その頃、学校を出た眞姫たちは繁華街の方向に進路を取っていた。
 学校を出たときはまだ青空が広がっていたが、いつの間にか日も沈み、あたりも薄暗くなっている。
「眞姫、体調悪そうだけど大丈夫?」
 地下鉄の駅へと向かいながら、梨華は隣の眞姫に視線を向ける。
 だが……今眞姫の隣にいる彼女は、麻美が特殊能力で変化した梨華である。
 そのことに気がつかず、眞姫は彼女に微笑んだ。
「うん、大丈夫。少し身体だるいけど、帰って休めば良くなるよ」
「でも顔色悪いよ、熱あるんじゃない?」
 梨華の姿をした麻美は、そう言ってスッと眞姫の額に手を添えた。
 その手は、ひんやりと冷たい。
 その時。
「! きゃっ!」
「えっ!?」
 麻美と眞姫は同時に声を上げ、反射的に離れる。
 正確に言うと、眞姫の額に添えられた麻美の手が弾かれたのだった。
 そして。
「えっ!? 梨華じゃない……!?」
 目の前にいる少女の姿を見て、眞姫は大きな瞳を見開く。
 眞姫の瞳に映っていたのは梨華ではなく、ショートカットの漆黒の髪に少しきつめの瞳の少女。
 麻美が掌で眞姫の額を触ったその瞬間、眞姫の“気”と反発しあって弾け、彼女の変化の能力が破られたのだった。
 驚いた顔をする眞姫とは逆に、麻美は動揺せず笑う。
「随分と“気”が不安定で体調悪いみたいね。大丈夫? “浄化の巫女姫”様」
「貴女は一体……私に、何の用なの!?」
 その眞姫の問いにはあえて答えず、麻美は言った。
「私の変化の能力を破られた時は、さすがに驚いたわ。では、今日はこの辺で失礼するわね、“浄化の巫女姫”様」
 ふっと不敵に笑みを浮かべ、そして麻美は歩き出そうと一歩足を踏み出す。
 その時だった。
「!」
「……!?」
 麻美と眞姫は、同時にハッと顔を上げる。
 次の瞬間、あたりの風景が一瞬にして閑散としたものに変化した。
 周囲に強い“結界”が張られたのだ。
 そして、途端に麻美の表情が険しいものになる。
「! 貴方っ」
「あ……!」
 逆に眞姫は、ほっとしたような表情を浮かべた。
 この強い“結界”を作り出した“気”は、眞姫のよく知っている人物のものであったからである。
「拓巳っ!」
「姫っ、大丈夫だったか!?」
 ふたりに追いついて“結界”を張った拓巳は、眞姫が無事なのを確認した後、麻美にキッと視線を投げる。
 そして、言った。
「ふざけた真似しやがってっ、覚悟はできてるんだろうな!?」
 麻美は思いがけない拓巳の出現に驚いた表情を浮かべたが、すぐに気を取り直して漆黒の瞳を細める。
「お姫様を守る“能力者”のお出ましね。でも貴方に、私が攻撃できるかしら?」
 くすっと笑みを浮かべた後、麻美はふっと“邪気”をその手に漲らせる。
 そして集結した漆黒の光の衝撃波を、ブンッと拓巳目掛けて放ったのだった。
 拓巳はその衝撃波を見据え、そして“気”を宿した掌をグッと握り締める。
「おまえが戦闘が苦手なのは分かってるんだよっ、この程度の攻撃が俺に効くとでも思ってるのかっ!?」
 目の前まで迫ってきた衝撃波を、拓巳はガッとその拳で殴りつけた。
 漆黒の光は拓巳の強い“気”に簡単に弾き飛ばされ、“結界”の壁にぶつかって消滅する。
 周囲に、その衝撃の余波が立ち込めた。
 そしてそれが晴れて視界がはっきりしはじめた……その時だった。
「なっ、何っ!?」
 拓巳は表情を変え、大きな瞳をより一層見開く。
 そしてキッと視線を投げ、目の前の状況に舌打ちしたのだった。




 その、同じ頃。
 場所は地下鉄の入り口に近い、繁華街の喫茶店。
 残っていたコーヒーをすべて飲み干し、その人物・杜木は目の前の少女・つばさを見た。
「そろそろ行こうか、つばさ」
「杜木様?」
 杜木のその言葉に、つばさは少し驚いた顔をする。
 そんなつばさを見て、杜木は優しく微笑む。
「おまえも感じているだろう? “能力者”の張った“結界”の中に、“浄化の巫女姫”と麻美の気配があることを」
「ええ。でも杜木様、麻美への援護は必要ないとおっしゃっていたじゃありませんか」
 そう言いながらも慌ててコートを羽織るつばさに、杜木は少し長めの漆黒の前髪をかきあげる。
 そして相変わらず優しい声で、つばさに言った。
「今から“結界”の張られているところへは行くが、麻美を援護しに行くわけじゃないよ、つばさ」
「え?」
 きょとんとするつばさの頭を優しく撫で、そして杜木は続ける。
「この目でそろそろ確かめたくてね。“浄化の巫女姫”の、能力の覚醒をね」
「“浄化の巫女姫”の、能力の覚醒……」
 杜木の言葉に表情を変え、つばさはそう呟いた。
 そんなつばさの様子に、杜木は微笑む。
「大丈夫だよ、つばさ。きっと麻美にとっても、いい方向に導かれるだろうから。あの子は自分の実力以上に、プライドが高すぎるからね……」
「杜木様?」
 杜木の言葉の意図することが分からず、つばさは不思議そうな顔をした。
 杜木は無言でつばさの頭にぽんっと手を添え、伝票を手にとってから会計を済ませる。
 彼に続き、つばさは喫茶店を出た。
 そして暖かい店内から外に出た途端吹きつける冷たい北風に身を縮める。
 杜木はさり気なく彼女の隣に並び、つばさの腰をそっと抱く。
 そんな杜木の振る舞いに、つばさは嬉しそうに笑顔を浮かべた。
 それから杜木は、思い出したように言った。
「おっと、麻美のところに向かう前に……彼に、電話を入れておかなければいけなかったな」
 つばさを伴って歩き出そうとした彼は、そう呟いてふと携帯電話を取り出す。
 そして、おもむろに誰かに電話をかけ始めた。
「もしもし、私だよ。この間から言っていた件なんだが……ああ、どうやら必要になりそうだ、では頼んだよ」
 それだけ短く言って、杜木は電話を切る。
 それからつばさに優しく微笑み、夕方の賑やかな繁華街を歩き出した。
 つばさはすぐ隣にいる杜木の深い漆黒の瞳を愛しそうに見つめた後、近くに感じる“結界”に視線を向ける。
 そして何かを考えるように、ふっと漆黒の瞳を細めたのだった。




 拓巳の張った“結界”に先程まで立ち込めていた余波は、もうすっかり晴れている。
 クッと唇をかみ締め、拓巳はグッと拳を握り締めた。
「ていうか、マジでふざけんなよっ!? どこまでやることムカつくんだ、ったくっ!」
 拓巳は顔を顰め、怒りに拳を振るわせる。
 そんな彼の目の前には……。
「拓巳っ!」
「拓巳……!」
 まったく同じふたつの声が、同時に彼の名を呼んだ。
 そして拓巳の漆黒の瞳に映っているのは……ふたりの眞姫の姿だったのだ。
「くそっ、姿かたちだけじゃなく、声や“気”の雰囲気もそっくりかよっ」
 拓巳はふたりの眞姫を交互に見て、ちっと舌打ちをする。
 どちらかが確実に偽者であるが、それと同時にどちらか一方は本物の眞姫である。
 それを考えると下手に手を出せず、拓巳はどうすべきか考えあぐねていた。
 いや、姿かたちだけではない。
 短時間接しただけで、眞姫のちょっとした仕草まで麻美は完璧にコピーしていたのだった。
「姫に化けるなんて、絶対許せねぇっ! てめえは絶対ぶっ飛ばすっ」
 そう怒りをあらわにしつつも、拓巳はふたりの眞姫のどちらが偽者か慎重に探る。
 だが、見れば見るほどふたりは見分けがつかないほどそっくりだった。
 ……その時。
 今までふたりの眞姫を交互に見ていた拓巳だったが、ふとおもむろに漆黒の瞳を閉じる。
「拓巳!?」
「拓巳っ」
 ふたりの眞姫は、そんな彼の様子を大きなブラウンの瞳でじっと見つめている。
 瞳を閉じた拓巳は、数日前に眞姫に言われた、この言葉を思い出していた。
『私たち、今までたくさんいろいろなこと話してきたでしょう? いくら姿や声や“気”の雰囲気が似ていても、偽者か本物かきっと分かると思うの』
「そうだよ、俺は今までずっと姫のことを見てきた……そんな俺の目が、そう簡単に誤魔化されるとでも思ってるのかよっ!」
 その言葉と同時に、拓巳は漆黒の瞳を開く。
 そして瞬時に漲らせた“気”の光を、片方の眞姫目がけて放ったのだった。
「……!」
 突然の衝撃に、光を放たれた眞姫は大きく瞳を見開く。
 そして次の瞬間、拓巳の放った衝撃をまともに受け、その身体を壁にぶつけた。
 拓巳はそんな彼女に近づき、キッと鋭い視線を投げる。
「さっさと早くその化けの皮を剥ぎやがれっ。じゃないと、今度は手加減しねぇぞ」
「……っ、どうしてっ」
 激痛に顔を顰め、衝撃を受けた眞姫はブラウンの瞳を彼に向ける。
 そんな様子にちっと舌打ちして、拓巳は言った。
「ていうか、早く変化を解けって言ってるんだ。姫の真似事なんて、一千万年早ぇえんだよっ」
 拓巳は右手をふっと掲げ、瞬時に“気”を漲らせる。
 その時。
「待って、拓巳っ!」
「姫っ!?」
 まだ立ち上がれない眞姫の前に、もうひとりの眞姫が立ち塞がった。
 拓巳はそんな彼女の様子を見て、ぴたりと振り上げていた手を止める。
 そしてそんな彼に、目の前の眞姫は言った。
「彼女は確かに“邪者”で、いろんな人の姿をコピーしたかもしれなけど……もうそのくらいにしてあげて、お願い」
 その言葉に、もうひとりの眞姫は驚いた表情を浮かべる。
「! どうして!?」
「“邪者”でも“能力者”でも、人が傷つくのは悲しいから」
「…………」
 返ってきた答えにふと俯いて、衝撃を受けた方の眞姫はクッと唇をかみ締める。
 それから“邪気”を開放し、本来の麻美の姿へ戻ったのだった。
 変化を解いた麻美の姿を確認してから、拓巳は眞姫に視線を向ける。
「姫、でも俺はこいつのせいで散々な目に合ったんだぜ!? それに、“邪者”は“能力者”の敵だ。俺は“能力者”として、こいつをこのまま放っておくわけにはいかない」
「拓巳……」
 眞姫は拓巳の言葉に、複雑な表情を浮かべた。
 その時。
「……殺しなさいよ」
「えっ?」
 ぽつんと背後でそう呟いた麻美に、眞姫は驚いたように振り返る。
 麻美はぎりっと歯をくいしばり、そして言葉を続けた。
「私は、杜木様から与えられた仕事をこなせなかった……身体に“邪”を封印した以上、これからもずっと私は“邪者”としてしか生きられないのっ。なのに、敵に情けをかけられたなんて……そんな恥をさらすくらいなら、殺された方がマシよっ!」
「そんな……」
 自分を見ている眞姫から視線を外し、麻美は首を振る。
「貴女の力をもってすれば、“憑邪”の身体から“邪”だけを引き離すことはできる。でも“邪者”が身体に封印した“邪”は、引き離すことはできないでしょう? だから私は“邪者”として生きていくしかないの。でも今回の失敗で、私はその生き方ももうできないのよっ! 恥をかいて生きるくらいなら、殺された方がいいわ」
「言われなくても、俺は“邪者”に情けをかける気はねぇよ」
 そう言って、拓巳は一歩麻美に近づいた。
 そんな彼を見つめ、眞姫は大きく首を振る。
「拓巳、待って。お願い」
 拓巳は眞姫の言葉に、複雑な表情を浮かべて足を止めた。
「姫……」
 眞姫は動きを止めた拓巳に小さく微笑んだ後、俯く麻美に向き合った。
「確かに、私の“憑邪浄化”の能力でも貴女の身体に一度取り込まれた“邪”を引き離すことはできないわ。でも、“邪”を身体から引き離せなくても……貴女のこと、助けられる気がするの」
 そう言って眞姫は、ふっとおもむろに瞳を閉じる。
 ……次の瞬間。
「えっ!?」
「!? 姫っ」
 麻美と拓巳のふたりは、同時に声を上げた。
 眞姫の身体に、今まで感じたことのないような大きな“気”の力が宿ったのだ。
 そしてその神々しい“気”の光は、あっという間に“結界”内を満たす。
 眞姫はふと拓巳に視線を向け、にっこりと微笑んだ。
「拓巳、私の力は人を平等に癒す力だと思うの。それが普通の人でも“能力者”でも、“邪者”でもね」
「姫……」
 その眞姫の言葉に、拓巳は何も言えなかった。
 眞姫の大きな瞳は月のように柔らかく優しい色を湛えていたが、同時に凛とした神々しい輝きを放っている。
 それから視線を麻美に移し、眞姫は言った。
「貴女の身体から“邪”を引き離すことはできなくても、身体に取り込んでいる“邪”の力を無効にすることはできる気がするの。だから、私を信じて」
「えっ? ……!!」
 スッと自分の両手を握り締める眞姫に、麻美は驚いた表情を浮かべる。
 彼女の手から、自分の身体を包み込むようなあたたかい“気”の力を感じたのだ。
 その強大な“気”は不思議と心地よく、気持ちが安らぐものであった。
 そして神々しい大きな“気”が、麻美を包み込んだ……その瞬間。
「!!」
 大きな眩い光が一瞬にして弾け、その光に拓巳は思わず目を覆う。
 それと同時にふたつの身体の力がふっと抜け、ぐらりと揺れた。
「姫っ!」
 拓巳はハッと顔を上げ、重力に逆らわず地に崩れようとする眞姫の身体を咄嗟に支える。
「あ……拓巳、ありがとう……」
 辛そうに肩で息をしながらも、眞姫は拓巳を見つめる。
 自分の腕に身体を預ける眞姫に微笑み、そして拓巳は地に崩れた麻美に視線を向けた。
 だが何が起こったのか、拓巳はまだよく把握できずにいた。
 眞姫はそんな拓巳に、ゆっくりと言った。
「以前、双子の森下さんの抑えられなくなった“負の力”を、私の力で抑制することができたでしょう? だからそれを応用して、彼女の中の“邪”の力を使えないように、完全に抑えて封じてしまうことができないかなって……人為的に取り込まれた“邪”を身体から引き離すことはできなくても、“邪”を完璧に封じさえすれば、“負の力”である“邪気”は使えなくなるかと思ったの。“邪気”を使えなければ、彼女はもう“邪者”というしがらみに縛られることも、なくなるんじゃないかって……」
「“邪者”の中の“邪”の力を、完全に封じ込めることができたって言うのか?」
 信じられない様子で、拓巳は再び気を失っている麻美に目を向ける。
 確かに眞姫の言う通り、今はもう麻美の身体から“邪気”は微塵も感じない。
 それを確認してから、拓巳はゆっくりと眞姫の上体を起こした。
 そして自分の胸に彼女を引き寄せ、優しく頭を撫でて言った。
「本当に姫はすげぇよ。よく頑張ったな、姫」
「拓巳……」
 眞姫は拓巳の体温を感じながら、彼の言葉に嬉しそうな笑顔を浮かべる。
 ……その時。
「!!」
 今まで眞姫に向けていた優しい表情から一変し、ハッと顔を上げた拓巳の表情が厳しいものに変わった。
「あ……!」
 そんな彼の視線を追った眞姫も、短く声をあげる。
 大きな瞳に映る、その先にいたのは……。
「見事な“邪気封印”だったね。“浄化の巫女姫”の力の大きさ、改めて驚かされたよ」
 いつの間にか“結界”内に姿を見せたその人物・杜木は、深い漆黒の瞳を眞姫に向けて端正な顔に柔らかな微笑みを浮かべる。
 拓巳は眞姫の身体を支えながらも、そんな杜木を睨みつけた。
「おまえっ! 何しに来た!?」
「相変わらず威勢がいいな、君は。でも忘れていないだろう? 以前私の力の前に、まったく歯が立たなかったことをね」
 ちらりと拓巳に視線を移し、杜木は瞳を細める。
「何だとっ!?」
 杜木のその言葉にムッとした表情を浮かべて鋭い視線を向け、拓巳は空いている左手に“気”を漲らせる。
「……拓巳っ」
 そんな彼を、眞姫は制止した。
 拓巳は眞姫の声に反応を示し、クッと唇を結ぶ。
 杜木はそんな様子を見てから、ふっと笑った。
「だが、君は運がいい。今日は麻美を返してもらいさえすれば、それだけで私から退くとしよう」
「運がいいだと!? ふざけるなっ!」
「拓巳……」
 眞姫は拓巳の腕に手を添え、彼を宥める。
 そして、身体をゆっくりと起こして杜木に言った。
「彼女はもう、“邪気”は使えません。だから“邪者”ではもうないんです」
「分かっているよ、お姫様。彼女の“邪気”を封じ込めてくれて、感謝しているよ」
「えっ?」
 杜木の意外な言葉に、眞姫は驚いた表情をする。
 そんな眞姫に優しく微笑んだ後、杜木はスッと右手を掲げた。
「!」
 それと同時に拓巳の張った強い“結界”が、音を立てて崩れる。
 杜木は倒れている麻美の頭を優しく撫でた後、彼女の身体を抱きかかえて歩き出した。
 その後姿を見送り、拓巳は険しい表情を浮かべる。
 彼の姿が見えなくなり、体力の戻った眞姫はようやく立ち上がった。
 それから拓巳ににっこりと微笑み、口を開く。
「拓巳、そう言えばどうして私の偽者と本物の違いが分かったの?」
 眞姫のその問いに、拓巳はふっと笑う。
「どうしてかって? 俺はいつも姫のことを見てるんだぜ? ていうか、本物の方が偽者の何倍も可愛いからなっ、すぐ分かったぜ」
「拓巳ったら、すぐそんな風に言ってからかうんだから」
 くすくす笑う眞姫に、拓巳は漆黒の前髪を無造作にかきあげた。
 そして、言葉を続ける。
「からかってなんかないぜ? 姫の姿に化けるなんて、一千万年早ぇえんだよ。それに……本物と偽者じゃ、目の輝きが全然違ったんだ。何ていうか、本物の姫は偽者よりももっと目が綺麗でキラキラしてて、澄んでるんだよ」
「何かそんなこと言われたら照れちゃうよ、拓巳」
 そう言う眞姫の頭をぽんっと軽く叩き、拓巳は笑った。
「ていうか、もう身体は大丈夫か?」
「うん、大丈夫みたい。もうひとりで歩けるくらいになったかな」
 眞姫はそして、改めて拓巳に向き直る。
「ありがとう、拓巳」
 にっこりと自分に真っ直ぐに向けられた眞姫の微笑みに、拓巳は思わずドキッとした。
 それから嬉しそうに笑顔を返し、言った。
「何てことねぇよ、姫こそ頑張ったからな。それじゃあ、帰るか」
「うん、帰ろう」
 そう言ってふたりは、すっかり暗くなり街の明かりで賑やかになってきた繁華街に向けて、歩き出したのだった。




 その頃。
「杜木様!」
 彼が拓巳の“結界”に干渉している間待機を命じられていたつばさは、杜木が戻ってきたのを見て声を上げる。
 そして座っていたベンチから立ち上がった。
 麻美をつばさの座っていたベンチに寝かせて、杜木はふと背後に視線を移す。
 つばさもつられて、彼の視線の先を追った。
 そして、ある人物の姿を見つけて表情を変える。
「こんばんは、杜木様。つばさちゃんもこんばんは」
「……涼介?」
 その場に現れたのは、“邪者四天王”のひとりである涼介だった。
 意外な人物の出現に、つばさは杜木に目を向けた。
 杜木は漆黒の瞳を細め、涼介に言った。
「涼介、例のものを持ってきてくれたかい?」
 杜木の言葉に、涼介はふっと笑う。
 そして持っていたカバンから、あるものを取り出した。
「ええ、もちろん。言われた通りのものを持ってきましたよ」
「……薬?」
 涼介の手の中にあるそれは、カプセル状の薬。
 その薬が何の薬なのか首を傾げるつばさに、涼介は言った。
「つばさちゃん、これは記憶を操作する薬だよ」
「記憶を? どういうことですか、杜木様?」
 驚いた表情を浮かべ、つばさは涼介でなく杜木に聞いた。
「麻美は“浄化の巫女姫”の“邪気封印”の能力で“邪”を完全に封じられ、“邪気”が使えなくなった。つまり、“邪者”ではなくなったのだ」
「えっ、“邪者”ではなくなった?」
 ベンチで気を失っている麻美に視線を移し、つばさは杜木のその言葉を聞いてはじめて彼女から“邪気”を全く感じないことに気がつく。
 そんな彼女に微笑み、涼介は麻美に近づいた。
「そう。だからこの薬で、“邪者”に関する記憶を消すんだよ。あ、特にこの薬は副作用とかないから安心して」
 それから小さなカプセル状の薬を麻美の口に入れる。
 涼介は甘いマスクに笑みを浮かべて、無言で麻美を見つめている杜木に意味あり気に言った。
「それにしても、杜木様はお優しい人だ。わざわざ薬を飲ませて記憶を消すよりも、手っ取り早く口を封じる方法もあるというのに」
「…………」
 ふっと深い漆黒の瞳を、杜木は涼介に向ける。
 そんな彼の視線に大袈裟に肩をすくめた後、涼介は続けた。
「僕も杜木様の優しさを見習わないといけませんね。今回のこの子はプライドも野心も高いが、それに力が追いついていない。このまま“邪者”として生きても、彼女は不幸になるだろうと考えられたのですよね? それならいっそ彼女の“邪”を封印してもらって、普通の少女として生きる道に導いてあげたいと」
 それから涼介は、不適な笑みを浮かべてさらに言った。
「それに何といっても、杜木様の優しさは今回に限ったことではない……1年半前に綾乃の憧れの人を僕が始末した時、貴方は綾乃にはあえて真実を伝えなかった。本当にお優しいなぁ」
 涼介の言葉に、再びつばさは首を傾げる。
 1年半前のことと言えば、綾乃を煽るために涼介が面白がって、彼女の慕っていた人物を殺したとつばさは聞いていた。
 その事件がきっかけで、綾乃は涼介に対して殺意さえ抱くようになったのだ。
「1年半前の真実って、どういうことですか?」
「ま、僕は綾乃が真実を知らない方が都合がいいんですけど」
 つばさの問いを遮るかのようにそう言って、涼介は長めの漆黒の前髪をかきあげる。
 今まで黙っていた杜木は漆黒の瞳を細め、相変わらず物腰柔らかな声で言った。
「綾乃はああ見えて繊細な子だ。真実を知らない方がいいこともあるだろう」
 その彼の言葉に笑った後、涼介は軽く一礼して歩き出す。
「じゃあ、これで僕は失礼します。また何かお役に立てることがあればおっしゃってくださいね」
 杜木はちらりと一瞬去っていく彼の背中を見送ったが、すぐに気を失っている麻美に視線を向けた。
 つばさはそんな杜木を見つめて、彼に聞いた。
「杜木様、涼介は一体何を言ってたんですの? 1年半前の真実って……」
「私たちも行こうか、つばさ。麻美ももうしばらくすれば、目を覚ます。気持ちよさそうに眠っているから、心配ないだろう」
 杜木は最後にもう一度優しく寝ている麻美の頭を撫で、そして歩き出した。
「杜木様……」
 つばさはそんな彼に遅れまいと、歩き出した彼の隣に急いで並ぶ。
 それからちらりと、ベンチに横になっている麻美を振り返ったのだった。




 そして……麻美の意識が戻ったのは、ふたりが去ってほんの数分後だった。
「ん……私?」
 どうして自分がこんなところで横になっているか疑問に思いながらも、麻美は身体を起こす。
 軽い頭痛に顔を顰め、そして麻美は額に手を添える。
「何やってたの? 私……つっ!」
 自分の行動を思い出そうとした途端、ズキッと激しい頭痛が彼女を襲う。
 そんな痛みに耐えながらも、麻美はぽつんと呟いた。
「あたたかくて優しい大きな手で、頭を撫でられた気がする……」
 麻美は少し乱れた漆黒の髪をそっと手櫛で整えて、立ち上がる。
 そして相変わらず頭痛は治まらないが、不思議と頭の中がすっきりと晴れているような感覚を彼女は覚えたのだった。