渚は橙色を帯びた赤い瞳を自信満々に細め、拓巳と健人を煽る様にニッと笑みを浮かべた。
「どうしたんですか、先輩方? 来ないんですか?」
 拓巳はふうっと大きく溜め息をつき、ぐっと拳を握り締める。
 それからちらりと一瞬健人に視線を向けると、その右手に“気”を宿した。
「その赤目でいくら俺らの動きが分かったってよ……攻撃が避けられなかったら、同じだろっ!」
 刹那、拓巳の掌から大きな“気”の衝撃が繰り出される。
 だが渚は唸りを上げて迫りくる光に全く動じる様子もなく、“邪気”を纏った手をふっと翳した。
 次の瞬間、翳した掌で“気”の衝撃が受け止められ、その威力が無効化される。
 そして渚はわざとらしく嘆息すると、赤橙色の瞳をちらりと背後に向けた。
「先輩たちもワンパターンですね、何度同じコトやったって僕にはかすりもしないって言ってるでしょ?」
 渚はそう言って、素早く身を翻す。
 それと同時に、ビュッと空を切るような音が鳴った。
 拓巳の“気”を浄化している隙をつき、いつの間にか健人が距離をつめて彼の背後に回っていたのだった。
 だが、そんな健人の動きを読んでいた渚は放たれた蹴りをかわし、余裕の表情で漆黒の前髪をかき上げる。
 そして追従して放たれた健人の右拳をしっかりと受け止め、逆手に“邪気”を漲らせた。
 次の瞬間、眩い光が弾け、轟音が“結界”内に響き渡る。
「ちっ」
 渚を狙って再び繰り出した“気”を“邪気”の防御壁で阻まれ、拓巳は舌打ちする。
 それからすぐさまその手刀に光を宿すと、地を蹴った。
 健人も自分の右拳を取り返し、グッと力を込める。
 渚はふっと口元に笑みを浮かべ、同時に襲いかかってきた拓巳の手刀と健人の拳をかわした。
 ふたりはそんな渚に対して、間を取らずに攻撃を続けた。
 再び繰り出された拓巳の手刀を避けた渚を狙い、健人の蹴りが襲いかかる。
 それを軽い身のこなしでやり過ごした渚に、今度はふたり同時に攻撃を仕掛ける。
 唸りを上げるふたりの拳を両の手で受け止めた渚は、瞳を細めると素早く身を屈めた。
 その直後、拓巳と健人の鋭い蹴りが渚の頭のあった位置を通過した。
 拓巳と健人の攻撃は絶妙で、息も合っている。
 だが、呼吸のあったふたりの攻撃も、渚の赤橙色を帯びた瞳の前ではただ空を切るだけであった。
 そんな彼らに漆黒の瞳を向け、智也は動く様子も見せずに戦況をじっと見守っている。
「あの“赤橙色の瞳”の意表をつくことができないなら、真っ向から勝負してやるってことか? まぁ、確かにいくら“赤橙色の瞳”で動きを読まれたところで、分かっていても避けられない攻撃を仕掛ければ当てられるだろうけど……動きを読まれて不利な上に、渚は身体能力も高い“邪者四天王”だ。そう簡単にいかないよ。でも……」
 それだけ言うと、智也はふと何かを考えるような表情をした。
 渚は攻撃の手を緩めないふたりの動きを読んで身を翻すと、ふっと口元に笑みを浮かべる。
 そして漆黒の前髪をかき上げ、言ったのだった。
「先輩方、この言葉知ってます? 下手な鉄砲も数撃てば当たるって。でも……下手な鉄砲は、所詮下手な鉄砲ですよ。いくら数撃っても、かすりもしませんよ」
「……何だと?」
「ったくよ、本っ当に生意気なガキだなっ」
 渚の言葉に顔を顰め、ふたりは同時に蹴りを繰り出す。
 それをスッと避け、渚は素早くその手に“邪気”を宿した。
 そして集結した強大な漆黒の光を、ふたり目がけて放ったのだった。
「!」
「くっ!」
 思わぬ渚の反撃に、拓巳と健人はそれぞれ跳躍して漆黒の衝撃をかわす。
 ふたりを捉えられなかった光が“結界”の壁にぶつかり、轟音が響いた。
 耳に響く衝撃音を気にも留めず、渚から少し距離を取って着地した拓巳は再び身構える。
 それからちらりと視線を健人に向け、ふと彼の名を呼んだ。
「健人」
 そんな拓巳の声に無言でブルーアイの視線を返し、健人は小さく頷く。
 そして、その手に“気”を宿した。
 拓巳は健人から渚へと視線を戻すと、同じように掌に“気”を漲らせる。
 刹那、大きな輝きを放つ光が拓巳の右手へと集まる。
 それからその眩い光を纏った右手をスッと後ろに引くと、拓巳は渚に向かって“気”の衝撃を放った。
「!」
 渚は拓巳の仕掛ける攻撃に、赤橙色をした瞳を見開く。
 拓巳の掌から放たれた光は、ひとつではなかった。
 次々と彼の手から、眩い光の衝撃が生み出される。
 だが、それらの攻撃は数多く繰り出されているだけで全くコントロールが定まっていなかった。
 派手な音をたてて弾ける複数の光に、渚はふっと笑う。
「先輩、当たらないからってヤケになっちゃいましたか? まさに、下手な鉄砲もいいところですよ」
「うるせーなっ。後で泣く目みるぞ、おまえっ」
 渚の言葉にチッと舌打ちし、尚も拓巳は“気”を放ち続ける。
 周囲には複数の衝撃によって生じた余波が立ちこめ、激しい音が耳に響く。
 そんな、無数の光が弾ける中。
 健人は青い瞳を細めると、おもむろにグッと手に力を込めた。
 そして、一筋の光を放つ。
 だが健人から放たれた光も渚に当たることはなく、彼の身体を掠めるような軌道を描いた。
 その時。
「! 渚っ」
 ハッと顔を上げた智也は、思わずそう声を上げる。
 それと同時に渚は表情を変え、バッと背後を振り返った。
「なっ!? ……っ!!」
 渚は初めてその表情を険しいものにすると、掌に“邪気”を漲らせる。
 そして突然背後から襲いかかってきた大きな“気”の衝撃を咄嗟に受け止め、ギリッと歯を食いしばった。
 何とかその攻撃を浄化させ、無効化させることに成功した渚だったが。
 思わぬ衝撃を受けて崩れた体勢を立て直そうとした、その時。
「!!」
 渚は、その赤橙色を帯びた瞳を再び大きく見開く。
 彼の赤い瞳に映っているのは……自分を射抜くように見据える、健人の青い瞳。
 そんな一気に間合いをつめてきた健人の攻撃をかわそうと、渚は体勢を整える。
 だが、次の瞬間。
「!」
 渚が動きを見せるよりも早く、健人の拳が唸りを上げて放たれる。
 そして、ガッという鈍い音がした。
 渚の頬に強烈な右拳を叩き込んだ後、健人は攻撃の手を緩めずすぐさま逆の左拳を握りしめる。
 そして間髪いれず、渚の腹部にそれを突き上げた。
「かはっ……くっ!」
 渚の表情が歪み、その上体がぐらりと揺れる。
 健人はそれから素早く右手に“気”を漲らせると、渚の至近距離で光の衝撃を放った。
「! ちっ!」
 渚は咄嗟に両腕をクロスに組み、その攻撃を正面から受け止める。
 だが、不安定な体勢であったため完璧に“気”を受け止めることができず、渚は背後の壁に身体を叩きつけられる。
 健人は地を蹴り、そんな渚に再び攻撃を仕掛けようと“気”を漲らせた。
 ……その時だった。
「!」
 健人は、ふと渚から青い瞳を逸らす。
 そして自分目がけて飛んできた拳を、咄嗟に掌で受け止めた。
「俺もいるんだよね、忘れてもらったら困るな」
 そう言って、いつの間にか健人との距離を縮め攻撃を仕掛けてきた智也はふっと笑う。
 それからその手に漲らせた強大な“邪気”を、健人に向かって放ったのだった。
 健人は漆黒の衝撃を跳躍してかわし、彼と距離を取る。
 智也はそんな健人を追従しようと、ふっと瞳を細めた。
 だが、次の瞬間。
「!」
 智也は健人を追うのをやめると、おもむろに目の前に“邪気”の防御壁を張る。
 それと同時に、ドオンッと“結界”内に轟音が響いた。
「そっくりそのまま言葉返すぜ、俺もいること忘れんなよな」
 智也目がけて衝撃を放った拓巳は、智也にそう言って改めて身構える。
 それから、健人に目を向けて笑った。
「まぁ止めは刺せなかったけどよ、あの生意気なガキぶん殴って少しスッキリしたぜ」
「ああ。おまえの言った通りだったな、拓巳」
「だろ? ま、あのガキもこれで少しは大人しくなるだろ」
 そう言ってニッと笑ってから、拓巳はおもむろに右拳を健人の前に突き出す。
 健人はふっと青い瞳を細めて笑みを浮かべた後、自分の拳を拓巳のものに合わせたのだった。
「驚いたな、“赤橙色の瞳”が発動してる渚に攻撃当てるなんて」
 智也は漆黒の前髪をかき上げ、拓巳と健人に交互に視線を向ける。
 拓巳はそんな智也の言葉を聞いて、言った。
「あいつの動き見てて、気がついたんだよ。あの“赤橙色の瞳”はよ、確かに俺たちの動きが読めるみたいだけど……でもあの赤目は、未来が見えるわけでも俺たちの心が読めるわけでもない。読めるのは、あくまで俺たちの動きだけなんだってことにな」
「なるほどね、それで?」
 拓巳の言葉を、興味深そうに智也は聞いている。
 拓巳は智也の動きに注意を払いながらも、言葉を続けた。
「相原のヤツが俺たちの攻撃をかわす時、拳や蹴りの時は俺たちが行動を起こす前から動いてたけどよ、“気”の攻撃の時は違った。俺たちが“気”を放つことは動き読んで分かってても、その軌道までは“気”が放たれるまで分からないみたいだったからな。だから、それを利用したんだよ」
「拓巳が放った複数の“気”は、ヤケになって考えなしに繰り出されたものじゃない。あの拓巳の放った複数の“気”の目的は、相原の注意を逸らすことと、そしてもうひとつある」
 拓巳の言葉に続いてそう口を開く健人に、智也は視線を移してふっと笑う。
 それから健人に続けて、こう言ったのだった。
「複数の“気”の本当の狙いは、君が後から放った“気”の衝撃をぶつけることでその軌道を変化させ、“気”の軌道までは読むことのできない渚に、背後から衝撃を与えようとしたってことだね」
「まぁ相原ほどの“邪者”だから、その軌道を変えた“気”は受け止められるだろうってことは分かってたけどな。でもいくら赤目で次の動きが読めても、思わぬ“気”を受け止めて体勢が崩れてたんじゃ、攻撃に対しての反応も遅れる。そこを狙ったってわけだ」
 拓巳は得意げにそう言って、漆黒の前髪をかき上げる。
 智也はふっと笑って、そしておもむろに背後に瞳を向けた。
「……だそうだよ。先輩たちの作戦、ちゃんと聞いたか? 渚」
「!」
「……!」
 次の瞬間、拓巳と健人はその表情をふと変える。
 先程と比べものにならないほどの大きな“邪気”が渚の身体から開放され、その大きさを物語るかのように周囲の空気がビリビリと振動している。
 そんな強大な“邪気”を纏った渚は、ゆっくりとその口を開いた。
「つ……っ……ふざけやがってっ! 絶っ対許さないからな、ぶっ殺してやるっ!!」
 鋭い赤橙の瞳をふたりに投げると、渚はギリッと歯を食いしばって拳を握り締める。
 その“邪気”の大きさを物語るかのように、ふわりと彼の前髪が揺れた。
 智也はすっかりキレた渚の様子に笑い、おもむろに彼の肩をぽんぽんっと叩く。
「おいおい、そんなにキレるなよ。少しは落ち着けって」
「あ!? うるさいっ、邪魔するって言うなら、おまえもまとめてぶっ殺すからなっ!!」
「あのな、何で俺にまでキレてんだよ。ったく」
 はあっと大きく溜め息をついた後、智也は言葉を続ける。
「渚、今回俺が杜木様に何て指示されたか教えてやろうか。ひとつは、たぶんそろそろ“能力者”とおまえがドンパチやらかすだろうから、おまえに手を貸してやれってことと……そしてもうひとつ、おまえはもともと自信過剰だし“赤橙色の瞳”に少し頼りすぎてるところがあるから、それを教えてやれってな」
「……え?」
 智也のその言葉に、渚はふと顔を上げた。
 智也はそんな渚にニッと笑い、言った。
「おまえは“赤橙色の瞳”にそんなに頼らなくても、十分強い力持ってるだろ? 今回だって、普通ならあの青い瞳の“能力者”の攻撃だってかわせたはずなのに、おまえその前にめちゃめちゃ調子乗ってたからな。だから痛い目に合うんだよ、渚」
「うるさいな、おまえなんかにそんなコト説教される筋合いないよ」
 口調は相変わらずだったが、そんな渚の表情は先程のキレた時と変わっていた。
 智也は渚が少し落ち着いたのを確認すると、漆黒の瞳を細めて言った。
「ま、俺はおまえに手を貸すようにも言われてるからな。これからどうする? 早速“能力者”をぶっ殺すか? 指示通り手を貸すよ、渚」
「…………」
 渚は少し考える仕草をして、赤を帯びる瞳を“能力者”に向ける。
 その視線を感じ、拓巳は口を開いた。
「どうした、俺たちをぶっ殺すんじゃねーのかよ? 受けてたってやるぜ」
 渚はそんな拓巳の言葉にわざとらしく大きく溜め息をつくと、赤橙の瞳をスッと閉じる。
 それから、漆黒の前髪をかき上げてこう言ったのだった。
「何かもう、やる気萎えちゃったよ。邪魔者もやたら多いし、説教までされるし、あーもうヤダヤダ。ということで僕、帰る」
「……は?」
 渚のその思いがけない言葉に、拓巳はきょとんとした表情する。
 健人はふうっと嘆息し、呟いた。
「最初に俺に喧嘩売ったのは、おまえだろうが」
 渚はおもむろに閉じていた目をふっと開き、赤橙から漆黒に戻った瞳を健人に向ける。
「だから、聞こえませんでしたか? やる気萎えちゃったって。その耳は飾りじゃないんでしょ? 人の話くらいちゃんと聞いてくださいよ、先輩。というわけで僕、帰りますんで」
 そう言ってから、渚は周囲に張られた“結界”を破ろうとその手に“邪気”を宿す。
「逃げる気かよっ、そうはさせないぜっ!」
 拓巳はそんな渚の“邪気”に反応し、瞬時に漲らせた“気”を放った。
 次の瞬間、ドオンと激しい衝撃音が周囲に響く。
 拓巳はその余波が立ち込める中、チッと舌打ちして“邪者”のふたりを見据えた。
「俺は渚に手を貸せって言われてるからな、おまえがそうしたいなら俺はそれを手伝うまでだよ」
 咄嗟に“邪気”の防御壁を張って拓巳の“気”を防いだ智也は、渚に目を向けてそう言った。
 渚は漆黒の瞳を智也に返し、ベビーフェイスに似合わない怪訝な表情を浮かべる。
「別におまえの手助けなんていらないっての。いつも言ってるだろ、小さな親切大きなお世話って」
 渚は大きく嘆息した後、改めて“邪気”を放ち、健人の張った“結界”を砕いた。
 それから気を取り直してありったけの作り笑顔を拓巳と健人に向け、これでもかというくらい可愛らしい声でこう言ったのだった。
「それじゃあ先輩方、失礼しまーすっ」
 ぺこりとわざとらしく一礼し、スタスタと渚は歩き出した。
 智也はそんな渚の相変わらずな様子に笑い、彼に続く。
 拓巳は怪訝な顔をして、その後姿を黙って見送った。
 それから、ふと健人に視線を向ける。
「ったく、あのガキ。ていうか、数学教室に行くぞ、健人」
「数学教室?」
 拓巳の言葉に、健人は不思議そうな表情をする。
 拓巳はさらに訝しげな顔をして深々と溜め息をつき、健人の言葉にこう答えたのだった。
「相原渚とドンパチしたら、その後数学教室に来いって鳴海の野郎に言われてるんだよ。これからのことを何か指示するとか何とか言ってやがったぜ」
「…………」
 健人はその言葉を聞いてブルーアイを細めた後、金色に近いブラウンの髪をかき上げる。
 そして拓巳とともに、数学教室に向かって歩き出したのだった。




 ――次の日の朝。
 まだ朝補習の始業時間より少し早い学校内は、朝の挨拶を交わす生徒たちの声で満たされている。
 拓巳と准は自分たちの教室である2年Bクラスに向かい、賑やかな廊下を歩いていた。
「拓巳、ちゃんと数学の復習やってきた? 今日の3時間目、小テストだよ」
「げっ、小テスト!? やべっ、すっかり忘れてた……」
「あのね、昨日メールしただろう? まったく、また鳴海先生にボコられるよ、拓巳」
 呆れたように嘆息し、准はちらりと拓巳に目を向ける。
 拓巳はうっと言葉をつまらせ、面白くなさそうな顔をした。
「ていうかよ、何であんなに頻繁に小テストしやがるんだよ、鳴海のヤツ」
 その時。
 ブツブツ言っている拓巳から視線を外した准は、ふとその表情を変える。
 そして、拓巳に言った。
「拓巳、見て。教室の前」
「え? ……あっ」
 准の言葉に顔を上げた拓巳は、漆黒の大きな瞳を見開く。
 それから怪訝な表情を浮かべ、2年Bクラスの教室の前にいるひとりの少年に声をかけたのだった。
「おまえ、懲りずに何やってんだよ」
「あ、おはようございます、小椋先輩に芝草先輩。ていうか先輩たちになんて会わなくていいですから、愛しの清家先輩はいらっしゃいませんか?」
 相変わらずの口調でそう言って、その少年・渚はにっこりと作り笑顔をふたりに向ける。
 准はそんな渚に、一見柔らかに聞こえる声で答えた。
「おはよう、相原くん。姫はまだ学校に来ていないみたいだよ? それにしても本当に君って懲りないみたいだね、朝から君に会うなんて僕も一気に気分が悪くなったよ」
「それは僕のセリフですよ、芝草先輩。ていうか、僕の清家先輩に付きまとわないでくださいよね。ぶっちゃけ、目障りなんですけど」
「ここってね、僕のクラスの教室なんだよ。ちょろちょろ目障りなのはどっちだろうね、相原くん」
「……めちゃめちゃ怖いぞ、おまえら」
 にこにこと表面上微笑みながら、穏やかな声で毒を吐き合う准と渚に、拓巳は口を挟む余地もなくそう呟く。
 それから渚はふと准から視線を外すと、おもむろにタッタッと廊下を駆け出した。
 そして。
「おはようございますっ、清家先輩っ!」
 登校してきた眞姫を見つけ、渚は可愛らしい顔に笑顔を宿してぺこりと頭を下げる。
 眞姫はそんな渚に、にっこりと微笑んで言った。
「あ、渚くん。おはよう、どうしたの?」
 眞姫の問いに、渚は可愛らしい声でこう答えたのだった。
「清家先輩に朝から会えて、僕、すごく嬉しいですっ。それに昨日、小椋先輩と蒼井先輩にものすごーくお世話になって。昨日のお礼を今度倍で返したいなって思って挨拶に来たところでした」
「そうなんだ。あ、拓巳と准くん、おはよう」
 昨日の出来事を知らない眞姫は渚の言葉に微笑むと、自分たちを見ている拓巳と准の姿に気がついて手を振る。
 准はそんな眞姫に知的な笑顔を向け、嬉しそうに瞳を細めた。
「おはよう、姫」
「よう、姫。ていうか相原、さっさと自分の教室に帰れよな」
 眞姫に軽く手を上げて挨拶を返した後、拓巳は面白くなさそうに渚に目を向ける。
 渚はふっと笑みを浮かべると、わざとらしい可愛い声で拓巳に言ったのだった。
「小椋先輩、そういうことですから蒼井先輩にも言っておいてくださいね。昨日のお礼は、今度何倍にもしてお返ししますからって。じゃあ、失礼しまーすっ」
 ぺこりと頭を下げると、渚はスタスタと廊下を歩き出した。
 拓巳は渚の言葉にちっと舌打ちし、漆黒の髪をおもむろにかき上げる。
 眞姫はそんな拓巳の様子に首を傾げつつ、ふたりに向き直った。
「もうすぐ予鈴なりそうだね、教室に入ろうか」
「そうだね、姫」
「ああ、そうだな」
 准と拓巳は全く懲りていない渚の様子に苦笑しつつも、自分たちに向けられた眞姫の視線に微笑みを返し、そして彼女を伴って教室に入っていったのだった。

 





>> 第8話「赤橙色の瞳」あとがき <<