10月24日・日曜日。
 休日ということもあり、繁華街はたくさんの人で賑わっていた。
 繁華街の喫茶店にいたつばさは、ふと表情を変えて店の入り口に漆黒の瞳を向ける。
 それと同時に店に入ってきた人物を見て怪訝な表情を浮かべ、持っていたティーカップをテーブルに置いた。
 そしてわざとらしく大きく溜め息をつき、自分の座っているテーブルにやって来たその男に言った。
「あら、何か御用かしら?」
「随分と冷たいなぁ、つばさ」
 にっこりと甘いマスクに微笑みを浮かべ、その男・涼介はつばさの正面の席に座る。
 つばさはそんな彼の様子に眉を顰めた。
 涼介は店員に自分の分のコーヒーを注文し、それから瞳にかかる前髪をかきあげる。
「まぁまぁ、そんな顔しないでよ。偶然つばさの可愛い姿が見えたから、杜木様がいらっしゃるまで一緒にお茶でもしようと思っただけだよ。ね?」
「本当にそれだけかしら? 貴方ほど信用のない人はいないもの」
「そう言わないでよ、杜木様と待ち合わせしているんだろう? いくら僕だって、杜木様に喧嘩を売るほど馬鹿じゃないよ」
 くすっと笑ってテーブルに頬杖をつき、そして涼介は続けた。
「それにしても綾乃の強大な“邪気”といい、つばさの“空間能力”といい、本当に興味深いな」
「また綾乃の嫌がることしたそうじゃない。綾乃の機嫌が悪いわけだわ」
 紅茶をゆっくりとスプーンでかき回しながら、つばさはもう一度嘆息する。
 涼介は相変わらず柔らかな表情のまま、言った。
「嫌がること? そんなことした覚えはないんだけどな」
「その言葉、綾乃が聞いたら怒るわよ? それはそうと、貴方お仕事中じゃない? こんなところでのんびりしていてもいいのかしら」
「これでもきちんと仕事もしてるんだよ、僕。仕事もそろそろ成果が出そうでね、ワクワクしてるんだ」
 店員の運んできたコーヒーをブラックでひとくち飲み、涼介は口元に笑みを浮かべる。
 つばさは紅茶をかき混ぜていた手を止め、漆黒の瞳で彼を見た。
「成果が出そう?」
「うん。サンプルの覚醒がなかなか上手くいかないんだけど、まぁそれはそれなりにいろいろと分かって参考になるよ。どういう結果が出るか楽しみだ、ゾクゾクするね」
「…………」
 本当に楽しそうな表情を浮かべる涼介に目を向けたまま、つばさは言葉を失う。
 見た目穏やかな印象を受ける涼介であるが、本当の彼の性格はその真逆である。
 目的達成のためなら、手段を選ばない。
 その上に彼は、その頭脳だけでなく“邪者四天王”としての大きな“邪気”も持っているのだ。
 自分の“空間能力”に彼が興味を持っているということもあるが、つばさは立場的に味方であるはずのこの男に、時々恐怖のようなものを感じることがあった。
 そんなつばさの気持ちを知ってか知らずか、涼介は不敵に笑う。
「ねえ、ちょっとでいいからさ、今度僕の研究に協力する気ない? 少しだけデータを取らせてくれるだけでいいんだけど。ダメ?」
「言ったでしょ、貴方ほど信用できない人はいないって。お断りするわ」
「そう言うと思ったけど、本当につれないなぁ」
 残ったコーヒーを飲み干し、そして涼介はおもむろに立ち上がる。
 それから財布から取り出した千円札をテーブルに置き、にっこりと微笑みを浮かべた。
「それじゃ、お仕事でもしてこようかな。杜木様によろしくね」
「…………」
 相変わらず険しい表情のつばさにウインクして、そして涼介は喫茶店を後にする。
 つばさは彼の後姿を見送り、大きく溜め息をついた。
 そして何かを考えるように、忙しく行き交う窓の外の人波に視線を向けたのだった。




 同じ頃、眞姫は人の流れに逆らわず地下鉄の階段を上っていた。
 地上に出てからちらりと腕時計を見て、そして太陽の光にブラウンの瞳を細める。
 健人との待ち合わせ時間には、ゆっくり歩いても十分に間に合う時間である。
 ショーウインドウに映る自分の姿に目を向け、眞姫は身だしなみを整えた。
 爽やかな秋風が、眞姫の頬をそっと撫でる。
 すでに冬物の新作コートを着ているマネキンたちを見ながら、眞姫は待ち合わせ場所である噴水広場に足を踏み入れた。
 待ち合わせ場所として定番の噴水広場は休日ということもあり、待ち人を待つ人で溢れている。
 だがそんな中、眞姫は健人を探す必要がなかった。
「あ……」
 噴水のそばにいる、パッと一際目を惹く美少年。
 そんなに派手な服装をしているわけでもないのに、自然と視線が向いてしまう。
 光の加減では金色に見える髪、そして右の青い瞳。
 普段会う時は大抵制服であるため、見慣れない私服姿の彼に眞姫は胸がドキドキした。
 その場にしばらく立ち尽くしていた眞姫は、気を取り直して健人に近付く。
「お待たせ。早かったんだね、健人」
「俺も今来たところだよ。おはよう、姫」
 眞姫の姿を瞳に映し、健人はその整った顔に嬉しそうな微笑みを浮かべた。
 眞姫はにっこりと微笑み、そして言った。
「1日早いけど、お誕生日おめでとう。これからの1年も、健人にとっていい1年でありますように」
「ありがとう、姫」
 眞姫はそれから、くすっと笑って続ける。
「これでしばらく、健人より私の方が1歳若いんだね」
「そうやって年を気にしだすことが、年取った証拠なんだよ」
「もーうっ、そんなこと言わないでよねっ」
 むっとした顔をする眞姫に、健人はふっと微笑みを向けた。
 そして眞姫の頭にポンッと手を置き、乱暴に撫でる。
「ほら、行くぞ」
「あっ、髪がぐしゃぐしゃになっちゃったじゃないーっ」
「本当に姫ってトロいよな。人ごみで迷子になるなよ」
 楽しそうに笑って、健人は手櫛でそっと眞姫の髪を整える。
 眞姫は悪戯っぽく笑って、反撃とばかりに言った。
「そんなこと言うなら、迷子になったらデパートの館内放送で健人のこと呼び出すからね」
「それは恥ずかしいな……ほら」
 健人はそう言って、すっと彼女の目の前に手を差し伸べる。
 一瞬その意図が分からず、眞姫はきょとんとする。
 健人は特に表情を変えることなく、言った。
「手をつないでいれば、迷子にならないだろう?」
「え? う、うん、そうだね」
 眞姫は少し驚いた表情を浮かべ、そして思わず頷いてしまった。
 それから遠慮がちに、そっと健人の手を握る。
 彼の手は少しひんやりしていたが、手が重なってしばらくするとすぐに熱を帯びてきた。
 大きな健人の手の感触に、眞姫は胸の鼓動を早める。
「どこに行こうか、姫」
「えっ? えっと、とりあえず……健人は何が欲しいの? プレゼント」
 しどろもどろになりながらも、眞姫は上目使いで健人を見た。
 少し考える仕草をした健人だったが、すぐに青い瞳を彼女に向ける。
「そうだな、いつでも身に付けていられるものがいいな」
「うーん、それだったら時計とかブレスレットとか……そういうものかな」
「じゃあとりあえず、店に入ってみるか」
 そう言って、健人は歩き出した。
 眞姫も頷き、慌ててその後に続く。
 賑やかな街を歩いていた眞姫は、ふとショーウインドウに目を向けた。
 手を繋いで歩いている自分たちの姿が瞳に映り、眞姫は思わず顔を赤らめる。
 そんな姿は、自分たちの前を歩いているカップルと傍から見れば同じものである。
 急に何だか照れくさくなって、眞姫は俯いた。
「どうした、姫?」
 黙って俯いてしまった眞姫に気がつき、健人はちらりと青い瞳を向ける。
「えっ? いや、別に何にも……あっ、そこの店に入ってみない?」
 慌ててそう言って、眞姫は照れを誤魔化すように近くの店に入った。
 メンズのアクセサリーが並ぶショーケースを一通り見て回って、そして健人はシンプルだが品のいいブレスレットを試着する。
 眞姫はまだ少しドキドキ言っている胸を押さえ、ちらりと隣の健人を見た。
 健人は手を繋いでいる時、一体どんなことを思っているんだろうか。
 その表情からは、眞姫は彼の心の内を読むことはできなかった。
(ていうか、私が意識しすぎなのかも……手だって、迷子にならないように繋いでるだけだし)
 もちろん、眞姫と手を繋ぐという行為が誰よりも嬉しいのは健人だということに、眞姫は気がついてはいない。
「姫、これどうだ?」
「あ、それすごく可愛いんじゃない? 何か健人の雰囲気にも合ってる気がする」
 ハッと我に返り、眞姫は瞳を大きく見開いて健人の手首に付けられたブレスレットを見る。
 健人の手首は男性の割りに細く、肌の色も透き通るように白い。
 少し細身の皮とシルバーであしらわれたそのブレスレットは、彼に似合っていた。
「じゃあ、これにするよ」
「えっ、もうこれに決めちゃうの? まだ見て回らなくていいの?」
「ああ。結構これ気に入ったし」
 あっさりそう言う健人に、眞姫は瞳をぱちくりさせる。
 そして近くにいた店員を呼んで会計を済ませ、プレゼント用に包んでもらう。
「彼氏かっこいいから、すごくこのブレスレットもお似合いでしたよ」
 包装が終わるのを待っている眞姫に、店員は笑顔でそう言った。
「えっ? あ……はい」
 眞姫は急に言われ、驚いたような表情をして思わず頷いてしまった。
 やはり知らない人から見ると、自分たちはカップルに見えるのだ。
 そう思うと、また眞姫はカアッと顔を赤らめる。
 それからプレゼントを受け取り、ふたりは店を出た。
 相変わらず溢れる人の波に逆らわず歩く眞姫と健人の手は、繋がれたままである。
「買い物は終わったけど、これからどうする?」
「誕生日と言えばケーキでしょ、やっぱり。あ、あそこのケーキ美味しいんだよ、入ろうか」
 目の前に見える喫茶店を指差し、眞姫はパッと表情を変えて言った。
 健人は眞姫の言葉に頷き、そしてふたりは店内に入る。
「はい、改めてお誕生日おめでとう、健人」
 席について注文を終わらせた後、眞姫は先程買ったプレゼントを健人に渡す。
 健人は青い瞳を細め、整った顔に笑みを浮かべた。
「ありがとう、姫。大切にするよ。早速つけてもいいか?」
「もちろん。あ、私がつけてあげようか?」
 几帳面に包みを外し、健人はブレスレットを眞姫に手渡す。
 眞姫の細い指の感触が、健人の肌に伝わる。
「わあ、やっぱり可愛いね、これ。健人に似合ってるよ」
「嬉しいよ。ありがとう、姫」
 大事そうに自分の手首のブレスレットを見つめてから、健人は視線を眞姫へと移す。
 そして、言葉を続けた。
「俺、今まで自分の誕生日なんてあまり興味なかったんだ。海外に出張が多かった父さんと母さんと、小さい頃から離れて暮らすことも多かったからな。他人からプレゼントを渡されて、そういえば誕生日だったって思い出すくらいで。でも……今日は、本当に楽しみにしてたんだよ」
「私も健人の大切な日をお祝いができて、よかったわ」
 にっこりと眞姫が健人に笑顔を返したその時、注文したケーキが運ばれてきた。
 眞姫は無邪気にケーキを見つめ、そしてくすっと笑う。
「健人、ケーキ来たよ。ハッピーバースデーの歌、歌っとく?」
「いや、歌は気持ちだけで嬉しいよ。トロトロしてると、おまえのストロベリーショートのいちご、食うぞ?」
「あっ、ダメよーっ。ストロベリーショートなのに、いちごなかったら意味ないしっ」
 眞姫の反応を面白がって、健人は楽しそうに笑った。
「今日は俺の誕生日だろう? 結構姫ってケチなんだな」
「ケチってっ、せっかくあげようかなって思ったのに、やーめたっ」
 ぷいっとわざとそっぽを向く眞姫に、健人は青い瞳を細める。
 自分に優しい瞳を向ける健人に気がつき、眞姫は笑顔を彼に向けてからケーキにフォークを入れた。
 そんな姿を、健人は青い瞳でじっと見守る。
 健人にとって何より一番の幸せは、眞姫とこうやってふたりきりの時間を過ごせることである。
 目の前の幸せを噛み締めながら、健人はもう一度手首のブレスレットを見て整った顔に微笑みを浮かべたのだった。




「やっぱり、タクシーで帰ればよかったかな……」
 長い黒髪をおもむろにかきあげ、双子の妹・志織は繁華街の人ごみに顔を顰める。
 ここのところずっと体調が悪いため、念のために病院で検査をしてもらった、その帰りだった。
 姉の香織は陸上部のコーチに検査結果を伝えるため学校へ向かったので、今は別である。
 病院で調べてもらったが、どこにも異常はなかった。
 日頃の疲れやストレスがたまっているのではないかという診断だったのだ。
 それにしても、いくら双子でも香織と同時に倒れることが続くなんて、普通じゃない。
 苦しい時とそうでない時は大きな波があり、そして倒れた前後の記憶がないのだ。
 おかしいと思いながらも、志織には自分たちの体調不良の原因が全く分からなかった。
 はあっと大きく嘆息した志織は、賑やかな街並みにふと目を移す。
 その時だった。
「……!」
 志織はその瞬間、思わずその場に立ち止まってしまった。
 そんな彼女の瞳に映っているのは……手を繋いで楽しそうに歩く、健人と眞姫の姿。
「やっぱりあのふたり、付き合ってたんだ……」
 それだけ呟き、志織はふたりを見つめた。
 目を見張るような美少年の健人と、同性から見ても可愛らしい眞姫は、悔しいがとてもお似合いである。
 そう思った、その時。
「……くっ、はあっ!!」
 急に締め付けられるような痛みがはしった胸を押さえ、志織は大きく息を吐いた。
 急激に体温が上昇しているのが自分でも分かり、視界が大きく回る。
 身体の中で何かが暴れだし、ひとりでは立っていられない程に足がガクガクと震えた。
「あっ……はあぁっ、はあ……っ!」
 志織はたまらず、近くの壁に身を預ける。
 朦朧とする意識の中、幸せそうに眞姫に微笑む健人の姿が瞳に入ってきた。
 ズキッと胸が痛む。
 自分には見せない、彼の笑顔。
 モヤモヤとした気持ちが大きく膨らみ、そして心の中で、何かが蠢く。
「う……ああっ!!」
 ビクンッと身体を震わせて、志織は地に崩れた。
 だがすぐに立ち上がり、額に滲み出た汗をスッと拭う。
 その表情は……先程とは、全く変わっていた。
 光のないその瞳は、嫉妬という闇で覆われている。
 そしてくっと唇を噛んで、志織は憎悪に満ちた視線を健人と眞姫に向けた。
「……!」
「えっ!?」
 その時、健人と眞姫は同時に立ち止まる。
 健人は先程までの幸せそうな表情とはうって変わり、険しいものに変わっていた。
 眞姫は不安そうに健人を見て、そして背後に視線を向けて瞳を見開く。
「この“邪気”は……!?」
 昨日自分を襲ったものと同じ“邪気”を感じ、眞姫は顔を上げた。
「ちっ、こんな時に……姫、俺から離れるなよ」
 そう言って、健人は右手に力を込める。
 刹那、カアッとその掌に光が宿った。
 この光は、普通の人間には見えないものである。
 周囲を漂う“邪気”の存在すら、普通の人間には知覚できないのだ。
 だが眞姫の瞳にははっきりと健人の眩い光と、重苦しい殺気に満ちた“邪気”を感じることができた。
 そして健人の掌に集結した光が弾けた瞬間、賑やかだった街並みが一瞬にして静かなものへと変化する。
 健人は眞姫の盾になるように位置を取り、“邪気”を身体中漲らせている志織を見据えた。
 志織は俯いたまま、ぎゅっと握り締めた拳を振るわせる。
「……うして……」
「え?」
 ギリッと唇を噛み締め、志織は何かを呟いている。
 あまりにも強い力で噛み締めているため、彼女の唇からはじわりと血が滲んでいた。
「どうして……こんなに、好……に」
「森下?」
 健人も志織の声に耳を傾け、表情を変える。
「ずっと、ずっと……見てきた……なのに何で……っ!!」
「!!」
 刹那、ドンッという大きな衝撃音があたりに響き渡った。
 衝撃の激しさを物語るように、周囲に余波が立ち込める。
 咄嗟に志織の“邪気”の衝撃を“気”の防御壁で防いだ健人は、ちらりと背後の眞姫に瞳を向けた。
 その視線に気がつき、眞姫は言った。
「健人、私の力で森下さんを助けられるかどうかは分からないけど、やってみたいの」
「姫……っ!!」
 ふっと視線を志織に再び向け、健人は素早く“気”を漲らせる。
 無造作に放たれたいくつもの志織の“邪気”を、健人は“気”の衝撃をぶつけて相殺させた。
 カアッとふたつの光が入り混じり、周囲を眩い光が包み込む。
 その光に瞳を細めて、眞姫は言った。
「森下さんの“邪気”が表に出ている今なら、何とかできそうな気がするの。彼女の動きを何とか止められないかな……」
 健人は志織の動きから意識を外さないまま、眞姫を見る。
 凛とした、神々しささえ感じるような強い光。
 決意に満ちた彼女の表情を見て、健人は頷いた。
「分かった、やってみる。森下の動きを止めればいいんだな」
 そう言って、健人は“邪気”を再び放たんとしている志織に青い瞳を向ける。
 そして。
「!!」
 ふっと健人が動いたかと思うと、素早く志織との間合いをつめた。
 そんな健人の行動に、志織は一瞬怯んだ。
 その隙を逃さず、健人は彼女の“邪気”の漲った右手をガッと掴む。
「きゃっ!!」
 その瞬間、バチッとプラズマがはしった。
 健人の“気”が、志織の“邪気”の威力を押さえつける。
「姫っ、動きを止めたぞ……っ!」
「うんっ。ありがとう、健人っ」
 動きを止めた志織に駆け寄り、眞姫はおもむろに彼女の左腕を取った。
 そして、すうっと瞳を閉じる。
「……!」
 次の瞬間、健人は青い瞳を大きく見開いた。
 眞姫の身体から、優しくそして大きな“気”の力が解き放たれるのを感じたのだ。
 そのあたたかな“気”は、一瞬にして志織の“邪気”を包み込む。
「!! あっ、ううっ!!」
 突然、志織は苦しむような声を上げた。
「もう少し……もう少し、我慢して……っ!!」
 眞姫はそう言って、くっと唇を結ぶ。
 眞姫の腕から開放されようと身をよじる志織を、健人は抑えた。
 その時。
「うっ……ああっ!!」
「!!」
 志織の叫び声とともにカアッと“結界”内に大きな光が生じ、一瞬にして弾けた。
 そのあまりの眩さに、健人は思わず手で瞳を覆う。
 そして。
「姫っ!!」
 体勢の崩れた眞姫をその腕で支え、健人は青い瞳を彼女に向けた。
 それと同時に、志織の身体もドサッと地に倒れたのだった。
「森下さんの“邪気”……何とか元通り、蓋をすることができたみたい……」
 健人に支えながら、眞姫は志織を見てそう言った。
 健人は、倒れている志織に視線を移す。
 眞姫の言うように、彼女からは少しの“邪気”も感じられなくなっている。
「“邪気”の蓋をしていた“理性”や“感情”を狂わせていた薬の効力……それを中和させて、表に出てきてた“邪気”を抑えてみたの……これでもう、彼女は大丈夫……」
 大きな“気”を解き放ち、まだ呼吸も荒い眞姫だったが、その表情は安堵のものに変わっていた。
 そんな彼女を労わるように優しく頭を撫で、健人は瞳を細める。
「本当によく頑張ったよ、姫は」
「健人……」
 ふと、その時。
「……!」
 今まで見守るように眞姫を見つめていた健人が、ハッと顔を上げた。
 そして一点を見据え、表情を変える。
「あっ……」
 そんな健人の様子に気がついて彼の視線を追った眞姫は、驚いたように短く叫んだ。
「ふーん、やっぱり“浄化の巫女姫”の能力の前では、薬によって引き出された“邪気”も抑制されちゃうんだね。覚醒にもすごく時間かかるし、あまり使えないなぁ、今回の作品」
「おまえは……!」
 キッと鋭い視線を向ける健人に、現れたその人物・涼介は言った。
「そんなコワい顔してるけど、自分の状況をよく考えてみてよ。動けないお姫様と倒れてるサンプルの子を、君一人で守れるのかな?」
「くっ……」
 険しい表情をしている健人から、涼介は次に眞姫に視線を向ける。
「それにしても、さっきの“邪気抑制”の力は僕たち“邪者”にとっても脅威だよね。“浄化の巫女姫”の目覚めてる特殊能力はまだ“憑邪浄化”だけだって聞いてたけど」
「……え?」
 ようやく自分で身体を起こせる程度まで回復した眞姫は、涼介の言葉に表情を変えた。
 くすっと笑って、そして涼介は右手を掲げる。
「それはいいとして。そこの彼が“結界”解除してくれそうにないから、砕いちゃおうかな」
「!!」
 その言葉と同時に、バチバチと涼介の右手に大きな漆黒の光が宿る。
「……っ、させるかっ!」
 健人は素早く“気”を掌に漲らせ、球体を形成した光の塊を涼介目がけて放った。
 唸りを上げて迫る衝撃にも動じずに、涼介は手を翳す。
 ドンッと大きな衝撃音が耳を劈き、光が弾けた。
「……!!」
 その光を裂くように、無数の漆黒の光が間髪入れずに放たれる。
「くっ!!」
 健人は咄嗟に目の前に“気”の防御壁を張り、その漆黒の光の衝撃を防いだ。
 複数の漆黒の塊と防御壁が激しくぶつかり合い、お互いの威力を失って弾ける。
 涼介は相変わらず涼しい顔をしたまま、口元に笑みを浮かべた。
「聞こえなかった? 自分の状況を考えてみてよってね。君だって可愛いお姫様に傷をつけたくないでしょ?」
「何だと? 姫には、傷ひとつだってつけさせない……!」
 戦意を漲らせた健人の瞳には、激しい青い炎のようなものが揺らめいている。
 そして再び“気”を放とうと、右手に力を込めた。
 ……その時。
「健人、待ってっ! 森下さんもいるし……ね?」
「! 姫っ!?」
 ガッと右腕を眞姫に掴まれ、健人はその動きを止める。
 涼介はそんな様子を見て、ふっと笑った。
「お姫様の言う通りだね。僕は別にここで君と戦おうが戦うまいが、どっちでもいいんだよ。薬で引き出した“邪気”に対する“浄化の巫女姫”の能力の効果ももう見れたしね」
「…………」
 健人は無言で構えていた右手をスッと下ろす。
 だが、その青い瞳は鋭く涼介を見据えたままだった。
 健人が構えを解いたのを見て、涼介は軽く右手を掲げた。
「分かってくれた? じゃ、僕は失礼するよ」
「!!」
 その言葉と同時に、漆黒の衝撃が空気を切り裂く。
 健人の張った“結界”が音を立てて崩れ、休日の雑踏が戻ってきた。
 涼介は不敵に笑い、そして人ごみの中に消えていった。
 健人は彼の姿を見送った後、眞姫が自分で立てるまでに回復しているのを確認する。
 そして健人は、倒れている志織の上体を起こした。
 大通りからひとつ道を外れていたため、人通りはメインストリートほど多くはないが、行き交う人が倒れている志織を何事かと見ている。
 そんな通り過ぎる人たちの視線も気にせず、健人は軽く志織の頬を叩いた。
「おい森下、大丈夫か?」
「う、ん……あ、あれ?」
 ハッと瞳を開き、意識を取り戻した志織は驚いた表情を浮かべる。
 そして自分が行き交う人に注目されながら健人に支えられていることに気がつき、顔を赤らめた。
「えっ、あ、蒼井くんっ!? 私、一体っ!?」
「気がついたみたいだな、大丈夫か?」
「大丈夫? 具合はどう?」
 健人の青い瞳だけでなく眞姫のブラウンの瞳も自分を見ていることに気付き、志織は顔を上げる。
「あ……清家さん?」
「調子はどう? まだどこか苦しかったりする?」
 眞姫の言葉に、志織はふと言った。
「そういえば、何だか身体が楽になったような気がする」
 あれほど苦しかった胸も、何故か今はすっきりとしていた。
 呼吸も落ち着きを取り戻し、体温も平熱に戻っている。
「そうか。もう自分で立てるか?」
「うん、大丈夫みたい。ごめんなさい、何だか迷惑かけちゃったみたいで。もうひとりでも帰れそう」
 深々と頭を下げる志織に、眞姫はにっこりと微笑む。
「迷惑なんて、とんでもないわ。身体が楽になったならよかったね」
「気をつけて帰れよ。じゃあ、またな」
 そう言って、眞姫と健人は志織に背を向けて雑踏の中を歩き始めた。
 しばらくふたりの背中を見送っていた志織は、ふと我に返って歩を進める。
 爽やかな秋風が、志織の長い黒髪を優しく撫でた。
 そしてふっと小さく溜め息をつき、呟く。
「あのふたりすごくお似合いで、私の入る余地なんてないな。やっとこれで、諦めもついたかな……」
 それから志織は晴れ晴れとした表情を浮かべて、健人に背を向けて歩き出したのだった。
「姫、これからどうする?」
 人の流れに乗り、ゆっくりと歩きながら青い瞳で健人は眞姫を見る。
「うーん、ちょっとどこか喫茶店で一休みしたいかな」
「そうだな、じゃあお茶でもするか」
 そう言って、健人はスッと眞姫の手を取った。
 そのぬくもりに再び驚いた表情をした眞姫だったが、きゅっと彼の手を握り返す。
 健人は満足そうに微笑み、そして瞳を伏せた。
 そして眞姫からもらったブレスレットを大事そうに映し、健人の青い瞳が再び嬉しそうにふっと細くなったのだった。