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 ――2月4日・金曜日。
 金曜日の夕方の繁華街は週末の賑わいを徐々に見せ始めている。
 雲ひとつなかった澄んだ冬の青空は、いつの間にか夕焼けの赤に染められていた。
 人の多くなってきた繁華街の入り口にある小さなケーキ店を出て、その少女は風に揺れる長めの黒髪をそっとかきあげる。
 そして漆黒の瞳を細め、何かを考えるように深い溜め息をつく。
 前にこの店に来たのは、一体いつだっただろうか。
 繁華街にはよく足を運んでいる彼女であったが、どうしてもこの店にだけは入ることができなかった。
 入ってしまえば、抑えている自分の感情が溢れ出しそうで怖かったのだ。
 彼女には辛い過去を思い出として整理する自信が、今までなかったから。
 最後にこの店で彼と会った時は、まさかあんなことになるなんて思ってもいなかった。
「恭平さん……」
 胸を締め付けるような気持ちを抑え、その少女・藤咲綾乃は唇を結んだ。
 その漆黒の瞳は悲しい色を湛えていると同時に、ぞくっとする程の鋭さも感じられた。
 綾乃は目を閉じて気持ちを落ち着かせた後、駅前の花屋へと入る。
 そしてあまり派手ではない小さな花束を購入した。
 それを大事そうに抱えて、綾乃は足早に駅へと向かう。
 駅は混雑していたが、一旦改札をくぐると繁華街に到着して賑わう反対のホームに比べ、彼女のいる側のホームは空いていた。
 ほどなく到着した電車に乗り込み、綾乃は何気なく窓の外に目を向ける。
 流れる景色を無言でじっと見つめていた綾乃だったが、そんな彼女の瞳には何も映ってはいなかった。
 そして……普段明るい彼女の表情に、いつもの笑顔はなかった。
 それからしばらくして、綾乃はおもむろに電車を降りる。
 賑やかな繁華街とはうってかわり、周囲は人もまばらでシンと静まり返っている。
 電車を降りて駅を出た綾乃は、すっかり夕焼けに染まった空の色にも気がつかずに俯いて足早に歩き出した。
 彼女の抱いている花束が風に吹かれてサワサワと揺れる。
 それと同時に、微かな花のいい香りが綾乃の花をくすぐった。
 それから、どのくらい歩いただろうか。
 綾乃はある場所でぴたりと立ち止まった。
 そして漆黒の瞳を細めて、持っていた花束をそっと地に置く。
「お誕生日おめでとう、恭平さん。ほら見て、綾乃ちゃんね、恭平さんの大好きな繁華街のブルーベリーケーキも買ってきたんだっ」
 にっこりとその顔に笑顔を浮かべそう言った綾乃だったが。
「……っ、ごめん……もう泣かないって、決めたのに……」
 ぐっと拳を握り締め、綾乃はその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
 そんな綾乃の漆黒の瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出していた。
 ぽたりと彼女の涙が地に落ち、そしてすうっと消える。
 今まで我慢していた感情が溢れ出したかのように、彼女の瞳から絶えることなく涙が零れた。
「私は絶対に、あの日のことを……忘れないっ」
 ぎりっと歯をくいしばってそう呟き、そして綾乃は目の前の小さな墓を真っ直ぐに見つめたのだった。




 ――1年半前。
 その日は、とてもむし暑い夏の日だった。
 時間的には夕方を過ぎ夜になろうかという時間であったが、まだ薄っすらと空は明るい。
「綾乃、また遊びに行くの?」
 半ば呆れたようにそう呟き、綾乃の友人・立花梨華は溜め息をつく。
「またって言っても、昨日は行ってないもーん。あっ、繁華街のケーキ屋でブルーベリーケーキ買って行かなきゃねっ」
「昨日は行ってなくても、一昨日は行ってたじゃない。しかも、またあそこのケーキ屋のブルーベリーケーキ? いくら好きだからって、そう毎回じゃ彼も飽きるんじゃないの?」
「大丈夫よぉっ、だってあのケーキ毎日食べてもいいってくらい大好きだって言ってたもーん」
 嬉しそうにそう言って、そして綾乃は悪戯っぽく笑って続けた。
「それよりも梨華こそ、例の大阪から来た転校生の彼とは仲良くなったのぉ? あーあ、梨華とは家が向かいなのに、道路挟んで学区別々なんだもん。私も梨華と同じ中学で、その転校生の彼とやらを見たかったなぁっ」
 きゃははっと楽しそうな綾乃に対して、梨華は顔を赤らめる。
 そして嘆息し、ちらりと綾乃を見た。
「綾乃と同じ学校だったら、秒殺で好きな人広まりそうだからよかったわよ。それよりも、綾乃は高校どこ受けるの?」
「高校? そうねぇ、あんまりまだ考えてないなぁ」
「あんまりまだ考えてないってねぇ、一応受験生でしょ。綾乃は勉強すれば成績いいんだから、勿体無いよ」
 能天気な綾乃に、梨華は心配そうに目を向ける。
 その言葉を聞いて綾乃はにっこりと微笑んで言った。
「んーでも今ねぇ、恋に仕事に綾乃ちゃん大忙しだから」
「仕事?」
 首を傾げる梨華を見てから、綾乃は誤魔化すように話題を逸らす。
「あ、そうそう。梨華は志望校、第一希望って聖煌学園なんでしょ? もしかして、例の転校生くんの志望校でもあったりしちゃったりしてっ。最近お勉強頑張ってるからねぇっ」
「えっ? いや、たまたま偶然に祥太郎と志望校一緒だっただけで、別に合わせたわけじゃ……」
「ふーん、梨華の好きな転校生くんって、祥太郎くんっていうんだぁっ」
 のん気に笑う綾乃に、梨華は顔を真っ赤にさせる。
 そしてぷいっと彼女から視線を外して言った。
「もうっ、綾乃ってばっ。そういう綾乃こそ、彼に勉強教えてもらったら? 先生なんでしょ?」
 そんな梨華の言葉に、綾乃は思わず苦笑する。
「梨華……恭平さんって、先生は先生でも小学校の先生なんだけど」
 綾乃の憧れている彼・松岡恭平(まつおか きょうへい)は、昨年から教師になった健康的な印象の青年である。
 小麦色に焼けた肌と、ハンサムではないが人の良さそうな優しい顔立ち。
 そして家が道場ということもあり、彼は武道家でもあった。
 夏休みで学校が休みである今、子供好きな彼は自宅の道場で子供たちを集めて武術を教えていたのだった。
 ふとしたきっかけで彼と知り合った綾乃は、そんな彼の純粋さと優しさに惹かれていた。
 そして好きになったら一直線で積極的な綾乃は、毎日のように道場に遊びに行っていたのだった。
「それにしても、恭平さんも罪な人よね。中学生を虜にしちゃうなんて」
「あははっ、社会人と中学生なんて傍から見たら犯罪ちっくだよねぇっ。でもね、高校生と社会人ならちょっとはいいでしょ? 綾乃ちゃんが高校生になったら、付き合ってもらうんだぁっ」
「えっ? もうそんな約束してるのっ!?」
 驚く梨華に、綾乃はにっこり微笑む。
「いや、まだ恭平さんには言ってないんだけどねっ。彼女にしてもらう予定っ」
「……本当にもう、あんたって子は」
 はあっと大きく嘆息し、そして梨華はちらりと時計を見た。
「あ、今日これから塾に新しいテキスト取りにいかなきゃいけなかったわ。綾乃もケーキ買って恭平さんのところに行くんでしょ?」
「うん、じゃあここで。またねぇっ、梨華」
 憧れの彼のお気に入りのケーキ屋の前で、綾乃は梨華に手を振る。
 梨華も彼女に手を振り返して歩き出し、繁華街の人波に消えていった。
 綾乃は漆黒の髪をそっとかきあげてからケーキ屋へと足を運ぶ。
 いつものように彼の大好きなケーキを購入し、綾乃はウキウキと駅へと向かう。
 中学三年という受験真っ只中なはずの綾乃であったが、彼女の毎日は勉強とは別のことで充実していた。
 この頃の綾乃にとって、恋と仕事をしている時が何よりも楽しかった。
 それまで何となく楽しく毎日を過ごせればいいと思っていた綾乃の生活を変えたのは、ふたりの男性との出会いだった。
 ひとりは、真っ直ぐで真面目で優しい憧れの人・松岡恭平。
 そしてもうひとりは……闇のように深い漆黒の瞳が印象的な、美形の男。
 その男・杜木慎一郎に会った瞬間、綾乃の中で何か強いものを感じた。
 そして彼の神秘的な漆黒の瞳に宿る光が、憧れの恭平のものと不思議と似ていると綾乃は思ったのだった。
 それから綾乃は、“邪者”として彼に仕えようと決心した。
“邪者”としての立場的にも、恭平の近くにいることは何気に役立っている。
 武道家である彼の道場に通うことは、武術のノウハウを学べる場所でもあった。
 実際に綾乃が稽古をつけてもらうことはないが、“邪”を取り込んで身体能力も著しく上がった綾乃にとって、武道家でもある彼の動きを見るだけで十分勉強になるのだ。
 恋と仕事を上手く両立させている綾乃にとって、そんな毎日が楽しくて仕方なかった。
 愛しの彼の優しい顔を思い浮かべて綾乃は漆黒の瞳を嬉しそうに細める。
 そして少し人で混雑している電車に乗り込んだ。
 それから二駅ほど先の道場の最寄駅で電車を降りてから、綾乃は軽い足取りで彼の元へと向かう。
 夏休みに入って彼が当番で学校に行っている日を除くほぼ毎日会いに行っている綾乃であったが、彼の顔を見るその瞬間はいつもドキドキしてしまう。
 すうっとひとつ深呼吸してから、綾乃は到着した道場の中へと足を運んだ。
「あっ、綾乃お姉ちゃん!」
「はろぉ、チビどもっ。はい、お土産っ。ちゃんと先生の分も残しておくのよ?」
 道場に入ってきた綾乃を見つけ、彼に武術を習っている子供たちが彼女の周りに集まる。
 そんな子供たちともすっかり仲の良くなった綾乃は、はしゃぐ少年たちの頭をぐりぐりと撫でた。
 それから周囲を見回し、言った。
「あれ? 恭平さん、まだ来てないの?」
「うん、まだ先生来てないよ」
 綾乃の持ってきたケーキを受け取って、ひとりの子供が答える。
 その言葉に綾乃はふと首を傾げた。
 それから、ちらりと時計を見る。
 彼の真面目な性格を考えると、もう道場に来ていてもおかしくない時間なのに。
 そう綾乃が疑問に思った、次の瞬間だった。
「! なっ!?」
 突然ハッと顔を上げ、綾乃は表情を変える。
 そして。
「あっ、綾乃お姉ちゃん!?」
「どこ行くの? 先生、たぶんもうすぐ来るよ?」
 子供たちのそんな言葉を背に、綾乃は急に道場を駆け出した。
 この場所から少し離れた場所ではあるが……強い“結界”が張られたのを、はっきりと綾乃は感じたのだった。
 しかもその“結界”を張った“邪気”は、身に覚えのあるものだった。
「この“邪気”は、涼介の……」
 それだけ呟き、綾乃は走る速度を上げる。
 その“結界”を張った張本人・鮫島涼介は、綾乃と同じ“邪者四天王”のひとりである。
 涼介とは今まで接する機会はあまりなかったが、綾乃はこの涼介に対してあまりいい印象を持っていなかった。
 体内に強大な“邪気”を宿し、頭も切れる人物。
 だが涼介は、何を考えているのか時々理解できない行動を取ることも多かった。
 それに同じ“邪者四天王”であり大きな“邪気”を持つ綾乃に、涼介は何かと興味を示していた。
「何だか、すごく胸騒ぎがする……」
 そう呟き、綾乃は周囲に人がいないことを確認して大きく跳躍する。
“邪”を体内に取り込んで“邪者”になった綾乃の跳躍力は、常識を卓越するものであった。
 ストンと家の屋根に着地し、綾乃は涼介の張った“結界”の方角へと視線を向ける。
 涼介の張った“結界”は電車で二駅だった繁華街を通り過ぎ、そのまだ先に形成されているのが分かった。
 普通なら到底乗り物に乗らないと遠い場所だが、“邪者”である綾乃にとってはそれほど苦にならない程度の距離である。
 綾乃は漆黒の瞳を見据え、そして再び走り出した。
 それから電車で15分かかる距離を10分弱で走り抜け、綾乃は肩で少し乱れた呼吸を整える。
 そして目の前に張られた涼介の“結界”に干渉すべく、漆黒の光を宿した右手をスッと掲げた。
 何故か胸がバクバクと早い鼓動を刻み、薄っすらと冷や汗が額に浮かぶ。
 身体が“結界”へと吸い込まれる感覚を覚えた後、綾乃はゆっくりと漆黒の瞳を開いた。
「おや、これはこれは……綾乃じゃないか」
 綾乃の出現に少し驚いた顔をしたが、慌てることなく涼介は綾乃に視線を向ける。
 だが……綾乃には、そんな涼介の声は聞こえていなかった。
 その膝はガクガクと振るえ、そして漆黒の瞳はただ一点に向けられて大きく見開かれている。
 そして声にならないくらいかすれた声で、綾乃は言った。
「きょ……恭平、さ……!?」
 綾乃の漆黒の瞳に映っているのは、強烈な赤。
 恐怖を感じるほど鮮やかな赤を湛える血の海に、ひとりの男の身体が横たわっていたのだ。
 ドクドクとまだ流れる血で服が染まることを気にもせず、綾乃は地に伏せる彼に駆け寄る。
 彼の心臓の位置には、大きな衝撃の痕が残っていた。
 もう二度と彼の瞳が開かないことが頭では分かっていた綾乃だったが、懸命に彼の傷口を塞ごうと必死に“邪気”をその掌に漲らせる。
「綾乃、もう無駄だってこと分かっているだろう?」
 数歩綾乃に近づき、涼介はふっと笑みを浮かべた。
 綾乃は恭平の上体を支えたまま、漆黒の瞳を涼介へと向ける。
 そしてグッと握り締めた拳を震わせて、言った。
「どうして……どうして、彼を殺したのよっ!?」
「……!」
 その瞬間、涼介は綾乃から強大な“邪気”が開放されるのを感じて表情を変える。
 だが、少しだけ何かを考える仕草をした後にニッと甘いマスクに不敵な笑みを浮かべた。
「彼には僕の作った薬を飲んでもらったんだけどね、体質と薬とが合わなくて力が暴走し始めたんだよ。だから……」
「だから、殺したって言うワケ!?」
 ゆっくりと恭平の身体を地に寝かせ、綾乃は立ち上がった。
 彼女の“邪気”の大きさを物語るように、ふわりと彼女の漆黒の髪が揺れる。
 そんな様子に臆することなく、涼介は頷く。
「見ての通り彼は、この僕が殺したよ。それにしてもこれ程までに強い“邪気”を秘めてるなんて、やっぱり君は興味深いな。それにその憎しみに満ちた表情、憎しみによって膨れ上がった“邪気”、すごく綺麗だよ?」
「何ですって?」
 くすくすとそう言って笑う涼介に、綾乃は殺意に満ちた視線を向けた。
 それと同時に、彼女の纏う“邪気”がさらに強大に膨れ上がる。
 そのあまりの大きさに、空気が渦を巻く。
 涼介は長めの前髪をかきあげ、そして言った。
「君は確かにすごく強いから、この僕だって勝てる自信は正直ない。でもね……負けない自信もあるよ? さ、君に僕が殺せるかな」
「……殺せるわ、殺してやるっ!!」
 そんな綾乃の言葉と同時に、強大な光が“結界”内を包む。
 そしてふたつの漆黒の光がぶつかり合い、大きく弾けたのだった。




 風に吹かれる漆黒の髪を気にもせず、ただ呆然と恭平の墓の前に座っていた綾乃だったが……。
「え……?」
 ハッと涙の溜まった瞳を見開き、綾乃は辛い思い出から我に返った。
 そんな綾乃の目の前に、スッと真っ白なハンカチが差し出されていたのだ。
 驚いた表情をして顔を上げた、彼女のその視線の先には……。
「お嬢さん、よかったら使ってくれないかな」
 耳に心地よい、バリトンの声。
 自分を見つめるブラウンの瞳は優しく自分の姿を映している。
 上品な笑顔を綾乃に向ける紳士の言葉に、綾乃は思わず頷いてハンカチを受け取った。
 にっこりとそんな綾乃に微笑んで、そして紳士は手に持っていた花束をそっと目の前の墓に供える。
「今日は彼の誕生日だからね、私も彼に会いに来たんだよ。可愛いお嬢さんの先客があったのは驚いたがね」
「貴方は……? 恭平さんと、知り合い?」
 真っ白なハンカチで涙を拭い、綾乃はぽつりと言った。
 紳士はこくんと頷き、目の前の墓にそっと触れる。
「ああ、彼とは知り合いでね。こうやってたまに、会いに来ているんだよ」
「彼が死んだのは、私のせいなんです。私が彼のこと、好きにならなければ……それに私、もう恭平さんの前では泣かないって、決めたはずなのに……」
 そう言った綾乃の漆黒の瞳から再び大粒の涙が溢れ出した。
 紳士は優しく綾乃の頭を撫で、首を横に振る。
「泣きたい時は、我慢しないで泣いていいんだよ。でもね、そうやって自分を責めたりしても、恭平くんは喜ばないよ? そう思わないかい、お嬢さん」
「…………」
 紳士の言葉に、綾乃は何かを考えるように俯いた。
 そしてぐいっと涙を拭って彼の墓に向き直る。
「恭平さんも……私の明るいところがすごくいいって、前に言ってくれたし。それに誕生日を祝いに来たのに、泣いてばかりだったら心配かけちゃうな」
 自分に言って聞かせるように呟き、綾乃は気を取り直すようにパシパシと頬を軽く叩いた。
 そんな綾乃を見て、紳士はブラウンの瞳を細め優しく微笑む。
「お嬢さんはとても強い子なんだね。でもたまには、殿方の胸に自分を預けて弱いところをみせてもいいんだよ」
「はい。でももう、大丈夫かな」
 綾乃はそう言って、にっこりと笑顔を紳士に向けた。
「恭平くんの言う通りだ。お嬢さんの明るい笑顔、素敵だよ」
 少し無理に笑う綾乃に優しい視線を向けた後、紳士はゆっくりと歩き出す。
 そして軽く手を上げ、彼女に言った。
「お嬢さんと彼の邪魔をしたら悪いから、私はこれで失礼するよ。恭平くんもきっと、君のような素敵なお嬢さんと誕生日が過ごせて嬉しいだろうな。ではまた会えるといいね、可愛いお嬢さん」
「あ……」
 綾乃は振り返り、歩き出した紳士の姿を見送る。
 それから彼の墓と向き合い、呟いた。
「素敵な紳士と知り合いなんだね、恭平さんって。……あっ」
 綾乃はその時ハッと顔を上げる。
 そして紳士に手渡された真っ白なハンカチを、まだ手にしていることに気がつく。
「あの紳士さんのハンカチ、返すの忘れちゃったなぁ……」
 うーんと悩んだように首を捻ってから、綾乃はそのハンカチをとりあえず持っていた鞄にしまったのだった。
 その頃。
 綾乃に背を向けて歩いていた傘の紳士は、ふと足を止める。
 そして振り返りこそしなかったが、後ろに意識を向けて呟いた。
「久々に身体を動かせるかとも思ったんだが……どうやら、取り越し苦労だったようだね」
 ふっと上品な顔に微笑を浮かべてから紳士は再び歩を進める。
 いつからそこにいたのか、その場にいた男は紳士の言葉に笑った。
「気配を消していたのに、僕の存在に気がついていたなんて驚いたな。“空間能力者”かな?」
 漆黒の瞳を細め、その男・涼介は瞳にかかる前髪をかきあげる。
 それから不敵な笑みを浮かべ、続けた。
「綾乃に余計なことを言うようだったら、手を出そうかと思ったんだけどね。でも僕がここにいるのがバレちゃったら、きっと綾乃は烈火の如く怒るだろうからよかったよ」
「…………」
 ちらりと一瞬だけ涼介を振り返り、紳士は彼の前から去って行った。
 空を赤く染めていた夕焼けもすっかり沈み、周囲を夜の闇が包み始めている。
 涼介はそんな夜の闇と同じ色を湛える漆黒の瞳を細めて口元に笑みを宿し、紳士とは別の方向に歩き出したのだった。




 同じ頃――聖煌学園。
「遅くなっちゃったね、准くん」
 学校の校門を出たその少女・清家眞姫は暗くなり始めた空を見上げ、隣の少年・芝草准にそう言った。
「今日の生徒会会議、なかなか意見まとまらなかったね。でも、最後はちゃんと決まってよかったよ」
 知的な顔に優しい微笑みを浮かべて、准は眞姫に目を向ける。
 各クラスの学級委員も出席する月一の生徒会議が長引いたため、ふたりは帰るのが遅くなったのである。
 眞姫の栗色の髪が風になびき、ふわりと揺れた。
 そっと手櫛で少し乱れた髪を整えてから眞姫はぽんっと手を打つ。
 そして、ふと准に視線を移した。
「そうだ、准くん。明後日の日曜日……2月6日って、何か予定とかある?」
「明後日は特に何もないけど、どうして?」
 首を傾げる准に、眞姫はにっこりと微笑んで答えた。
「准くんの誕生日って、8日でしょう? 少し早いんだけど、お祝いしたいなって思って」
「もうすぐ僕の誕生日か。ということは、姫の誕生日ももうすぐだね。いいよ、ふたりでお祝いしようよ」
 准の言葉に眞姫は思い出したように瞳をぱちくりさせる。
「あ、そういえば私の誕生日も14日だからもうすぐか。うん、少し早めにふたりでお祝いね。明後日、11時に噴水広場でいい?」
「うん大丈夫だよ、姫。楽しみにしてるから」
 嬉しそうに笑顔を返して頷いた後、准は言葉を続けた。
「姫は誕生日、何か欲しいものある?」
「欲しいもの? うーん、健人や拓巳にも言われてるんだけど、パッと思いつかなくて。クリスマスパーティーの時、みんなにたくさんプレゼントもらったでしょう? 何だか私ばかり貰うのも悪いなぁって」
 そんな眞姫の言葉に、准は首を振る。
「クリスマスパーティーのプレゼント、姫にもらってもらえてよかったよ。拓巳に当たったままだったら、絶対使わないで放置されてるに決まってるし。それに誕生日だって、僕は大切な人の生まれた日を一緒に祝いたいなって思ってるから……気にしないで、姫」
「ありがとう、准くん。明後日、楽しみにしてるね。私も大切なみんなの誕生日、ひとりひとりお祝いしたいの」
 悪びれなくそう言って、眞姫はにっこりと満面の笑みを准に向けた。
「そうだね……みんなひとりひとり、ね」
 眞姫の言葉に小さく息をついてから、准は再び風に煽られた眞姫の栗色の髪をそっと撫でて整える。
 それから優しく頭にポンッと手を添え、知的な顔に笑顔を浮かべて言った。
「姫、僕も明後日、すごく楽しみにしてるから」
 そしてそんな准の言葉に、眞姫はにっこりと微笑んで頷いたのだった。