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 12月24日・金曜日。
 2学期の終業式だったこの日、眞姫は昼には帰宅し明日のクリスマスパーティーの準備をしていた。
 エプロンをつけて髪を束ねた眞姫は冷蔵庫を開けて中を覗き、小首を傾げる。
「あれ、卵が足りないなぁ」
 眞姫はうーんとそう呟いてもう一度冷蔵庫の中を確認した後、つけたばかりのエプロンを外した。
 明日のクリスマスパーティーで手作りのケーキを持っていこうと考えていた眞姫だったが、肝心の材料が揃っていなかったのだ。
 栗色の髪をまとめていたゴムをスッと取って軽く手櫛で整えてから、眞姫はコートとマフラーを手にする。
「ちょっと買い物に行ってきまーす」
 白のコートを羽織り薄桃色のマフラーを巻いて、眞姫は同居している叔母に声をかけて家を出た。
 外に一歩踏み出した瞬間、冷たい北風が眞姫の栗色の髪を揺らす。
 寒さで白くなった息をほうっと吐き、眞姫は歩き始めた。
 今日はクリスマスイブということもあり、心なしか街はカップルの姿が多い気がする。
 いつも以上に賑やかな街の風景を楽しそうに見つめていた眞姫は、かじかんだ手を擦ってはあっと息を吹きかけた。
「寒いな、手袋もしてくればよかった」
 こんなに寒かったら、今日は雪が降るかもしれない。
 空気の澄んだ冬の空を見上げ、眞姫はそう思った。
 それからふと、額に手のひらを当てる。
 昨日までは“気”も不安定で体調の悪かった眞姫であるが、“邪気封印”の能力が覚醒してからは何事もなかったように元気である。
 やはり自分の体調と“浄化の巫女姫”の能力は、何か関係があるのだろうか。
 眞姫は瞳を伏せ、ふと俯いた。
 考えてみれば、自分はまだ自分自身の力についてよく知らない。
 先日“邪気封印”の力が蘇った時も、鳴海先生は眞姫の身体を労わる言葉をかけただけであった。
『焦らずとも、必要な時に能力は自ずと蘇る』
 自分の能力を知りたいと質問しても、先生は切れ長の瞳を向けてこう言い、多くを語らない。
 その度に眞姫は先生の言葉を信じて頷くしかできないのだが、不安がないといえば嘘になる。
「これから……どうなるのかな」
 そう呟いて栗色の髪をそっとかきあげた眞姫は、気を取り直したようにマフラーを巻き直した。
 不安に思っていても、今の自分にはどうしようもない。
 それに自分の周りには……かけがえのない、仲間がいる。
「大丈夫、私はひとりじゃないから」
 自分に言い聞かせるようにそう言ってから、眞姫はブラウンの瞳を細めた。
 そして吹きつける風に小さく身を縮め、歩みを進める足を速める。
 ……その時だった。
 眞姫の目の前に一台の車が止まった。
 ふと足を止めた眞姫は、ブラウンの大きな瞳を見開く。
「あっ」
 運転席から出てきた人物を見て、眞姫は声を上げずにはいられなかった。
 その人物は眞姫に柔らかな微笑みを向けてから、スマートに助手席のドアを開ける。
「こんにちは、お姫様。少しドライブでもしませんか?」
「貴方は……」
 深い漆黒の瞳に、同じ色の髪。
 見る人を惹きつけるその整った笑顔の印象は相変わらず柔らかで、口調も同じように優しい印象を受ける。
 その人物・杜木慎一郎は、どうしていいか分からない様子の眞姫ににっこりと微笑む。
 そして彼女の手をスッと取って言った。
「何も心配することはないよ。少し君と話をしたいだけだから」
「私と、話を?」
 驚いたような表情をする眞姫に、杜木は続けた。
「君も知りたくはないかい? 自分の能力の可能性について」
「自分の能力の、可能性について……」
 杜木の言葉に、眞姫は顔を上げる。
 眞姫のブラウンの瞳に、美形の杜木の顔が映った。
 急かす事もなく、彼は眞姫の答えをじっと待っている。
 そんな深い色を湛えた杜木の両の目を見つめ、眞姫は意を決したようにこくんと頷いた。
 そして彼の愛車であるブルーのマセラティーの助手席に座った。
 漆黒の瞳を満足そうに細めた後ゆっくりと助手席のドアを閉め、杜木も運転席へと戻る。
「シートベルトは閉めたかな、お姫様」
 柔らかな微笑みを眞姫に向けて、杜木はゆっくりと車を走らせた。
 眞姫は流れだした景色を見つめながら、自分の判断が正しかったか少し不安になる。
 そんな眞姫の気持ちに気がついてか、杜木は優しい声で話をし始めた。
「随分と寒いな。今日は雪が降るかもしれないね」
「ええ、そうですね」
 杜木の言葉に頷き、眞姫はもう一度窓の外の風景に視線を向ける。
 普段よりも一段と賑やかな様相をみせる街をじっと見つめる眞姫の横顔を、杜木は漆黒の瞳に映した。
「そういえば、もう身体の調子はいいのかい? しばらく“気”が不安定だったようだが」
 それから杜木は、ふっと笑顔をみせて言った。
「君には、お礼を言わないといけないな。麻美の能力を“邪気封印”の能力で封じてくれて、感謝しているよ」
「……え?」
 眞姫は杜木のその言葉に振り返り、小首を傾げる。
 きょとんとする眞姫に、杜木は言った。
「特殊な力を持つことが、逆にその人の人生を狂わせることもあるからね。いや……いっそ大きな力など持たない方が、人間は幸せかもしれない。君もそう思ったことはないかい?」
 杜木の問いに少し考えて、眞姫は首を振る。
「私は“浄化の巫女姫”の力を持って、自分が幸せじゃないなんて思っていません。不安はあるけど……でも私の周りには大切な友達や、それに鳴海先生もいてくれるから」
 真っ直ぐに自分を見つめるブラウンの大きな瞳に、杜木は漆黒の目を細めた。
「凛とした強さと、慈愛に満ちた優しさを湛える瞳……君を初めて見た時は、あんなに小さな女の子だったのにな。時が経つのは、本当に早い」
「えっ、初めて見た時って……」
 杜木の言葉に、眞姫は驚いた表情を浮かべた。
 そんな眞姫の反応を見てから、杜木は赤信号のため車のブレーキを踏む。
 そして漆黒の前髪をふっとかきあげ、言った。
「そういえば、将吾は元気かい? 彼とはしばらく会っていないからな」
「将吾って……あ、鳴海先生ですか?」
 話題が急に変わり、眞姫は驚いたように杜木を見る。
 杜木は眞姫の言葉ににっこりと微笑み、頷いた。
 相変わらず柔らかで優しい印象の彼の顔を、眞姫はじっと見つめる。
 何だか少し、その漆黒の瞳の印象が変わった気がしたからだ。
 深くて神秘的な雰囲気は変わらないが、哀愁の色も帯びているような気が眞姫にはしたのだ。
「先生とは親友だったんですよね、それに由梨奈さんとも恋人同士だったって。なのに、どうして」
 杜木の話をしようとしない鳴海先生と、杜木とのことを話している時の寂しそうな由梨奈の様子を思い出し、眞姫は思い切って気になっていたことを口にする。
 杜木は改めて車を発進させ、そして答えた。
「私は今でも将吾のことは親友だと思っているし、由梨奈のことも変わらず愛しているよ。将吾はああいう性格だから、今はもう私のことを親友だとは思えないだろうがな」
「先生はあまり自分の考えていることを表に出さない人だけど、でも親友が“能力者”の敵である“邪者”だなんて、きっと辛いと思います」
 大きく首を振って言った眞姫のその言葉に、杜木は意外そうな表情を浮かべた。
 それから何かを考えるように、漆黒の瞳を伏せる。
「そうだね。それに将吾は、私が“邪者”になった原因は自分にあると思っているようだからね……余計に辛いのかもしれない。あいつは昔から、不器用だからな」
「え?」
 ぽつんとそう呟いた杜木に、眞姫はきょとんとした。
 そんな眞姫を見つめ、杜木は言った。
「そういえばお姫様、智也から聞いているだろう? お姫様の中に眠る大きな力は“正の力”だけじゃないということを」
 眞姫はそんな杜木の言葉に、無言で小さく頷いた。
 満足そうにそんな彼女の様子を見て、杜木は続ける。
「君の中には大きな“正の力”だけでなく、“負の力”も眠っている。ただそれを、自分自身で使うことができないだけだ。“浄化の巫女姫”の力は、万人を癒すためのもの。“正の力”だけでなく君の中に眠る“負の力”も蘇らせ、その可能性をより大きなものにしたいと私は思っているんだよ」
「でも“負の力”を使えるようになるためには、“邪”を身体に取り込まないといけないんですよね」
 恐る恐る、眞姫は杜木を見てそう口にする。
 そんな彼女の言葉にも、杜木は表情を変えることなく頷いた。
「ああ。でも考えてごらん、お姫様。“能力者”はただ“邪”を無駄に消滅させるだけだが、我々はそんな“邪”の力を有効に使っている。いくら大きな“負の力”を持っていても、眠ったままであれば何も役には立たない」
 杜木はそこまで言って、ふと言葉を切る。
 そして、深い闇のような瞳を眞姫に向けて続けた。
「私は“能力者”と“邪者”のふたつの生き方のうち、“邪者”として生きていくことを選択した。私が“邪者”を選んだのは、将吾のせいでも誰のせいでもなく“能力者”として自分がやってきたことに疑問を感じたからだよ」
「“能力者”としてしてきたことに疑問を感じたって……どうしてですか?」
 眞姫は首を傾げ、杜木に尋ねる。
 杜木はあえてそんな彼女の問いには答えず、にっこりと微笑んだ。
「智也も言っていたと思うが、君さえ決断してくれれば我々“邪者”一同、喜んでお姫様をお迎えするよ。とはいえ、最終的にどうするか決めるのは君自身だ。“能力者”ともうしばらく一緒に行動し、彼らのことを見てゆっくり答えを出してくれ。私は君の答えが出るまで、待っているから」
 そう言ってから、杜木はふと漆黒の瞳を窓の外に向ける。
 それからおもむろに車を端に寄せ、止めた。
 シートベルトを外して車を降りた杜木は、助手席のドアをゆっくりと開ける。
 そして、美形の顔に笑顔を浮かべて眞姫に手を差し出した。
「どうぞ、お姫様。どうやらお迎えが来たようだよ……今日は話せてよかった」
「迎え?」
 杜木の手に掴まり、眞姫はブルーのマセラティーから降りて首を傾げる。
 杜木は優しく眞姫のブラウンの髪を撫でた後、大通りの反対側に視線を移した。
 つられて眞姫も、彼の視線を追う。
「あ……」
 眞姫は次の瞬間、ブラウンの瞳を大きく見開いた。
 そんな眞姫の様子を見てから、杜木はふっと笑う。
「ではお姫様、また会える日を楽しみにしているよ」
 そう眞姫に言った後、杜木は再び視線を大通りの反対側へと戻し、そして視線の先にいる人物に軽く手を上げて微笑む。
 それから車に戻り、眞姫に笑顔を向けてから車を発進させた。
 眞姫は去っていくブルーのマセラティーを黙って見送った後、顔を上げる。
 そんな眞姫の瞳に映っているのは……。
「鳴海先生……」
 大通りの反対側に愛車を止めているその人物・鳴海先生は、切れ長の瞳を眞姫に向けている。
 眞姫は近くの信号まで歩き、道の反対側へと渡った。
 そして、彼の愛車であるダークブルーのウインダムへと駆け寄った。
「家まで送ろう。乗りなさい」
 ちらりと眞姫を見て、先生は一言そう言った。
 眞姫はその言葉にこくんと頷き、そして先生が開けてくれたドアから助手席に乗り込んだのだった。




「…………」
 車の中に、長い沈黙が流れる。
 眞姫は何を言っていいか分からず、ただ流れる景色を見つめたままであった。
 隣で運転している先生の表情は、いつもと変わらないもののように見える。
 だが、きっと複雑な心境であるだろうと眞姫は思った。
 それにやはり眞姫は、自分の能力についてもっと知りたかった。
 次第に自分の家が近くなってきていることに気がつき、眞姫は意を決して隣の鳴海先生に瞳を向ける。
「あの、鳴海先生」
「どうした?」
 ふっと先生の切れ長の瞳が、自分の姿を映す。
 その視線にドキッとしながらも、眞姫は言った。
「私、自分の力のことをもっと知りたいんです。教えてください、先生」
「…………」
 先生はその言葉に、少し考える仕草をする。
 そして腕時計に目をやり、ひとつ溜め息をついた。
「清家、時間は大丈夫か?」
「え? あ、はい。大丈夫です」
 自分の腕時計で現在時刻を確認し、眞姫は頷く。
 その言葉を聞いてから、先生は眞姫の家の方角とは別の方角に車の進路を変えた。
 再び車内に、沈黙が訪れる。
 眞姫は、先程杜木が自分に話したことを思い出していた。
『将吾はああいう性格だから、今はもう私のことを親友だとは思えないだろう』
『将吾は、私が“邪者”になった原因は自分にあると思っているから』
『私が“邪者”を選んだのは、将吾のせいでも誰のせいでもなく“能力者”として自分がやってきたことに疑問を感じたからだよ』
 過去に何があったかは結局聞けなかったが、眞姫はそんな杜木の言葉に首を振る。
 確かに、今まで杜木のことを“邪者を統括する男”としか言っていない先生だったが、それはまるで先生自身が自分に言い聞かせているように眞姫には思えてならなかったのだ。
 表情には決して出さないが、親友が敵だなんてきっと先生も辛いはずだと。
 眞姫は何だかいたたまれなくなり、ぎゅっと瞳を伏せる。
 先生はそんな眞姫を、無言で見つめていた。
 そしてしばらく走った後、車はある店の駐車場に入る。
「あっ、ここは……」
 眞姫は見覚えのあるその店を目の前に、驚いた表情を浮かべた。
「到着だ。ここなら落ち着いて話ができるからな」
 車を止めて運転席を降りた後、先生は助手席のドアを開ける。
 そんな先生に慌ててお辞儀をしてから、眞姫は言った。
「ここ、『ひなげし』ですよね? 以前、おじさまに連れて来てもらったことあります」
「ああ。入るぞ」
 父の話題が出て少し複雑な表情をしてから、先生はその店『ひなげし』のドアを開ける。
 鳴海先生に促されて店内に入った途端、眞姫の鼻を珈琲のいい香りがくすぐった。
 薄暗い店内にはたくさんのコーヒーカップが飾ってあり、優しいクラシック音楽が流れている。
 優雅でそして不思議と落ち着く店の雰囲気は、以前先生の父である傘の紳士と来た時と変わっていなかった。
「お久しぶりですね、こんにちは。席はテーブルでもカウンターでもどちらでも結構ですよ」
「では、今日はカウンターで」
 にっこりと微笑むマスターを見てそう言い、先生はカウンターの一番奥へと歩を進める。
 そんな先生に遅れまいと、眞姫も早足で続いた。
 店内はクリスマスイヴということもあり少し混んでいたが、カウンター席の奥には誰もおらず、話をするのに最適だった。
 先生の隣の椅子に座り、眞姫は白いコートと薄桃色のマフラーを外す。
 そして背後にあるコート掛けにそれを掛けた。
「こちらのお嬢さんは以前、お父様の方と一度いらっしゃったことがありますよね?」
 眞姫の顔を見て、マスターはそう言った。
「え? はい、でも少し前だったんですけど。よく覚えていますね」
「こんな可愛らしいお嬢さんは、一度見たら忘れませんよ」
 紳士と同じく先生専用のカップを用意しながら、マスターは愛想良く笑う。
 眞姫はその言葉に照れたように俯いた。
「お嬢さん、今日はどのカップで淹れましょうか?」
 この店は自分で選んだ好きなカップで珈琲を淹れてくれる店だったことを思い出し、眞姫は慌てて周囲を見回した。
 そして、白を貴重とした銀の模様入りの上品なデザインのカップを選ぶ。
 マスターは慣れた手つきで珈琲を淹れ、先生と眞姫に出す。
 漆黒の色をした珈琲の香りが、ふんわりと周囲を包む。
「では、ごゆっくり」
 そう言ってマスターは、気を使うようにさり気なくふたりの前から離れた。
 眞姫は珈琲にスプーン1杯砂糖を入れ、ゆっくりとかき混ぜる。
 そして、ブラックで一口珈琲を飲んだ鳴海先生に視線を向けた。
「先生もマイカップあるんですね。おじさまもそうでしたけど」
「この店には、昔からよく珈琲を飲みに来ていたからな」
 そう言ってカチャッとカップを置き、先生は眞姫を見て続けた。
「私の答えられる範囲のことならば、質問に答えよう」
「先生……」
 眞姫は先生の言葉に、少し考える仕草をして俯く。
 それから顔を上げ、言った。
「私の力について知りたいです。少し前に体調悪かったことも、“浄化の巫女姫”の能力覚醒と何か関係があるんですか?」
「体調が悪かったのは、おまえの“気”が成長途中で不安定な状態だったからだ。“浄化の巫女姫”の能力覚醒には段階があり、少し前のおまえはちょうど覚醒の第一段階から第二段階への変わり目だったため“気”が不安定だったのだ」
「段階?」
 初めて聞くその話に、眞姫は首を傾げる。
 先生はちらりと眞姫に切れ長の瞳を向けてから、続けた。
「“浄化の巫女姫”の特殊能力は、全部で5つだと言われている。今の段階でおまえが使用できる“浄化の巫女姫”の特殊能力はそのうちの3つだ。人間に憑依した“邪”を身体から引き離す“憑邪浄化”、“負の力”を抑えることができる“邪気抑制”、そして先日覚醒した“負の力”を完全に封じることのできる“邪気封印”だ。そして5つの特殊能力のうち、最初の2つが蘇るまでを第一段階、次の2つが蘇るまでが第二段階、それから完全覚醒までを最終段階という。そして次の段階への移行時期、“浄化の巫女姫”の“気”は不安定になる」
「5つある特殊能力のうち、今覚醒しているのは3つ……」
 先生の話を整理するように、眞姫はそう呟く。
 それからさらに眞姫は、先生に聞いた。
「これから蘇るふたつの能力は、どんな能力なんですか?」
「それは……おまえがこれから、自分で確かめるべきことだ。その能力が必要になれば、自ずと蘇るものだからな」
 そう言って、先生は珈琲を口に運ぶ。
 眞姫もようやくひとくち珈琲を飲んだ。
 濃いのにくせのないその深い味わいが口の中に広がり、何だかほっとする。
 それから眞姫は、少し遠慮気味に口を開く。
「今日、あの杜木っていう人と話をしたんですけど……」
 その言葉を聞いて、先生はふと表情を複雑なものに変えた。
 眞姫はそんな先生の様子を伺いながらも続ける。
「あの人、先生のことを今でも親友だと思っているって言っていました。それに、自分が“邪者”になったのを先生は自分のせいだと思っているけど、そうじゃないって。親友同士が敵同士だなんて、そんなの辛すぎます……」
「…………」
 先生はカップを手にしたまま、何かを考えるように俯いた。
 伏目がちな先生のまつ毛は思った以上に長く、切れ長の綺麗な瞳にかかっている。
 眞姫は、じっとそんな先生の横顔を見つめた。
 そして先生はひとつ溜め息をついた後、ふっと顔を上げていつもと変わらない口調で言った。
「私は“能力者”であり、杜木は“邪者”だ。過去のふたりの関係がどうであれ、過去に何があったとしても、私はこの目の前の事実を受け止めて自分の使命を全うするだけだ」
「先生……」
 眞姫に向けられたその瞳の色は、決意に揺るぎがないことを表している。
 だがそれと同時に、今まで見たことがないような寂しさも、先生のその瞳から垣間見ることができる気が眞姫にはしていた。
 眞姫はそれ以上何も言えず黙って俯き、琥珀色をした珈琲を見つめる。
 そして何故か胸がしめつけられるような感覚がこみ上げてきて、視界がぼやけた。
「先生のおっしゃっていることは、“能力者”として当然なのかもしれません。でも私、親友と敵同士だなんてそんなの悲しいと思います。事情は分かりませんが、一度心を許しあった仲なら、きっとちゃんと向き合えばまた分かり合えることだってできると思うんです……」
「清家……」
 先生は、眞姫の姿を驚いたように見つめる。
 眞姫の大きな瞳からは、いつの間にかぽろぽろと涙が溢れていた。
 眞姫はハッとわれに返ったように、慌ててぐいっと涙を拭う。
 そしてぺこりと先生に頭を下げた。
「あっ、すみませんっ。私、何も事情も知らないのに勝手なことばっかり言って」
「謝ることなどない。本当におまえは……」
 そこまで言って、先生はふと言葉を切る。
「本当に、何ですか?」
「……いや、何でもない。もう泣き止んだか?」
 先生は珈琲を飲んでから、そしてスッと手を伸ばして眞姫の瞳の涙を指で拭った。
 その予想外の細い指の感触に、眞姫はドキッとする。
 眞姫はカアッと顔を赤らめ、そしてそれを誤魔化すようにコーヒーを口に運び、話題を変えた。
「あ、あの……それで“邪者”は、一体何をしようとしているんですか?」
「それはおまえが直接、杜木から聞いたのではないか?」
「え?」
 逆に聞き返され、眞姫は瞳を見開く。
 そして、先程の杜木との会話を思い出した。
「あ、私の“負の力”を蘇らせたいって……でも私の“負の力”が蘇ったら、何が起こるんですか?」
「“浄化の巫女姫”は“邪”に対抗できる大きな“正の力”を秘めている。“負の力”はそんな“正の力”と相対するもの。“能力者”は“邪”に対抗するため“正の力”を使う。“邪者”は逆に“能力者”に対抗すべく“負の力”を使う。強大な“正の力”を持つおまえの覚醒した能力を考えても、“邪”に対して有効なものばかりだ。ここまで言えば、それと相対する大きな“負の力”の意味が分かるはずだ」
 先生のその言葉に、眞姫は顔を上げる。
「“正の力”が“邪”の力を抑えるものなら、その逆……“負の力”は、“能力者”に対して有効な大きな力ですか?」
 先生は頷き、そして言った。
「“能力者”と“邪者”、どちらのやっていることが正しいのか、ましてどちらが正義でどちらが悪かなど、そんなものはないのだ。正義という言葉は人間の都合のいい時に使われるものだからな。おまえは、おまえの信じた道を進めばいい。私も杜木も、お互いの信じた道を選んだだけだ」
 そこまで言って、先生はふと言葉を切る。
 そして眞姫から視線を外し、続けた。
「だが私は、先代の“浄化の巫女姫”であった母のことを幼い頃から近くで見てきた……だからおまえのことも、一個人としても心配している……」
「……先生?」
 眞姫は先生の言葉に、不思議そうに首を捻る。
 そんな眞姫の様子に再び溜め息をつき、そして先生は残っていた珈琲を飲んだ。
 そして腕時計にちらりと目をやり、コートを手にして言った。
「そろそろ出るぞ、清家」
「えっ? あっ、はい」
 眞姫は慌てて残りの珈琲を飲み干し、掛けていたコートとマフラーを手に取る。
 そんな眞姫を後目に先生は伝票を持ってスタスタとレジに向かい、会計を済ませる。
 ようやく身支度の整った眞姫は、入り口で待つ先生のもとへ急いで向かった。
「ごちそうさまでした、とってもおいしかったです」
「また是非いらしてくださいね」
 にっこりと微笑むマスターにぺこりと頭を下げ、眞姫は先に外に出た先生に続く。
 外に出て冷たい北風を頬に感じた後、眞姫は先生に視線を向けた。
「先生、珈琲代は……」
「結構だ。生徒にお金を出させるわけにはいかない。ここは私が払うのが当然だ、気にするな」
 眞姫の言葉を遮り、ちらりと彼女に瞳を向けて先生はそう言った。
 眞姫はそんな鳴海先生に深々と頭を下げた後、ふと薄暗くなってきた空を見上げた。
 ブラウンの大きな瞳を宙に向け、眞姫は風に揺れる栗色の髪をかきあげる。
 そしてふと手のひらを翳し、瞳を輝かせた。
「あ……鳴海先生、見てください! 雪です……」
 眞姫が空を見上げたその時、空からひらひらと雪が降ってきたのだ。
「ホワイトクリスマスイヴですね、先生」
 子供のように嬉しそうにはしゃぐ眞姫を、先生は見つめる。
 さっきまで悲しそうな顔をして涙を流していた眞姫のその顔には、今はパッと明るい無邪気な笑顔が浮かんでいた。
「本当におまえは、心配ばかりさせて……だから、放っておけないんだ」
「どうしたんですか、先生?」
 小声で呟いた先生の言葉が聞こえず、眞姫はにっこりと微笑む。
 先生は黙ったまま、雪の降り出した空を見上げた。
 静かに降ってきた真っ白な雪だけが、彼の切れ長の瞳に映る。
「静かで真っ白で……雪を見ていると、心まで白く洗われるような気がします」
 同じようにもう一度天を見上げ、眞姫はぽつんとそう呟く。
 先生は切れ長の瞳を眞姫に向けてから、そして歩き出した。
「家まで送ろう、車に乗りなさい」
「あっ、はいっ」
 スタスタと歩く先生に駆け足で追いつき、眞姫ははらはらと雪の舞う中、彼の隣に並ぶ。
 そして、言った。
「先生、ありがとうございます」
「おまえに礼を言われることをした覚えはないが」
「いいえ。いろいろたくさん、本当にありがとうございます」
 そう言って笑顔をみせる眞姫にひとつ息をついてから先生は車の鍵を開け、助手席のドアを開く。
 慌ててぺこりとお辞儀をして、眞姫はダークブルーのウィンダムに乗り込んだ。
 それから、思い出したように呟いた。
「あっ……そういえば、帰りに買い物しなきゃ。明日も、ホワイトクリスマスだといいな」
 眞姫はもう一度、窓の外に降る雪を見つめる。
 静かに振り続ける真っ白なその雪は、眞姫の心にあたたかい温もりを与えたのだった。