――次の日の放課後。
 生徒たちの声で賑やかな2年Aクラスの教室で、昨日とはうって変わり早々に帰り支度をしながら祥太郎は深々と嘆息する。
 だがそれを隠すようにすぐさまハンサムな顔に笑顔を浮かべ、帰宅するために教室を出て行くクラスメイトたちに愛想良く手を振っていた。
 同じ教室でそんな祥太郎の様子を見ていた健人は、ふと彼に声をかける。
「祥太郎」
「おー、健人。あ、もしかして今からお姫様と下校するんか? 俺んちは姫の家と逆方向やからなぁ、羨ましいわ」
 そんな祥太郎の言葉に、健人は小さく首を振って微かに眉を顰めた。
「姫は今から、学級委員会議があるからな。今日は一緒に帰れない」
「学級委員会議? 姫、また2年も学級委員なんか?」
 1年の時も学級委員を務めていた眞姫だったが、その時は半ば強制的に入学式の日に鳴海先生から指名されたのである。
 先生曰く、眞姫がクラスで一番入試の成績が優秀だったからという理由らしいが。
 だが副委員長が准であったあたり、ほかの利点も考慮された指名だったのだろう。
 健人は祥太郎の問いに、大きく溜め息をついて答えた。
「今年のBクラスは、委員長が准で副委員長が姫なんだ。拓巳のやつが准に面倒押し付けようと委員長に推薦したんだけど、面白がった立花が姫を副委員長に推薦したらしいぞ」
「ま、鳴海センセとしてもそれやったら都合いいやろうからな。それにしても、相変わらず准はオイシイ役回りやなぁ。俺なんて去年も今年も問題児の世話押し付けられて、めっちゃ可愛そうやっちゅーのに」
「……問題児って誰のことだ?」
 健人はそう言って、祥太郎にじろっと青い瞳を向ける。
 それから金色に近いブラウンの髪をかき上げ、続けた。
「そういうおまえこそ、指示もないのに昨日あいつに手を出したんだろう?」
 健人のその言葉に、祥太郎はふっと表情を変える。
「まさか昨日、姫があんな遅い時間まで学校残っとるとは思わんかったからな……おかげで今から、バッチリ数学教室に呼び出しくらっとるしな」
 祥太郎は鳴海先生の威圧的な切れ長の瞳を思い出し、思わず苦笑した。
 健人は改めてブルーアイを向けて聞いた。
「それで、どうだったんだ?」
「どうって、渚クンか? 相変わらず絶好調やったで、あの毒舌と見事な猫かぶりっぷり。その上に特殊能力もいやらしかったわ」
「特殊能力?」
 表情を変えて顔を上げる健人に、祥太郎はぽんっと肩を叩く。
 それからちらりと時計を見て、前髪をふっとかき上げた。
「詳しいコトは今度のミーティングでセンセが説明するんやないか? それより早よ数学教室行かな、マジでセンセにぶっ飛ばされるからな。ま、祥太郎くんが悪魔に殺されんコト祈っとってや」
 そう言ってカバンを脇に抱え、祥太郎は歩き出した。
 健人はふっと口元に笑みを浮かべ、言った。
「殺されても、先生の指示なしで動いたおまえの自業自得だからな。線香1本くらいは立ててやるよ」
「冷たいなぁ、美少年は。せめて香典はずんでや。あ、殺されたら毎晩健人の枕元に化けてでるからよろしくなぁっ」
「待て、何で俺なんだ? まぁその時は安心しろ、容赦なく“気”で浄化してやる。ていうか、おまえの幽霊ってウザそうだ……」
「あーでもなぁ、やっぱ美少年よりカワイイ女の子に憑依する方がええなぁ」
 うーんと調子よくわざと悩むような仕草をする祥太郎に、健人は呆れたように小さく嘆息する。
「ていうか、早く行け。本当に鳴海先生に殺されるぞ、おまえ」
「おーそうやな。んじゃ、またなぁ」
 ハンサムな顔に無邪気に笑みを浮かべ、祥太郎はヒラヒラと手を振って歩き出した。
 健人はそんな彼の後姿を見送った後、自分の席に戻って帰り支度を始めたのだった。
 それから教室を出た祥太郎は、鳴海先生の待つ数学教室へと向かった。
 廊下ですれ違う知り合いにマメに挨拶しながらも、そんな祥太郎の足取りは心なしか重い。
 鳴海先生の指示は、眞姫には渚の素性はまだ黙っているようにというものだった。
 今までのことを考えると、指示を無視した自分が無傷でいられるとは考えられない。
 きっと数学教室に入った途端に“結界”を張られ、容赦なく“気”を放たれ、ボコられるに違いない。
 鳴海先生の力と性格をよく知っている祥太郎はそう思うと憂鬱であったが、リスクを伴うことも分かっていたし、昨日の自分の行動に全く後悔はしていなかった。
 眞姫が駆けつけたことは予想外であったが、渚の特殊能力や戦闘能力を試すことができたからである。
 渚の橙色を帯びた赤い瞳を思い出し、祥太郎はひとつ嘆息する。
 それから腹を括ったように深呼吸すると、ぐっと拳を握り締めた。
「もうこうなったら、なるようになれ、やな」
 そう呟き、祥太郎は目の前の数学教室のドアをトントンと軽くノックする。
 そして、おそるおそるドアを開けて数学教室に足を踏み入れる。
「……失礼しまーす」
 ガラッとドアを開けて教室内に入ってきた祥太郎に、彼を待っていた鳴海先生は威圧的な切れ長の瞳を向けた。
 祥太郎はその刺すような視線に、思わず身構えてしまう。
 きっと数秒後には強い“結界”が張られて“気”の衝撃が襲ってくるだろうと、反射的に身体が反応してしまったのである。
 だがそんな祥太郎の予想とは逆に、先生はふうっと嘆息して言った。
「何をしている、早く昨日のことを報告しろ」
「えっ?」
「聞こえなかったか? 私は昨日のことを報告しろと言ったんだ」
 祥太郎はその言葉にきょとんとしながらも、まだ用心したように先生に視線を向ける。
 それから、昨日のことを一通り先生に報告したのだった。
 黙って祥太郎の話を聞いていた先生は、何かを考える仕草をする。
 そして、祥太郎に視線を向けて聞いた。
「相原渚と一戦交えて、気がついたことはあるか?」
「気がついたコト? そうやな、“赤橙色の瞳”が発動するまで5分弱程度時間がいるみたいやったな。“邪気”をある程度充電せな、あの特殊能力は使えんみたいやったで。あとは、まぁあの特殊能力の性質上納得なんやけど、自分からガンガンいくタイプってよりもあの毒舌で相手を煽って、相手が攻撃してきたところを隙を狙って反撃するって戦い方なカンジやなぁ。ま、さすが“邪者四天王”なだけあって、身体能力を含む戦闘能力は高いもんあったで。特に“邪気”使わんでチョロチョロと逃げるのがお上手や」
 そこまで言って、祥太郎は一息つく。
 それから苦笑して続けた。
「せっかくやからあの“赤橙色の瞳”、もう少し試したかったんやけどな」
 先生はそんな祥太郎の言葉にじろっと視線を向ける。
「私からの指示が何だったか、おまえは分かっているのか?」
「もちろん分かってたで、センセ。やから今日だって、お咎め受けるんやろーなぁって朝から俺ってばビクビクしとったやんか」
 ふっとハンサムな顔に笑みを浮かべ、祥太郎は悪戯っぽくそう言った。
 逆に先生は呆れたように嘆息し、切れ長の瞳を祥太郎に向ける。
「お咎めにビクビクしている生徒が、数学の授業中に隣の女生徒を口説くというのか?」
「……目ざとい上に地獄耳やなぁ、センセ」
 じろっと自分に威圧的な視線を投げる先生に、祥太郎は肩をすくめた。
 そんな祥太郎を後目に、先生はデスクワークの時にだけかけている眼鏡をかけて言った。
「おまえらのことだ、指示なしで勝手な行動を起こすだろうことは分かっていた。そんな勝手な行動を起こすのは、さしずめ拓巳か健人だと思っていたがな。とにかく、今後は私の指示に従うように。今度勝手な行動を起こしたら、その時はただでは済まんぞ」
 そんな先生の言葉にニッと笑って、祥太郎は前髪をかき上げる。
 それからドアに手をかけ、言った。
「はいはーい、了解。よかったわ、今日は生きて帰れるみたいやな……んじゃ、失礼しましたぁ」
 パタンとドアが閉じる音を背に、鳴海先生は大きく溜め息をついた。
 そしてブラウンの瞳をふっと伏せ、仕事に戻ったのだった。




 ――同じ日の夕方。
 繁華街の喫茶店で、その青年・鮫島涼介は顔を上げる。
 それから漆黒の瞳を細め、店内に入ってきた人物に目を向けた。
「こんばんは、杜木様」
「忙しいのに呼び出して悪かったな、涼介」
 現れた男・杜木慎一郎の言葉に、涼介はふっと笑う。
「いいえ、とんでもありませんよ。ほかの四天王と会うのも刺激があって楽しいですが、杜木様と個人的にお話するのも好きなんですよ、僕は」
 そう言った後、涼介は見た目ホストのような甘いマスクに不敵な笑みを浮かべて言葉を続けた。
「それで杜木様。今回は、何をすればいいんですか?」
 杜木は闇のように深い漆黒の瞳を向けた後、通りかかったウェイトレスにコーヒーを注文する。
 それから、相変わらず物腰柔らかな声で言ったのだった。
「今日おまえを呼び出したのは、例の“能力者”の彼のことだ」
「例の“能力者”の彼、ですね」
 予想通りの杜木の言葉に、涼介は楽しそうに笑う。
 それから少し長めの前髪をかき上げて言った。
「それって、例の彼にちょっかいをかけてもいいということですね。どの程度まで手を出していいんですか?」
「…………」
 杜木は少しだけ何かを考えるように瞳を伏せる。
 彼の神秘的な漆黒の瞳に、ふっと長い睫毛がかかった。
 杜木はそして、涼介の問いにゆっくりとこう答えたのだった。
「殺しても構わないが、無理は禁物だ。あくまで様子見が一番の目的だからな」
「分かりました、杜木様。僕個人的にも、例の彼のことは気になってたんですよね。楽しみだな」
 本当に楽しそうにそう言って、涼介はコーヒーをひとくち飲む。
 杜木はそんな涼介の様子に穏やかな笑顔を彼に向け、こう続けたのだった。
「私も個人的に、例の彼は特に要注意だと考えている……頼んだよ、涼介」
 ――その同じ頃。
 賑やかな繁華街を歩きながら、その少年・高山智也は誰かと携帯電話越しに話をしていた。
「渚のやつ、久々に“赤橙色の瞳”を発動させたみたいだね……そうそう、眞姫ちゃんが来たから大して何事もなかったらしいけど。相手は、瀬崎祥太郎? ああ、あの綾乃と仲のいい“能力者”か。てっきりあの短気な青い瞳の“能力者”かと思ったんだけど……そうなんだ、綾乃が前の日に彼と会ってたんだ」
 そこまで話した後、智也は漆黒の瞳を細める。
 それから、言葉を続けた。
「それでつばさちゃん、この道をこのまま真っ直ぐでいいの? もう近く?」
 夕方の繁華街は、学校帰りの学生や仕事帰りのサラリーマンたちで賑やかな様相を見せ始めている。
 智也は周囲をきょろきょろ見回した後、にっこりと微笑む。
 そして、言ったのだった。
「ありがとう、つばさちゃん。無事に発見したよ、また改めてお礼するから。んじゃ、また」
 智也はピッと携帯電話を切り、ポケットにしまう。
 それから難なく人ごみをかき分け、ひとりの少女の肩を軽くぽんっと叩いた。
「眞ー姫ちゃんっ、こんばんは」
「え? あっ……」
 驚いたように振り返り、その少女・眞姫はブラウンの瞳を智也に向ける。
 智也は眞姫に優しく微笑み、彼女の隣に並んだ。
「学校帰りに、繁華街でお買い物?」
「買い物っていうか、ちょっと何か見て帰ろうかなって」
 智也の出現に少し戸惑ったように、遠慮気味に眞姫はそう答える。
 放課後の学級委員会議が終わって学校を出た眞姫は、気分的に真っ直ぐ帰路にはつかず、繁華街に立ち寄っていたのだった。
 智也は漆黒の瞳を嬉しそうに細め、にっこりと笑った。
「ねぇ、眞姫ちゃん。よかったら、これから俺とデートしない?」
「えっ、デート?」
 智也の言葉に、眞姫は思わずきょとんとする。
 智也はこくんと頷いて、彼女の手を引いた。
「うん、デート。眞姫ちゃんは今、どこに行きたい?」
「どこって……」
 うーんと考えるような仕草をした眞姫は、そっと栗色の髪をかき上げる。
 それから、おそろおそる言った。
「今行きたいところ……どこか、高いところに行きたい気分かな」
「よし、んじゃ行こっか」
 眞姫の言葉に楽しそうに笑って、智也は彼女を伴って歩き出す。
 眞姫はますます驚いたように智也を見つめ、小首を傾げた。
「えっ? 行くって、どこに?」
「眞姫ちゃんリクエストの高いところだよ。うーん、どこがいいかなぁ……六本木ヒルズの展望台とか、上ったことある?」
「ううん、ないよ。一度行ってみたいなって思ってたんだけど」
「じゃあ決まりだね。地下鉄で移動しよっか」
 そう言って地下鉄の入り口に入っていこうとする智也に、眞姫は慌てて言った。
「えっ!? 本当に今から行くの!?」
「もちろんっ。あ、デート代は当然全部俺持ちだから、心配しないで」
「う、うん……」
 智也の強引な誘いを断る理由も見つからず、眞姫は彼の強引さに負けて思わず頷いてしまった。
 どうしたらいいか迷った眞姫だったが、とりあえず彼の後に続いて地下鉄の階段を下り始める。
 そしてさり気なく速度を落として自分に歩調を合わせる智也に、ちらりと眞姫は目を向けた。
 そんな視線に気がついた智也は、彼女ににっこりと微笑む。
「大丈夫だよ、そんなに警戒しなくても“結界”張ったりとかしないってば」
「え? いや、そんなことは心配してないんだけど……」
 今まで智也とは、ふたりきりになっても繁華街でお茶をする程度であった。
 それが、本当にデートをしているかのように一緒に歩いている。
 そう思うと、何だか妙に意識してドキドキしてしまう。
 映研部員である“能力者”と対峙している時の“邪者”の智也と、自分と一緒にいる時の智也は、まったく印象が違っていた。
 自分に向けられる彼の漆黒の瞳は、とても柔らかくて優しい印象を受ける。
 智也だけでなく、友達の綾乃や後輩の渚も、眞姫の前では“邪者”としての顔は見せない。
 最初は身体に“邪”を封印しているという“邪者”に対して怖いイメージを持っていた眞姫だったが、彼らと接するたびにそんな気持ちも薄れていっていた。
 そしてそんな気持ちを覚えたのは、彼らにだけではない。
 彼ら“邪者”を統括しているという杜木に対しても、眞姫は同じ感覚を抱いていた。
 杜木の強大な“邪気”を何度か目の当たりにしたことのある眞姫だったが、元は“能力者”であり鳴海先生の親友という彼に不思議と悪い印象はないのである。
 かと言って“能力者”である少年たちと同じように、“邪者”である智也と心を開いて仲良くできるかと言えば、それはまだ少し抵抗があるのも事実である。
 智也はそんな眞姫の心情を察してか、乗り込んだ電車の中で彼女の興味ありそうな話題を振った。
「ねぇ、眞姫ちゃん。ウワサなんだけど、ピンクハレルヤのレイジにソロの話あるらしいよ。知ってた?」
「えっ、本当に!? 知らなかったわ」
「まだウワサだから、本当か分からないんだけど。でも有り得ない話じゃなさそうだよね」
「最近ピンクハレルヤ新曲出てないしね。レイジのソロかぁ、ソロでライブとかもあるのかな」
 智也と音楽の趣味が合う眞姫は、ふっと緊張していた表情を緩める。
 智也はリラックスした彼女を満足そうに見つめ、笑った。
 ふたりはそれからも移動しながら会話を交わし、そしてしばらくして目的地へと到着する。
 入場券を買った後、ふたりはエレベーターで展望台になっている50階まで上がった。
 そしてエレベーターを降りてエントランスを通り抜けた眞姫は、パッと表情を変える。
「わあっ、見て! すっごい高いねぇっ。私、高いところって大好きなんだっ」
 タッタッと景色の見える窓側に駆け寄り、眞姫は嬉しそうに微笑む。
 そんな眞姫を見て、智也は意外な表情を浮かべる。
「えっ? あ、うん」
 今まで自分の前で見せたことのないそんな眞姫の無邪気な満面の笑顔に、智也はしばし見惚れてしまっていた。
 眞姫はそんな智也の様子にも気がつかず、彼を手招きする。
「見て、東京タワー見えるよ! あっちはレインボーブリッジに、お台場だよ」
「今日は天気よかったから、景色もすごく綺麗に見えるね」
 目をキラキラさせている眞姫に、智也はにっこりと笑いかけた。
 それからゆっくりと景色を見ながら移動し、眞姫はそのたびに変化する景色を楽しそうに見つめている。
「えっと、こっちはどこらへんかな?」
「そこって恵比寿じゃない? あ、遠くに横浜のランドマークタワーも見えるよ、ほら」
「あ、本当だね。高いところって、本当に楽しいよねっ。何だか遠くまで見渡せる高い位置に立つと、目の前の景色と同じように心までパアッと広くなる感じがする」
 じっと都会の風景を見下ろしながら、眞姫はそう呟く。
 智也は心から楽しそうな眞姫の姿を見て、自分のデート場所の選択は正しかったと改めて思ったのだった。
 夕方で陽も落ちた展望台はうっすらと薄暗く、ムードもいい。
 場所が場所なだけに、カップルの姿も多い。
 そして想いを寄せる眞姫とデートできる幸せを、智也は改めて感じていた。
 普段は眞姫の近くに“能力者”の少年たちがいるため、なかなかこうやってふたりきりになる機会も少ない。
 だが眞姫と出会って1年、智也の彼女に対する気持ちは深くなる一方であった。
 この1年、“浄化の巫女姫”としての使命を受け入れて前向きに頑張る彼女の姿を、智也はずっと見てきた。
 いじましく頑張る彼女の姿勢は、近くで支えてあげたくなる衝動に駆られるのである。
 立場的に仕方がないのだが、最初眞姫は自分のことを過度に警戒していた。
 だが、ようやくこうやって普通にデートするまでの状態に辿り着いたことの喜びをかみ締め、智也は嬉しそうに漆黒の瞳を細める。
 それから、ウキウキした様子の眞姫に言った。
「眞姫ちゃん、何か飲み物いる? 座って景色見ながら飲もうか」
「あ、うん。何がいいかなぁ」
 智也の言葉に素直に頷き、眞姫は売店の飲み物のメニューを見つめた。
 彼女が下を向いたと同時に、栗色の髪が揺れる。
 それとともに、ふわりとシャンプーのいい香りがした。
「んーじゃあ私、キャラメルマキアートがいいな」
「じゃあ、俺はコーヒーにしようかな」
 智也はふたり分の飲み物を買って、そして眞姫とともに景色の見える椅子に座る。
 彼女の分のキャラメルマキアートを手渡し、智也はにっこりと笑った。
「はい、眞姫ちゃん」
「ありがとう。あ、飲み物代……」
「言っただろ、眞姫ちゃん。デート代は全部俺が出すって。それよりも、来てよかったね」
 智也の言葉に、眞姫は大きな瞳を細めて頷く。
「うん、来てよかったね」
 心からそう思っているようなその眞姫の言葉に、智也は満足そうに微笑む。
 それから眞姫はキャラメルマキアートをひとくち飲んでから、思い出したように智也に聞いた。
「ねぇ、智也くん。智也くんも“邪者”だから知り合いなんだよね、渚くんと」
「渚? ああ、うん。ムカつくくらいよく知ってるよ」
「ムカつくくらい……?」
 そんな智也の言葉に少し首を傾げながらも、眞姫は言葉を続ける。
「渚くんって、すごく天然っぽくて可愛い子でしょ。だから、“邪者”だって知った時はすごく驚いちゃった」
「天然っぽくて可愛い子、ね……」
 智也はその言葉を聞いて、思わず苦笑した。
 きっと渚は、眞姫の前では猫をかぶりまくりなのだろう。
 杜木と話をする甘えたような渚の態度を思い出し、智也は眞姫の前でもあの調子なのだろうと思ったのだった。
 だが敢えて渚の本性は話さずに、智也は大きく嘆息しながら言った。
「渚のやつ、羨ましいよ。眞姫ちゃんと同じ学校なんて」
 眞姫はそれからふと視線を落とし、少し何かを考える仕草をする。
 そして、おそるおそる智也に視線を向けた。
「あのね、智也くんはどうして“邪者”になったの? “邪者”になるのって、大変なんだよね」
「んーどうして“邪者”になったか……そうだなぁ、自分の中に眠ってる可能性を試したかったんだよ。それに杜木様と最初に会った瞬間、この人についていきたいって何だかすごく思ったんだ。確かに“邪者”になるのは大変だったけどね。召還した“邪”の力が大きいほど、それを取り込むまでに時間もかかるし、苦痛も伴うからね。でもそれさえ乗り越えれば、“気”の鍛錬の必要がある“能力者”と違って、自然と身体能力も上がって力も使えるようになるんだけど」
「“邪”を取り込むなんて、想像できないな」
 眞姫はそう呟き、俯く。
 今まで“邪”と契約を結んだ“憑邪”を数人見てきた眞姫だが、いずれも身体と“邪”が馴染むまでは体調も悪く苦しそうだった。
 怖いものだという意識の強い“邪”と一体になるなんて、この時の眞姫には想像できなかったのである。
「“浄化の巫女姫”の力で“憑邪浄化”ってあるでしょ? まだ完全に“邪”と一体化していなくて“邪者”になり途中の状態の人なら、身体から“邪”を引き離すことできるのかな」
「理論的にはできるんじゃない? 実際はどうか分からないけどね。ていうか怖いなぁ、何気にもう眞姫ちゃんって“邪気封印”も使えるんだよね。封印されちゃったら困るなぁ」
 そう言って笑う智也に、眞姫は小さく首を振った。
「使えるって言っても、実際どうやったらできるのか分からないんだ。いつも、その時の状況で必要な時に自然と出来ちゃうって感じで。使った後は体調も崩しちゃうし、“浄化の巫女姫”って言ってもまだまだ未熟だよ」
 ふと俯く眞姫の横顔を、智也は複雑な表情で見つめる。
 眞姫は自分のことを未熟だと言っているが、“浄化の巫女姫”の能力覚醒が完了するのは、普通は二十歳前後だと言われている。
 まだ16歳である眞姫は、すでに5つある“浄化の巫女姫”の能力のうち3つまでも使えるのである。
 早期覚醒を促しているのは誰でもない自分たち“邪者”なのであるが、彼女の身体にかかってくる負担を考えると、智也は心が痛むのであった。
 それに頑張り屋な眞姫の姿勢を見ていると、余計にいじましく感じるのである。
 智也はふっと、優しい色を湛える漆黒の瞳を真っ直ぐ眞姫に向ける。
 そして。
「! えっ、智也くん……!?」
 眞姫は次の瞬間、大きな瞳をさらに大きく見開いた。
 隣に座っている智也が、おもむろに眞姫の身体をぎゅっと抱きしめたからである。
 驚いた表情を浮かべる眞姫を自分の胸に引き寄せたまま、智也は彼女の耳元で言った。
「眞姫ちゃん……眞姫ちゃんを守りたいって思ってるのは、“能力者”だけじゃないんだよ」
「え? 智也、くん?」
 智也の温もりを急に感じて、眞姫の胸はドキドキとその鼓動を早める。
 そして体温と同時に、彼の身体に秘められている“邪気”を感じた。
 だがそんな強大な“邪気”を感じても、不思議と嫌な感覚はなかった。
 智也はふっと彼女から離れると、少し乱れた眞姫の栗色の髪を手で整えながらにっこりと微笑んで言ったのだった。
「俺のこと、これから警戒しないでくれたら嬉しいな。俺は、眞姫ちゃんの味方だから」
「…………」
 智也の言葉に、眞姫は何かを考えるように俯く。
 それから、ぽつりと口を開いた。
「もう前みたいに、智也くんのことは怖いって思ってないよ。でもやっぱり、“邪者”は“能力者”の敵なんだよね? “能力者”のみんなは大切な仲間だし、“邪者”の智也くんや綾乃ちゃんたちのこともお友達だから……できればそんなみんなが、敵同士だからって戦って欲しくないな……」
「眞姫ちゃん……」
 そんな眞姫の言葉に、智也はどう答えていいか分からなかった。
 “邪者”である以上、眞姫の親しくしている“能力者”との戦いは避けられない。
 それは分かっているし“能力者”と戦うことに今更何の躊躇もないのだが、眞姫の悲しそうな表情を見ると複雑な心境になるのだった。
 智也は漆黒の瞳を細め、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
 それから眞姫に手を差し伸べて、言ったのだった。
「そろそろまた見て回ろうか、眞姫ちゃん。ほら、あっちは新宿みたいだよ?」
「うん、そうだね」
 眞姫は笑顔を作り、そっと智也の手を取って立ち上がる。
 そしてすっかり暗くなった窓の外の空を見上げた後、ネオンで輝く都会の風景をそのブラウンの瞳に映したのだった。