――次の日の放課後。
 2年Bクラスの教室で帰り仕度をしている眞姫に、准はふと声をかけた。
「ねぇ、姫。今度の金曜日って時間空いてる? 来週の学級委員会議に提出する議案を考えないといけないよね」
 准のその誘いに、眞姫は残念そうな表情を浮かべて答える。
「あ、ごめんね。その日、用事入っちゃってるんだ。学級委員会議って、来週の水曜日だよね? 月曜日か火曜日じゃダメかな?」
「用事?」
 眞姫の言葉に首を傾げ、准は彼女に聞き返す。
 眞姫は少しどうしようか考える仕草をしたが、小さく頷いて言った。
「うん。金曜日は、渚くんと約束してるんだ」
「渚くんって……」
 その言葉を聞き、准はふと表情を変える。
 そんな准の様子に気がついて、眞姫は言葉を続けた。
「そんなに心配しなくて大丈夫よ、お茶するだけだし。それに“邪者”って言っても、あの渚くんだから」
「……あの彼だから、ある意味心配なんだけどね」
 眞姫に聞こえないくらいの声でそう呟き、准はふうっと嘆息する。
 渚は今も相変わらず、眞姫の前では本性を微塵も見せずに猫をかぶりまくりなのであった。
 そしてそんな渚の様子に、素直な眞姫はすっかり騙されているのである。
 彼の本性を知っている少年たちは、そんな渚に対してかなり頭にきていた。
 だがなまじ学校で騒ぎを起こすこともできず、しかも眞姫にいくら彼の本性を話したところで、また渚の巧みな話術で上手いことかわされるだろう。
 その上少年たちがうかつに手を出せないことをいいことに、渚は何かに託けて毎日のように眞姫のもとに顔を見せていた。
 そして眞姫と同じクラスである准は特にそんな渚と毎日顔を合わせているために、ほかの少年たちよりも渚に対して怒り心頭であったのだった。
 だが彼の性格上、それを表に全く見せていない。
 だから眞姫は、きっと渚が“邪者”だから准が心配していると思っているのだろう。
 そう分かっていながらも、准はもう一度嘆息した。
 そんな彼の気持ちも知らず、眞姫はきょろきょろと周囲を見回す。
「あれ、拓巳ってもう帰っちゃったの? さっきから見ないけど」
「拓巳? そういえばどこ行ったんだろうね。まだカバンあるから帰ってはないみたいだけど」
「そっか、じゃあ私これから梨華と買い物して帰るから、拓巳にもよろしくね。あ、そうだ、議案いつ決めようか」
「議案は来週に入ってからでいいよ、姫」
 教室の入り口で眞姫を呼んでいる梨華の姿をちらりと見て、准は知的な顔ににっこりと微笑みを浮かべる。
 眞姫は栗色の髪をそっとかき上げた後、彼に笑顔を返し手を振った。
「ありがとう、議案は来週決めようね。じゃあ、准くん」
「うん、姫。またね」
 教室の入り口で待っている梨華に急かされて、眞姫はバタバタと教室を後にする。
 そんな彼女の背中で揺れる栗色の髪を見守るように見つめてから、そして准も帰り仕度を始めた。
 ホームルームが終わって少し時間が経っているため、教室にいた生徒たちも捌けてその姿は疎らである。
 准はまだカバンのある拓巳の机を見てから、教科書をカバンにしまった。
 ……その時。
 准はふと顔を上げ、2年Bクラスの教室に現れたある人物を見つけると、微かに眉を顰める。
 それから仕方がないように大きく溜め息をつき、その人物の元へと向かった。
 そして、思い切り作った笑顔を浮かべて言ったのだった。
「こんにちは、相原くん。生憎だけど、姫はもう帰ったよ」
「あ、芝草先輩。清家先輩帰っちゃったんですか? あーあ、何でいなくていい芝草先輩はいて、愛しの清家先輩はいないんだろ、僕って可愛そう」
「ごめんね、僕しかいなくて。でも僕も、帰る前に君に会いたくなかったよ」
 さらににっこりと取ってつけたような笑みを浮かべ、准はその人物・渚に言った。
 相変わらず知的な印象を受ける准の顔であるが、その目はもちろん全然笑っていない。
 渚はそんな准の言葉に、負けないくらいの作り笑顔を浮かべる。
「あ、奇遇ですね、先輩。僕も芝草先輩になんて会いたくなかったですよ。ていうか先輩って、いっつも清家先輩の近くにいますよね。ぶっちゃけ迷惑なんですけど?」
「それは意見が合うね。ていうか僕が姫の近くにいるのは、君みたいな輩が姫の周りでちょろちょろしているからだよ? 相原くん」
「先輩、僕に嫉妬する気持ちはよーく分かりますけど、いつも邪魔されるとウザいんですよねー。ただでさえ1年と2年の教室って遠いのに」
「遠いなら、わざわざいつも来る必要ないんじゃないかな?」
 准は作った笑顔を崩さず、渚の毒舌に一歩も引く様子を見せない。
 そんな准をちらりと見て、渚はわざとらしく可愛い表情をそのジャニース系な雰囲気の顔に作った。
 それからスッと漆黒の前髪をかき上げて、にこっと笑う。
「ああ言えばこう言うって言葉、芝草先輩と話をしていたらこういうことなんだなーってすごく勉強になりますよー、いつも」
「じゃあもうひとつ教えてあげるよ、相原くん。その言葉、君のためにあるような言葉だよ? それともうひとつ、口は災いのもとって言葉も覚えておいた方がいいと思うよ」
 どちらもニコニコと笑みを浮かべているが、言っていることと表情が怖いくらいに伴っていない。
 ふたりの会話が聞こえていない人から見たら、仲の良い先輩と後輩が楽しげに話をしているように見えるだろう。
 渚はくりくりとした瞳を准に向け、笑った。
「芝草先輩って、最初の印象では大人しい人なのかなって思ってたけど、とんでもなかったですよー。実は笑顔の裏では何考えてるか分かんないって、一番タチ悪い腹黒タイプだったんですねー」
 准はその言葉を聞いて瞳を細め、渚にこう言ったのだった。
「腹黒? 何のことかな。でも相原くん、僕は口でも“気”の戦いでも、君になんて負けないよ?」
 准のその言葉を聞いて渚はふっとその表情を変える。
 それから漆黒の瞳を准に向け、ニッと口元に笑みを浮かべた。
 そして。
「……!」
 准はふと、突然の空気の変化に表情を変える。
 渚の右手に“邪気”が宿ったと思った瞬間、漆黒の光が周囲を取り囲んだのだった。
 渚は“結界”を張った右手を収めると、くすくすと笑いながら言った。
「芝草先輩、先輩自分で言ってたじゃないですか。口は災いのもと、ってね。ていうか、この僕に口でも戦いでも負けないって? 僕って見た目可愛い美少年だから、か弱く見えるんでしょうけど……痛い目に合いますよ、先輩」
 准を煽るように身体に“邪気”を漲らせ、渚は大きな漆黒の瞳を彼に向ける。
 准はそんな渚に視線を投げると、軽く身構えた。
 そして右手に“気”を宿し、ぐっと握り締める。
「分かってるよ、君は口が上手いだけでなく“邪者四天王”だってこともね。でも僕だって“能力者”なんだよ。それに、祥太郎から君の戦い方は聞いてるしね」
 そう言って、准は“気”の漲った右手をスッと引いた。
 そして反動を付け、眩い光の衝撃を渚目がけて繰り出す。
 渚は准の繰り出した光を見据え、身を翻してそれをかわそうとした。
 その時。
「!」
 渚はふっと動きを止めると、その手に漆黒の“邪気”を漲らせる。
 准の放った光は、ひとつではなかった。
 ひとつひとつの威力はそれほど大きなものではなかったが、巧みに複数の“気”を時間差で散らすように放ったのだ。
 渚はそんな複数の光の起動を見据え、目の前に“邪気”の防御壁を張った。
 刹那、准の放った複数の光の衝撃と渚の“邪気”の壁が激しくぶつかり合い、衝撃音が周囲に轟く。
 そして双方の光が弾け、ともに消滅した。
 渚はふうっと嘆息し、漆黒の前髪を鬱陶しそうにかき上げる。
「本当にタチ悪いですよねー、先輩って。僕を捉えるためじゃなくて、僕に“邪気”を使わせるための“気”ですか? ま、瀬崎先輩から、“赤橙色の瞳”を発動させないために僕の“邪気”を充電させないよーにしろとか何とか聞いたのかもしれませんけど……」
 そこまで言って、渚はふっと口元に笑みを浮かべる。
 そして、言葉を続けたのだった。
「でも、僕は“邪者四天王”ですよ? 僕の“赤橙色の瞳”の発動を止めるためには、杜木様クラスの力を持ってしないと無理ですってば。試してみます?」
 彼の挑戦的な眼差しや言葉に乗せられず、准は慎重に次の出方を伺う。
 そして再び右手に“気”を宿すと、口を開いた。
「試すも試さないも、僕は“能力者”だからね。君が“邪者四天王”であろうが“赤橙色の瞳”を発動させようが、“邪者”を放っておくわけにはいかないよ」
 そう言って、准は再び光の衝撃を渚に放とうと右手に力を込めた。
 ……その時。
「!?」
「!」
 准と渚は、ふたり同時に顔を上げる。
 そして渚の張った“結界”に干渉してきたその人物に、目を向けた。
 そんな、ふたりの視線の先にいるのは。
「おまえたち、一体何をやっている? 放課後とはいえ、ここは学校だ」
「鳴海先生……」
 現れた人物・鳴海先生の相変わらず威圧的なその言葉に、准は表情を変える。
 渚はわざとらしく肩をすくめ、構えを解いた。
「“能力者”の統率者が直々お出ましなんて、あーコワイコワイ。ていうか、まさかいたいけな生徒に学校で暴力ふるったりしませんよね、先生?」
「……いや、この人ならたぶん余裕で学校で生徒に暴力ふるうよ、相原くん」
 先生にまでいつもの調子で生意気な口を叩く渚に、准は思わずぼそっとそう呟く。
 鳴海先生はじろっと渚に目を向けた後、言った。
「今すぐこの“結界”を解け。おまえが解かないのなら、私が解除するまでだがな」
「そんなコワイ顔で睨まないでくださいってば。僕だってそんなに無謀じゃないですからね。分かりましたよ、鳴海先生」
 そう言って、渚はふっと“邪気”を宿した右手を掲げる。
 次の瞬間、渚の形成した“結界”が解かれ、放課後の雑踏が戻ってきた。
 渚はちらりと准を見た後、軽く手を上げておもむろに歩き出す。
 それから、振り返り様に言ったのだった。
「それじゃあ、失礼しまーす。今度は清家先輩がいらっしゃる時に来ますよ、芝草先輩」
 准は敢えてそんな渚の言葉に何も言わず、彼の後姿を見送る。
 そして、その時。
「准っ、大丈夫だったか……げっ、鳴海っ」
 渚の“結界”に気がついて教室に戻ってきた拓巳は、天敵である鳴海先生の姿を見て思わず顔を顰める。
 先生はそんな拓巳の様子に全く構わず、まず准にブラウンの瞳を向けた。
「どういう経緯でこのような状況になったかは知らんが、学校での争いは慎め。私の指示なしでの勝手な行動は許さん」
「…………」
 准はそんな先生の言葉に苦笑しつつ、素直に頷いたのだった。
 それから鳴海先生は、教室に戻ってきた拓巳に視線を移す。
 そして、言った。
「拓巳、おまえに話がある。今から数学教室に移動しろ」
「は? 俺? ていうか今からかよっ」
 いきなりそう言われ、拓巳は大きな瞳を数度瞬きさせる。
 先生はじろっとそんな拓巳を見て、そしてカツカツと歩き出した。
「聞こえなかったか? 今すぐ移動しろと私は言ったんだ」
「いつも急に言うなっ、ったく……」
 拓巳はぶつぶつ言いながら、言われた通りに先生に遅れて数学教室へと足を向け始める。
 そして准は小さくなっていく二人の後姿を黙って見送ると、ふうっとひとつ嘆息して教室に戻ったのだった。




 ――同じ頃。
 学校が終わった智也は、いつものように繁華街の喫茶店で人を待っていた。
 智也は2杯目のコーヒーをウェイトレスに追加で注文してから、腕時計を見る。
 そして喫茶店に来る前に買っておいた雑誌をカバンから取り出し、開こうとした。
 ……その時。
 智也は雑誌からおもむろに視線を外し、喫茶店の入り口に目を移す。
 それから取り出したばかりの雑誌を再びカバンに戻すと、その顔に微笑みを浮かべた。
「こんにちは、杜木様」
「急に呼び出して悪かったな、智也」
 そう言ってその男・杜木慎一郎は、整った顔に普段通りの柔らかな笑顔を智也に向ける。
 そして彼の正面の席に座って注文を済ませた後、言った。
「早速本題に入る。智也、おまえにやってもらいたいことがあるんだが」
「何ですか? 杜木様」
 智也は新しく運ばれてきたコーヒーをゆっくりかき混ぜながら、杜木の次の言葉を待つ。
 杜木は相変わらず物腰柔らかな声で、智也にあることを命じたのだった。
 そんな杜木に、智也はふと首を傾げる。
 それから彼に目を向け、こう聞いたのだった。
「お言葉ですが杜木様、そうする必要があるんですか? 俺は構いませんけど……」
 智也のそんな言葉にも、杜木は美形その顔に物腰柔らかな表情を浮かべたままである。
 それから、智也の問いに答えるかのように口を開いた。
「必要かどうかは分からない。おまえがそう言うのも分かる。だが……」
 そこまで言って、杜木はふと言葉を切る。
 そして闇のように漆黒の瞳をふっと細めた後、言葉を続けた。
「そろそろ“能力者”も、何か動きを見せてきてもおかしくない頃だ。念には念をと思ってね」
「…………」
 智也はそう言う杜木を見つめ、ふと数度瞬きをする。
 目の前の杜木の表情は、心なしか楽しそうな色を浮かべていた。
 まるで“能力者”との駆け引きを楽しんでいるかのような、そんな顔をしているように智也には見えたのだった。
 自分を不思議そうに見ている智也に気がついた杜木は、ふと彼に視線を返す。
 そして穏やかな笑みを浮かべて言った。
「どうしたんだい、智也? 何か気になることでも?」
「いえ……何だか杜木様、楽しそうだなと」
 智也は杜木の問いに、思っているまま正直に答える。
 そんな智也の言葉を聞いて、杜木は笑った。
「そうだな、楽しいよ。今度はあいつがどう動くのか……あいつは先を見越して積極的に動いてくるタイプだからな。こちらもそれなりに手を打っておく必要がある。それに私は、おまえたちのことを信頼しているからね」
「杜木様……」
 杜木の言う“あいつ”が彼の親友という鳴海将吾のことだと、智也はすぐに察する。
 そして、あの強大な力を誇る鳴海先生と楽しそうに相対する杜木の姿を思い出し、改めて目の前の彼の強さを実感した。
 物腰柔らかで穏やかな杜木であるが、その身体には強大な“邪気”を宿している。
 表立って“邪気”を出していなくても、彼がいると周囲の空気もその印象を変えるのである。
 智也は漆黒の前髪をかき上げ、そしてふっと微笑んでから言った。
「分かりました、杜木様。その件は俺に任せてください」
 杜木はそんな智也の言葉を聞いて、にっこりと美形の顔に微笑みを浮かべる。
 それから闇のように深い漆黒の瞳を細め、言ったのだった。
「頼んだよ、智也」




 ――その頃、聖煌学園高校の数学教室。
 拓巳を数学教室に呼んだ鳴海先生は、彼にある指示を与えていた。
 そしてその鳴海先生からの指示を聞いた拓巳は、途端に怪訝な顔をする。
 それから、漆黒の大きな瞳をじろっと先生に向けた。
「指示は分かったけどよ、何で俺なんだ? そんなことだったら、准や祥太郎の方が能力的に向いてるんじゃないか?」
 鳴海先生はそう言う拓巳に、わざとらしく嘆息する。
 そして威圧的な声で言った。
「黙れ、おまえは私の指示通りに動けばいいだけだ」
「何だよ、偉そうに言いやがってよっ。何様だ、おまえはっ」
 キッと鋭い視線を投げる拓巳の様子にも全く構わず、先生は続ける。
「相変わらずおまえの考えは、浅はかもいいところだな。今までのことを考えてみろ、本当にこれが准や祥太郎の仕事だと思っているのか? 人間は学習して進歩する生き物だが、おまえはいつまでたっても進歩しない、どうにかならないのか?」
「何だと!? うるせーなっ、余計なお世話だっ!」
 先生の言葉にカチンときたように表情を変え、拓巳はグッと拳を握り締めた。
 そしてそれを、ブンッと目の前の鳴海先生に放ったのだった。
 先生はそんな拓巳の様子に表情ひとつ変えずスッと掌を翳すと、唸りを上げて襲いかかってきた拳を難なく受け止める。
 それから切れ長の瞳を拓巳に向けたかと思うと、反対の手に宿した“気”を放った。
「なっ!? くっ!」
 思いがけない“気”の衝撃を何とか受け止めて浄化させた後、拓巳は鋭い視線を先生に向ける。
 それから体勢を整え、漆黒の前髪をかき上げた。
「おまえなっ、ここは学校だぞ!? しかも“結界”も張らないで“気”放つなっ! ったく、相変わらずめちゃくちゃなヤツだなっ。さっき准に言ってたことと、行動が伴ってねーんだよっ」
 そうぶつぶつ言う拓巳をちらりと見た後、先生は彼に背を向けてもう一度嘆息する。
 それからデスクワークの時だけかけている眼鏡をかけ、拓巳に言い放ったのだった。
「私の指示が分かったのなら、話は以上だ。痛い目に合いたくなければ、これ以上口答えするな」
「いちいち言うことムカつくヤツだなっ。くそっ、いつか覚えてろよっ」
 ガンッと八つ当たりのように近くの椅子を蹴飛ばし、拓巳は顔を顰めて数学教室を出る。
 それから乱暴にドアを閉めると、教室に向かって歩き出した。
「ったく、鳴海の野郎っ。何であんなにいつも態度デカいんだよ、あームカつくっ! それにしても今回のあの指示……何で俺なんだ?」
 拓巳はおもむろに鳴海先生からの指示を思い出し、ふと首を小さく傾げる。
 そして気を取り直すように大きく首を振った後、すっかり生徒の姿も疎らになった廊下を歩きながら漆黒の前髪をかき上げたのだった。