――12月13日・月曜日。
 ひやりと肌を刺すような風が吹きぬけ、行き交う人々の吐く息も白い。
 寒さのためか足早に駅へと向かう人の波に逆らわず歩きながら、眞姫は少し長めのマフラーをもう一度巻きなおし時計を見た。
「何だか、久しぶりの学校って妙に緊張するよね……」
 冷たくなっている両手をこすり合わせてはあっと息を吐き、眞姫は地下鉄の階段を降り始める。
 ゆっくりと3日間学校を欠席して静養したおかげで、熱はようやく下がった。
 まだ少し身体にだるさは感じていたが、ようやく学校にも行けるほどに体調も戻ってきたのである。
 定期券を取り出して改札を通った眞姫は、ふと顔を上げる。
 それからタッタッと足早に歩を進め、にっこりと微笑んだ。
「おはよう、健人」
 金色に近いブラウンの髪と印象的な青い瞳。
 その綺麗なブルーアイを嬉しそうに細め、その少年・健人は言った。
「姫……おはよう」
「何だか久しぶりだね、土日もあったから5日ぶりかな?」
「そうだな。姫がいなくて、すごく寂しかったよ」
 それから健人は眞姫の頭にそっと手を添え、ぐりぐりと撫でる。
 健人に撫でられて少しくしゃくしゃになった髪を手櫛で整えながら、眞姫は声を上げた。
「あっ、もーうっ、健人っ」
 そんな眞姫を楽しそうに見ながらくすっと笑い、そして健人は言った。
「やっぱり姫と会うと、朝だなって思うんだよな」
 それから電車がホームに入ってきたのをちらりと見た後、続ける。
「朝ホームで待っていると、俺を見つけた姫が小走りに駆け寄ってくる。それからにっこり笑って“健人、おはよう”って言うんだ。それを聞いたら、ああ朝なんだなって思うんだよ」
「健人……」
 その健人の言葉を聞いて、ふと眞姫は顔を上げる。
 そして悪びれもなく微笑み、言った。
「それって日曜日に“サザエさん”見たら、ああ明日から学校なんだなぁって思うのと似てるね」
「……似てるか? いや、姫らしいからいいんだけどな」
 そう呟いて小さく嘆息する健人に眞姫が不思議そうに首を傾げた時、ホームに入ってきた電車のドアが開く。
 車内はいつもと変わらず、朝の通勤通学ラッシュのために人で混雑していた。
 健人はさり気なく眞姫をかばうような位置に立ちながら、彼女にちらりと瞳を向ける。
 眞姫と会わなかったのはたった5日間だけであったが、健人にとって長い日々だった。
 そして隣に眞姫がいるこの時間が、自分にとってかけがえのないものだと健人は改めて感じたのだった。
「やっぱり冬だね。今日すごく寒くない?」
 健人の気持ちも知らず、眞姫は口に両手を当てて息を吹きかける。
 そんな眞姫の仕草を見て、健人は彼女の右手をおもむろに取った。
「姫の手、冷たいな。手袋もいるんじゃないか?」
 急に健人の手の温もりを感じ、眞姫はドキッとする。
 それから、慌てたように頷いた。
「えっ? あ、そ、そうだね」
 握られた健人の手は温かく、眞姫の冷えた右手も次第に熱を帯び始める。
 そして細くて長い健人の指の感触を感じ、眞姫は胸の鼓動を早めた。
 照れたように俯いて頬を赤らめる眞姫を見て、健人は言った。
「姫、顔が赤いけど大丈夫か? 熱、ちゃんと下がったのか?」
 そう言って健人は、あいている左手をそっと眞姫の額に当てる。
 眞姫は驚いたように瞳を見開いた後、健人に視線を向けた。
「あ、うん。もう熱はないと思うんだけど……どう?」
 ちらりと眞姫に青い瞳を向けて、健人は少し考える仕草をする。
 そして。
「きゃっ……もーうっ、健人っ」
 パチンと音がしたかと思うと、眞姫は恨めしそうに健人に瞳を向けた。
 眞姫の額を軽く平手で叩いた健人は、楽しそうに笑う。
「熱はないみたいだな。最近寒いから、また風邪ひかないようにしろよ」
 そしてふと瞳を伏せた後、健人は言った。
「姫がまた学校休んだりしたら……俺が、寂しいからな」
「私も休んでる時、すごく寂しかったよ。早くみんなに会いたかったんだ」
 にっこりとそう笑う眞姫に、健人は前髪をかきあげて呟く。
「みんな、か。本当に姫って鈍いよな」
「え? 何、健人?」
 健人の声が聞こえなかった眞姫は、上目遣いで健人を見つめて再び首を傾げる。
 そんな眞姫にふっと笑いかけ、健人は言った。
「いや、何でもないよ」
 それからしばらくして電車が駅に到着し、眞姫と健人は人の流れに乗ってホームに降りる。
 健人はいつものように人ごみに揉まれて遅れ気味の眞姫を、立ち止まって待った。
 眞姫は慌てて健人に追いつき、彼の隣に並ぶ。
 そしてそんな眞姫の手は、健人の温もりをもらってポカポカと温かかった。
 それから学校までの道のりを健人と歩き、眞姫は5日ぶりの学校に着いた。
「眞姫っ、おはよーっ!」
 がばっと誰かに後ろから抱きつかれ、眞姫は大きな瞳を見開いて振り返る。
「あっ、梨華。おはよう」
「もう体調は大丈夫なの? あ、蒼井くんもおはよー」
 靴箱に靴を入れてから、梨華は視線を眞姫から健人に移す。
 そして、ニッと笑って言った。
「蒼井くん、よかったねぇっ。眞姫がいなくてめちゃめちゃ寂しそうだったもんねーっ」
 冷やかすように肩を叩かれて、健人は梨華をちらりと見る。
「おはよう、立花。ああ、姫がいなくて寂しかったよ」
「私もみんなに会えなくて寂しかったわ、梨華」
 相変わらずストレートな健人とそれに全く気づいていない眞姫に交互に目を向け、梨華は笑った。
「本当に相変わらずねぇ、ふたりとも」
 それから3人は、教室に向かって階段を上がる。
 その時。
「ほら、僕の言った通りだろう、麗しのお姫様の登場だよ? おはよう、僕のお姫様」
「おっ、姫! 体調良くなったんだな、おはようっ」
「やっぱりお姫様はいつ見ても可愛いなぁっ、おはようさん」
「おはよう、姫。体調はもう大丈夫なの? 体調悪くなったらいつでも言ってね」
「あ、みんな。おはよう」
 眞姫の姿を見つけて駆け寄ってきた少年たちに、眞姫はにっこりと微笑んだ。
 梨華は、嬉しそうに眞姫を見る少年たちに笑う。
「まったく、本当にあんたたちって根っからのお姫様の親衛隊なんだから」
 健人はそう呟く梨華の横で、じっと眞姫に視線を向けている。
 そして少年たちに囲まれて楽しそうに笑う眞姫を見つめたまま、健人も嬉しそうに整った顔に微笑みを浮かべたのだった。




 その日の放課後。
「姫が休んでいる時の学級委員会議で決まったことは、こんな感じかな。何か分からなかったことある?」
 准が綺麗にまとめた議事録をもう一度見て、眞姫は首を振る。
「ううん、准くんの説明と議事録、すごく分かりやすかったよ。ごめんね、学級委員の仕事ひとりでやってもらっちゃって」
 申し訳なさそうに俯く眞姫に、准は優しく微笑んだ。
「謝ることなんてないよ、僕ができることをしただけだし。それよりも僕は、姫の体調の方が心配だよ……あまり無理しないでね」
「うん、ありがとう。熱はもう下がってるし、無理はしないから」
「体調が悪くなったら遠慮なく言ってね、姫」
 眞姫の言葉に安心したような表情をしてから、准は立ち上がる。
 そして議事録を閉じて鞄にしまった。
「これは僕が職員室に提出しておくから、姫は先に帰ってて。職員室なら、ちょうど図書館に行く通り道だし」
「いいの? 何だか全部准くんに任せっきりで……」
「図書館に行くついでだから、気にしないで。それよりも姫は、早く家に帰って体調を整えることだけ考えてね」
 そう言って准は、知的な笑顔を眞姫に向ける。
 眞姫はそんな准ににっこりと微笑みを返して、頷いた。
「ありがとう、准くん」
「じゃあ気をつけて帰ってね、姫。また明日」
「うん、また明日ね」
 教室を出て行く准の後姿に手を振った後、眞姫は帰る仕度を始める。
 マフラーを首に巻いて、そしてふと窓の外に目をやった。
 それほど遅い時間というわけではなかったが、季節も本格的な冬になり日が落ちるのも早くなってきている。
 そして机の中に入れてたノートを鞄にしまった眞姫は、思い出したようにあっと短く叫んだ。
「あっ、休んでいた分のノート借りたお礼、准くんにもう一度言おうと思ってたのに」
 准は眞姫が休んでいる間の学級委員の仕事も、すべて完璧に片付けてくれていた。
 それだけでなく准は、久しぶりに学校に出てきた眞姫に対してさり気ない気配りをしてくれていた。
 決して派手な行動は取らないが、准はいつも自分を近くで優しく見守ってくれている。
 彼と一緒にいると、不思議と気持ちが安心するのだ。
 准は人に甘えさせるのが上手な人なのだと、眞姫は思っていた。
 そしてそんな彼の優しさに、自分も応えていきたいと思っていたのだった。
 眞姫は立ち上がってコートを羽織ると、鞄を持って教室を出る。
 すれ違う数人のクラスメートに手を振りながら、眞姫は下校するために靴箱に向かった。
 そんな眞姫が階段の踊り場に差し掛かった、その時。
「清家」
 ふと呼び止められ、眞姫は足を止めて振り返る。
 眞姫を見つめていたのは、印象的な切れ長の瞳だった。
「鳴海先生?」
 眞姫を呼び止めた人物・鳴海先生を上目使いで見て、眞姫は小さく首を傾げる。
 先生は相変わらず表情は変えず、口を開いた。
「熱は下がっているようだが、身体の調子はどうだ?」
「あ、もう大丈夫みたいです。ご心配をおかけして、すみません」
 ぺこりと頭を下げる眞姫に、先生はちらりと無言で瞳を向ける。
 そんな先生に、眞姫はにっこりと微笑んで言った。
「昨日は、お電話ありがとうございます。何だか昨日先生の声聞いてから、不思議と気持ちが楽になった気がするんです」
「……担任する生徒の体調が気がかりなのは、教師として当然のことだ」
 眞姫の意外な言葉に、先生は少し間を置いてそう答える。
 眞姫は栗色の髪をそっとかきあげ、続けた。
「私、すごく嬉しかったんです。先生の声聞いたらホッとしたというか……少しその時、気持ちが不安定だったから」
「清家……」
 ふっと何かを考えるように瞳を伏せた後、先生はひとつ息をついた。
 そして、再び切れ長の瞳を眞姫に向ける。
「朝夕は特に寒い、熱が再発する可能性も無きにしも非ずだ。帰ってゆっくり休むように」
「はい、分かりました。それでは失礼します」
 先生の言葉にこくんと頷いて、眞姫はもう一度頭を下げて歩き始めた。
 眞姫の後姿を見送った後、鳴海先生も職員室に向かって階段を下りる。
 眞姫が学校を欠席していた数日間、“空間能力者”である先生は彼女の大きな“気”が不安定であることに気が付いていた。
 ただでさえ大きな“浄化の巫女姫”の力の影響で体調を崩していた眞姫にとって、不安定な“気”が身体に与える負担は大きいものであろう。
 熱が下がって学校に登校してきた眞姫の“気”は、欠席していた数日に比べると随分と落ち着いてきてはいる。
 だが、まだ体調が本調子でないことは彼女を見たら一目瞭然であった。
「清家の不安定だった大きな“気”も、以前よりは落ち着いてきたようだが……」
 そう呟いた先生は、昨日父に言われた言葉を思い出す。
『痛みを取り除いてあげることはできなくても、彼女の力になってあげることはできるよ』
「…………」
 無言で何かを考えるように、鳴海先生は父と同じ色のブラウンの前髪をかきあげる。
 そして切れ長の瞳を細め、日が落ちて暗くなってきている窓の外を見つめたのだった。




 その頃。
 職員室で用事を済ませた准は、偶然廊下で出会った拓巳と歩いていた。
「姫がいなかった数日、やっぱり寂しかったよな。今日久々に姫の顔見れてよかったぜ」
「そうだね。でも姫、まだ少し体調悪そうだったよ……拓巳なんて、無駄に元気なのにね」
 そう言ってちらりと自分を見る准に、拓巳は大きく嘆息する。
「……悪かったな、無駄に元気で」
 拓巳の反応に微笑んだ後、准はふと表情を変えて言葉を続けた。
「姫って責任感強いから、無理していないか心配なんだ。今までこんなに体調悪そうな姫って見たことないし、何か“浄化の巫女姫”の大きな“気”の影響なんじゃないかなって」
 心配そうな表情を浮かべる准に、拓巳は大きな瞳を宙に向ける。
 そして前髪をかきあげてから言った。
「“浄化の巫女姫”の大きな“気”の影響か、そうかもしれないな。でもよ、“浄化の巫女姫”としての運命をあいつは一生懸命受け止めようとしているだろう? 俺はそんな姫の力になってやりたいって思ってるぜ」
「拓巳……」
 准は拓巳の言葉に、おもむろに顔を上げる。
 そしてふっと微笑んでから頷いた。
「そうだね、僕も拓巳と同じ気持ちだよ。でもね、やっぱり僕は姫が心配なんだ」
 それから准は拓巳に目を移して表情を変え、続ける。
「拓巳……祥太郎から聞いた? 昨日“邪者”と会ったって話」
「ああ。あの藤咲綾乃って“邪者”のことだろう? 祥太郎がよくデートしてるって女」
「でも気になること言ってたよね、あの藤咲綾乃って子の偽者がいたとか。祥太郎もその偽者の正体、分からなかったって言ってたけど」
 拓巳は怪訝な顔をして、大きく溜め息をついた。
「ていうかよ、別にあの藤咲綾乃って“邪者”の姿をした偽者が出たって、俺には関係ねぇよ。あの女と仲いいのは祥太郎だし、それに女でも男でも俺は相手が“邪者”なら容赦はしないからな」
「そうだけど……でも“邪者”も動き出してるってことだろう? 何か起こらなければいいんだけどね」
「鳴海のヤツもまだ様子を見るって言ってたし、注意はもちろんするけどよ、心配しすぎなんじゃねぇか?」
 うーんと腕組みをしてから、拓巳は右手を顎に添える。
 准はそんな拓巳を見て、仕方ないなと言ったように嘆息する。
「用心するに越したことはないだろう? でも周りが必要以上に騒ぎ立てて体調悪い姫に心配させたくもないしね」
「そうだな、詳しいことが分かるまでは姫にはまだ“邪者”のことは言わない方がいいよな」
 そう自分で納得したように頷いた後、拓巳はちらりと腕時計を見た。
「ところで准、おまえ今から帰るのか?」
 拓巳の問いに、准は小さく首を振る。
「ううん、ちょっと図書館に寄ってから帰ろうかなって思ってるよ」
「図書館? 俺は帰るからここから逆だな。んじゃ、また明日な」
「うん、また明日」
 靴箱と逆方向にある図書館に向かう准の後姿を一度だけ振り返ってから、拓巳は歩き出した。
 拓巳は校門を出て薄暗くなった空を見上げ、繁華街に向けて歩を進める。
 クリスマスが近いためか、街路樹にも色とりどりのイルミネーションが施されている。
 そして北風の寒さに顔を顰め、拓巳がコートのポケットに手を入れた……その時だった。
「よっ、拓巳やないか」
 ふと背後からぽんっと肩を叩かれ、拓巳は振り返る。
「あ、おまえどうしたんだよ?」
「ひとりで寂しく帰宅中か? せっかくやから、一緒帰ろうや」
 ハンサムな顔に笑顔を浮かべて拓巳の背後に立っていたのは、祥太郎だった。
「おまえだって、寂しくひとりじゃねぇかよ」
 じろっと祥太郎を見てから、拓巳は再び賑やかな繁華街を歩き出す。
 祥太郎はそんな言葉に笑いながら、拓巳の隣に並んだ。
「まぁまぁ、そう冷たいこと言わんどいてや、拓巳」
「ったく、何が悲しくておまえと帰らないといけないんだよ」
 そしてふたりは賑やかな繁華街から一本道を外れ、駅へと向かう。
 地下鉄の入り口の階段に差し掛かり、拓巳は祥太郎に言った。
「おまえ、JRだっただろう? 俺は地下鉄だからな」
「ああ、そうやな」
 ふとそう言ってから、祥太郎はピタリと立ち止まる。
 それから、ちらりと拓巳に視線を向けて言った。
「でもな、ちょっと拓巳にお願いがあるんやけど」
 祥太郎の言葉に意外そうな顔をして、拓巳も足を止める。
 それから一度首を傾げて言った。
「お願い? 何だよ」
 祥太郎は少し周囲を伺うように視線を向けて、そしてポケットから何かを取り出す。
 次の瞬間。
「!!」
 拓巳はハッと顔を上げ、咄嗟に身を翻す。
 ビュッという音がしたかと思うと、拓巳の顔があったところを何かが空を切った。
「なっ!? おまえ、何するんだよっ!?」
 祥太郎の手に握られているそれは、5cmほど刃の出ているカッターナイフであった。
 ハンサムな顔に不敵な笑みを浮かべ、祥太郎は一歩拓巳に近付く。
 そしてカチカチともう1cmほどカッターの刃を出して、言った。
「拓巳へのお願いなんやけど……死んでくれへんか?」
「はあ!? 死ねって、何言ってるんだ……わっ!!」
 ブンッと自分目がけて飛んでくるカッターを避けながら、拓巳は目の前の祥太郎を見据える。
 確かに、外見も彼から感じる“気”も拓巳の見知った祥太郎のものであったが、その目は殺気に満ち溢れていた。
「ちっ、マジかよっ……つーか、とりあえずこのままじゃ、まずいだろっ」
 拓巳は反撃するかどうか迷いながらも、ぐっと右腕に力を込める。
 カアッとその手に輝きが宿ったかと思うと、その光は大きく弾けた。
 そしてふたりの周囲に、拓巳の作り出した“結界”が張られる。
 ぐるりと拓巳の“結界”に視線を向けてから、祥太郎は再びカッターを握りしめた。
「往生際が悪いなぁ、素直に早う死んでや!!」
「くっ、どうしたんだよ、祥太郎っ!?」
 大振りになった隙を付き、拓巳は祥太郎の手首を殴って握っているカッターを叩き落す。
 そして音を立てて落ちたカッターを祥太郎が拾うその前に、ガッと遠くに蹴り飛ばした。
「!!」
 くっと唇を噛む祥太郎に、拓巳は溜め息をつく。
「ったく、冗談にしてもほどがあるぞ!? イキナリあぶねーだろーがっ!」
「冗談? 誰が冗談なんて言った? 俺は……死んでくれへんかって言ったやろっ!!」
「!」
 ふっと祥太郎が右手を掲げた瞬間、その手に“気”が集まるのを拓巳は感じた。
 そして球状を形成した“気”が、自分目がけて放たれたのだった。
「ていうかな……死ねって言われて、はいじゃあ死にますなんて言うヤツいるかよっ!」
 放たれた“気”の塊をキッと見据え、拓巳は咄嗟に掌に“気”を集める。
 それからグッと“気”の漲った手を握り締め拳を作り、目の前に迫る“気”の塊を殴りつけた。
 バシッと大きな音がし、その“気”の塊は軌道を変えて“結界”の壁にぶつかって消滅する。
「なっ!? “気”の衝撃を弾き飛ばしたなんて……」
「いつもの派手なおまえの攻撃ならともかく、この程度じゃ俺は殺せねぇことくらい分かってるだろ!? ていうか、これって一体何なんだ!?」
 驚いた表情をする祥太郎に、拓巳は漆黒の前髪をかきあげた。
 祥太郎は気を取り直して、そんな拓巳に悪戯っぽく笑う。
「あははっ……いやぁ、今までのは軽い冗談や。そう怒らんどいてな、拓巳」
「あ? 冗談にもほどがあるぞ、おまえっ」
「すまん、すまん。軽い冗談やから、この通り許してな」
 ぺこぺこ頭を下げて手を合わせる祥太郎に、拓巳は呆れたような顔をした。
「軽い冗談ってな、カッター振り回しといてどこが軽いんだよ!?」
「そう言うなや。俺とおまえの友情に免じて大目に見てくれんか? な?」
 拓巳の隣に並び、祥太郎はぽんぽんっと彼の肩を叩く。
 仕方ないと言ったふうに大きく溜め息をついてから、拓巳は周囲の“結界”を解除しようと右手を掲げようとした。
 その時。
「……!!」
 拓巳は掲げようとした右手を引き、瞳を大きく見開く。
 そして咄嗟に地を蹴り、祥太郎から離れた。
「つっ……おまえっ!」
「冗談やないって言ったやろ? 死んでくれって言ったの、聞こえんかったか?」
 いつの間にか取り出した2本目のカッターナイフを回して、祥太郎は不敵に笑みを浮かべる。
 瞬時に避けたとはいえ、至近距離から放たれたカッターを完璧にかわすことができず、拓巳の頬には一筋の浅い傷ができていた。
 だがそんな傷を気にとめることもなく、拓巳は祥太郎を睨みつける。
「おまえっ、いい加減にしとけよなっ!? もう頭きたぞ、俺はっ!」
 拓巳はそう言ったと同時に、グッと再び拳を握り締める。
 その瞬間、祥太郎は表情を変える。
 急速に拓巳の“気”が高まり、その大きさを物語るかのようにバチバチと音を立て始めたのだ。
 そして集結させた“気”を、拓巳は祥太郎目がけて放つ。
「!!」
 グワッと唸りを上げて襲いかかるその衝撃に、祥太郎は大きく瞳を見開いた。
 その時だった。
「……なっ!?」
 拓巳は声を上げて、驚いたように表情を変える。
 そんな彼の瞳に映ったのは……爽やかな風が吹きぬける、草原の景色だった。
 拓巳の放った“気”も、いつの間にか爽やかな風にかき消されて消滅している。
 そして拓巳は、そんな目の前の光景が誰によって作られたのかすぐに分かった。
「詩音っ、どーいうことだよっ!?」
「心地よい風に吹かれて頭を冷やしてごらん、拓巳。騎士同士が結界内にいるのを感じてね、王子が直に出向いてあげたんだけど……」
 いつからいたのか、拓巳の背後で詩音はにっこりと微笑む。
 それからいつも通りの柔らかな笑顔を目の前の祥太郎に向け、言った。
「でもこっちの騎士は、どうやら変わり身の魔法を使った偽者ってところかな」
「えっ!? それって、どういうことだよ?」
 詩音の言葉に、拓巳は目の前の祥太郎に視線を移す。
 逆に祥太郎は大声で笑って、二人を交互に見た。
「俺が偽者やて? 何を根拠に言ってるんや。どこから見ても俺は俺やんか」
「見た目は似せられたとしても、“気”の雰囲気も祥太郎のものにそっくりだぜ? 本当にこいつ偽者なのかよ?」
 信じられない様子の拓巳に瞳を向け、詩音は言葉を続ける。
「聞いたことがあるよ、“邪者”には姿だけでなく“気”の雰囲気までコピーできる能力を持つ者がいるってね。でもね、いくら雰囲気はコピーできても、その能力を使うマスターの力量以上の“気”は使えないとも聞いたよ。拓巳……僕が何を言いたいか分かるよね?」
 にっこりと微笑む詩音の言葉に、拓巳はニッと笑う。
 そしてスッと右手を掲げ、再び“気”をその手に漲らせた。
「なるほどな、本物の祥太郎なら、俺の放つ“気”も浄化できるだろうってことだろ?」
「なっ、何を言うてるんや!? 俺は祥太郎やて言ってるやろ、俺のこと信じとらんのか!?」
「俺の“気”を浄化してみろよ、そしたら信じてやるよ。ま、手加減しといてやるからなっ!」
 そういうやいなや、拓巳は“気”の宿った右手を思い切り振り下ろした。
 爽やかな風の吹きつける草原に、一陣の大きな風が巻き起こる。
 そして拓巳の放った衝撃が祥太郎を捉えようとした……その瞬間。
「……!」
「なっ!?」
 目の前に広がっていた草原の風景が、突然消え失せたのだった。
 それだけではなく、強大な“邪気”が周囲に満ちるのを同時に感じる。
 そして拓巳が放った“気”の衝撃も、いつの間にか張られた防御壁に阻まれて消滅していた。
 一瞬何が起こったか分からない表情をしていた目の前の祥太郎は、ハッと顔を上げて叫んだ。
「! 智也!?」
「その姿で名前呼ばれても、何かピンとこないなぁ」
 詩音の“空間”を無効にさせた上に防御壁で拓巳の“気”を消滅させたその人物・智也は、祥太郎の姿をしているその人物・麻美ににっこりと微笑む。
「たまたま通りかかったら、君が“能力者”の“結界”内にいるのを感じてね」
「そいつも“邪者”なんだな、やっぱり偽者かよっ」
 突然現れた智也に鋭い視線を投げ、拓巳は軽く身構える。
 詩音は相変わらず表情を変えず、祥太郎の姿をした麻美に言った。
「もう仮の姿は意味を成さないだろう? 正体を見せてもいいんじゃないかな」
「……さすがに“空間能力者”は騙されないわけね。いいわ、正体見せても私にとって不利な要素なんてないしね」
 そう言ってニッと笑ったかと思うと、祥太郎の姿がぼんやりと霞む。
 そして、現れたのは。
「! 女!?」
「いけないな、お嬢さん。王子や騎士に悪戯なんてしたら」
 ショートカットの漆黒の髪に、少しきつめの同じ色の瞳。
 近くの名門お嬢様学校の制服を身に纏った少女の姿がそこにはあった。
「麻美、久しぶりだね。大丈夫だった? でももう俺が助けに来たから安心だよ、なーんてね」
「ていうか智也、誰も助けてなんて言ってないでしょ!? 私の仕事の邪魔しないでっ」
 じろっと瞳を向ける麻美に、智也は苦笑する。
「相変わらずだよな、麻美も。大丈夫、大丈夫っ、杜木様には俺がおまえに手を貸したこと言わないからさ」
「何で智也、私が杜木様から仕事頼まれたこと知ってるわけ? 綾乃から聞いたの? あの子、お喋りなんだから……」
「まーまー、そんなこと言わずに。“能力者”は俺がちょいちょいと片付けてあげるから、女王様は高みの見物しててよ」
 笑顔で麻美にそう言ってから、智也は改めて拓巳と詩音に向き直る。
 そして挑発するようにクイクイッと指を動かし、言った。
「そーいうわけだから、ふたりの相手は俺がしてあげるよ。あ、ふたり一緒にくる? それでも構わないよ」
「何だとっ!? おまえの相手なんて、俺ひとりで十分だっ!!」
 カアッと瞬時に輝きの宿った手刀を振りかざし、拓巳は素早く智也との距離をつめる。
 スッと漆黒の瞳を細め、智也は漆黒の光を両手に漲らせた。
 空気を裂くように繰り出された拓巳の手刀を漆黒の“邪気”を帯びた左手で振り払うと、智也はあいている右手ですかさず“邪気”の衝撃を拓巳目がけて放つ。
 拓巳は咄嗟に身を屈め、その攻撃をかわした。
 それを追従するように襲いかかる智也の蹴りをガードし、拓巳は背後に飛んで距離を取る。
 そして素早く体勢を整え右手に再び力を込めると、智也に“気”の塊を放った。
 智也はそれに対抗すべく、同じように“邪気”を繰り出す。
 ふたつの威力が中間でぶつかりあい、眩い光と激しい衝撃音があたりを包んだ。
 そしてお互いの威力を押し切ることができず、ふたつの光はともに消滅した。
 詩音はふたりの繰り広げる激しい戦況を黙って見ていたが、その時ふと視線を麻美に移す。
 麻美はそんな詩音の視線に気が付き、怪訝な表情を浮かべた。
 そんな彼女に優しく微笑んで、詩音は言った。
「昨日祥太郎の前に現れたっていう偽者も、君の悪戯だったのかな?」
「昨日? 何のことかしら。その昨日の綾乃の偽者も私だって言うの? 証拠も無いのに、言い掛かりはよしてよ」
 いかにも気の強そうな視線を詩音に投げ、麻美はふっと笑う。
 詩音は逆に、柔らかな笑顔を彼女に向けた。
「おっと、失礼。証拠も無いのに、レディーに失礼なことをしたね」
 それから色素の薄い瞳を細め、詩音は続ける。
「でもどうして君は、その偽者が綾乃って彼女のものだと分かったのかな?」
「……!」
 麻美は詩音の言葉に、その表情を変えた。
 にっこりともう一度微笑みを麻美に向けた後、詩音は今度は拓巳と智也に視線を移す。
 カアッと光が弾けてふたつの衝撃が相殺され、ふたりは一定の距離を取った。
「おい、“能力者”なんてちょいちょいっと片付けるんじゃなかったのか? 俺はまだピンピンしてるぜ?」
 体勢を整えて、拓巳は智也を煽るように言った。
 その言葉に表情を変えることもなく、智也はスッと右手を掲げる。
「せっかちだなぁ、簡単に殺しちゃたら面白くないだろう?」
「んだと!? おまえに俺が殺せるもんなら、やってみろよっ」
 キッと鋭い視線を智也に投げ、拓巳も右手に“気”を集結させた。
 お互いの“気”と“邪気”が空気を震わせ、バチバチと音を立て始める。
 そしてふたりが衝撃を放たんと動き出そうとした、その時。
「!」
「何っ!?」
 拓巳と智也は、同時に動きを止める。
 そんなふたりの目の前には……再び、延々と広がる草原の風景。
「今日はそれくらいにしておかないかい? レディーもいることだし、紳士的にお互いが退くということでどうかな?」
「何で止めるんだよ、詩音っ」
 背後の詩音を振り返り、拓巳は怪訝な顔をする。
 それとは対称的に智也はちらりと麻美を見た後、おもむろに構えを解いた。
「じゃあ帰ろうか、麻美」
「え?」
 あっさりとそう言う智也に、麻美は驚いた顔をする。
 拓巳は智也に鋭い視線を投げて、グッと拳を握り締めた。
「待てよっ、まだ勝負はついてないだろうっ!?」
「拓巳、まぁそう言わないで。王子に免じて、“結界”を解除してくれないかい?」
 詩音は拓巳ににっこり微笑むと、指をパチンと鳴らす。
 その瞬間、草原の風景は一瞬で消滅し駅前の見慣れた街並みが戻ってきた。
 拓巳は納得いかない表情を浮かべつつ、“気”を宿した右手を掲げて周囲の“結界”を解除する。
 それを確認して、智也は麻美を伴って歩き出した。
 智也は帰り際に一度だけ振り返り、ニッと笑みを浮かべて軽く手をあげる。
 面白くなさそうな顔をして前髪をかきあげ、拓巳は舌打ちをした。
「ちっ、偽者とか四天王とかマジでムカつくなっ……ていうか詩音、何で止めるんだよっ」
「まぁまぁ、偽者の正体が分かっただけでも十分だろう? 騎士は短気だな、心を穏やかに大きく持とうよ、ね?」
 自分のペースを一切崩さずにっこり微笑む詩音に、拓巳は諦めたように嘆息する。
 そして思い出したように掌に“気”を宿らせ、頬についた浅い傷を消したのだった。
「智也、今日のことはお礼言っておくけど、今後余計な真似はしないでよねっ!?」
 拓巳と詩音に背を向けて賑やかな街を歩きながら、麻美はじろっと隣の智也を見た。
「でしゃばったのは謝るってば、ごめんごめんっ。別に麻美の仕事を横取りしようとか、そーいうことは全然思ってないからさぁ」
「今回の仕事、私が直に杜木様からいただいたものなんだから。私、このチャンスを逃したくないの」
 野心という輝きを秘める麻美の漆黒の瞳に、智也は複雑な表情をする。
 それから少し考えるような仕草をし、口を開いた。
「でも、麻美の能力……対象の人物の“気”に触れるだけで、姿や声はもちろん“気”の性質までコピーできる力、“能力者”にバレちゃっただろう? これから警戒されるんじゃない?」
 そんな智也の言葉に、麻美は不敵に笑う。
「今から警戒されるだろうから、逆に好都合なのよ。“能力者”が思いもしない方向から動いて、意表をつくのよ」
「……思いもしない方向?」
「言ったでしょ、私はこのチャンスを自分のものにしてみせるって。力だけじゃなくて、少し頭も使わないとね。きっと“能力者”を始末して、杜木様に認めていただくんだから」
 決意を改めて固めるかのように、麻美は漆黒の瞳を細めた。
 智也はそんな麻美を見て小さく嘆息し、そして彼女の肩を労うようにポンポンと軽く叩いたのであった。