喫茶店で、杜木はすっかり冷めてしまった残りのコーヒーを飲み干した。
「杜木様……」
「心配ないよ、つばさ」
 隣で複雑な表情をしているつばさの頭を優しく撫で、杜木は彼女を安心させるようににっこりと微笑む。
 すでに喫茶店には、杜木とつばさのふたりしか残っていなかった。
 杜木は深い闇のような漆黒の瞳を細め、そして言った。
「綾乃は分かっているよ、自分の選んだ道を引き返すことができないことを。むしろ、引き返そうとも思っていないだろう。ただ……心に受けた傷にかさぶたができるまでの間、少し時間が必要だというだけだ。私には、彼女の気持ちが痛いほど分かるからね」
 ――数分前。
 1年半前の事実が語られたその時、その場にいた者たちの反応は様々であった。
 話し終えた杜木は相変わらず表情を変えず琥珀色のコーヒーをひとくち口に運ぶ。
 つばさはそんな杜木から目を離さずに、じっと彼だけを見つめていた。
 涼介はふっと口元に笑みを浮かべ、その時のことを思い出すかのように楽しそうな様子である。
 智也は真剣な眼差しを杜木に向けつつも、時々自分の隣にいる綾乃を気遣うように見ていた。
 そして、綾乃は。
「恭平さん……」
 彼女の漆黒の瞳からは、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていた。
 綾乃は溢れる涙を拭いもせず、ガタンと立ち上がる。
 そして真っ直ぐに杜木を見つめた。
 杜木は黙ったまま、そんな彼女に優しい色を湛える瞳を向けている。
「杜木様、恭平さんは私にとってすごく大切な人でした。どんな理由があろうと、彼の死は私にとって一生消えない傷です。それに私、彼のことも何も知らなかったんですよね……あんなに近くにいたのに、彼が“能力者”だってことにも気がつかなかった……」
 ぐっと拳を握り締めて俯き、綾乃は言葉を切った。
 だがすぐに再び顔を上げて続ける。
「でも私、事実を知った今でも“邪者”になったことを後悔はしていないし、杜木様の下された決断は当然のことだと思っています。私は“邪者”であることに誇りを持っているし、これからも自分の選んだ道を真っ直ぐ進んでいくつもりです」
「綾乃……」
 智也はそんな綾乃を見つめて言葉を失う。
 涙で潤んだ彼女の瞳の奥にある、強い意志を感じたからである。
 今まで黙って彼女の言葉を聞いていた杜木は、立ち上がってスッと手を伸ばした。
 そして優しく彼女の涙を拭い、彼女の頭をゆっくりと撫でる。
「綾乃、おまえは強い子だね。だが、時には我慢しなくてもいいこともあるんだよ」
「杜木様……」
 その言葉を聞いて、再び綾乃の瞳から涙が零れる。
 それから俯いて言った。
「すみません、私……分かってるんです、分かってるんですけど……やっぱり、今はまだっ」
「! 綾乃っ」
 ぺこりと杜木に頭を下げ、綾乃は店を駆け出し出て行く。
 それを追おうと立ち上がった智也に杜木は目を向けた。
「……智也」
 杜木の言葉に、智也は動きを止める。
 杜木は改めて椅子に座ると言葉を続けた。
「智也、私に聞きたいことがまだあるんじゃないかい?」
 智也はちらりと店の外に一瞬目を向ける。
 そして改めて、杜木に聞いた。
「ええ。杜木様、鳴海将吾という“能力者”のことをお聞きしたいんですが」
「彼は私の親友だよ。今向こうはどう思っているかは分からないけどね」
 表情を変えず、すぐに杜木はそう答える。
 逆に智也は表情を変化させて再び聞いた。
「お言葉ですが杜木様、彼は“能力者”の統率者だと聞きました。杜木様は俺たち“邪者”の上に立つ御方……“能力者”は我々の敵であるはずです。なのに……」
 杜木はひとくちコーヒーを飲んで一息間を置き、それから言った。
「智也。私と将吾は親友だが、それぞれが選んだ道は正反対のものだ。私は自分の選んだ道を引き返すつもりもないし、彼もそうだろう。私は“邪者”として選んだ道を、これからも迷わず進むよ」
「杜木様……」
 智也は深い杜木の漆黒の瞳を見てから、綾乃を追おうと店を出て行こうとした。
 その時。
「智也」
 再び呼び止められ、智也は足を止める。
 杜木は柔らかな印象の微笑みを向け、そして彼に言った。
「智也、将吾に手を出してはだめだよ。彼は“能力者”でも強さの桁が違うからね」
「…………」
 智也は無言のまま杜木に頭を下げ、それから店を出て行く。
「じゃあ僕もそろそろ失礼しますね、杜木様」
 今まで黙って全員の様子を見ていた涼介も、おもむろに席を立った。
 そしてふっと笑みを浮かべて言った。
「本当に杜木様はお優しい御方だなと、今日改めて思いましたよ。それでは」
 そう言って去っていく涼介の背中を杜木は黙って見送る。
 つばさはすっかり冷めてしまった紅茶のことも忘れ、そっと黒髪をかきあげて隣の杜木をじっと見つめたのだった。




 喫茶店を出た綾乃はふと顔を上げ、足を止める。
 そして近くにあるベンチに座った。
 店を飛び出して方向も考えずに走っていた綾乃は、いつの間にか繁華街の外れまで来ていた。
 賑やかな中心地と違って、この場所は人も疎らである。
 目に溜まった涙を拭い、そして綾乃は大きく溜め息をついた。
「恭平、さん……」
 優しかった恭平の笑顔が脳裏に浮かび、同時に周囲の風景が涙で滲む。
 綾乃には分かっていた。
 恭平を殺せと涼介に命じた杜木の選択が、“邪者”として当然のことであったのを。
 むしろ恭平の一番近くにいる自分にその命を与えなかったことが、杜木の優しさである。
 それでも、やはり。
「恭平さん……っ」
 ぐっと瞑った漆黒の瞳から、再び涙が流れ出した。
 ……その時。
 ひやりと頬に冷たい感触を感じ、綾乃はハッと瞳を開く。
 そして顔を上げ、呟いた。
「あ……智、也?」
「ほら、これでも飲んで落ち着けよ」
 差し出された缶ジュースを受け取り、綾乃は涙を拭う。
 それから小さく笑顔を作って、目の前の智也に言った。
「……午後ティー、ストレートよりミルクティーの方がよかった」
「ストレートしかなかったんだよ、我慢しろよな。まったく、おまえは」
 仕方ないやつだなと呟き、智也は綾乃の頭を少し乱暴に撫でる。
 それから綾乃は、自分の隣に座った智也に視線を向けた。
「ごめんね、智也。いつも本当にごめん……」
 そう言って俯く綾乃に智也は首を振る。
「おまえに迷惑かけられるの慣れてるし。だから……今は、我慢しなくていいんだぞ?」
「智也……」
「ま、でも午後ティーはストレートで我慢しとけよな」
 そう言ってふっと笑う智也に、綾乃はこくんと頷く。
 それから再び零れた涙を拭って微笑み、缶ジュースを開けた。
「うん……午後ティーは、ストレートで我慢しとく……」
 ひとくちジュースを口にした綾乃は、冷えたジュースが喉元を通る感覚を覚える。
 乾いていた気持ちまで潤うような気がして、綾乃はほうっとひとつ息をついた。
 智也はそんな綾乃を見て漆黒の瞳を優しく細め、それから立ち上がる。
 真剣な眼差しを綾乃に向けた智也は、ゆっくりと口を開いた。
「“邪者”になった日から、おまえも俺も自分の選んだ道を真っ直ぐ歩いて行こうって決めたんだけど……でも、たまには立ち止まってもいいんじゃないか? 立ち止まって、これまでのことやこれからのことを考える時間だって必要だ。考えるだけ考えて、それからまたゆっくりと歩き出せばいい。ずっと全力で走り続けてたら、そのうち息切れするぞ?」
「うん……そうだね」
 素直に智也の言葉に頷き、綾乃はもう一度ジュースを口にする。
 そしてふっと笑顔を浮かべ、言った。
「ていうか、智也って実はいい人だよね」
「実はって何だよ、実はって」
 綾乃は改めて顔を上げ、智也に漆黒の瞳を向ける。
 それから瞳に溜まった涙を拭いて口を開いた。
「ありがとね、智也」
「ま、すぐには無理かもしれないけど……元気だせよ」
 綾乃の気持ちを気遣い、智也はひらひらと手を振って歩き出す。
 そんな智也の後姿を見つめてもう一度微笑み、綾乃は呟いた。
「立ち止まって、これまでのことやこれからのことを考える、か」
 そして綾乃は、鞄からあるものを取り出したのだった。




 周囲を夜の闇が包み、空には柔らかな月が顔をみせている。
 だが繁華街は明るいネオンで飾られ、たくさんの人で賑わっていた。
 そんな中噴水広場に足を踏み入れた彼は、ふと歩みを止める。
 それから気を取り直し、自分を待っている彼女の元へと進んだ。
「そこの可愛いお嬢さん、このハンサムガイとデートでもせえへん? って、誰かと思えば綾乃ちゃんやないか」
 わざとらしくそう言って、祥太郎はその顔に笑みを浮かべる。
 綾乃は振り返り、漆黒の瞳を細めた。
「あら、どこのハンサムくんかと思ったら祥太郎くんじゃない」
 祥太郎はふっとその言葉に微笑んで、そして言った。
「さ、綾乃ちゃん。どこ行こか?」
 ……ちょうど1時間ほど前。
 突然祥太郎に、綾乃から電話があったのだった。
 電話の彼女の声はいつもと同じで、話すことも普段と大して変わらないように思えた。
 だが祥太郎は、電話の先の綾乃がいつもと違うことに気がついたのだった。
 綾乃の様子に気がついた祥太郎は、彼女と会う約束をした。
 そして改めて会った綾乃の姿を見て、祥太郎はそれを確信したのである。
 普段と同じように振舞っていても、どこか彼女のその横顔は寂しい色をしていた。
 祥太郎は敢えて彼女に何があったのかは聞かず、周囲を見回す。
「んー、綾乃ちゃんはどこか行きたいとことかあるか?」
「そうね……」
 俯いていた綾乃は顔を上げ、少し考える仕草をする。
 それから、ゆっくりと言った。
「ケーキが食べたいな。そこの、繁華街の入り口のケーキ屋さん」
「ケーキ? 綾乃ちゃんは本当に甘いもんが好きなんやなぁ」
 そう言って笑って、祥太郎は綾乃とともに賑やかな繁華街を歩き出す。
 そして、一軒のケーキ屋へと入った。
 席に着いた祥太郎は綾乃にメニューを手渡す。
 だが、綾乃はそれを開く気配はない。
「綾乃ちゃん?」
 ふと不思議そうに首を傾げる祥太郎に、綾乃は笑顔を作って言った。
「綾乃ちゃん、もう何にするか決めてるから」
「早いなぁ、もう決めたんかい。んー、俺はどれにしようかなぁ」
 少し悩んで、そして祥太郎は近くにいたウエイトレスを呼ぶ。
「えっと、俺はケーキセットで」
「あ、私もケーキセット」
「じゃあ、ケーキセットふたつで。俺はチーズケーキとコーヒーにするわ。綾乃ちゃんは?」
「…………」
 その祥太郎の言葉に、綾乃はふと俯いた。
 それから、ゆっくりと口を開く。
「私は紅茶と……ブルーベリーケーキ」
 そしてオーダーをしてまもなく、同じウエイトレスがふたりのケーキを運んでくる。
 祥太郎はブラックでひとくちコーヒーを飲み、綾乃に目を向けた。
 砂糖を入れた紅茶をかきまぜながら、綾乃の視線はじっと目の前のブルーベリーケーキに向いている。
 そしてその漆黒の瞳は、心なしか潤んでいるような気がした。
「綾乃ちゃんとは何度もお茶したけど、そういえばこのケーキ屋は来るのはじめてやな」
「うん、そうだね。ここでケーキ食べるのも、1年ぶりくらいかな……」
 祥太郎の声にふと我に返り、綾乃はぽつりとそう呟く。
 前にこの店でケーキを食べた時のことを、綾乃ははっきりと覚えていた。
 1年半前のその時は、恭平と一緒だった。
 甘いものがそれほど好きではなかった彼だが、ここのブルーベリーケーキは特別で。
 よくふたりでこの場所でお茶をしたものだった。
 だが彼が死んで以来、綾乃はこの店に入ることができないでいた。
 彼との思い出が溢れ出し、胸が張り裂かれるような気がしたからだ。
 綾乃は紅茶をひとくち飲み、そして祥太郎に視線を向ける。
 それからそっと溜まった涙をさり気なく拭い、言った。
「……何も聞かないんだね、祥太郎くん」
「まぁ、俺がわざわざ聞かんでも、話したいことあったらそのうち綾乃ちゃんから話してくれるやろって思ってるからな」
 優しく微笑み、祥太郎はチーズケーキをぱくっと口に運ぶ。
 綾乃は少し考える仕草をして、それから祥太郎に漆黒の瞳を向けた。
 そして、口を開く。
「綾乃ちゃんは祥太郎くんのこと、すごくいい友達だと思ってるよ。一緒にいて楽しいし、祥太郎くんって優しいし。でも、祥太郎くんが“邪者”の敵である“能力者”だってことも分かってるんだ。私は“邪者”である以上、“能力者”である祥太郎くんのことを殺さないといけないことだってあると思う。でも私は“邪者”として、祥太郎くんのこと迷いなく殺そうとすると思うんだ」
「綾乃ちゃん強いから、俺としてはそうなって欲しくないんやけどなぁ」
 テーブルに頬杖をつき、祥太郎は綾乃の言葉に苦笑する。
 綾乃は漆黒の髪をかき上げ、言葉を続けた。
「“邪者”として祥太郎くんのことを躊躇なく殺せるし、後悔はしないと思う……けどね、やっぱり辛いっていう気持ちは残ると思う。自分の選んだ道を進むためにそれが当然のことだとしても、やっぱり胸が痛むし心に傷ができると思うの……」
「綾乃ちゃん……」
 堪えていた涙がひとすじ、綾乃の頬をつたう。
 祥太郎はポケットからハンカチを取り出し、彼女に手渡した。
 綾乃は小さく微笑んでそれを受け取ってから言った。
「何かね、今そういうことを考えさせられることがいろいろあってね……頭では分かってるんだけど、やっぱり心は痛いんだ……“邪者”としては間違っていないって分かってるけど、でも今はまだ辛くて……あ、何言ってるのかこれじゃ意味分んないよね、ごめんね」
「いや、ちゃんと分かるで。何があったかは知らんけど、言いたいことは分かる。自分が決めた道を進むためにやらないかんことは、時には自分にとって辛いことやったりする場合も多いからな」
 そこまで言って、祥太郎は綾乃に視線を向ける。
 そしてハンサムな顔に悪戯っぽい笑みを浮かべて続けた。
「まぁでもこれだけは安心してええで。綾乃ちゃんは強いけどな、祥太郎くんもそう簡単には殺されたりせえへんからな」
「あら、意外とあっさりかもしれないよ?」
 祥太郎の言葉にくすっと笑って、綾乃は漆黒の瞳を細める。
 祥太郎は笑顔の戻った綾乃を見てふっと微笑む。
 それからニッと笑って言った。
「いやいや、そうやすやすと殺られんし。意外と俺も強いんやって」
「祥太郎くんが強いのも知ってるけど、でも綾乃ちゃん相手じゃどうかなぁ」
「綾乃ちゃんが強いのも分かってるけどな、それでもこのハンサムくんもなかなかやで」
 そこまで言って、祥太郎と綾乃はお互いに視線を合わせる。
 そして、ふたり揃って笑い出したのだった。
「もう、祥太郎くんってば結構頑固なんだから」
「それは綾乃ちゃんも同じや。でもまぁ、やっぱり綾乃ちゃんは笑ってる顔が一番可愛いな」
 そして祥太郎は、優しい笑顔を彼女に向ける。
「ま、笑った顔が一番可愛いけどな、無理して笑うこともないし……たまには立ち止まって一休みするのもええんやないか? それにこう言うやろ、慌てない慌てない一休み一休みってな」
「立ち止まって、か……ていうか祥太郎くん、それって一休さんだし」
 自分が智也に同じことでツッコミを入れられたことを思い出し、綾乃は再びくすくすと笑った。
 それから視線を落とし、ブルーベリーケーキにフォークを入れる。
 それをひとくち食べてから、綾乃は懐かしいその味に瞳を細めた。
 綾乃の心の中で、恭平の死は一生消えない傷であることは間違いない。
 恭平のことを思い出すたびに涙が出てきてしまうだろう。
 だが、自分の選んだ道を引き返す気はない。
 むしろ“邪者”として、逃げずにこの辛い出来事にも向き合うべきだと綾乃は思った。
 それが“邪者”としての道を選んだ、自分の宿命でもあるのだ。
 確かに1年半前の事実は綾乃にとって目を背けたいほど辛いものである。
 でもしばらく足を止めて、そして再びゆっくりと歩き出せばいい。
 綾乃はこの時、そう思ったのだった。
 口に広がるブルーベリーケーキの甘酸っぱい味に微笑み、そして綾乃は祥太郎に言った。
「さ、祥太郎くんっ。次はどこでパフェ食べる?」
「げっ、また甘いもの食べる気かい! 綾乃ちゃん、いろんな意味で容赦ないなぁ」
 そう言いつつも、祥太郎はいつもの笑顔を取り戻した綾乃を見て瞳を細める。
 彼女と自分は“邪者”と“能力者”という、敵同士であるけれど。
 だが、自分の信じた道を進むために戦いに身を投じているという立場は同じである。
 綾乃に何があったか、詳しいことは分からない。
 でも祥太郎には、綾乃の気持ちが分かったのだった。
「仕方ないなぁ、もうこうなったら胸ヤケするまで甘いもん付き合って食ったるわ」
 そう言った祥太郎に、綾乃はにっこりと微笑む。
 そして、ゆっくりと言ったのだった。
「ありがとうね、祥太郎くん。本当にありがとう……」