライラしたようにガッと目の前の椅子を蹴飛ばす。
 准はそんな拓巳の様子に、はあっとわざとらしく溜め息をついた。
「気持ちは分かるけど、ここで待機って言われただろう? あの人の指示に逆らったら、またボコられるよ、拓巳」
「ていうか、何で鳴海の野郎、こんな回りくどいやり方するんだよっ。明石孝子が“邪”取り込む前に、さっさとそれを“気”で浄化しちまえばいい話じゃねーかよ。なのに、姫に危険が及ぶかもしれない方法なんて取りやがって……」
 鬱陶しそうに漆黒の前髪をかき上げ、拓巳はチッと舌打ちする。
 准はそんな拓巳の言葉に、複雑な表情をした。
 拓巳の言う通り、鳴海先生の今回の指示は、眞姫にとって危険が及ぶかもしれない。
 だが、先生は敢えてその方法――孝子に一度“邪”を取り込ませ、完璧に同化する前に、眞姫の“憑邪浄化”をもって事を収拾する――その選択をしたのだった。
 あの鳴海先生が、何の思惑もなくそういう指示を出したわけではないことは、想像できる。
 しかしやはり眞姫に、危険が及ぶかもしれないことはさせたくない。
 人一倍その気持ちが強い准は、何かを考えるように瞳を伏せる。
 それからふうっと嘆息して目を開けると、苛立っている様子の拓巳に視線を向けた。
 そして、意を決したようにこう言ったのだった。
「拓巳、どっちの“結界”に行く? 二手に分かれよう」
 渚と涼介の張ったふたつの強い“邪気”の“結界”を感じながら、准は立ち上がる。
 拓巳はそんな准の意外な言葉に、一瞬きょとんとした。
 いつもなら、先生の指示にきちんと従う准であるのに、そんな彼にしては珍しい。
 そう思った拓巳だったが、ニッとすぐその顔に笑みを宿す。
 そして勢いよく椅子から立ち上がり、漆黒の瞳を細めた。
「これ以上、ここでじっとしてなんていられねーよなっ。待機してるくらいなら、後でピーピー鳴海に小言言われる方がまだマシだ」
 准はそんな拓巳の言葉に頷きつつも、ふっと笑みを浮かべて口を開く。
「先生の小言は覚悟してるけど、ボコられる役は慣れてる拓巳に譲るよ」
「何だよそれっ。でもおまえなら、何気に人のこと、平気でさり気なく盾にし兼ねないけどな……」
 ぼそっとそう呟いた拓巳に、准はわざとらしい笑顔を宿した。
「それって、一体どういう意味なのかな? 僕には分からないよ、拓巳」
「おまえ……目が全然笑ってないぞ」
 作った微笑みを浮かべる准をちらりと見てから、拓巳は小さく溜め息をつく。
 それから気を取り直し、気合を入れるようにグッと拳を握り締める。
 そして大きな漆黒の瞳をスッと細め、言った。
「よし、んじゃ行くか」
 准も、その拓巳の言葉に大きく頷く。
 そしてふたりは仲間の元へ行くため、2年Bクラスの教室を出て行ったのだった。