2月6日・日曜日。
 眞姫は携帯電話を取り出して時間を確認した後、人の波に逆らわずに歩き出した。
 数ヶ月前まではクリスマス一色だった街のショーウィンドウも今はすっかりバレンタイン色に染まっている。
「そういえば、もうすぐバレンタインかぁ。今年はどうしようかな」
 ハートのモチーフで飾られた華やかな街並みを見ながら、眞姫は思い出したように呟いた。
 時期が時期ということもあり、繁華街の有名洋菓子店から近くのスーパーに至るまで、様々なバレンタインチョコレートが売られ始めているのを最近よく目にする。
 そしてそこには、ずらりと女の人の行列ができているのであった。
 うーんと考える仕草をして、眞姫は栗色の髪をそっとかきあげる。
 それからふと立ち止まり、ショーウィンドウに視線を向けた。
「私があげるのはいいんだけど、貰う方が悩んじゃうよね……」
 2月14日はバレンタインデーでもあるが、同時に眞姫の誕生日でもある。
 お姫様の誕生日とあらば言わずもがなやる気満々の少年たちに、眞姫は何か欲しいものがあるかと散々聞かれているのだった。
 だが、目の前の華やかなショーウィンドウに特に目ぼしいものはなく、眞姫は再び歩き出した。
 それから准と待ち合わせしている噴水広場に入る。
 待ち合わせ場所の定番である広場は日曜日ということもあり賑やかではあったが、まだ午前中ということもあり、ストレスを感じる程の人の多さではなかった。
 眞姫はふと顔を上げ、小走りにタッタッと歩を進める。
 そしてブラウンの瞳を細めてにっこりと微笑んだ。
「早かったんだね、准くん。お待たせ」
「おはよう、姫。僕も今来たところだから、気にしないで」
 知的な顔に優しい笑みを浮かべ、准は眞姫の隣に並ぶ。
「繁華街に着いた時にメールすればよかったね。私も少し着いたの早かったから、周りのお店をちょっと見てたんだ」
 少し申し訳なさそうにする眞姫に准は首を振った。
「大丈夫だよ。僕、姫のことを待つの好きだから。とは言っても、姫は時間にルーズじゃないからそんなに待つことってないけどね」
「私も人を待つのって嫌いじゃないよ。周囲の人たちとか見てると、結構楽しいもんね」
「拓巳や健人みたいにマイペース過ぎて、待ち合わせしても遅刻ばかりなのも困るんだけど」
 そう言って苦笑する准に、眞姫はきょとんとしたように首を傾げる。
「拓巳は確かに遅刻常習犯だけど、健人っていつも待ち合わせ時間より早く来てない?」
「健人が? よくてギリギリ、前なんて待ち合わせ時間なのにまだ家で寝てたりしたし」
 眞姫の言葉に、今度は准が不思議そうな顔をしてそう言った。
 だがそれからすぐに、納得したように小声で呟く。
「そっか、姫との待ち合わせだからか……」
 准は呆れたように深く溜め息をついた。
 そんな声が聞こえなかった眞姫は、大きな瞳をぱちくりさせて首を傾げる。
「准くん、どうしたの?」
「ううん、何でもないよ。今からどこ行こうか、姫」
 上目遣いで自分を不思議そうに見ている眞姫ににっこりと微笑み、准は腕時計を見た。
 それと同時に、広場にある時計の鐘が11時を知らせる。
「私は准くんの誕生日お祝いができれば嬉しいから、准くんの行きたいところでいいよ。どこか行きたいところってある?」
「そうだな……」
 眞姫の言葉に、准は少し考えるように瞳を宙に向けた。
 それから再び彼女に視線を戻し、言った。
「水族館とかどうかな? 今、いろいろとイベントもやってるらしいし」
 眞姫はそんな准の提案に、パッと表情を変える。
「水族館かぁっ、私すごく好きなんだっ。じゃあ水族館行こうか、准くん」
「姫もたぶん好きなんじゃないかなって思ったからよかったよ。行こうか、姫」
 楽しそうにはしゃぐ眞姫に瞳を細めて、准は彼女を伴いゆっくりと歩き始めた。
「水族館だったら、ここからちょっと電車で移動だね。マンボウいるかなぁっ」
 ワクワクした様子の眞姫に、准は表情を緩める。
 楽しそうに笑う彼女の無邪気な笑顔が、准はとても好きなのだ。
 彼女の微笑みを見ていると、不思議と自分も元気になる気がするのだった。
「姫、知ってる? マンボウって3億個も卵産むんだよ」
「えーっ、3億も!? 1匹でいいから欲しいなぁ、マンボウ」
「うーん……マンボウって1匹でも相当大きいから、一般家庭ではちょっと飼育難しそうだよ、姫」
 准の言葉に、眞姫は残念そうに首を捻る。
「それにマンボウって、一体何食べてるか分からないしね」
「マンボウってクラゲが餌らしいよ。でも……餌以前の問題な気がするんだけど」
「クラゲかぁ、でも私たちが食べるようなクラゲじゃないんだろうな。あっ、じゃあお盆過ぎの海とか、マンボウにとってはご馳走の宝庫ってことかな?」
「お盆過ぎの海水浴場にマンボウがいた方が驚くけどね、姫」
 真剣な顔で悩む眞姫を見て、准は思わずくすくすと笑った。
 そんな彼の様子に、眞姫は恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「准くん……今私のこと、すごくバカなこと考えてるなぁって思ったでしょ」
「ううん、姫ってやっぱり面白いなって思ったよ。どこか言動ずれてるよね、姫って」
「ずれてる? そうかなぁ、自覚はないんだけど」
 うーんと考え込む眞姫を見つめて、准は楽しそうに笑顔を浮かべた。
 それから彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩きながら、水族館に向かうべく地下鉄の階段を下り始めたのだった。




 同じ頃。
 約束時間きっちりに現れたダークブルーのウィンダムの到着を窓から見ていた紳士は、息子を迎えるために玄関へと足を運ぶ。
 そして紳士が広い廊下を抜けてエントランスの見晴らせる階段を下り始めたと同時に、入り口の大きな扉がゆっくりと開いた。
 紳士は上品な顔に笑みを浮かべ、嬉しそうに言った。
「おかえり、将吾。休日に呼び出してすまないね」
「いえ。何かあったのですか?」
 相変わらず表情を変えない鳴海先生を家の中へと促しながら、紳士はにっこりと微笑む。
「たまには実家で父と休日を過ごすのもいいんじゃないかい? それに知り合いから美味しい紅茶が届いたから、一緒にどうかと思ってね」
 先生は、そんな紳士の言葉に嘆息する。
 そして父親と同じ色をしたブラウンの瞳を向けた。
「いつも言っていますが、どうしてそう貴方はいつも直前にしか連絡してこないのですか? 今日の朝にいきなり帰って来いと言われても、私にも私の都合があるのです」
「仕方ないだろう? 今日の朝、ふと息子の顔が見たいと思ったんだからね」
「本当に貴方は……いつものこととはいえ、思いつきで人を振り回すのはやめてください」
 着ていたコートを脱ぎ、先生はリビングへと足を運ぶ。
 そして几帳面にハンガーにコートを掛けた後、いつも座るソファーに座った。
 紳士は1枚のCDをコンポに入れてから先生に瞳を移す。
「外は寒かっただろう? 今日の朝は一段と冷えていたしね。紅茶、たまにはイギリス風にミルクティーでいいかな?」
「そうですね、日中も昨日よりかなり気温も低いようです。紅茶はお任せします」
 先生の言葉に頷いて紳士がリビングを出て行った後、先生は静かにコンポから流れ出したピアノの旋律に耳を傾けた。
 今住んでいる場所から実家までは、距離的にもそう離れてはいない。
 だが何かと親子揃ってお互い仕事が忙しく、父親と会うことはあっても仕事が終わって外で食事をする程度だった。
 自分の家に置いている家具などはシンプルで無駄のないものを好む鳴海先生であったが、父親の趣味満載な優雅な雰囲気漂う豪邸も、先生にとってやはり落ち着く実家であることは確かなのである。
 それから数分後、紅茶を淹れた紳士がリビングへと戻ってきた。
「ミルクティーにすると美味しいアッサムティーを貰ってね。どうぞ」
 カチャッとふたつのティーカップをテーブルに置き、紳士は満足そうにひとくち紅茶を口にする。
 そして先生に視線を移し、言った。
「そうそう、金曜日に恭平くんの墓参りに行ってきたんだよ。彼の誕生日だったからね」
「松岡恭平の、ですか?」
 その紳士の言葉に、先生は切れ長の瞳を紳士に向ける。
 紳士は頷き、言葉を続けた。
「そうだよ。でもね、彼の墓参りには先客がいたんだ」
「先客?」
 ふと表情を変える先生に、紳士はふっと微笑みを向ける。
「ミルクティー飲んでみてごらん? 君の好みに合わせて甘さは控えめにしておいたから」
 先生はその言葉に逆らわずにひとくち紅茶を飲み、それから少し考える仕草をした。
 そんな息子の様子をじっと紳士は優しく見守っている。
 そしてティーカップを置いた先生は、何かに気がついたようにふと顔を上げた。
「先客……藤咲綾乃、ですか?」
 先生の言葉に満足そうに笑い、紳士はブラウンの瞳を細める。
「彼女、恭平くんの墓の前で泣いてたんだよ。慰めてあげたら少しは元気になってくれたようだけど」
「慰めた? 彼女は“邪者四天王”では」
「確かに彼女は“邪者”だが、泣いているお嬢さんを放っておけないだろう? それに“能力者”と気付かれないように“気”を抑えていたからね」
 紳士はそう言って、にっこりと微笑んだ。
 そんな紳士に大きく嘆息し、先生は再び紅茶を口に運ぶ。
 それから紳士はさらに話を続けた。
「話を聞いた感じだと、彼女は恭平くんが殺された本当の理由を知らないようだったよ。それに彼女と私を見張るかのように“邪者四天王”のひとり・鮫島涼介の姿もあった。恭平くんを殺した張本人の彼だね。彼は気配を絶っていたから、“空間能力者”でない彼女は気がつかなかったみたいだが」
「そうですか……」
 紳士の言葉に先生はふと視線を落とし、何かを考え込む。
 紅茶のカップをゆっくりと置き、そして紳士は改めて先生に目を向けた。
「さて、次は君の話を聞く番かな」
「私の、ですか?」
 顔を上げて自分を見る息子に、紳士は相変わらず柔らかな口調で言った。
「会ったんだろう? 杜木くんに」
「…………」
 先生はその言葉に表情を変える。
 それから紳士と視線を合わせずに答えた。
「杜木と会ったのは私でなく、清家です」
「将吾……」
 俯いたままの息子に、紳士は複雑な表情を浮かべる。
 先生は顔を上げて切れ長の瞳を父に向けた後、続けた。
「私は“能力者”としての使命を全うするだけです」
「まったく君は、母親に似て不器用な性格だな。使命を全うするという決意が固いのが分かるが、そう自分の感情を無理に押さえ込む必要はないんだよ? そういう堅物なところも母親に似ているんだからね」
「確かに私は母親似でしょうね。貴方の思考や言動は、私には全く理解できませんから」
 少しむっとしたように先生は冷たくそう言い放つ。
 紳士はそんな先生にふっと微笑み、そして楽しそうに言った。
「そうそう、そういえばクリスマスイヴにお姫様と一緒に“ひなげし”に行ったんだって?」
 自分の反応を楽しみに見ている父に先生は途端に怪訝な表情を浮かべる。
「どうして貴方が、そのことを?」
「この間久しぶりに“ひなげし”に行ったんだよ。そしたらマスターが、君が可愛いお姫様とイヴに来店したって言うじゃないか。驚いたよ」
「……“ひなげし”では、清家と少し話をしただけです」
 先生はペラペラとすぐに尾ひれをつけて喋りそうな由梨奈には、クリスマスイヴに眞姫と話をしたことは言っていたが“ひなげし”に行ったことは黙っていた。
 きっと由梨奈のことだから、すぐ大袈裟に話を膨らまして父に言うだろうと容易に想像できたからである。
 だが肝心の“ひなげし”のマスターに口止めをしていなかったことを思い出し、大きく嘆息した。
 紳士は上品な顔に笑みを宿し、ブラウンの瞳を細める。
「私もまた可愛らしいお姫様とデートしたいよ。最近お姫様とは会ってないからね」
「清家を振り回すのはやめてください、まったく……」
「おや、ヤキモチかい?」
 からかうようにそう言う紳士にじろっと切れ長の瞳を向け、先生は呆れたように言った。
「言っておきますが、私と清家は教師と生徒、“能力者”と“浄化の巫女姫”です」
「そういう君の父親と母親も、もともとは生徒と教師だった上に“能力者”と“浄化の巫女姫”だったということを忘れていないかい? そんな私と晶の可愛い息子が、君だということも。私たちの場合は、私の方が彼女の教え子だったんだけどね。だから愛し合うふたりにとって、教師や生徒なんて関係ないよ。ね?」
「ね? などと同意を求められても、全く頷けませんね。親は親、私は私ですから」
 はあっと大きく嘆め息をつき、鳴海先生は話にならないと言わんばかりに視線を逸らす。
 そんな先生の様子に笑った後、紳士はふと立ち上がる。
「将吾、紅茶のおかわりは大丈夫かい?」
「いえ、結構です」
「そうか。あ、それから君に確認して欲しい書類があってね。これなんだが」
「……書類?」
 先生は紳士に渡された数枚の書類を受け取り視線を落とす。
 書類に目を通し始めた先生を見てから、紳士は飲み終わったふたつのティーカップを持ってリビングを出た。
 先生に手渡された書類は、今年の聖煌学園の入試に関する様々な資料であった。
 いつの間にか流れていたCDも終わり、先生のいるリビングをシンとした静寂が包む。
 しばらく書類を見ていた先生は、ふとある項目を見て書類をめくる手を止める。
「これは……」
 そう呟き、そして先生は何かを考えるように表情を変えたのだった。




 薄暗い水族館の中は休日ということもあり、家族連れが多くみられる。
 だがそれ以上に、カップルの姿が多かった。
 水族館に足を踏み入れた眞姫は、ブラウンの瞳を子供のようにキラキラさせている。
「あっ、准くん見て!」
 急かすように自分の腕をひく眞姫の指の感触に自然と鼓動を早めながら、准は優しく彼女に並ぶ。
 入り口近くにあった水槽に近づいた眞姫は興奮したように言った。
「わあっ、マイワシだって!」
「姫、敢えてそれ? やっぱりずれてる……」
 ひたすらグルグル回っているイワシを何故か興味津々に見ている眞姫に、准はそう呟く。
 しばらくマイワシを眺めていた眞姫は、ようやく顔を上げる。
「あ、あそこバレンタインイベントの水槽だって。見てみようか、准くん」
 そう言って眞姫はにっこりと笑顔を准に向け、はしゃいだように歩き出した。
「うん、そうだね。順路はそっちだし」
 几帳面にフロアガイドを見ていた准は、純粋に目に付いた水槽に駆け寄る眞姫に追いつく。
「准くん、見てこれ! すごく可愛いなぁっ」
 眞姫の見ている水槽には、小さくて薄いピンク色をした魚が十数匹泳いでいる。
 そしてバレンタインらしく、ハートの可愛いオブジェまで飾ってある。
 准は水槽の隣にある魚の説明を見た後、眞姫と同じ目線になるように少ししゃがみ、言った。
「この魚ね、キッシンググーラミィって言って、魚同士がキスするみたいに向かいあって口を合わせる習性があるんだって」
「あっ本当だ、キスしてる! すごい素敵……」
 うっとりするように眞姫はキスするように口を合わせる魚を見ている。
 准はすぐ近くにあるそんな眞姫の笑顔を嬉しそうに見守っていた。
 バレンタインを意識した水槽の照明のせいか、はたまた水族館に来てはしゃいだためか、ほんのりとその頬はピンク色に染まっている。
 瑞々しい唇はつるんとしていて、大きな瞳は吸い込まれそうに澄んでいる。
 思わず准は、そんな眞姫に見惚れてしまっていた。
「ね、准くん見た? 魚たちがキスしてるよ」
 すぐ間近で自分に向けられた視線に胸の鼓動を早めながら、准はハッと我に返る。
 それからそんな様子を隠すように、彼女に微笑みを返した。
「うん、見たよ。何だかバレンタインイベントっぽくていいね、姫」
 准はようやくハートで飾られた水槽に目を移す。
 それから小さな二匹の魚がキスをする様に、微笑ましげに瞳を細めた。
 眞姫はキスをする魚の様子を携帯で写した後、次の水槽に瞳を向ける。
「次はイルカだって。行ってみようか、准くんっ」
 眞姫はそう言って、次の水槽へと歩き出そうとした。
 ……その時だった。
「! 姫っ」
「あっ、きゃっ!!」
 薄暗い館内の段差に気がつかず、眞姫は躓いてバランスを崩す。
 准は表情を変え、咄嗟に腕を伸ばした。
 そして眞姫の身体を抱えるように間一髪で支え、ほっと胸を撫で下ろした。
「姫、大丈夫だった?」
「あ、うん。准くん、ありがと……」
 恥ずかしそうに耳まで真っ赤にさせた眞姫は、ふと顔を上げて言葉を切る。
 すぐ目の前に知的で優しい微笑みを自分に向ける准の顔があることに気がつき、思わずブラウンの瞳を見開いた。
 そしてすぐに、恥ずかしそうに頬に手を当てる。
「ごご、ごめんね、准くんっ。子供みたいにはしゃいでこけそうになるなんて、恥ずかしいよ」
「顔真っ赤だよ、姫。館内暗いから、歩く時は気をつけてね」
 そう言って笑う准から視線を逸らし、眞姫はまだドキドキと鼓動を刻む胸を落ち着かせようと深呼吸した。
 だが目の前の水槽でキスをする二匹の魚がふと眞姫の瞳に飛び込んできて、なかなか鼓動は収まらない。
(何意識してるんだろう、私……ちょっとはしゃぎすぎちゃったかな)
「姫?」
「えっ、あっ、イルカ見ようかっ」
 不思議そうに自分を見ている准に気がつき、眞姫は慌てて歩き出した。
 准はそんな様子に首を傾げながらも、眞姫の足元に注意を払いながら彼女に続く。
 イルカの水槽の前に来た眞姫は、再び楽しそうに水槽で泳ぐイルカを見つめる。
 それから隣の准を見て言った。
「何だか准くんって、イルカっぽい感じかな。頭がよくて優しいところとか」
「僕が? そうかな」
 目の前で悠然と泳いでいるイルカを見て、准は笑う。
 そして眞姫は、すぐ向かいの大きな水槽に目を向けた。
 ちょうど餌の時間らしく、飼育係が魚たちに餌をやっているところだった。
「あれサメかな? あっ、あのサメ、ハート型の餌食べちゃった! 見た?」
 バレンタインイベント期間中、魚の餌であるイカも赤く色づけしたハート型をしており、見物客を楽しませている。
 そんな様子を見ていた眞姫は、くすくす笑いながら言った。
「あのサメ、何だか鳴海先生みたい。怖そうだけど何となく可愛い感じ」
「先生は姫には優しいからね。サメはサメでも僕らにとってはジョーズみたいな存在かな。油断しようものなら、容赦なく噛み切られそうだよ」
 はあっと嘆息する准に、眞姫はうーんと考える仕草をする。
「そうかな? 先生って近寄りがたくて怖いけど、でも実は優しい人だと思うけどな」
「僕は今でも、先生に呼ばれたら緊張しちゃうよ」
 相変わらずハートのイカを食べるサメを見つめ、准は先生の切れ長の瞳を思い出した。
 それからいろいろな水槽を順番に見て回っていたふたりだが、ある生き物の水槽を見つけて眞姫は瞳を輝かせる。
「すっごく可愛いっ! ラッコだよ、准くんっ」
 バスケットボールに戯れるラッコを見て、眞姫は満足そうに手を叩く。
 それから楽しそうに笑って続けた。
「何だかワンパクな感じが拓巳みたいっ。目も大きくてクリクリしてるし」
「そうだね、めちゃめちゃ落ち着きないところとか似てるかも」
 そう言ってふたりは視線を合わせ、くすくすと笑う。
 しばらく無邪気に遊ぶラッコを見ていた眞姫は、それからラッコの隣にある小さな水槽を覗く。
「准くん、シードラゴンだって。すごく珍しくて格好良いね。ドラゴンって名前ついてるだけあって本当に龍みたいで、何かクールで神秘的な感じ。何となくそういうイメージって健人みたいじゃない?」
「クールで神秘的って……シードラゴンは確かにそうだけど、健人はどうかな……姫の感覚、やっぱりずれてるよ」
 眞姫に聞こえないくらいの声でそう呟き、准は首を傾げる。
 それから眞姫は、普通より人だかりができている水槽に目を向けた。
「あそこ、何だろう?」
「行ってみようか、姫」
 館内案内のパンフに載っていない期間限定水槽だということを確認し、准は眞姫を伴って人だかりのある方向へと歩を進める。
 まだ水槽は人で見えなかったが、眞姫は瞳を嬉しそうに見開いた。
「クリオネの水槽なんだって! あの不思議な生き物でしょ、氷の妖精って言われてるんだったっけ?」
「クリオネって、冬になると現れて春にはどこかへといつの間にか姿を消しちゃうんだって。しかも、どういう一生かまだ不明な生き物らしいよ。氷の妖精っていう異名といい、何か詩音っぽいね」
 水槽の隣の説明書きを見て准は笑う。
「あはは、本当だ。詩音くんも不思議で神出鬼没だからね」
 ようやくクリオネの目の前までやってきて、眞姫は幻想的なその生き物を満足そうに見つめた。
 それからクリオネの水槽を離れ、ふたりは順路通りに階段を上る。
「思いつきで来てみたけど、バレンタインでいろんなイベントやってて、すごく楽しいねっ」
「そうだね、来てよかったね」
 本当に楽しそうな眞姫の姿を見つめ、准はにっこりと微笑んだ。
 そして改めて自分の水族館という選択が正解だったことを噛み締める。
 准は今の時期を考慮に入れ、眞姫が好きそうで雰囲気のいい、しかもカップルの多い場所を事前にいくつか考えていたのだった。
 それから階段を上りきり、眞姫は一番近くの水槽を覗きこむ。
 そして准は、眞姫が普通の少女とはやはり感覚がずれていることを痛感したのだった。
「わあっ、可愛いーっ」
「何かいるの?」
 瞳を輝かせる眞姫に、准は首を傾げる。
 眞姫はにっこりと微笑んで言った。
「カエルがいるよ、しかもトマトガエルってだけあって赤いよ! あっ、あっちに白いヘビとかイグアナいるし! 可愛いなぁっ」
「姫って……両生類とか爬虫類も範囲内なの?」
「わあっ、世界一大きなヤスデだって! 見てみてっ」
「えっ、それも平気なの!? 姫って、奥が深いなぁ……」
 普通の少女ならば目を背けるような場所でもルンルン気分な眞姫に、准はしみじみとそう呟く。
 くまなく爬虫類や両生類の水槽を見た後、眞姫はふと視線を上げた。
「あそこの木の上、鳥がいるよ! めちゃめちゃ鮮やかで綺麗ね。黒の身体に、黄色や緑や赤のくちばし……何だかお洒落で祥ちゃんみたいじゃない?」
 次の熱帯雨林のコーナーに進んだ眞姫は、魚ではなく彩り鮮やかなくちばしを持つ鳥を見つめる。
「サンショクキムネオオハシっていう鳥なんだって。あの無駄に派手なカンジが祥太郎っぽいかも」
 准は説明書きを見た後納得したように頷きながら、眞姫の隣で派手な鳥を見上げた。
 それから眞姫はすべての水槽を興味深くぐるぐると飽きもせずに見て回る。
 そんな眞姫を優しく見守りながら、准は自分の隣で屈託なく笑う彼女の様子に嬉しそうな表情を浮かべていた。
 一通りぐるりと鑑賞し終わり、ふたりは屋内を出て屋外展示の水槽へと向かう。
 眞姫はその時何かを見つけ、ひときわ嬉しそうな表情して准の手を引く。
「准くんいたよ、マンボウ!」
「本当だ、大きいなぁ。しかも、何だか間抜けな顔してるね」
「携帯でマンボウ撮りたいけど、暗いから撮れないよね。ああ、マンボウ可愛いなぁっ」
 そんな眞姫の言葉に、准はふとある場所に視線を移す。
 そしてにっこりと笑顔を浮かべて言った。
「あっちにマンボウのプリクラあるから、後で撮ろうか」
「うん。マンボウのプリクラ、撮ろうね!」
 それからマンボウをしばらく見た後、ふたりは一緒にプリクラを撮る。
「今日のいい記念だね、准くん。結構綺麗に撮れたねっ」
 眞姫とツーショットのプリクラを手にして准は嬉しそうに頷く。
「うん。本当に来てよかったよ、姫」
「じゃあ、次は……あっ、ペンギンがいるよ」
「そういえば姫って、何だかペンギンっぽいよね。ヨチヨチのんびり歩く感じとか」
「そう? でもペンギン好きだから嬉しいかも」
 にっこりと笑い、眞姫は屋外を吹き抜ける風で少し乱れた髪を押さえた。
 准はそんな眞姫のブラウンの髪を、優しく撫でて整えたのだった。
 それからふたりは屋内展示の水槽もすべて鑑賞して水族館を出る。
「すごく面白かったね、水族館ってやっぱりいいなぁっ」
 まだ興奮気味な眞姫に、准は笑った。
「そうだね。また一緒に行こうね、姫」
「うん、行こうね」
 こくんと頷いた眞姫の髪がふわりと揺れる。
 それから時計を見て、准は言った。
「そういえばお昼まだ食べてなかったよね。あ、そうだ、この上のスカイデッキに行く? 今日は天気もいいし、きっと景色が綺麗だよ」
「うん、行く! 私、高いところ大好きなんだぁっ」
 高層ビルの屋上にある展望台にふたりは移動して食事をとることにした。
 屋上のレストランで窓側の席に案内され、眞姫は眼下に広がる風景に目を向ける。
「すごいねぇっ、東京の景色が一望できるんだね」
 高いところが大好きな眞姫は、再び子供のようにはしゃぐ。
 准はそんな無邪気な眞姫を真っ直ぐに見つめ、そして言った。
「こんな広い景色の中には数え切れないくらいたくさんの人がいるだろう? そんな中で姫と出会えて、少し早いけどこうやって一緒に誕生日祝えることが、すごく嬉しいよ」
「准くん……」
 准の言葉に、眞姫は大きな瞳を彼に向ける。
 そして、にっこりと微笑んだ。
「私もそう思うわ。私、みんなと出会えて本当によかったなぁって、今すごく幸せなの」
「みんなと出会えて……うん、そうだね」
 知的な顔に笑顔を作り、准は前髪をそっとかきあげる。
 眞姫はそんな准に屈託なく笑い、そして思い出したように鞄から何かを取り出した。
 それからそれを、准に差し出す。
「はい、これ。2日フライングだけど、私からの誕生日プレゼント」
「え? これ、僕に?」
 予想していなかった眞姫の言葉に、准は少し驚いた顔をする。
 それから嬉しそうに笑みを向けてプレゼントを受け取った。
「ありがとう。すごく、嬉しいよ」
「開けてみて、准くん」
 眞姫の言葉に頷いて、准は慎重に包装紙を開く。
 出てきたのは、シンプルだけど上品な銀のペンケースだった。
「いいね、これ。僕の好みにもぴったりだよ。ありがとう、姫」
「せっかくだから、普段使ってもらえるものがいいなぁって思って。准くんなら大切にしてくれそうだし」
 准は本当に嬉しそうに微笑み、もう一度もらったペンケースを見つめる。
 そして大切そうにそれをしまい、眞姫に目を向けた。
「姫は誕生日プレゼント、何か欲しいものある? あ、でもまだ少し日はあるからゆっくり考えてくれていいからね」
「欲しいプレゼント……そうね、考えておくね」
 うーんと悩むように眞姫が考え込んでいた眞姫だったが、食事の前に頼んでいたケーキがふたりの前に運ばれたのを見て瞳を輝かせる。
 そして、准に言った。
「改めてお誕生日おめでとう、准くん。これからの1年も、准くんにとっていい1年になりますように」
「早いけど、姫も誕生日おめでとう。姫にとってもいい1年になりますように。いや……いい1年にしようね」
 准の言葉に、眞姫は満面の笑みを浮かべて頷いた。
「うん、そうだね」
 これからの1年、辛いこともあるかもしれないが、自分の近くには大切な仲間がいる。
 それに、辛いことの何倍もきっと楽しいことがあるだろう。
 眞姫はこれからもかけがえのない仲間たちと一緒に頑張っていこうと、この時改めて心に誓ったのだった。