――3月14日・月曜日。
 次第に春の足音が聞こえ始め、気候も暖かくなってきた。
 だが、朝夕は上着がないとまだ少し肌寒いくらいである。
 地下鉄の駅から地上に出た眞姫は、吹きつける風に少し乱れた髪をそっと整える。
 それから隣を歩く少年・健人に視線を移した。
「ねぇ健人、今日のテレビの星占い見た?」
「ああ、いつも占い見てから家出るからな」
「でも結果はあまり興味ないんでしょ? それが健人らしいんだけどね」
 小首を傾げてくすくす笑う眞姫に、健人はちらりと目を向ける。
「今日はちゃんと結果も見てきたよ。俺の蠍座、1位だった」
 珍しく満足気に健人はそう言った。
 いつもは大して占いの結果に興味を示さない健人であるが、今日だけは特別なのだった。
 何せ今日は、いろいろな意味で勝負の日・ホワイトデーだからである。
「蠍座1位だったよね、私の水瓶座も5位だからまあまあだったよ」
 そんな健人の気持ちも知らず、眞姫はにっこりと笑顔を浮かべた。
 健人は自分の隣で楽しそうに笑う眞姫を見つめ、それから何かを考えるような仕草をする。
 どうやら眞姫は、今日がホワイトデーだということにまだ気がついていないようである。
 眞姫が自分だけでなく他の少年たちにもバレンタインチョコをあげていることをもちろん知っているので、健人はどうにかして彼らよりも先手に動きたいと思っていた。
 そしておあつらえ向きに毎朝眞姫と一緒に登校している健人は、この朝の時間を有効にしたいと機会を伺っているのだった。
 健人は会話が途切れた一瞬をつき、彼女を見つめて口を開く。
「姫、今日一緒に帰ろう。放課後、Bクラスに迎えに行くから」
「え? あ、うん。一緒に帰ろうね」
 こくんと頷いた眞姫の栗色の髪がふわりと揺れた。
 健人は彼女の返事に優しく瞳を細め、それからふと金色に近いブラウンの髪をかき上げる。
 そして、改めて眞姫に言ったのだった。
「姫、今日はふたりだけで帰ろうな。約束だ」
 眞姫と出会ってもうすぐで1年が経とうとしているが、健人はその間に大分彼女の性格を把握できるようになっていた。
 今まで天然で鈍い眞姫に思わぬ肩透かしをくらうことが人一倍多かった健人だったが、それなりにいろいろなことを学習したのだった。
 せっかくふたりで下校できるチャンスを逃さないため、健人は抜かりなく眞姫にそう釘を刺したのである。
 健人のその言葉に首を小さく傾げたが、眞姫は再び頷く。
「うん、分かったわ。放課後、Bクラスで待ってるね」
 返ってきたその返事を聞いて、そして健人はようやく安心したようにブルーアイを細めたのだった。
 それから学校に到着したふたりはクラスが別々のために靴箱で分かれた。
 眞姫は出会ったクラスメートに挨拶をしながら上履きに履き替える。
 そして靴をしまって靴箱を閉めた、その時。
「おっ、姫!」
 ふいに背後から声をかけられ、眞姫は振り返る。
 それから相手を確認し、にっこりと微笑みを浮かべた。
「おはよう、拓巳」
「おうっ。姫、おはよう」
 自分に向けられた笑顔を見て照れたように漆黒の前髪をかき上げた後、拓巳はきょろきょろと周囲を見回す。
「ていうか、今日の朝は健人のヤツと一緒じゃなかったのか?」
 家の方向が同じ健人が眞姫といつも一緒に通学していることを知っている拓巳は、そんな彼の姿がないことに首を捻る。
 眞姫はきょとんとしながらも拓巳の疑問に答えた。
「健人とはさっきまで一緒だったよ? 靴箱別だから今分かれたところだったんだけど」
 その言葉に拓巳は少し怪訝そうな表情を浮かべる。
 そして、ぼそっと呟いた。
「やっぱり一緒だったのかよ……ってことは、もうあいつにお返し貰ったのか?」
「お返し?」
 何のことか分からないように小首を傾げ、眞姫は瞳をぱちくりさせる。
 そんな彼女の様子を見て拓巳は言葉を続けた。
「ああ、ホワイトデーのお返しだよ。って、まだ貰ってないのか?」
 眞姫はこの瞬間、ようやく今日がホワイトデーであることに気がついた。
 それから栗色の髪を揺らして頷く。
「あっ、そういえば今日ってホワイトデーだったね。まだ誰からもお返し貰ってないよ、拓巳」
「そっか、んじゃあ俺が一番ってことだなっ」
 パッと嬉しそうな表情を浮かべて、拓巳は持っていたものを眞姫に手渡した。
 眞姫は目の前に差し出されたそれを受け取る。
 それはお返しの洋菓子の詰め合わせと、また別に綺麗にラッピングされた小さめの箱だった。
 眞姫がそれらを受け取ったのを見て、拓巳は照れくさそうに笑う。
「よかったぜっ、誰よりも早く姫にお返しあげたかったんだよ。そろそろ姫が学校に来る頃かなって靴箱まで来た甲斐あったぜっ」
「ありがとう、拓巳。お菓子だけじゃなくてプレゼントもつけてくれたんだね、開けてみてもいい?」
 満足そうな拓巳を見てから、眞姫はピンクのリボンの結ばれたプレゼントに視線を向ける。
 拓巳は漆黒の瞳を細め、頷いた。
「ああ。気に入ってくれたら嬉しいんだけどよ」
 眞姫は丁寧にリボンを外し、箱を開ける。
 それから中に入っていたものを取り出して拓巳に目を向けた。
「わあっ、可愛い! クマさんのブローチ?」
「姫ってクマとかウサギとか、かわいいカンジのものも結構好きだったなって思ってな。ほら、この間何かカバンに付けられるようなキーホルダーかブローチか欲しいって言ってただろ? これならそんな大きくないし、ちょうどいいかと思ったんだけどよ」
 拓巳のプレゼントは、小振りのクマのスイングブローチだった。
 眞姫はゆらゆらと左右に揺れるクマを見つめた後、自分のカバンにそれを留める。
 そして嬉しそうに微笑んで拓巳に言った。
「見て、すっごく可愛いっ! ありがとう、拓巳」
「あー喜んでもらえてよかったぜ、姫っ」
 眞姫のリアクションを見てホッとしたように拓巳は漆黒の瞳を細める。
 そんな拓巳に、眞姫は言葉を続けた。
「拓巳のくれるプレゼントって、いつも可愛い感じのものが多いよね。この間のクリスマスパーティーの時に貰ったぬいぐるみもすごく可愛かったし、あのぬいぐるみってふわふわしてて肌触りが気持ちいいんだ。だからね、毎日抱いて一緒に寝てるの」
「姫にそう言われたら、一生懸命選んだ甲斐あったって思うぜ。ていうか……毎晩姫と一緒に寝てるのかよ、あのウサギ……」
 最後の方はさすがに小声であったが、拓巳は思わずそう呟いてしまっていた。
 眞姫にはその言葉が聞こえなかったらしく、不思議そうな顔で彼を見る。
「? なぁに、拓巳?」
「えっ? い、いやっ……何でもねぇよ」
 まさかそのぬいぐるみが羨ましいと一瞬思ってしまったなんて、到底言えるわけがない。
 慌てたように拓巳は顔を真っ赤にさせる。
 そんな拓巳の様子に首を傾げ、眞姫は大きく瞬きをした。
 はあっと一息ついた後、拓巳は気を取り直して漆黒の前髪をかき上げる。
 そして、満足そうに言った。
「とにかく、プレゼント気に入って貰えたんならよかったぜ。誰よりも先に、一番に渡せたしな」
「ありがとう、拓巳。このクマさん、すごく可愛いよ」
 視線を落としてカバンにつけたブローチを見てから、眞姫は改めて拓巳に視線を戻す。
 にっこりと眞姫に笑顔を向けられ、拓巳は嬉しそうに彼女に微笑みを返したのであった。




 ――その日の昼休み。
 昼食を取り終わった眞姫は教室を出て廊下を歩いていた。
 それからちらりと時計を見て、歩く速度を少し速めた。
 そんな眞姫が向かった先は……。
「あ、もう来てたんだね。こんにちは」
 ある教室のドアをノックしてゆっくりと開けた眞姫は、中にいた少年にそう言った。
 彼女よりも先にその教室・音楽室に来ていた詩音は、いつものように優雅な微笑みを彼女に向ける。
 それから丁寧に一礼し、ピアノの傍に置かれた椅子を引いた。
「こんにちは、僕のお姫様。こちらにどうぞ」
「ありがとう。でもどうしたの? こんな時間に音楽室なんて」
 詩音の引いた椅子に座り、眞姫は上目使いで詩音を見上げる。
 柔らかな笑顔を浮かべた後でピアノの前に座り、詩音は言った。
「今日は王子の愛をお姫様に捧げる日だろう? だから、お姫様のためだけにリサイタルを開催しようと思ってね。招待差し上げたんだよ」
 前もって詩音は眞姫に、昼休みに音楽室に来て欲しいと言っていたのである。
 どうして昼休みに音楽室に呼ばれたのかその時は分からなかった眞姫だったが、彼が何でそんなことを言ったのかこの時ようやく分かった。
 ホワイトデーの今日、眞姫のためだけにピアノを弾いてくれるというのだ。
 眞姫は瞳を輝かせ、目の前の詩音を見つめる。
「詩音くんのピアノ、私に聴かせてくれるの?」
「うん、そのために呼んだんだよ、僕のお姫様。さて、何から弾きましょうか?」
 嬉しそうな眞姫の様子に色素の薄い瞳を細め、詩音は鍵盤に手をかけた。
 眞姫は少し考えた後、思いついたように手を叩く。
「そうね……あっ、あの曲がいいな。先生のお母様が作った曲“月照の聖女”」
「“月照の聖女”だね、お姫様」
 そのリクエストに微笑みで答え、そしてゆっくりと詩音は曲を奏で始める。
 彼の指から生み出される美しいピアノの旋律に、眞姫はうっとりとした表情を浮かべた。
 何の変哲もないただの音楽室の空気が、詩音の演奏が始まると同時に不思議とその印象を変える。
 まるで柔らかな月光に照らされているように優雅で心地よい感覚に陥るのだ。
 しかも天才ピアニストと謳われる詩音のピアノをすぐ目の前で聴ける上に、この旋律を自分ひとりで独占しているのだと思うだけで何だか贅沢な気持ちになる。
 普通ならお金を払って広いホールへ足を運ばないと生で聴けない旋律が、今自分のためだけに奏でられているのだ。
 何度も彼のピアノを耳にする機会のあった眞姫であるが、何度聴いてもそのメロディーは心に響いてくる。
 感受性豊かな故に少し変わった感性の持ち主である詩音だが、眞姫は一点の曇りもない彼の演奏を聴くたびに、彼の心の美しさが旋律に表れていると感じるのだった。
 窓から差し込める春の日差しがピアノを弾く彼を照らし、色素の薄いサラサラの髪が澄んだように光を増す。
 同じ美少年でも健人とはまた雰囲気が全然違うが、詩音も上品で綺麗な顔立ちをしている。
 眞姫は心が安らぐのを感じ、しばし彼の生み出す旋律に酔いしれた。
 それから何曲か眞姫のリクエストに応えてピアノを演奏した後、詩音はふと眞姫に視線を向ける。
 そして整った上品な顔に微笑みを浮かべて言ったのだった。
「次で最後の曲だよ、僕のお姫様。この曲はね、お姫様のことを想いながら作曲したんだ」
 詩音はもう一度優しく眞姫に笑顔を向けてから、再びピアノに向かう。
 綺麗なブラウンの瞳をふっと伏せ、詩音はゆっくりと演奏を始めた。
 眞姫は目を閉じてその旋律に耳を傾ける。
 瞼の裏に、詩音の作り出した世界のイメージが不思議と鮮明に湧いてくる。
 眞姫のために作ったというその曲は優しい印象でもあり、また凛とした神々しさも感じさせる神秘的な旋律であった。
「……どうだったかな、お姫様」
 演奏が終わり、詩音はピアノのふたを閉めて眞姫を見つめる。
 眞姫はほうっと感嘆の溜め息をついた後、大きな瞳を細めた。
「すっごく綺麗で感動しちゃった……ありがとう、詩音くん」
「さっきの曲はね“月姫の微笑み”っていうタイトルなんだよ。喜んでいただけたかな?」
「うん。とってもいい曲だったわ、詩音くん。それに、こんなに素敵なリサイタル開いてくれて嬉しいよ」
 美しい旋律の余韻をかみ締めるような表情をする眞姫を見て、それから詩音はおもむろに近くの机に置いていたあるものを手に取る。
 そしてそれを、眞姫に渡したのだった。
「セントバレンタインに王子への愛のこもったチョコレートをありがとう、お姫様。そのお返しに、うちの母上の作ったアップルパイをお姫様にプレゼントだよ。母上のお菓子は魔法がかかっているように美味しいからね」
「詩音くんのお母様の手作り? わあ、ありがとうっ」
 詩音からアップルパイの入った包みを受け取り、眞姫は改めて彼に御礼を言う。
 詩音は笑みの絶えない眞姫の顔を見つめ、満足そうに笑った。
 それと同時に、おもむろに午後の授業の始まりを告げる予鈴が鳴り始める。
 それを聞きながら、詩音は眞姫のために音楽室のドアを開けた。
「どうぞ、お姫様。僕もとてもいい気持ちで演奏できたよ」
「お礼を言うのは私の方よ。ありがとう」
 詩音に促されて音楽室を出た眞姫はにっこりと月のように柔らかな微笑みを向け、彼にそう言ったのだった。




 賑やかな生徒の声で溢れる、放課後の教室。
 准はふと、自分の後ろの席で帰りの支度をしている眞姫を振り返る。
 そして知的な顔に笑みを浮かべ、カバンからあるものを取り出した。
「姫、今日はホワイトデーだよね。これ、僕からのお返しだよ」
 准はそう言って、綺麗に包まれたお返しを眞姫に手渡す。
 透明なラッピングから透けて見えているのは、小さなハートの形をしたピンクと白のマシュマロだった。
「あっ、ハート型のマシュマロ! しかもこれって、私の大好きな繁華街の洋菓子店のだよね。どうもありがとう、准くん」
「マシュマロってあまり普段食べないからどうかなって思ったんだけど、確かここの店のお菓子って姫が好きだったなって思って」
 パッと表情を変えた眞姫を見て、准は安心したように瞳を細める。
 眞姫はハートのかたちをしたマシュマロを見つめ、それから驚いたように言った。
「実はこの間梨華とこのお店に行った時にね、このマシュマロがホワイトデー限定で売ってて、形が可愛いなぁって見てたんだよ? マシュマロってあまり食べないけど好きだし、びっくりしちゃった」
「そうなんだ。よかったよ、気に入ってもらえたなら」
 実は梨華にその話を聞いていてさり気なく眞姫の好みをチェックしていた准だったのだが、彼女の嬉しそうな顔を見てにっこりと微笑む。
 それから、再びカバンから何かを取り出した。
「それと、これ。気持ち程度なんだけど、プレゼントだよ」
 眞姫はそのプレゼントを見て、思わずあっと叫ぶ。
 そして顔を上げ、ブラウンの瞳を見開いた。
「これ、私が欲しかった絵本だわ。この絵本、探してたの!」
「姫がこの絵本のことを話してたのを思い出してね、探してプレゼントしようと思ったんだ」
 准があげたそれは、“どんなにきみがすきだがあててごらん”というタイトルの1冊の絵本。
 眞姫は小さい頃に読んでもらったこの本が大好きで探しているのだと、一度だけ准に話したことがあった。
 それを覚えていた彼は、この絵本を本屋に取り寄せてもらったのだった。
 眞姫は懐かしそうに絵本のページをゆっくりとめくる。
 これはデカウサギとチビウサギが、どれだけ相手のことを自分が好きか競い合うお話である。
 ……その時。
 絵本を見つめていた眞姫は、ふとあるページで手を止めた。
 そのページはちょうど、デカウサギが眠ったチビウサギにおやすみのキスをしているシーンだった。
 眞姫はそのページに挟んであるものを見つけ、ふと准に視線を向ける。
「准くん、これ……」
 そんな眞姫の反応に、准はにっこりと微笑む。
 眞姫の見つけた、そのあるものとは。
 眞姫はそっと本に挟まっていた1枚のしおりを手に取った。
「四葉のクローバーの押し花のしおり……これも、私に?」
「うん、姫も本好きだろう? だから、使ってもらえるかなって思って」
 准はそう言ってから、眞姫の開いている本に視線を落とす。
 准がしおりを挟んだそのページで、デカウサギはチビウサギにこう言っているのだった。
『ぼくは、きみのこと、おつきさままでいって……かえってくるぐらい、すきだよ』
 准は優しく瞳を細めて、そして眞姫に言った。
「いい話だよね、この絵本。友達でも恋人でも、好きだって言える人がいることは幸せだよね」
 そんな准の言葉に眞姫は大きく頷く。
「うん、そうだね。この絵本、本当に大好きだったんだ……ありがとう、准くん」
 ぎゅっと絵本を抱きしめる眞姫の姿を見つめて、准も笑顔を浮かべる。
 そして声には出さなかったが、純粋に自分のプレゼントを喜んでくれている眞姫のことを好きだと、この時改めて思ったのだった。