――12月12日・日曜日。
 繁華街の本屋で雑誌を読んでいたその少女は、訝しげな表情を浮かべて顔を上げた。
 漆黒の瞳と、同じ色のショートカットの黒髪。
 もとからきつい印象の目をさらに吊り上げ、少女は眉を顰める。
「綾乃、時間に遅れないでってあれほど言ったはずよ」
「ごめんごめーん、麻美ちゃん。それにしてもどうしたのぉ? 麻美ちゃんから呼び出しなんて」
 わざとらしく首を傾げる綾乃に、その少女・遠藤麻美(えんどう あさみ)は少し得意気に言った。
「先週杜木様から直々にお呼び出しがかかって、仕事を任されたのよ。それで、綾乃に協力して欲しいことがあってね」
「杜木様から直にお呼び出しがあったんだぁっ。へーぇ、麻美ちゃんすごーいっ」
 わぁっと声を上げる綾乃に、麻美は不敵な笑みを浮かべる。
「これはチャンスね。ここで杜木様のご期待に添えることができれば、正体不明と言われる“邪者”の最高幹部“邪者四天王”にのし上がれるかもしれないわっ。私、絶対にこの機会を生かしてみせるから」
 少し興奮気味にそう言う麻美に言葉を合わせるように、綾乃は手を叩いた。
「すごいねぇっ、幹部なんて。綾乃ちゃんも協力するから、頑張ってっ」
「それで、綾乃に頼みたいことがあるのよ。ここじゃ何だから、場所を移動しましょう」
 そう言って、麻美は上機嫌で賑やかな繁華街を歩き始める。
 それに続いて綾乃はふっと漆黒の瞳を細めてから、小走りで彼女の隣に並んだ。
 人波をかき分けてスタスタとしばらく歩き、おもむろに麻美は綾乃を伴い近くのカラオケに入る。
 部屋に通されてちゃっかり自分のチョコレートパフェを注文してから、綾乃はわざとらしく首を傾げた。
「ねぇ、麻美ちゃん。綾乃ちゃんに頼みたいことって、なぁに?」
「私の能力の性質、綾乃も知ってるわよね?」
「うん。麻美ちゃんの能力って“邪消費型”なんだよね」
 綾乃の答えに、こくんと麻美は頷く。
「貴女の様に一度“邪”を身体に封印したらいつでも“邪気”を使えるタイプとは違って、“邪消費型”の能力を使うには一回一回“邪”を召還して身体に取り込みなおさないといけないわ。私のようなタイプにとって“邪”は、いわば乾電池のような役割ね。しかも、その都度取り込んだ“邪”の力量によって使える能力の幅も違う」
 そこまで言って、麻美はきつめの漆黒の瞳をふっと細める。
 そして綾乃に瞳を向け、言葉を続けた。
「綾乃って、精神体の“邪”を操ることができたわよね? そこでお願いなんだけど、今回のチャンスを生かすために、より強力な“邪”を貴女の力を借りて召還したいの。私だけの力だったら、大きな“邪”を召還するのにも限界があるわ」
「大きな力を持つ“邪”を呼び出せばいいの? 麻美ちゃんの頼みで綾乃ちゃんにできることならやるけど……あまり強大な“邪”を召還したら、取り込むのも大変よ? それでもいい?」
 綾乃のその言葉に、麻美は当然だというように大きく頷く。
「このチャンスを生かすためなら、多少のリスクも覚悟の上よっ。ねぇ、お願いっ!」
 綾乃はちらりとチェコレートパフェを運んできた店員の姿を見て、嬉しそうに微笑んだ。
 それから店員が部屋を出たのを確認して、パフェの一番上にのっているいちごをパクッと口に運ぶ。
 そしてにっこりと麻美に微笑み、言った。
「分かったわ。そこまで麻美ちゃんに言われちゃったら、やるしかないわねぇっ」
 そう言って、綾乃はスウッと瞳を閉じる。
 それと同時に、ボウッと強大な“邪気”が綾乃の周囲を取り囲んだ。
 綾乃は麻美の力量で耐えられる範囲の大きな“邪”を探り、それを召還すべく右手を掲げる。
「……!」
 麻美は、ハッとその漆黒の瞳を見開いた。
 そして次の瞬間、室内に黒い煙のような“邪”の実体が綾乃によって召還され、姿を現す。
 スッと閉じていた漆黒の瞳をゆっくりと開け、綾乃は言った。
「“邪”は召還したわ。あとは、麻美ちゃんがこの“邪”を取り込むだけよ」
 ぐっと決意したような表情を浮かべ、そして麻美は無言で頷く。
 それから“邪”を受け入れるべく精神を集中させる。
 その瞬間、綾乃によって召還された“邪”が、ズズッと麻美の身体へと吸収され始めた。
 綾乃はそんな様子を、黙ってじっと見守っている。
 そして、召還された“邪”すべてが麻美の身体へ入ったかと思った瞬間。
「! ……っ、あうっ!! はあ……っ!」
 ビクンと麻美の身体が跳ね上がったかと思うと、苦しみに顔を歪めて声を上げ始めた。
「大きな“邪”を取り込もうとするほど、“邪”を体内に封印するための痛みと苦しみが伴う……私が“邪者”になるために“邪”を身体に封印した時も、本当に大変だったもんね」
 痛みに耐えて必死に体内に吸収した“邪”を封印しようとする麻美を正視できず唇を噛み、綾乃は思い出すようにそう呟く。
「でも、麻美ちゃんが望んだことだから……頑張ってとしか私は言えないわ」
 漆黒の瞳を細め、綾乃は黒髪をかきあげた。
 そんな綾乃の言葉も耳に入らない様子で、麻美は部屋のソファーに身を預けながらも苦しそうに身をよじったのだった。
 そして麻美が“邪”を封印しようと痛みと戦い始めて……1時間が経った、その時。
 カラオケで歌を歌うこともせずにじっと麻美の様子を見守っていた綾乃は、ふっと顔を上げる。
「うっ……ああっ!!」
 麻美の今までで一番大きな叫び声と同時に、彼女を取り巻く“邪気”が弾けるのを感じた。
 それから肩で息をする麻美に、綾乃はにっこりと笑う。
「無事に“邪”を身体に封印できたみたいね、麻美ちゃん。ご苦労様ぁっ」
「まだまだ……お仕事はこれからだから。杜木様に認めてもらうためなら、このくらい……っ」
「…………」
 その言葉に、綾乃は少し複雑な表情をする。
 それから気を取り直して黒髪をかきあげ、言った。
「今取り込んだ“邪”の大きさなら、麻美ちゃんの特殊能力が使える回数は、そうねぇ……6回か7回くらいかな」
「それくらいのキャパがあれば十分よ。ありがとう、綾乃」
 ふうっと最後に大きく息をついてから、麻美は額に滲み出た汗を拭う。
 そして不敵に笑い、麻美は綾乃の目の前にスッと手を掲げた。
「じゃあ、綾乃……早速1回目の特殊能力、使うわね」
「……!」
 その言葉と同時に、麻美の身体からボウッと“邪気”が立ちのぼる。
 綾乃はその光景に、漆黒の瞳を大きく見開いた。
 そして、次の瞬間。
「……どう? うまくいったかしら?」
「! 麻美ちゃん、すごーいっ」
 わあっと声を上げて、綾乃は手を叩く。
 そんな綾乃の目の前には……。
「麻美ちゃんの特殊能力って、本当にすごいねー。綾乃ちゃんの容姿や声だけじゃなくて、“邪気”の雰囲気まで完璧にコピーできてるよぉっ」
「ふふ、うまくこの能力を使って、必ずや杜木様に認めていただくわっ」
 綾乃の姿をその特殊能力で完全にコピーした麻美は、満足そうに笑う。
 綾乃はまじまじと自分の姿をした麻美を見て、ぽんっと彼女の肩を叩いた。
「ていうか、なんて目の前に可愛い子がいるのーって思ったら綾乃ちゃんだったわぁっ」
 ふっと変化を解いてから、麻美はその言葉に呆れたように溜め息をつく。
「綾乃、自分で言ってたら世話ないわね。でも感謝するわ、大きな“邪”を取り込めたのも貴女のおかげだもの」
「“邪”を取り込めたのは、麻美ちゃんが頑張ったからよぉっ。綾乃ちゃんはちょっと手助けしただけだからぁっ。でも“邪気”の雰囲気はコピーできても、その大きさまではコピーできないから、行動を起こす時は気をつけてねぇっ。あ、何か歌う?」
 にっこりと歌本を差し出す綾乃に、麻美は漆黒の瞳を細めて言った。
「そうね、気をつけるわ。ところで綾乃、実はもうひとつだけ貴女に頼みがあるんだけど」
「? なぁに、麻美ちゃん」
 歌本をめくっていた手を止め、綾乃はきょとんとした表情を浮かべる。
 不敵に笑みを浮かべた後、麻美は綾乃にその頼みを言った。
 それを聞いた綾乃は、ふとその表情を変える。
 だが少し考えるような仕草をしてから、綾乃はこくんと頷いた。
「うん……分かったわ。私から手を回しとくね」
「ありがとう、綾乃。私が“邪者”の幹部になったら、この恩返しはするわ」
「……うん、頑張って、麻美ちゃん」
 にっこりと作った微笑みを浮かべてから、そして綾乃は再びパラパラと歌本のページをめくり出したのだった。




 ――同じ頃。
 吹きつける冷たい風を特に気にすることもなく、休日でいつもよりも静かなオフィス街を鳴海先生は歩いていた。
 だがそのブラウンの切れ長の瞳を背後に向けたかと思うと、その足をぴたりと止める。
 そして、大きく溜め息をついた。
 そんな先生の目の前に現れたのは……一台のベンツ。
 おもむろに運転席のドアが開き、その車の持ち主である彼は紳士的な微笑みを浮かべる。
「やあ、こんなところで出会うなんて奇遇だね、将吾。乗っていかないかい?」
「何を白々しい。私に何か用ですか?」
「相変わらずつれないな、将吾は。とりあえず乗らないかい? どうぞ」
 助手席のドアを開けるその人物・父親である傘の紳士にちらりと視線を向けてから、先生は言われた通りに彼の車に乗り込んだ。
 そんな様子を見て微笑み、紳士は助手席のドアをしめて運転席へと戻る。
 ゆっくりと車を発進させてから、紳士は隣の先生に言った。
「お姫様が体調を崩しているようだね。君も私の血を受け継いでいる“空間能力者”だ……彼女の“気”が不安定なことに、気がついているのだろう?」
「…………」
 紳士の言葉に、先生は何かを考えるように視線を伏せる。
 そして、ゆっくりと言った。
「清家の能力覚醒は、すでに第一段階から第二段階へと入っています。格段に“気”の大きさが増す一方、まだその力に慣れない彼女の身体には、大きな負担がかかっている……だがそれが分かっていても、誰もそれを和らげることはできない。私の力でも、どうしようもできないものです……これは、彼女自身が乗り越えないといけない試練ですから。そうでしょう?」
 淡々とそう言う先生をちらりと見て、紳士は優しく微笑む。
「確かに将吾の言う通りだよ。覚醒の際に生じる痛みも、次の段階へ進むための“浄化の巫女姫”に与えられた試練だ。先代の“浄化の巫女姫”である妻の晶が能力覚醒の際に苦しんでいる時、私にはそれを和らげてあげる力はなかった。でも将吾、痛みを取り除いてあげることはできなくても、彼女の力になってあげることはできるんだよ?」
「……私に、何をしろと?」
 ふっと瞳を父に向け、先生は嘆息した。
 そんな息子に、紳士はくすっと笑って言った。
「君は察しが良くて頭のいい子だ。私が何を言いたいか、もう分かっているんだろう?」
「相変わらず遠まわしな言い方をしますね。おせっかいというか、何というか」
 先生は紳士から視線を逸らした後、何かを考えるように流れる窓の外の景色を見る。
 そんな先生の姿を見守るようにブラウンの瞳を細め、そして紳士はその上品な顔に微笑みを浮かべたのだった。
 ……その頃。
 眞姫はベッドからゆっくりと身体を起こし、腕に挟んでいた体温計を取り出した。
 熱は数日安静にしていたこともあり、かなり下がっている。
 だが、頭痛と身体のだるさは一向に引いていなかった。
 ズキズキとする頭を押さえ、眞姫は大きな瞳をぎゅっと閉じる。
 自分の中の何かが次々とあふれ出してくる感覚と、それを制御する事ができない感覚。
 そんな不安定なふたつの感覚が自分の体調を狂わせている原因だということが、本能的に眞姫には分かっていた。
 だが、それを抑える方法は分からない。
 そんな眞姫が、何とか頭痛が和らぐようにと頭を抱えた、その時だった。
「あ……」
 サイドテーブルに置いていた眞姫の携帯がブルブルと振るえ、誰かからの受信を知らせる。
 眞姫は手を伸ばし、受話器を耳に当てた。
「……もしもし?」
『体調が悪い時に電話をしてすまない……鳴海だ』
「あ、鳴海先生……いえ、大丈夫です」
 何日かぶりに聞く先生のバリトンの声に、眞姫は小さく微笑んだ。
『体調はどうだ? まだ少し調子が悪そうな声をしているが……』
「頭痛とだるさはまだ残っているんですが、熱は下がりました。早く学校にも行きたいんですけど……」
『くれぐれも言っておくが、無理だけは絶対にするな。欠席していた際の授業で分からない箇所があれば、遠慮なく質問に来なさい。まずは体調を整えることだけを今は考えるように』
 口調は相変わらず淡々としたものであったが、眞姫はその鳴海先生の気遣いの言葉が嬉しかった。
 そしてにっこりと微笑んで、言った。
「はい、体調を第一に考えます。それに先生の声を聞いたら、何だか少しほっとしました……ありがとうございます」
『……では、ゆっくりと安静にしておくように。以上だ』
「はい、安静にしておきます。では、失礼します」
 短く素っ気無い言葉で先生は電話を切ったが、眞姫は携帯を見つめたまま嬉しそうに笑顔をみせる。
 今の先生の電話だけでなく、映研部員や梨華からも頻繁にお見舞いのメールが届いていた。
 眞姫の体調を考えて電話は控えているようであるが、そんなみんなの気遣いも眞姫にとって嬉しいものである。
「早く良くなって、みんなに会いたいな……」
 そう呟き、眞姫は再び療養のためにベッドに横になる。
 そしてそんな眞姫の顔色は、先程よりも随分と良くなっていたのだった。




 その日の夕方。
 ちらりと時計を見た祥太郎は、繁華街の噴水広場へと向かっていた。
 休日の夕方ということもあり、繁華街の人の多さはピークに達している。
 そんな人波を掻き分けて目的地についた彼は、ふと意外そうな表情を浮かべた。
 そして早足で歩みを進め、噴水のすぐそばにいるひとりの少女に声をかける。
「これはこれは、綾乃ちゃん。急に電話してくるなんて、このハンサムくんにそんなに会いたかったんやなぁっ」
「あ、祥太郎くん。ごめんね、急に呼び出しちゃって」
 屈託のない微笑みを祥太郎に向け、待っていた少女・綾乃は微笑む。
 それからふっと祥太郎に腕を絡めて歩き出し、言葉を続けた。
「ねぇねぇ、綾乃ちゃんさ、祥太郎くんに聞いてもらいたいことがあるんだけど……聞いてくれる?」
「おー、この祥太郎くんに何でも聞いてや。って、まさか物騒なコトやないやろーなぁ。綾乃ちゃんとドンパチやるのだけはカンベンやで、デートなら喜んでオッケイやけどなっ」
 ニッと笑ってそう言う祥太郎に、綾乃は笑う。
「物騒なコト? そんなことなワケないよぉっ。綾乃ちゃんと祥太郎くんってば、超仲良しなんだしっ」
 祥太郎はそう言う綾乃を見て、ふと瞳にかかる前髪をかきあげる。
 それからハンサムな顔に笑顔を浮かべて言った。
「じゃ、どこに行こか? 綾乃ちゃん」
「んー、そうねぇ。祥太郎くんは、どこに行きたい?」
「そうやなぁ……あ、でもその前に」
 綾乃の言葉に少し考える仕草をしてから、祥太郎はぴたりとその場で歩みを止める。
 そして、次の瞬間。
「……えっ!?」
 綾乃は驚いた表情を浮かべて顔を上げると、隣の祥太郎に絡めていた腕を本能的に外した。
 祥太郎がふっとおもむろに右手を掲げたかと思ったその瞬間、眩い“気”が弾け、周囲が閑散とした空間・“結界”に包まれたからである。
 それから驚く綾乃の耳元で、ヒュッと風の鳴るような音がした。
「……っ!」
「ていうか……あんた何者や?」
 息を飲んで表情を変えたその目の前には、いつの間にか繰り出された祥太郎の拳が、ぴたりと止まっていた。
 何も言えないでいる目の前の綾乃に、祥太郎は続ける。
「見れば見るほど見た目も、そして“邪気”の感じも綾乃ちゃんそっくりやけど……この祥太郎くんの目は誤魔化せんで? どこの誰だか知らんけどな」
 祥太郎のその言葉を聞いて、目の前にいる綾乃はおもむろにくすくすと笑い出した。
 そしてニッと不敵に笑みを浮かべて、口を開く。
「よく私が本物の綾乃じゃないって分かったわね。でも……もう私の仕事は、すでに完了しているわ」
「仕事? ていうか、一体あんたは何者なんや?」
 警戒を解かない様子の目の前の祥太郎に、綾乃の姿を借りたその人物・麻美は言った。
「物騒なことはイヤなんでしょう? この“結界”なんだけど、解いてくれない?」
 その言葉に、祥太郎はふっと笑う。
「どこの誰かも分からんアンタを、そうやすやすと帰すとでも……」
 そこまで言った祥太郎はおもむろにハッと顔を上げ、視線を別の場所に向ける。
 そして、次の瞬間だった。
「……!!」
 周囲に張られた祥太郎の“結界”が、突然音を立てて消滅した。
 祥太郎の“結界”が解除され、綾乃の姿をした麻美は賑やかな人ごみの中に紛れていく。
 それを追おうと一歩踏み出した祥太郎だったが、ふとその表情を変えて振り返った。
 そして背後に現れた人物を瞳に映し、苦笑する。
「今度は本物のようやな、綾乃ちゃん」
「はろぉ、祥太郎くん。悪いけど、あの子の後は追わせないよ?」
 いつの間にか張られた本物の綾乃の強い“結界”をぐるりと見回し、祥太郎は嘆息する。
「偽者も厄介やけど、この状況やったら本物はもっとイヤやなぁ。ていうか、あの偽者は何なんや?」
「それは秘密よぉっ。それとも……力づくで聞き出してみる?」
 くすっと煽るようにそう言って漆黒の瞳を細める綾乃に、祥太郎は笑った。
「やっぱり、綾乃ちゃんはそうやないとな」
「? なぁに、祥太郎くん」
 祥太郎はきょとんとする綾乃を見て、言葉を続ける。
「そうやって好戦的な言葉で相手を煽るのが、いかにも綾乃ちゃんらしいなぁって。あの偽者には、そこが足りんかったんや。それに綾乃ちゃんが待ち合わせ時間より早く来るなんてこと絶対にありえんし、何よりも俺が放った拳に反応できんで驚いとったもんな」
「あはは、本当によく見てるんだねぇっ、祥太郎くん。ていうか、本物の綾乃ちゃんなら、拳放たれた時どうしたと祥太郎くんは思うの?」
 祥太郎の言葉に楽しそうに笑って、綾乃は好奇心に満ちた漆黒の瞳を向けて聞いた。
 祥太郎はその言葉に少しだけ考え、答える。
「そうやなぁ、微動だにせずその場を動かん、とか? 俺が寸前で止めるの分かっとるやろうからな」
「んー、いい線いってるねぇっ。でもその回答じゃ、60点かな」
 そう言った後、綾乃は人差し指をちょいちょいと動かして言葉を続ける。
「さ、祥太郎くんっ。模範解答、模範解答っ」
「へっ? って、模範解答かいっ……本当に面白い子やなぁ、綾乃ちゃんは」
 ハンサムな顔に微笑みを浮かべ、祥太郎は右の拳を軽く握った。
 そしてそれを、先程と同じようにふっと放つ。
 その時。
「……!! のわぁっと!!」
 ビュッと耳元で空気を裂く音が聞こえたかと思った瞬間、祥太郎の顔のあった位置を綾乃の鋭い拳が空を切る。
 反射的にそれを避けた祥太郎は、驚いたように瞳を見開いた。
「ていうか、さすが祥太郎くんっ。よく避けれたねぇっ」
 きゃははっとのんきに笑う綾乃に、祥太郎は苦笑する。
「あぶないなぁっ、今のはひやっとしたでっ」
 そして祥太郎は綾乃の姿を改めて見て、わははと笑い出した。
「ていうか、綾乃ちゃんらしいわぁ。まさか返されるとは思ってなかったでっ」
「あははっ。やられたらやり返す、よ? 祥太郎くんっ」
「いやいやいや、今のは思い切り3倍返しくらいやないか? 右のストレート返した後、すぐ膝蹴り放つ体勢に入っとるんやもんなぁっ。ほんまに綾乃ちゃんはコワイわぁっ」
「だって膝蹴り放ったって、どうせかわされてたでしょ? だからやめてみたんだけど?」
 そう言って悪戯っぽく笑ってから、綾乃はスッと右手を掲げる。
 綾乃の“邪気”が弾けた瞬間“結界”が解除され、賑やかな街並みがふたりの目の前に戻って来た。
 綾乃はにっこり祥太郎に微笑み、手を振って歩き出す。
「んじゃ、そーいうことでまた遊ぼうねぇっ、祥太郎くんっ」
「デートの誘いならいつでも待っとるで、綾乃ちゃん」
 偽者の綾乃の正体が気になっていた祥太郎であったが、これ以上綾乃に聞いても無駄だと思ったため、敢えて彼女を追わずにその後姿を見送る。
「本物の綾乃ちゃんは、俺が偽者を追わんための時間稼ぎに出てきたってワケか。ていうか、あの偽者は何や?」
 もう一度振り返って手を振る綾乃に軽く手を上げながら、祥太郎はそう呟いたのだった。
 そして祥太郎と別れた綾乃は、彼の姿が見えなくなる位置まで歩を進める。
 それからおもむろに携帯電話を取り出し、立ち止まって誰かに電話をかけ始めた。
 数度のコールを待たずして、相手はすぐにその電話に出る。
 にっこりと屈託のない笑顔を浮かべ、綾乃は言った。
「はろー、麻美ちゃん。どうだった? “能力者”の彼に会った? ……って、正体見破られたの? 大丈夫だった?」
 わざとらしくそう聞いた後、綾乃はふっと漆黒の瞳を細める。
 そして確認するように、ゆっくりと口を開いた。
「それで、お仕事は完了したの? ……うん、そっか。正体はバレたけど、お仕事ちゃんとできたならよかったねぇっ。杜木様からの直々のお仕事なんだから、頑張ってねぇっ。じゃあまた何かあったら電話するね、バイバーイ」
 それだけ言うと、綾乃は携帯電話を切って鞄にしまう。
 それから頬を刺すような冬の夜風に身を縮めてから、そして綾乃は賑やかな街並みを再び歩き出したのだった。