――3月8日・火曜日。
 日も次第に落ち、ついさっきまで青かった空も赤に染まり始めている。
 図書館を出た眞姫と健人のふたりは、教室へ戻るべく渡り廊下を歩いていた。
「健人と図書館で会うなんて、珍しいよね」
「ああ。明日の古文当たるから、前もって調べておこうと思ったんだよ」
 珍しく授業に必要な調べ物をしていた健人は、偶然愛しのお姫様の姿を図書館の中で見つけた。
 そして周囲に邪魔者が誰もいないことを確認し、健人はまんまと眞姫と一緒に帰る約束を取り付けたのだった。
 隣で小首を傾げながら微笑む眞姫に見惚れつつ、健人は嬉しい偶然に感謝する。
 それから青い瞳を細め、言った。
「職員室にノート提出して戻るから、姫は先に教室に行っててくれ。用事済ませて荷物取ったらBクラスに迎え行くよ」
「うん、分かった。Bクラスの教室で待ってるね」
 職員室と教室への分かれ道に差し掛かり、そこでふたりは一旦別れる。
 健人に背を向けて歩き出した眞姫は自分の教室に向けて階段を上り始めた。
 それからふと、その顔を上げる。
 栗色の髪がふわりと揺れるのも気にせず、眞姫は目の前に現れたその人物を見て笑顔を浮かべた。
「あっ、詩音くん」
「こんにちは、僕のお姫様」
 美形の顔に優雅な微笑みを湛え、現れた少年・詩音はにっこりと微笑む。
 そして、スッとあるものを彼女の前に差し出した。
「今日はこれをお姫様に届けようと思ってね、王子自らお姫様のもとへ参上した次第だよ」
 眞姫はその言葉にきょとんとしつつも差し出されたそれを受け取る。
 それは、1枚の封筒であった。
 眞姫は詩音に目を向けた後、丁寧にその封筒を開封する。
 出てきたのは、上等で重厚な紙質でできている1通の招待状であった。
「3月10日は王子の生誕記念日だからね、次の土曜日にパーティーを開くんだけど、これはその招待状だよ。王子の生誕記念日を祝いに来ていただけるかな、僕のお姫様?」
「わぁっ、詩音くんのお誕生日パーティー? うん、是非伺うわ。楽しみにしてるね」
 眞姫は詩音の申し出にすぐさまコクンと頷く。
 そんな眞姫の様子に満足そうに笑顔を向けた後、詩音はちらりと一瞬別の場所へと視線を向けた。
 それからふっと笑い、眞姫の耳元で囁いた。
「お姫様、このことは王子とお姫様のふたりだけの秘密だからね」
「え?」
 詩音の言葉に眞姫は首を傾げる。
 詩音はにっこりと無言で微笑んで、そんな彼女の頭を優しく撫でた。
 その時。
「姫と、詩音か?」
 職員室で用事を済ませた健人が、眞姫に遅れて階段を上がってきたのだった。
「こんにちは、青い瞳の騎士」
「いや、だからそれはやめろって」
 詩音の言葉を聞いて、健人は溜め息をつく。
 それから眞姫と詩音を交互に見て訝しげに聞いた。
「ていうかおまえら、何話してたんだ?」
 そんな健人の言葉に、詩音は相変わらず笑顔のままで答える。
「何って、王子とお姫様のふたりだけの秘密だよ。ね、お姫様」
「え?」
 瞳をぱちくりさせて眞姫は詩音を見た。
 さらに怪訝な表情を浮かべる健人に笑いかけ、それから詩音は続ける。
「今日は青い瞳の騎士が、僕のお姫様と一緒に帰るのかい?」
「ああ、姫は俺と一緒に帰る」
 健人はふと表情を変えてそう答えた。
 詩音は色素の薄い瞳を細め、そして続ける。
「しっかり僕のお姫様の護衛を頼んだよ、青い瞳の騎士」
「詩音くんはまだ学校にいるの?」
 眞姫の問いかけに微笑み、詩音は小さく頷く。
「うん、僕はもう少し用事があるからね。それではごきげんよう、僕のお姫様と青い瞳の騎士」
 それだけ言って詩音はふたりに軽く手を挙げ、歩き出した。
 そんな後姿を見送ってから、健人は眞姫に視線を移す。
「行くぞ、姫」
 詩音と眞姫が一体何を話していたか気になっていた健人だったが、とりあえず何とかふたりきりで下校できそうである。
 眞姫は健人の言葉に頷いて、そして教室へ向かって健人とともに階段を上りだしたのだった。
 その頃。
 眞姫たちと分かれた詩音は、ふと顔を上げて言った。
「“空間能力者”である先生なら、もうとっくに気がついているよね? あ、お姫様たちが下校するのを待っていると言ったところかな?」
「…………」
 その場に現れた鳴海先生は、無言で切れ長の瞳を詩音に向ける。
 それからはあっと大きく嘆息した後、口を開いたのだった。
「どうやら今回は、この私に用があるみたいだからな」




 ――それから数分後、聖煌学園の校門前。
 真っ赤に空を染めていた夕日も沈み、空はすっかり薄暗くなっていた。
「いいなぁ、俺も眞姫ちゃんとふたりで下校とかしたいよなぁ」
 ふうっと大きく嘆息し、その少年・智也は漆黒の前髪をかき上げる。
 健人と眞姫が聖煌学園の校門を出て下校したのは、つい先程であった。
 だがそんなふたりが、巧妙に気配を絶って潜んでいた智也の存在に気が付くことはなかった。
 それもそのはず、智也は自分がこの場にいることを悟られないように気配を絶っていたのである。
“邪気”を抑えた彼の存在は“空間能力者”でない限り知覚できないものだった。
「眞姫ちゃんとは話したかったけど、あのめっちゃ短気な青い瞳の“能力者”に見つかるわけにはいかないからね」
 そう言って智也はおもむろに漆黒の瞳を細めて続ける。
「でも……気がついて欲しい人には、どうやら分かってもらえたみたいだけど」
 表情を変えつつ、智也はふっと口元に笑みを浮かべた。
 そんな彼の視線の先にいたのは。
「初めまして、もしかして貴方がウワサの鳴海先生?」
「“邪者四天王”が、私に何の用だ?」
 いつの間にかその場に現れた人物・鳴海先生は切れ長の瞳を智也に向ける。
 その口調はゆっくりであったが、彼の内に秘める見えない威圧感のようなものを智也は感じた。
 そして表情を引き締めながらも、そんな先生に物怖じする様子もなく答えた。
「何の用って、個人的に興味があって。“能力者”を指導統率するその存在、それに俺たち“邪者”を束ねる杜木様の、親友だったって人物にね」
「…………」
 その言葉を聞き、鳴海先生は切れ長の瞳を細める。
 それから考えるような仕草をして呟く。
「杜木の差し金ではない、ということか」
 智也は杜木が親友と言う“能力者”に、少なからず興味があった。
 しかも眞姫の話によると、その人物は“能力者”の指導統率にあたっているという。
 今まで数人の“能力者”と戦ったことのある智也は、彼らによく戦闘訓練が施されていると身をもって感じていた。
 体に封じた“邪”の力を利用している“邪者”は“邪”を体に封印する際、心身ともに生じる激しい苦痛に耐えなければならないが、一般的には一度その身に“邪”を取り込んでしまえば特に訓練を受けることなく“邪気”が使え、それに伴い身体能力も高くなるのである。
 同じく“邪”に憑かれて“憑邪”となった人間がすぐに“邪気”を使えるのもそのためである。
 実戦に対する慣れなどはあるものの、“邪者”の力の優越はその“邪者”が召還して取り込んだ“邪”の力の大きさで決まる。
 逆に“能力者”は、“邪”などの力を借りずとも自分の持つ“正の力”を使える者であり、日頃の鍛錬などでその“正の力”を養い高めていかなければならない。
 いくら“能力者”の素質があっても、訓練を受けていない者は“気”も意のままに操れないのである。
 それなのに眞姫の周りにいる“能力者”は自在に“気”が操れ、しかも戦闘技術も高いものがある。
 智也はそんな彼らに“能力者”としてのノウハウを教えたという鳴海先生に、非常に興味を持ったのだった。
 杜木はそんな智也に、彼には手を出すなと忠告した。
 だが、“邪者四天王”である自分の力をよく知る杜木にそう言われたことが、逆に鳴海先生に対する智也の好奇心をかき立てる要因となったのだった。
 たとえその行動が危険だと分かっていても、好奇心を抑えることが智也にはできなかった。
 現に自分の目の前にいる鳴海先生からは、桁外れの強い“気”を感じる。
 感じる“気”の大きさに思わず鳥肌が立ちつつも、その力を試してみたいと智也の“邪者”としての本能が疼いていた。
 智也はじわりと自然と滲み出る汗を拭いもせず、スッと右手を掲げる。
 そして“邪気”を漲らせると、周囲に強力な“結界”を張った。
 先生はそんな様子にも表情を一切変えない。
 むしろそれを待っていたかのように、切れ長の瞳を智也に向けた。
「確かに“邪者四天王”であるおまえの“邪気”は、かなり大きいようだが……」
「!!」
 次の瞬間、智也は漆黒の瞳を見開く。
 開放された先生の強大な“気”のプレッシャーが、途端にビリビリと身体に伝わってくる。
 バッと身構える智也を見据え、先生はゆっくりとそして威圧的に言葉を続けた。
「だが私の前では、おまえの“邪気”は無力だ」
「そんなことハッキリ言われちゃったら傷つくな、やってみないと分からないんじゃない? 一応俺だって、“邪者”の中では強い方なんだけど」
 負けじとその掌に“邪気”を宿し、智也は余裕をみせるかのようにふっと笑う。
 だがそんな表情とは裏腹に、強大な先生の“気”に圧されまいと一瞬たりとも気の抜けない状況であった。
 智也はぐっと右手を引き、先手必勝と言わんばかりに集結させた“邪気”を鳴海先生目がけて放った。
 グワッと空気を裂き、真っ直ぐに漆黒の光が先生に襲いかかる。
 だがそんな様子にも表情を変えず、先生は動く気配すらみせない。
 そしてまさに漆黒の衝撃が先生を捉えんとした、その時。
 先生はふっと軽くその右手を翳した。
 それと同時に眩い“気”の光が漆黒の光を包み込み、カアッと弾ける。
「な……!?」
 智也は表情を変え、そして素早く“邪気”を漲らせる。
 放った“邪気”がその威力を何倍にも膨らませ、勢いを増して自分に跳ね返ってきたのである。
 クッと唇を結び、智也は目の前に“邪気”の防御壁を形成する。
 跳ね返ってきた大きな衝撃と“邪気”の防御壁がぶつかり合い、ドオンッという轟音が“結界”内に響き渡った。
 智也は余波のまだ晴れない中、間を取らずに複数の“邪気”の衝撃を放つ。
 それと同時にいくつもの光と音が弾け、立ち込めた余波が繰り出された衝撃の威力を物語っていた。
 だが、智也は構えを解かないまま苦笑する。
「一歩も動かずに、しかも片手ですべての攻撃を防がれるなんてなぁ、冗談じゃないよ」
 先生はちらりと切れ長の瞳を向け、そして智也に言った。
「私は“邪者”に対して容赦はしない。覚悟するんだな」
 その言葉と同時に、再び先生の“気”が急速に高まる。
 そして“気”の宿った右手を掲げ、ふっと振り下ろした。
「! くっ!」
 智也は唸りを上げて襲いかかる光の衝撃を見据え、漲らせた“邪気”を放ってそれにぶつける。
 ふたつの光が衝突し、何とか智也は“気”の衝撃を“邪気”によって相殺させることができた。
 だが、次の瞬間。
「!!」
 いつの間にか放たれていた先生の第二波が、智也のすぐ目の前まで迫っていた。
 咄嗟に掌に“邪気”を宿し、智也はその衝撃をガッと正面から受け止める。
 そして受け止めた衝撃の重さに顔を顰めながらもその“気”の光を浄化させた。
「ちっ! まったく、本当に冗談じゃない……っ」
 智也はそう言うやいなや、ふっと動きを見せる。
 智也が“気”を浄化させて無効化することを予測していたかのように、先生の右手からさらに複数の衝撃が放たれていたのだった。
 それらを“邪気”で防ぐのを諦めた智也は、高い身体能力を駆使してそれらの攻撃から身をかわす。
 彼を捉えきれなかった“気”が“結界”内で弾け、それとともに轟音が響いた。
 その時。
「!」
 ハッと顔を上げた智也は、漆黒の瞳を背後へと向ける。
 ビュッと風を切るような音が鳴ったかと思った瞬間、重い衝撃が彼を襲う。
 突然飛んできた先生の蹴りを何とか腕でガードした智也であったが、僅かに体勢が崩れた。
 そして智也に生じた隙を見逃さず素早く懐に入り、先生は握り締めた拳を彼の鳩尾を狙って突き上げた。
「く、はっ!」
 強烈な一撃に顔を顰めた智也は、何とか体勢を整えようと足を踏み出す。
 だがそれを許すまいと、先生は素早く“気”を高めて右手に光を宿した。
 間髪いれずに先生の掌から放たれた“気”の衝撃を避けることができず、智也は正面からそれをまともに受ける。
 その威力に飛ばされ、智也の身体は壁に勢いよく叩きつけられた。
 大きなダメージを全身に受け、智也は思わず表情を歪める。
「……!」
 だが次の瞬間、智也の表情が再び変わった。
 たまらずに地に片膝をついた智也に、さらに先生が“気”の衝撃を繰り出したのだった。
 刹那、ドオンッという激しい衝撃音が“結界”内に響き渡る。
 先生は切れ長の瞳を細め、そして言った。
「さすが“邪者四天王”と言いたいところだが、往生際が悪いようだな」
 何とか“邪気”の防御壁を張って衝撃を防いだ智也は、肩で大きく息をしつつ苦笑する。
「はあっ……参ったなぁ、こんなに強いなんて思ってなかったよ……っ」
 先生は切れ長の瞳を再び智也に向けると、無言で強大な“気”をその手に宿す。
 相変わらず表情を変えないまま、先生は言った。
「あまり長引かせるつもりはない。悪あがきもこれまでだ」
「! げっ……これはさすがに、くらうと本気でヤバイって……っ!」
 智也ははあっと大きく息を整え、そして今までとは比べ物にならない大きな“気”の圧力に表情を変えたのだった。




 ――同じ頃。
 少し人で混んでいる地下鉄の車内で、眞姫は不安そうに隣の健人を見た。
 眞姫が智也の張った“結界”に気がついたのは、地下鉄に乗って間もなくだった。
「健人、私やっぱり学校に……」
「絶対に駄目だ、姫」
 短くそう言って、健人は首を振る。
 学校を出てしばらくして智也の気配に気がついた健人だったが、あえてそのことは眞姫には言わなかった。
 下校直前に会った“空間能力者”である詩音には、遥か以前から彼の存在が分かっていたのだろう。
 彼に言われた言葉を思い出し、健人は眞姫を安全に家まで送ることを選んだのだった。
 だが眞姫も次第に“気”を使うことに慣れてきており、智也の張った“結界”を思いのほか早く知覚したのである。
 今すぐ電車を降りて引き返さんとする眞姫を健人は先程から何度も宥めていた。
「健人……」
 自分を真っ直ぐに見つめる、眞姫のブラウンの瞳。
 その中に宿る神々しい光のようなものを感じながらも健人はもう一度首を振る。
 眞姫はそんな健人の様子に俯き、心配そうに暗い窓の外に視線を向けた。
 ……その時だった。
「!」
「あ……!」
 健人と眞姫は、同時に顔を上げる。
 今までよりもさらに強い力を学校の方角から感じたのである。
 眞姫は意を決したように表情を変え、そして健人に言った。
「私、次の駅で降りて引き返そうと思う。やっぱり何だか、放っておけないよ」
「姫……」
 揺ぎ無い決心の漲る瞳を見て、健人は言葉を失う。
 眞姫はそんな健人に微笑み、続けた。
「私のこと、健人が守ってくれるんでしょう? 一緒に戻ろう、健人」
 眞姫の言葉に、健人は少し考える仕草をする。
 だが次の瞬間、青い瞳を細めて眞姫の頭にポンッと手を添えた。
「姫には負けるよ、一緒に戻るか。姫のことは何があっても、この俺が守ってやる」
「健人……ありがとうっ」
 ぱっと表情を明るく変え、眞姫は健人の手を握る。
 健人はそんな彼女の小さな手の感触に嬉しそうに微笑んだ後、ふと顔を上げる。
 その瞬間、電車が駅に到着して目の前のドアが開いた。
「行くぞ、姫」
「うん」
 健人の言葉に大きく頷き、眞姫はホームへと降り立つ。
 そして学校の方角にブラウンの瞳を向けて、表情を引き締めたのだった。




 智也の張った“結界”内は、鳴海先生の強大な“気”が渦巻いていた。
 それに対抗すべく“邪気”を漲らせる智也であったが、さすがに先程受けたダメージがまだ身体に残っている。
 今にも自分に襲いかからんとする光を見据え、智也はクッと唇を結ぶ。
(このままでは確実に殺られる……こうなったら“邪者四天王”の奥の手、“邪体変化”を発動させる以外“気”を防ぐ手立てはないな……)
“邪者四天王”のみ使用できる“邪体変化”は、“邪気”を何倍にもするかわりに術者の身体に相当な負担がかかる。
 だが、もはやこれ以外で強大な“気”に耐え得る方法は考えられない状況になっていた。
 智也は“邪体変化”を発動させるべく、スッと両の掌を胸の前で合わせようとした。
 ……その時。
「!」
 智也に向けられていた先生の視線が、ふと別の場所へと移る。
 次の瞬間、智也は“邪体変化”の発動を促すその構えを解いた。
 それから驚いたように漆黒の瞳を大きく見開いた。
 自分の張った“結界”内に、強大な“邪気”を宿す存在が入り込んだのを感じたからである。
 しかもその“邪気”は、智也のよく知っている人物のものであった。
「! 杜木様……っ」
 顔を上げ、智也は短くそう叫ぶ。
 そんな智也にいつもと変わらない微笑みを向けた後、その場に現れた人物・杜木慎一郎は鳴海先生に視線を移した。
「久しぶりだな、将吾」
「杜木……」
 柔らかな笑顔を向ける杜木とは対称的に、先生は表情を険しいものに変える。
 杜木はそんな先生の反応を楽しむように漆黒の瞳を細め、続けた。
「将吾、悪いけど智也を殺させるわけにはいかなくてね」
「…………」
 杜木の纏う強大な“邪気”を複雑な表情で見据え、先生は黙っている。
 それから視線を鳴海先生から智也へと戻し、杜木は言った。
「智也、私は忠告したはずだ。将吾には手を出すなと」
「申し訳ありません、杜木様……」
「今日は我々から退く。周囲に張った“結界”を解除しろ」
 智也にそう指示を出した後、杜木は自分に切れ長の瞳を向けている鳴海先生に改めて言った。
「今日は俺たちの方から退くことにするよ、将吾」
 智也は杜木と先生の顔を交互に見た後、“結界”を解除すべく右手を掲げる。
 その時だった。
「……待て」
 今まで黙っていた先生が、ふと口を開いた。
 それからグッと拳を握り締めて言葉を続ける。
「杜木、俺がそうやすやすと“邪者”を逃がすと思うか?」
 そんな先生の言葉に、杜木は闇のように深い色を湛える漆黒の瞳を細めた。
 そして“結界”を解除しようと掲げた智也の手を制止して笑う。
「将吾、本当におまえは昔から変わらないな」
「杜木様……!?」
“結界”を解除することを止められた智也は驚いたように杜木に目を向けた。
「……!」
 鳴海先生は目の前の杜木を見て、ふと表情を変化させる。
 杜木の身体から立ちのぼる“邪気”が、その大きさをさらに増したからだ。
 智也は杜木の強大な“邪気”を感じて右手を収める。
 それから数歩下がり、戦況を見守ることにした。
「さあ、将吾。はじめようか」
 そう言って杜木は、バチバチと音をたてて渦巻く強大な“邪気”を、ふっと先生目がけて放つ。
 唸りを上げて襲いかかる“邪気”に対抗すべく、先生も眩い“気”を繰り出した。
 カアッと目を覆うほどの光がぶつかり合い、そして双方の威力は相殺されずにお互いの中間でくすぶる。
「互角……!?」
 均衡状態に入った目の前の状況に、智也はそう呟く。
「どうした、何を遠慮している? おまえの力はこの程度じゃないはずだろう?」
 強大な“邪気”を漲る掌を翳したまま、杜木は先生に視線を向ける。
「…………」
 先生はそんな杜木の言葉に敢えて乗るかのように、“気”の威力を増大させた。
 それと同時に、均衡状態でくずぶっていた衝撃が、じわりと杜木の方に圧される。
 そんな様子にふっと微笑み、杜木は掲げていた手をスッと引く。
 途端に眩いばかりの大きな衝撃が一斉に杜木へと襲いかかった。
 杜木は素早く“邪気”をその手に宿し、迫りくる衝撃に向けて漆黒の光を放つ。
 ドオンッという激しい衝撃音が生じ、そしてすべての威力が相殺された。
「遠慮しているのはどっちだ?」
 余波の立ち込める様に表情を変えず、鳴海先生は杜木に切れ長の瞳を向ける。
 戦況を見守っている智也は、目の前に繰り広げられている大きな力同士のぶつかり合いに何も言えずにいた。
 まだお互い本来の力の半分も出していないことは分かっているが、それでもレベルが違う。
 元“能力者”であり、そして“邪者”でもある杜木の力は、“邪者”の中でも特に卓越している。
 そしてその身体に“邪”を取り入れることなくそんな杜木と同等に渡り合えている鳴海先生の力に、智也は恐怖すら感じていた。
 杜木はスッと再び身構え、瞬時に形成した“邪気”の大きな塊を先生に放った。
 彼の手を離れた漆黒の光は真っ直ぐに先生目がけて唸りを上げる。
 それを“気”を宿した掌でしっかりと受け止め、先生は“気”を宿し漆黒の球体を浄化させる。
 それからふっと背後へ意識を向け、咄嗟にその身を屈めた。
 それと同時に、先生の頭のあった位置を、いつの間にか背後に回った杜木の蹴りが空を切った。
 先生は素早く握り締めた右拳を、振り返り様に杜木へと放つ。
 それを受け流し、杜木は腹部を狙って膝を入れようと右足を僅かに引いた。
 その杜木の予備動作を見逃さず、先生は左腕で膝蹴りをガードする。
 そして、次の瞬間。
「……!」
 智也は息を飲み、言葉を失った。
 お互い同時に繰り出した右の拳が、相手に届く直前でぴたりとその動きを止めていたのである。
 杜木は先に構えを解き、柔らかな微笑みを絶やさずに言った。
「どうして止める? 本当におまえの頑固な性格は変わらないな」
「それはこっちの台詞だ。おまえはやることが見え見えで、非常に不愉快だ」
 そんな先生に楽しそうに目を向けた後、くすっと笑って杜木は続ける。
「将吾、“邪者”には容赦はしないんじゃなかったのか? 例えわざと作られた隙でも、この機会を見逃すのは得策ではないな」
「余計な小細工をしてもらわなくとも、“邪者”は一人たりとも逃がさん」
 自分の反応を楽しそうに見ている杜木に、鳴海先生は怪訝な顔をした。
 杜木は漆黒の瞳を細め、そして相変わらず柔らかな声で言った。
「言っておくが将吾、俺は今でもおまえのことを親友だと思っているよ」
 先生はその言葉を聞き、ぐっと拳を握り締める。
 それから切れ長の瞳を杜木に向け、言った。
「黙れ。今でも俺のことを親友だと思っている、だと? 恨んでいるのならば、そう言えばいいだろう!? それをおまえはっ」
「恨んでいる? それは誤解だな。俺はおまえのことを親友だと思っているよ。ただ……」
 そこまで言って、杜木は漆黒の瞳を改めて先生に向ける。
 そんな瞳の印象は、先程までの柔らかいものとは違っていた。
 ぞくっとするほどの深い闇を湛える瞳を細め、杜木は言葉を続ける。
「今でもおまえは親友だが、俺たちが選んだ道は正反対のものだ。私は自分の選んだ道を引き返すつもりはないよ」
「杜木、おまえは……」
 杜木のその言葉に、先生は何かを言おうと口を開いた。
 だが、次の瞬間。
 ふと口を噤み、先生は杜木から視線を外す。
 智也は驚いたような表情を浮かべ、そして新たに自分の“結界”内に侵入した人物に目を向けた。
「あっ、眞姫ちゃん!? どうしてっ」
「鳴海先生……」
 そこには、学校の校門までようやく引き返してきた眞姫と健人の姿があった。
 眞姫はその場にいるメンツを見回し、複雑な表情をする。
 健人は眞姫の盾になるように位置を取り、先生に青い瞳を向けた。
「一体これは、どういうことだ?」
 そんな健人の問いには答えず、先生は無言で眞姫に視線を移す。
 杜木は眞姫と健人が現れても表情を変えることなく、ふっと微笑んで鳴海先生に言った。
「お姫様もいることだし、どうやら今日はここまでのようだな」
 それから杜木は、智也にちらりと目を向ける。
 智也は頷いてその手に“邪気”を宿すと、周囲に張っていた“結界”を解除した。
 杜木は“結界”が解除されたのを確認し、智也を連れて歩き出す。
 それからふと振り返って鳴海先生に言ったのだった。
「久しぶりに会えて嬉しかったよ、将吾」
「…………」
 にっこりと整った顔に笑顔を浮かべる杜木とは対称的に、先生の表情は複雑なものであった。
 智也は去り際に一度眞姫に微笑み、それから何かを考えるように最後にちらりと鳴海先生を見た。
 それから先生は眞姫たちにも何も言わず背を向け、校内へと戻り始める。
「鳴海先生っ!」
 呼び止める眞姫の声に一瞬足を止めたが、先生は振り返らず健人に言った。
「健人、清家を安全に自宅まで送りとどけろ。分かったな」
「……ああ」
 健人は小さく頷いてから、先生の後姿を見送る眞姫を促す。
 眞姫は先生に背を向けて健人と歩き出しつつも、俯いて言った。
「親友と敵同士なんて、やっぱり悲しいよね……」
「姫……」
 健人は悲しそうな表情を浮かべる眞姫を気遣い、そっと彼女の肩を抱く。
 眞姫はそんな健人のあたたかい手の温もりを感じながらも、先生の瞳に見え隠れしていた悲しそうな色を思い出していたのだった。