3
――6月13日・水曜日。
放課後の雑踏の中、掃除当番を終わって教室に戻りながら、渚はブツブツと誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
「まったく……何でよりによってこの僕が、こんな面倒なことしなきゃいけないんだよ。あーあ、おかげで愛しの清家先輩にも会いに行けないし、いい加減あの明石さんのテンションに合わせるのもウンザリだし」
人形のようなベビーフェイスを少し顰めて、渚は小さく嘆息する。
そして時計を見てから、気を取り直すように言った。
「まぁ今日は、杜木様もいらっしゃるからいいんだけどね」
渚は漆黒の前髪をそっとかき上げ、1年Dクラスの教室へと入っていく。
それからふっと得意の作り笑顔をその顔に宿すと、ひとりのクラスメイトに声をかけた。
「ごめんね、待たせちゃって。じゃあ行こうか、孝子ちゃん」
「あっ、ううんっ。全然待ってなんてないから気にしないで、渚くんっ」
渚に声をかけられた少女・孝子は、パッと表情を変えて早口で言った。
渚はにっこりとジャニーズスマイルを孝子に向けた後、自分の席に戻りカバンを取る。
そしてまだ少し興奮気味な彼女と並び、教室を出たのだった。
「あ、渚くん。昨日のドラマ観た? あのドラマ面白いよねっ」
「うん、観たよ。これからどうなるんだろうね」
適当に話を合わせながら、渚は作り笑顔を絶やさずに何気に相槌を打つ。
そして、心の中で嘆息した。
孝子の口から出る話題は、決まってテレビの話や噂話ばかりで。
正直渚は、ワンパターンな内容の上、異様にテンションが高い孝子との会話に嫌気がさしていたのだった。
だが、渚はこの日、そんな孝子をお茶に誘っていた。
もちろんそれはプライベートでは決してなく、“邪者”としての仕事であるのだが。
仕事とはいえ、早くこの役目を終わりたい。
そう心の中で思いながらも、渚は孝子の話を興味深そうに聞いているフリをしていた。
そんな渚に与えられた、今回の仕事とは……。
「あ、そうだ。孝子ちゃんなら知ってると思うんだけど……モデルの杜木慎一郎って、知ってる?」
「えっ? あ、もちろん知ってるよっ、めっちゃあの人格好良いよねぇっ。神秘的で大人で、すっごく綺麗な顔してるしっ。でも、どうして?」
渚の口から出た意外な人物の名前に、孝子は首を傾げる。
渚はそんな孝子に目を向け、こう言ったのだった。
「僕、知り合いなんだ。それでその彼が、今日孝子ちゃんに会いたいって言ってるんだけど」
「えっ、私に!? どうして?」
思わぬ渚の言葉に、孝子は大きく瞳を見開く。
渚は漆黒の瞳をふっと細め、彼女の問いに無難に答えた。
「話せば長くなるし……あの人の話を聞けば、理由も分かると思うから。駄目かな?」
「え? ううん、駄目だなんてとんでもないよっ。でも、あの杜木慎一郎に会えるなんて何か緊張しちゃうっ、どうしよーうっ」
慌てるように手で髪を撫で、孝子は頬を紅潮させる。
杜木は有名ブランドの御曹司であるが、その美形な容姿を生かし自社ブランドの専属モデルもしている。
とはいえ、モデルはブランド経営の副業であるために、それほど雑誌などに頻繁に露出しているわけではない。
だが、その神秘的な魅力と天性のカリスマ性から、世間の注目を浴びていた。
その上に彼は物腰柔らかで紳士的、さらに頭も良く知的でもある。
そんな彼が、世の女性の心を鷲掴みにしているのは当然で。
一般人だけでなく、つばさを始め“邪者”の中でも彼に憧れている女の子は多い。
しかもそのカリスマ性ゆえ、“邪者”の男どもからも尊敬され支持されているのである。
自分至上主義で自信満々な渚でさえ、杜木のことだけは心から尊敬しているくらいだった。
渚は妙にはしゃいでいる孝子の様子にそっと嘆息しながら、ちらりと時計を見る。
渚の今日の仕事は……“邪者”の素質のある孝子を、杜木と引き合わせることだった。
――その時。
渚はふっと顔を上げ、表情を変える。
それから満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに口を開いた。
「あっ、清家先輩っ!」
「あ、渚くん。こんにちは」
渚の声に振り返ったのは、彼が想いを寄せる少女・眞姫であった。
振り返り様、彼女の栗色の髪がふわりと揺れる。
渚は得意の甘えたような可愛らしい微笑みを宿し、漆黒の大きな瞳を彼女に向けた。
「先輩、こんにちはっ。先輩も、今から帰るんですか?」
「ううん、今から職員室に行くところよ」
「そうですか……あっ、今度また一緒にお茶して帰りませんかっ? 僕、いろいろいい店調べておきますからっ」
渚のその言葉に、眞姫はコクンと頷いて笑顔を浮かべる。
「うん、行こうね。今度、渚くんの都合のいい日あったら教えてね」
「もう僕なら、いつでも全然空いてますっ。むしろ先輩とお茶できるなら、いつでも空けますからっ」
「ふふ、渚くんったら。じゃあ、楽しみにしてるね」
一生懸命な渚の様子にくすくす笑ってから、眞姫は軽く彼に手を振り図書館へと歩き出した。
渚はペコリと一礼した後、眞姫の後姿を見惚れたように見送る。
「…………」
そんな彼の隣で、先程までテンションの高かった孝子は途端に神妙な顔をした。
それから、渚に訊いたのだった。
「渚くん、あの先輩と仲いいの?」
「清家先輩? あ、うん。すっごく親切にしてもらってるんだ、僕」
「清家、先輩……」
ぽつりと呟き、孝子は小さくなって行く眞姫の後姿を見つめる。
そして孝子は、隣で幸せそうな顔をしている渚の様子に気がついて眉を顰めた。
以前も、渚と眞姫が話をしている場面を見かけた孝子だったが。
明らかに自分と話す時と眞姫と話す時とでは、渚の表情が違っている。
それに同性の孝子から見ても眞姫は可愛い顔をしていて、女の子らしい雰囲気を持っていた。
孝子は思わず俯き、言葉を失ってしまう。
そんなギュッと無意識に唇を噛み締めた孝子の心には、眞姫に対しての嫉妬の感情が湧いていたのだった。
「孝子ちゃん、行こうか」
眞姫からようやく視線を孝子に戻し、渚は得意の甘い声で彼女に声をかける。
孝子はハッと我に返って顔を上げた後、自分を映す渚の大きな瞳にドキッとした。
そして気を取り直し、嬉しそうに頷いたのだった。
――同じ頃。
2年Bクラスの教室を出た准と拓巳は、下校するために靴箱に向かっていた。
「ったく、鳴海のヤツ、数学の課題出しすぎじゃねーか!? あーくそっ、ムカつくっ」
「出しすぎも何も、どうせ拓巳は僕のやってきた課題写すだけなんだろう?」
はあっとわざとらしく嘆息し、准はじろっと拓巳に目を向ける。
拓巳は悪びれのない表情で、そんな准に言った。
「何だよ、減るもんじゃないしよ。んじゃ明日もノート頼んだぜ、准っ」
ぽんっと調子よく肩を叩く拓巳に、准はふっと瞳を伏せる。
それから思い切り作った笑顔を拓巳に向け、ゆっくりと口を開いた。
「絶対見せないから、そのつもりでね。拓巳」
「何だよ、俺が数学苦手なの知ってるだろ!? それに、俺が鳴海にボコられてもいいってのかよ」
「それ以前に、ちゃんと課題やってきてたらボコられないし。それかいっそのこと、懲りるくらいボコボコにされてみたらどう?」
にっこりと相変わらず作った微笑みを浮かべながら、准は怖いくらい穏やかな声で言った。
拓巳は漆黒の前髪をかき上げ、ブツブツと呟く。
「ていうか、目が全然笑ってないぞ……。いいじゃねーかよ、ノート見せるくらい。ケチケチすんなよ」
「ふーん、そんなこと言うんだ。あ、そうだ。先生より前に、僕がボコボコにしてあげようか?」
「……おまえって、何気に笑顔で怖いこと言うよな」
はあっと溜め息をつき、ようやく諦めたように拓巳はスタスタと階段を下り始める。
それからふと何かに気がつき、階段の踊り場で足を止めた。
「どうしたの、拓巳?」
表情の変わった拓巳の様子に首を傾げた後、准も彼の視線を追う。
拓巳はふっとひとつ嘆息し、言った。
「階段の下、見てみろよ」
准はおもむろに瞳を細め、そしてその場にいた人物を確認すると、こう口を開いた。
「相原くんと……例の、1年Dクラスの明石さんだね」
ふたりと少し離れたところを歩いていたのは、渚と孝子だった。
以前から渚が孝子に近づいて何か企んでいるようだということは、准と拓巳も聞いていた。
それに先日のゲームからも分かるように、“邪者”側が少しずつ動きを見せ始めている。
准は少し考えるような仕草をして、拓巳に言った。
「拓巳、どう思う?」
「どうって、相原のあの胡散臭い笑顔がムカつく。ていうか、絶対何かありそうだよな」
「そうだね……」
准は拓巳の言葉を聞いて頷いてから、そしてもう一度渚たちに目を向けたのだった。
――それから、数十分後。
渚と孝子は、繁華街の喫茶店にいた。
「それからね、その時に純子ったらね……あ、純子って隣のクラスの子なんだけど、それでね……」
相変わらずひとり興奮気味に、孝子は学校の噂話で盛り上がっている。
渚は内心そんな会話に飽き飽きしつつも作り笑顔を崩さないまま、適当に彼女と話を合わせて頷いていた。
そして、さり気なく腕時計を見る。
仕事が終わった杜木が、もうそろそろ現れるであろう。
早く孝子の内容のない話から開放されたいと思いながらも、抜かりなく渚は得意の作った笑みは絶やさなかった。
……その時。
ふと携帯電話が誰かからの着信を知らせ、ブルブルと震える。
渚は携帯を取り出して着信者を確認して少し表情を変えてから、目の前の孝子に言った。
「ごめんね、ちょっと電話してきてもいい?」
「え? あ、うんっ」
渚の言葉に、孝子は大きく頷いた。
そんな彼女ににっこりとベビーフェイスを向けてから、渚はスタスタと店の外に出る。
そして今までと全く印象の違う表情をして、携帯電話の通話ボタンを押した。
「何だよ、人がめっちゃめちゃ忙しい時に電話してきやがって。こっちは仕事してるってのっ」
『こんにちは、渚。ていうか、そんな口の利き方していいと思っているのかしら? せっかくそのお仕事の手伝いしてあげようと電話してあげたのに。じゃあ、切るわよ』
渚の毒舌にも一向に怯む様子もなく、電話の相手・つばさは嘆息する。
渚はチッと舌打ちし、渋々口を開いた。
「……何だよ、聞いてやるからさっさと用件言えよ」
『何よ、偉そうに。別に聞きたくなかったら無理に聞かなくてもいいのよ、渚』
「あーもうっ、だから用件は何だってこの僕が聞いてんだろ!? 僕はおまえと違って忙しいんだ、あと5秒以内に言えっ」
イライラした様子で、渚は漆黒の前髪を鬱陶しそうにかき上げる。
そんな渚とは逆に、電話の向こうのつばさはふっと一息つく。
それから、ゆっくりと用件を言ったのだった。
その言葉を聞き、渚はおもむろに表情を変える。
「ていうか、どこだよ? あと、杜木様は今どの辺にいらっしゃるんだ?」
渚はつばさの声を耳にしながら、スタスタと歩き出した。
そして彼女と会話を終えて携帯電話をしまった後、わざとらしく溜め息をつく。
その後、漆黒の瞳を細め、嫌味なくらい可愛らしい声で言ったのだった。
「コソコソこの僕のストーカーだなんて。相変わらず鬱陶しいですねー、先輩方」
「あ? 好きでおまえのストーカーなんてしてねぇっての」
その言葉を聞いて、渚と孝子の後を尾けていた拓巳はじろっと渚を見る。
拓巳と一緒にふたりを追っていた准も、わざとらしく穏やかな声で渚にこう訊いた。
「コソコソしているのはどっちだろうね、相原くん。一体、何をしようと企んでるのかな?」
渚は大袈裟なくらい小首を傾げ、准に言葉を返す。
「一体何のことでしょうか、芝草先輩。全然、一切、全く心当たりないんですけど?」
「ったく、胡散臭いんだよっ。その猫撫で声と笑顔」
はあっと嘆息し、拓巳は気に食わない顔をする。
准はにっこりと作り笑顔を浮かべると、負けずに渚に言った。
「あれ、聞こえなかったかな? もう一度言うよ。あの明石さんを巻き込んで、一体何をしようとしているのかなって、僕は聞いてるんだよ」
「だから、言ってるでしょ? 何のことだか、ぜーんぜん分からないって」
そこまで言ってから、渚はふっと口元に笑みを浮かべる。
そして先程までの可愛らしいものとは印象を変えた声で、こう続けたのだった。
「ていうか、何かあるにしても、先輩たちに言うとでも思ってるんですか? そんなこと、考えても分かるでしょ。というわけで、ウザイから早く帰っていただけませんか?」
渚の相変わらずな言動に気に食わない表情を浮かべて、拓巳は漆黒の瞳を細めた。
「相変わらずムカつくこと言ってんじゃねーぞ、このガキ。泣かすぞっ」
「先輩こそ、後輩に泣かされない前に帰った方がいいんじゃないですか? あー親切に忠告するなんて、僕って先輩思いだと思いません?」
「んだと!? あームカつくっ。マジでぶっ飛ばすぞっ」
くすくす煽るように笑う渚に、拓巳はじろっと目を向ける。
そんな拓巳を宥めるように肩を叩き、准はすかさず口を開いた。
「あんな低レベルな口車に乗ったら駄目だよ、拓巳」
「あー芝草先輩の言うことって、いつも何かムカつく。ていうか、本っ当に性悪ですよねー。その本性隠して、清家先輩をまんまと騙してるってワケですか?」
「その言葉、そっくりそのまま君に返すよ、相原くん」
渚に怖いくらいの笑顔を向け、准はすぐさま言葉を返す。
そして一歩も引かない両者の言葉の攻防に、拓巳は思わず溜め息をついた。
何気に怒らせたら誰よりも怖そうな准に、渚は堂々とあんな大きな口を叩くなんて。
いや、あの渚のマシンガンな毒舌に負けない准がすごいのか。
どちらにしろ、裏表の激しい渚と何気に腹黒い准の言葉の戦いには、自分はついていけそうにない。
そう思った拓巳はザッと前髪をかき上げると、“結界”を張ろうと“気”を漲らせる。
――その時だった。
「!?」
「……!」
拓巳と准は、ハッと顔を上げて表情を変えた。
渚はふと視線をふたりから外し、漆黒の瞳を細める。
そして、わざとらしく息を吐いて言った。
「ていうかさ、一体何しに来たんだよ……涼介」
自分の張った“邪気”の“結界”をぐるりと見回した後、その場に姿を現したその人物・涼介は笑う。
「何って、今日は杜木様が例の彼女とお会いするって聞いてね。だから僕も、例の彼女を前もって見ておきたいなって思って来たんだけど」
そこまで言って、涼介はちらりと“能力者”のふたりに目を向け、続けた。
「渚が“能力者”とじゃれてるのを見かけてね、僕も混ぜてもらおうかなって」
「あ? じゃれてなんかないっての。ていうか、ちょうどよかったよ、もうすぐ杜木様と約束してる時間になっちゃうんだよね。仕事の邪魔になってウザイから、先輩たちの足止めくらいして僕の役に立てよ」
相変わらずふてぶてしい渚の態度にも慣れているように、涼介は甘いマスクに笑みを宿す。
それから軽く手を上げ、頷いた。
「もう例の彼女も見たことだし、杜木様をお待たせするわけにはいかないからね。いいよ、僕が彼らを足止めしておいてあげるよ。その代わり、今度君の“赤橙色の瞳”を是非僕に研究させて欲しいな」
「冗談じゃない、おまえって何気にヤバイからな。アヤシイ研究に付き合うなんてゴメンだよ。綾乃で我慢しとけって言ってるだろ? んじゃ、僕は行くから後はよろしくー」
ひらひらと手を振り、渚は涼介の張った“結界”を抜けようと手を翳す。
「待てよっ、逃がすかっ!」
拓巳はそんな渚の“邪気”に反応し、“気”を漲らせた。
次の瞬間、大きな衝撃音が周囲に響き渡る。
「ち……っ」
拓巳は舌打ちし、渚と自分の間にすかさず割って入った涼介に視線を投げた。
渚目掛けて放たれた拓巳の“気”を“邪気”の防御壁で防ぎ、涼介は笑う。
「聞こえなかったかな? 僕が君たちの足止めをする、ってね」
渚はちらりと一度だけ涼介を振り返った後、スッと“結界”を抜けて姿を消した。
准は涼介の動きを警戒しつつも、彼に訊いた。
「“邪者”の統率者である杜木慎一郎が、例の彼女・明石さんに会うって……“邪者”は彼女に、何をしようとしているのかな? それに貴方ひとりで、僕たち“能力者”ふたりを足止めする気?」
准の問いに、涼介はふっと口元に笑みを浮かべる。
それから、ちらりと背後を振り返って言った。
「例の彼女に何をしようとしているかって? そんなこと、“能力者”の君たちに話す義理はないよ。それに、確かにひとりで“能力者”ふたりを足止めするのは大変かもしれないけど……2対2なら、十分楽しめるだろう?」
「!」
拓巳は涼介の“結界”に侵入してきたもうひとつの気配に気がつき、表情を変える。
准も険しい顔をし、軽く身構えた。
そして、その場に現れたのは。
「涼介、何やってんだよ。随分楽しそうな状況じゃないか」
「やあ、智也。君こそどうしたんだい?」
涼介はにっこりと笑顔を宿し、“結界”に入って来た智也に声をかけた。
ふと“能力者”のふたりに目を向けた後、智也は涼介の言葉に答える。
「つばさちゃんからメール貰ってね。渚の仕事の手助けに来たんだけど、どうやらおまえに先越されちゃったみたいだな」
「いやいや、ちょうどよかったよ。“能力者”のおふたりさんもやる気満々みたいだし、この間のゲームの続きでもするかい? 今度はタッグマッチで」
そう言って手に“邪気”を漲らせてから、涼介はくすっと楽しそうに笑って続けた。
「でも、今回はルールはないからね。さ、始めようか」
「上等だ、受けてたってやる。かかってきやがれっ」
キッと“邪者”のふたりに鋭い視線を投げ、拓巳もその手に“気”を宿す。
准も冷静に状況を探りながら、“邪者”の攻撃に備えてグッと拳を握り締める。
バチバチと“気”と“邪気”が触れ合って反発し合う中、智也はふっと笑った。
「まったく、仕方ないな。でも、ちょっと面白そうかも」
そして智也も、漆黒に輝く強大な“邪気”をその手に集結させたのだった。
――同じ頃。
涼介の“結界”を抜け出した渚は、孝子を待たせてある喫茶店に戻って来た。
「智也のヤツも来たのかよ。ま、でもこれでウザイ先輩たちに、仕事を邪魔されることもないだろーしな」
そう呟いた後、渚はその顔に再び作り笑顔を宿した。
そして席に戻り、にっこりと孝子に微笑む。
「ごめんね、孝子ちゃん。ちょっと、電話が長引いちゃって」
「ううん、大丈夫だよ、渚くん」
カチカチとメールを打っていた手を止め、孝子は大きく首を振った。
……その時。
渚はふと顔を上げ、喫茶店の入り口に目を向ける。
喫茶店内の空気が、一瞬にしてその印象を変えた気がしたからである。
そして現れたのは……ひとりの男。
「待たせたね、渚。初めまして、君が明石孝子さんだね?」
ふたりの席までやってきたその男・杜木慎一郎はよく響くバリトンの声でそう言った。
孝子は目の前の杜木の綺麗な顔に、ただ言葉もなくほうっと見惚れるしかできなかった。
雑誌で見る彼も十分に格好良いのだが、実物はさらに綺麗で。
しかも、何だか圧倒されるようなオーラを感じる。
何も言えなくなってしまった孝子に、杜木は優しく微笑む。
そして彼女の正面に座り、こう言ったのだった。
「渚から、君のことは聞いていたよ。ゆっくり話がしたかったんだ、会えて嬉しいよ」
――その頃。
喫茶店にほど近い地下鉄の階段を上りながら、眞姫は心配そうな表情を浮かべていた。
「今、すぐこの近くで“結界”が張られたよね? 中にいるのは……拓巳と准くんと、あと智也くんと、あの涼介っていう人みたいだけど」
「ちょっと待て、姫」
急いで階段を駆け上がる眞姫の手を、一緒にいた健人は咄嗟に掴んだ。
そしてひとつ溜め息をつき、彼女に言ったのだった。
「おまえは先に帰ってろ、姫。姫を、危険な目に合わせるわけにはいかない」
「健人……」
学校の図書館で用事を済ませた眞姫は、帰りの靴箱で偶然健人と会った。
家の方向が同じ二人は、一緒に下校することになったのだが。
途中で涼介の張った“結界”に気がついたふたりは、繁華街へと赴いたのだった。
眞姫は足を止め、自分を制する健人に視線を向ける。
それから首を振り、口を開いた。
「健人の心配してくれる気持ちはすごく嬉しいよ、ありがとう。でもやっぱり私、誰にも怪我して欲しくないの。“能力者”はもちろん、“邪者”でも誰でも。私が行ってどうにかなるかは分からないけど、やれることはしたいんだ」
「姫……」
真っ直ぐに自分を見つめる彼女の真剣な眼差しに、健人は少し考える仕草をする。
そしてブルーアイを細め、頷いたのだった。
「分かったよ、姫。姫のことは、俺が守ってやる」
「うん。ありがとう、健人」
嬉しそうにそう微笑み、眞姫は再び階段を上り始める。
健人はすぐ近くに感じる涼介の“結界”を見た後、彼女に並んで歩を進めたのだった。
――そして、涼介の“結界”の中では。
「なぁ、准」
拓巳はふと、准に声を掛けた。
准は“邪者”の出方をうかがいながらも、無言で拓巳に視線を返す。
そんな准に、拓巳はこう言ったのだった。
「准、せっかくだからよ、アレやってみようぜ。作戦Aだよ」
「作戦Aって……昔考えた、アレだね」
「ああ。作戦立てたのはいいけど、やる機会も滅多にないしよ。ものは試しだ、試してみようぜっ」
それだけ言って、拓巳はさらにその手に“気”を漲らせる。
そして、ダッと勢いよく地を蹴った。
素早く“邪者”との距離をある程度つめた拓巳は、大きく跳躍する。
それから上空で、“気”の集結した右手を後ろへ引いた。
「上に飛ぶなんて、いかにも狙ってくださいって言ってるようなもんじゃないか」
「何か作戦がどうのって言ってたからね、敢えて乗ってみるかい? 智也」
智也と涼介はそう会話を交わした後、ふたり一斉に漆黒の衝撃を拓巳目がけて放ったのだった。
グワッと唸りを上げ、強大な“邪気”が拓巳に襲いかかる。
だが拓巳はそれを防ぐ様子も見せず、ニッと笑みを浮かべた。
次の瞬間、カアッと眩い光が“結界”内を包む。
そして。
「!」
「……!」
涼介と智也は、自分たちの攻撃が綺麗に無効化されたのを見てふっと表情を変えた。
……ふたつの漆黒の光が届く、それよりも早く。
拓巳の目の前に、准が防御壁を形成したのだった。
「おらぁっ、くらいやがれっ!」
准の防御壁で全く無傷の拓巳は、そう言って上空から無数の強大な“気”を繰り出す。
刹那、地面をえぐるような地鳴りがし、大きな光が弾けた。
「動く人間を守る防御壁か……なかなか高等な技術じゃないか」
咄嗟に“邪気”の防御壁を張って拓巳の攻撃を防いだ涼介は、そう呟いてふっと笑う。
その時。
「! 涼介っ」
同じく防御壁を張って“気”の衝撃をやり過ごしていた智也は、ハッと顔を上げて短く叫んだ。
それと同時に、再び轟音が耳を劈く。
刹那、衝撃の大きさを物語るかのように、涼介の張った“結界”内に衝撃の余波が立ち込めた。
だが。
「ちっ、また防御壁で防ぎやがったか」
地に着地した拓巳は、体勢を整えてそう呟く。
拓巳の攻撃を“邪者”のふたりが防いだと思った、次の瞬間。
間髪入れず、今度は准がふたり目がけて“気”を放ったのだった。
そして思わぬ准の“気”の攻撃ではあったが、“邪者”のふたりは何とか再び防御壁を張ってそれを防いだのである。
智也はふうっとひとつ息を吐き、感心したように口を開く。
「なるほどね、フェイントのフェイントか。ていうか、さすが“能力者”。随分と息が合ってるな」
「じゃあ智也、僕たちもやるかい? 作戦B」
くすっと笑い、涼介は悪戯っぽく智也を見る。
智也は漆黒の瞳を細めて同じ色の前髪をかき上げてから、すかさずツッこんだ。
「ていうか涼介、そんなのないし」
「そういえばそうだね。うーん、じゃあ仕方ないな」
楽しそうにそう言った後、涼介は不敵に笑みを浮かべる。
それから、こう言葉を続けた。
「ま、僕たちは僕たちらしい戦い方をするしかない、ってことだね」
「俺たちらしい、か。そうだな」
ふっと涼介の言葉に笑い、智也はその手に“邪気”を宿す。
そして。
「!!」
「……っ!」
涼介と智也が、同時に動いたと思った……その瞬間。
ふたりは咄嗟に二手に分かれ、ひとりずつバラバラに攻撃を仕掛けたのだった。
涼介の漆黒の“邪気”が拓巳に襲いかかり、智也の拳が准目がけて放たれる。
「俺たち“邪者”って、“能力者”と違って個人主義なんだよね。だから、タッグ組むよりも……ひとりずつの方がやり易くてねっ!」
智也はそう言うと、身を翻して攻撃をかわした准に“邪気”を放つ。
涼介も拓巳目がけ、強大な漆黒の光を繰り出した。
「くっ、団体戦だろうが個人戦だろうが、受けてたってやるってんだよっ!」
拓巳はギリッと歯をくいしばり、襲いかかってきた衝撃を受け止める。
准も智也の放った“邪気”を見据え、それを無効化させるべく防御壁を形成した。
再び“気”と“邪気”が、激しくぶつかり合う。
涼介はさらに攻撃を仕掛けようと、瞬時に漆黒の光をその手に宿した。
だが――次の瞬間。
涼介は何かに気がつき、おもむろに拓巳から視線を逸らす。
それから、拓巳とは全く別の方向目がけてその“邪気”を放ったのだった。
突然の涼介の行動に、3人は驚いたように瞳を見開く。
そして、その直後。
3人はすぐに、涼介の行動の意図が分かったのだった。
「! なっ……おいっ、涼介っ!」
智也は途端に表情を変え、涼介にそう叫ぶ。
「何っ!?」
「!!」
拓巳と准も同じく険しい表情を浮かべ、顔を上げた。
涼介が“邪気”を放った、その先には。
「姫っ!」
涼介の“結界”に駆けつけて干渉してきた、眞姫の姿があったのだった。
「!」
眞姫はいきなり襲ってきた漆黒の光に、驚いたように瞳を見開く。
だが咄嗟にそんな彼女をかばうように位置を取り、そばにいた健人は“気”をその身に宿した。
そして突然襲ってきた“邪気”に慌てる様子もみせず、スッとブルーアイを細める。
それから唸りを上げる漆黒の光を受け止めると、その威力を浄化させたのだった。
智也はそんな様子を見てホッとしてから、涼介に鋭い視線を向ける。
「涼介、おまえなっ! 眞姫ちゃんには手を出すなって、あれほど言ってるだろう!?」
「まぁまぁ、智也。さすがの僕も、お姫様に怪我させるつもりはないし。あの青い瞳の彼がいることが分かってたから、“邪気”を放ったんだよ。だから、そんなに怒らないでくれよ」
くすっと笑って智也を宥めてから、涼介はその場にいる全員を見回した。
その後、ふっとおもむろに手を掲げて言葉を続ける。
「智也を怒らせちゃったみたいだし、“能力者”3人に“浄化の巫女姫”が相手じゃ、分が悪いなぁ……そろそろ杜木様のお話も終わってる頃だろうし、退き時かな」
そう言って涼介は、自分の張った“結界”をあっさりと解除したのだった。
「! 待て、逃げる気か!?」
「……拓巳っ」
スタスタと歩き出した涼介を追おうとする拓巳を制止し、准は小さく首を振った。
拓巳はチッと舌打ちすると、動きを止める。
智也は眞姫に優しく微笑んで軽く手を振った後、涼介の後に続いて歩き出した。
「姫、大丈夫だったか!?」
「俺がそばについてたんだ、大丈夫に決まってる」
眞姫に駆け寄る拓巳に、健人は当然のように答える。
眞姫は心配そうな表情を浮かべる拓巳に、にっこりと微笑みを向けた。
「私は何ともないよ。拓巳と准くんこそ、怪我はない?」
「うん、僕たちも大丈夫だよ。よかった、姫が無事で」
准は安心したように眞姫に視線を向け、ホッとしたように胸を撫で下ろす。
それから表情を引き締め、健人と拓巳に言った。
「それにしても、“邪者”は一体何を企んでいるんだろうね。今回の件、あの杜木っていう人も絡んでいるみたいだし」
准の言葉に、眞姫は首を傾げる。
「杜木っていう人も絡んでるって……何かあったの?」
「んじゃ、まぁ立ち話もなんだしよ。どっか移動するか、姫」
拓巳の言葉に、ほかの3人は異議なく頷く。
それから揃って、賑やかな繁華街を歩き出したのだった。
――同じ頃。
「涼介、おまえな……眞姫ちゃんに危険が及ぶようなことは、もう二度と絶対にするな。もし彼女に危害加えるようなことがあったら、本気でただじゃ済まないからな」
普段は“邪者”の仲裁役である智也にしては珍しく、キッと鋭い視線を涼介に向ける。
そんな智也を見て、涼介は笑った。
「悪かったよ、智也。僕だって、これ以上恨まれて敵を作りたくないしね。それにお姫様に怪我されたら、僕だって困るし」
「じゃあ、あんなことするなよ……」
智也は深々と嘆息し、漆黒の前髪をかき上げる。
まだ険しい表情の智也とは対称的に、涼介は楽しそうに笑みを浮かべた。
それから瞳を細め、ぽつりと言ったのだった。
「杜木様と渚の方も、もう話は終わった頃かな?」
……その、杜木たちはというと。
頼んだ紅茶にひとくちも手をつけないまま、孝子は何度も瞬きをさせた。
そして渚と杜木を交互に見つめ、ゆっくりと口を開く。
「本当に私に……その、“邪者”の素質があるんですか?」
「そうだよ。だが、“邪者”になることを私は強制はしない。しかも現実離れした内容だ、簡単に信じろという方が無理だからね。いつでもいい、答えが出たら私に教えてくれないかな」
美形の顔に柔らかな微笑みを湛え、杜木は優しく孝子に言った。
孝子は信じられないような表情をしながらも、ちらりと渚を見る。
渚はそんな視線に気がつき、彼女を安心させるように相変わらず作った笑顔を向けた。
孝子はそんな彼の可愛らしい容姿に見惚れ、頬を赤くする。
「“邪者”になれば、渚くんと同じ……」
孝子はそう呟き、ふと俯いた。
杜木から聞いた話は、本当に突拍子もない信じ難い話で。
でも何故かそれが嘘だとは、孝子には思えなかった。
それに彼女の脳裏には、あるひとりの人物の姿が浮かんでいた。
それは……女の子らしくて可愛い、眞姫の姿。
悔しいが、彼女は孝子から見ても魅力的な少女で。
自分は、どう考えても勝てそうにない。
だが、“邪者”になれば。
想いを寄せる渚に、もっと近づけるかもしれない。
孝子はグッと膝の上で拳を握り締め、それからふと顔を上げる。
そして渚を見た後、神秘的な杜木の漆黒の瞳を見つめて言ったのだった。
「私……決めました。“邪者”に、なります」