10月19日・火曜日。
 帰りのホームルームが終わった教室に、生徒たちの賑やかな声が溢れかえる。
 帰り支度を整えていた双子の妹・森下志織は、長い黒髪をそっとかきあげた。
 そして教科書の入れ忘れが無いか机の中を確かめた後、鞄をゆっくりと閉じる。
 それから立ち上がろうとした、その時。
「森下」
 誰かに声をかけられ、志織はふと顔を上げる。
 その瞬間、彼女の顔が真っ赤に変わった。
 志織の瞳に映ったのは、自分を見ているブルーアイ。
 サラサラのブラウンの髪は金色に近く、美少年と言うに相応しい整った容姿。
 彼に見られていると思っただけで、カアッと身体中が熱くなるような感覚を志織はおぼえた。
「あ、蒼井くん……」
 耳まで真っ赤にさせた志織は、小さくそう呟くのがやっとである。
 健人は相変わらず表情を変えないまま、言った。
「体調、もう大丈夫か?」
 昨日倒れた自分を助けてくれた彼にろくにお礼も言わず立ち去ったことを思い出し、志織は慌てて頭を下げる。
「あっ、昨日はどうもありがとうっ、何か迷惑かけちゃって……」
「いや、ただ偶然通りかかっただけだから」
 短くそう言って、そして健人はふと瞳を細めた。
 それから改めて、言葉を続ける。
「それで、体の調子はどうだ? 変わったこととかないか?」
「えっ? あ、うん。今日は何ともないみたい」
「そうか……」
 志織の言葉に、健人は何かを考える仕草をした。
 彼女はドキドキと鼓動を早める胸を押さえ、小さく深呼吸をする。
 健人とは同じクラスであるが、殆ど話をしたことがない。
 入学してすでに半年ほど経つが、大人しく内向的な志織と、特に自分から人に話しかけるタイプではない健人の性格を考えると、そのことに不自然は無い。
 特に志織は相手が健人だからこそ、話ができないでいたのだ。
 志織が健人にはじめて会ったのは、入学式の日。
 教室に入った彼女の瞳に一番最初に映ったのは、彼のふわりと揺れる金色に近い髪と神秘的な右目の青だった。
 志織はしばらくそんな彼から、視線を離すことができなかった。
 そしてそれが一目惚れと言うものなのだと気がつくのに、時間はかからなかった。
 それ以来彼女は、密かにずっと健人のことを見てきたのである。
「昨日倒れた時、どんな感じだったか覚えてるか?」
 そんな志織の気持ちも知らず、健人はちらりとブルーアイを彼女に向ける。
 健人の視線を感じ、志織は再びカアッと頬を赤らめた。
「えっ、き、昨日?」
 何か喋らなきゃと思えば思うほど、頭が回らない。
 何とか落ち着かせようと大きく息を整えて、そして志織は悩むように首を傾げる。
 それから、遠慮気味に健人を見て口を開いた。
「あまりよくは覚えてないんだけど……身体が急に熱くなった感じがして、何かが身体の中で暴れているような……うまく言えないけど、そんな感じだったかな」
「何かが身体の中で暴れるような感覚、か」
 そう呟いて、健人は言葉を切る。
 志織は、そんな健人の顔をまじまじと見つめた。
 こんなに近くで彼の顔を眺めたのは、初めてかもしれない。
 くっきりと綺麗な二重に、青い色を湛えるその瞳。
 顔のパーツひとつひとつが整っていて、思わず見惚れてしまうほどである。
 自分をじっと見ている彼女に気がつき、健人はおもむろに顔を上げた。
 そして首を傾げて言った。
「どうした? 顔が赤いけど大丈夫か?」
「えっ? あっ、いや、だっ大丈夫っ。心配してくれてどうもありがとうっ。そ、それじゃあ、またっ」
 ハッと我に返った志織は慌てたように鞄を抱えて椅子から立ち上がり、健人に大きく手を振って逃げるように教室を出て行く。
 健人はそんな彼女を引き止めず、その後姿を見送った。
「…………」
 昨日彼女が倒れて以来、健人は志織からなるべく目を離さないようにしている。
 だが、特に彼女から“邪気”を感じることはなかった。
 このまま何事もなければいいと思いつつも、健人は釈然としない何かを感じていたのだった。
「はあっ、はあっ……びっくりした……」
 教室を飛び出した志織は、靴箱で乱れた息を整える。
 身体の中が異様に熱く、胸もドキドキとすごいスピードで鼓動を刻んでいた。
「……っ!」
 うっすらと額に滲む汗をそのままに、志織はぎゅっと胸を押さえる。
 落ち着かないといけないと、志織は大きく息を吐いた。
 彼に話しかけられただけなのに、こんなに取り乱すなんて。
 何かが身体中を駆け巡るような感覚がはしり、一瞬視界が回った。
 近くの壁にもたれながらも、志織は肩で大きく息をする。
 そしてたまらずにぐっと瞑った志織の瞼の裏には、自分を映す彼の神秘的な青い瞳の色だけが残っていたのだった。
 ……その、同じ頃。
「よう、久しぶりっ」
 ぽんっと背後から肩を叩かれ、双子の姉・森下香織は振り返る。
 そして日に焼けた健康的な顔にパッと微笑みを浮かべた。
「あ、小椋くんじゃない、久しぶりっ」
「クラス違うと、同じ学校でもなかなか会えないもんだよな」
「そうね、中学と違って高校って人数も多いしね」
 そう言ってふっと髪をかきあげる香織を見て、そして拓巳は少し表情を変える。
「そういえばよ。おまえ昨日の朝、倒れたんだって? 何か妙なものでも食ったんじゃねぇか?」
「妙なものって失礼ね、小椋くんじゃあるまいし。って、何で倒れたこと知ってるの?」
 不思議そうに首を傾げる香織に、拓巳は少し考えて言った。
「ああ、おまえら助けたのが俺の友達でよ」
「あ、そうなんだ。Cクラスの蒼井くんたちよね?」
「そうだけど、健人のこと知ってるのか?」
 意外そうに聞いた拓巳に、香織は返事に困ったように言葉を詰まらせる。
「え? あ、うん、知ってるというか何て言うか……妹が、同じクラスだから」
「妹か……」
 それだけ呟き、拓巳は複雑な表情をした。
 昨日健人や祥太郎から聞いた話では、双子はふたり揃って気を失って倒れたという。
 そして、それには“邪者四天王”のひとりが関わっている可能性が高いと。
 だが今のところ、目の前の香織からは何ら変わった気配などは一切感じない。
 拓巳に接する彼女の態度も、普段通りで違和感はない。
 彼女の様子を探るように、拓巳はその瞳をおもむろに細める。
 そしてそんな拓巳に、香織は思い出したように言った。
「あ、そういえば。妙なものじゃないんだけど、倒れる前にキャンディーは食べたわね」
「キャンディー?」
 香織の言葉に、拓巳は顔を上げる。
 こくんと頷いて、彼女は話を続けた。
「うん。新製品の試供品とかで、ちょっとハンサムで愛想のいいお兄さんが配ってたキャンディーよ。なかなか美味しかったわよ?」
「…………」
 拓巳は、何かを考えるように俯く。
 昨日のミーティングで、双子の前に現れた“邪者”は科学者であり、妙な薬の研究や実験をしていると聞いていたからである。
 やはり双子の体調不良とその“邪者四天王”は、何か関係があるようだ。
 神妙な表情をする拓巳に首を傾げた後、香織は言った。
「じゃあ、私今から部活だから、またね」
 そう言って歩き出そうとする香織に、拓巳はハッと我に返ったように視線を向ける。
 それから慌てて、彼女を引き止めた。
「おい森下、ちょっと待て」
「? どうしたの?」
 きょとんとする彼女に、拓巳は遠慮がちに小声で言った。
「ところでおまえさ……まだ今でもあいつのこと、好きなのか?」
 拓巳のその言葉を聞いた途端、香織は顔を真っ赤にさせる。
 それから照れたように、小さく頷いた。
「う、うん……でも、なかなか話すきっかけがなくて。違うクラスだし……」
「おまえなぁ、ウジウジするような柄じゃないだろ? 話のきっかけなんて、簡単に作れるもんだし。このままだったら何も進展なんてないぞ?」
「小椋くんじゃあるまいし、そんなに簡単に話すきっかけなんて私は作れないのよっ」
 耳まで真っ赤にさせて、香織は拓巳から視線を逸らす。
 そんな香織を見て、拓巳は大きく溜め息をついてから続けた。
「俺が協力してやってもいいって言ってるのによ。それに、あいつと話したことがないわけじゃねーだろ? おまえがあいつを好きになったきっかけの時だって、ふたりきりだったんだし」
「って、何度も言ってるけど、余計なこと絶対に彼に言ったらダメだからねっ!? 小椋くんに頼んだら、何か逆効果な気がするし。それに……」
 香織は、ふっと急に言葉を切る。
 それから寂しそうに俯いて大きく溜め息をついた。
 そして節目がちのまま、ぽつんと呟く。
「それにね、彼……もう私と話したことなんて、忘れてるよ。きっと」
 すっかり俯いてしまった香織の肩を拓巳は軽く叩き、言った。
「あいつは覚えてるぜ、たぶん。そういうこと人一倍忘れないタイプだからな」
「……そうかな?」
 ふっと顔を上げ、香織は拓巳を見る。
 拓巳はニッと笑みを浮かべ、自信満々に頷いた。
「ああ。今度聞いてみたらどうだ? 話すきっかけにもなるし」
「そっ、そんなことできるわけないじゃないっ。もし忘れてたら、やっぱりショックだし」
「だから、あいつ忘れてないって。聞いてみろよ。ていうか、今からおまえ部活だろ? んじゃ、頑張れよっ」
 励ますように再び香織の肩を叩き、拓巳は笑う。
 そんな彼の笑顔につられるように、香織も微笑んだ。
「うん。じゃあ、またね」
「ああ、何かあったら相談乗ってやってもいいぜ?」
「んー、余計ややこしくなりそうだから、好意だけ受け取っておくね」
 くすくす笑ってそう言う香織に、拓巳はムッとした表情をする。
「何だよ、どーいう意味だ、それ」
「どういう意味って、言葉のままだけど?」
 楽しそうに笑ってから、そして香織は歩き出した。
 そして数歩歩いたところで、おもむろに振り返る。
「ていうか……ありがとね、小椋くん」
 そう言って、香織は拓巳に手を振った。
 拓巳は彼女に笑顔を向け、軽く右手を上げる。
「ああ、またな」
 ちらりと時計を見た後、香織は駆け足で部活へと向かった。
 そんな彼女の後姿を見送った拓巳は、ふと表情を変える。
「新製品の試供品、か」
 そう呟いて何かを考えるような仕草をして、そして拓巳もその場から歩き出したのだった。




「あー、もうっ! 本っ当に頭にきたわよ、あいつっ!」
 興奮した面持ちで、綾乃はドンッとテーブルを叩いた。
 何事かと言わんばかりに、店の中の視線が彼女に集まる。
 そんな周囲の視線を気にしながらも、智也は大きく溜め息をついた。
「綾乃の気持ちも分かるけど、俺の気持ちも少しは分かってくれよな……」
 はあっと再び嘆息して、そして智也は運ばれてきたコーヒーをひとくち飲んだ。
 場所は、繁華街の喫茶店。
 智也の携帯がけたたましく鳴ったのは、学校が終わるのと同時だった。
 そしていつもとテンションのまったく違う綾乃に強引に呼び出され、今に至るのである。
 そんな綾乃の電話の様子から、だいたいどういう理由で自分が呼び出されたのか……智也には容易に想像がついていた。
 きっと、同じ“邪者四天王”の涼介に何かされたのだろう。
 一見、底抜けに明るくて何も考えていないように見える綾乃であるが、本当の彼女はいつも何事に対しても冷静である。
 だが……涼介のことになると、違っていた。
 しかし同じ“邪者四天王”同士での内輪揉めは、なるべく避けたかった。
 そしてそんな仲の最悪なふたりの間に入るのは、いつも智也の役割になっていた。
 どうしてこんな役が回ってくるんだろうと、目の前で怒り心頭の綾乃を見ながら智也はもう一度溜め息をつく。
 綾乃が涼介に対して敵意を剥き出しにすることには、理由があった。
 その理由を考えると、智也は綾乃の気持ちが分からないこともない。
 涼介は見た目の甘いマスクや軽い口調とは裏腹に、研究や実験のためなら手段や状況を選ばない残忍なところがある。
 そして昔から、彼は綾乃に対して少なからず興味を持っていた。
 それが以前、最悪の事態を招いたのだ。
 それ以来、綾乃は涼介に対して殺意すら抱いている。
 杜木に説得されて何とかそんな気持ちを抑えている綾乃であるが、涼介は逆にそんな彼女の様子を楽しんでいる感が否めない。
 なまじふたりとも“邪者四天王”として大きな力を持っているため、ふたりの小競り合いを止める智也も一苦労なのである。
「それで、今回は何されたんだ? 爆弾仕掛けてあるプレゼントでも渡された? それとも、誰かを人質に取られたとか?」
 智也の言葉に、むすっとした表情をして綾乃は答えた。
「花束に、しびれ薬よ」
「しびれ薬って……相変わらずだなぁ」
 くっくっと笑う智也に、じろっと綾乃は漆黒の瞳を向ける。
「笑い事じゃないって! ていうか杜木様に言われてさえなければ、すぐにでも涼介のヤツ、殺してやるのにっ!」
「まぁまぁ、落ち着きなよ。そういうわけにはいかないだろ? 同じ“邪者四天王”なんだし。それにあいつとおまえが戦ったりなんてしたら、どっちもただじゃ済まないぞ? ……あの時みたいにね」
「…………」
 綾乃は複雑な表情をして、ふと口を噤んだ。
 そんな綾乃を見てから、智也は続ける。
「おまえがムキになればなるほど、あいつ喜ぶし。あいつもあいつで“邪者”として仕事あるみたいだし、今は“邪者”同士で揉めてる場合じゃないこと分かってるだろ?」
「それは分かってるわよ。でも本っ当にあいつ、性格最悪! 人の嫌がることするの大好きだしっ」
 まだ気持ちが収まらない様子で、綾乃は眉間にしわを寄せてぶつぶつ言った。
 それから大きく息をつき、そして気を取り直して智也を見る。
「仕事って言えばさ、智也の方はどうなの?」
 綾乃の言葉に、智也はふっと笑った。
「俺? そうだな、近々ちょっと一仕事しようかなってカンジかな」
「そっか、また“能力者”にちょっかい出すんだ。ていうか、実は今日も忙しかったとか?」
 ちらりと漆黒の瞳を向ける綾乃に、智也は首を振る。
 そして時計を見てから、言った。
「いや、大丈夫だよ。今日は綾乃に誘われた時点で、仕事できないなって諦めてるし」
「綾乃ちゃんとデートできて嬉しいでしょ、智也っ。ていうか“能力者”って結構油断ならないから、お仕事の時は気をつけてねぇっ」
 それだけ言って、綾乃は少し溶けかけているアイスクリームをスプーンですくった。
 そしてそれを口に含むと同時に、さっきまで怪訝な表情を浮かべていたその顔に笑顔が戻る。
「うん、このアイス超美味しいっ。テレビで紹介されてた時から目をつけてたのよねーっ」
「さっきケーキ食べてたのに、よくそんな甘いものばかり食べられるよな、おまえ」
 ぱくっともうひとくちアイスを食べてから、綾乃はいつもの屈託のない表情を智也に向けた。
「甘いものは別腹って言うでしょ」
「ていうか、ケーキもアイスもどっちも甘いものだし。使い方かなり間違ってるよ、それ」
 智也はそうツッこんでから、幸せそうにアイスを口に運ぶ綾乃を見つめて微笑む。
 それからもう一度時計に目を移し、そして漆黒の瞳を細めたのだった。




 時刻は、夕方の5時になろうとしていた。
 准は閉館寸前の図書館から出て、靴箱に向かって渡り廊下を歩いているところだった。
 そして、何気なく視線を運動場に向ける。
 しばらく運動部の練習している様子をじっと見ていた准は、ふとその足を止めた。
「…………」
 一瞬どうしようか考える様子を見せた後、彼は靴箱に背を向けて運動場に出る。
 そんな彼の向かった先には。
「部活、終わったの?」
 急に声をかけられ、その少女・森下香織は振り返る。
 そして驚いたように瞳を見開いて、言った。
「あっ……芝草くん!?」
「今日は終わる時間早いんだね。いつもは陸上部、もっと遅くまで練習してるよね?」
 優しくそう言った准の言葉に、香織はこくんと頷く。
「昨日少し体調が悪かったから、コーチから今日は早くあがれって言われたの。そういう芝草くんは、図書館にいたの?」
 遠慮がちに上目使いで准を見て、香織は言った。
 准はふと微妙に表情を変えながらも、笑顔を彼女に向ける。
「うん、図書館で調べたいことがあって。って、昨日体調が悪かったって……大丈夫?」
 昨日のミーティングの話を思い出し、さり気なく准は探るように聞いた。
 香織は照れたように俯き、そして嬉しそうに微笑む。
「体調はもう何ともないんだけど、コーチが心配性で。ていうか、芝草くんに声かけてもらえるなんて……思ってなかったな」
「え? あ、同じ中学だったけど、僕たち同じクラスになったことないからね。驚かせちゃったかな、ごめんね」
 准の言葉に、香織は慌てて大きく首を振る。
「そんなっ、そうじゃないのっ。何ていうか、その……」
 どういっていいか分からず、香織は口ごもった。
 それから、ぐっと決意を固めたように拳を握り締め、香織は准に目を向ける。
「あのっ、同じ中学なら帰る方向同じだよね? よかったら、い、一緒に帰らない?」
「うん、いいよ。靴履き替えてくるから、校門で待ってて」
 にっこりと知的な微笑みを浮かべ、香織の誘いに准は頷いた。
 靴箱に向かった准と一旦分かれた後、香織は今彼と交わした会話を思い出しながら、しばらくその場で呆然とする。
 そして我に返ると、急ぎ足で校門へと向かった。
「あの試供品のキャンディー……恋が叶う甘い味っていうのも、まんざら嘘でもないかな?」
 嬉しそうにそう呟き、香織は校門の前で准を待った。
 そして数分も待たないうちに姿を見せた彼と、並んで下校する。
 自分の隣を歩く准に、香織はちらりと視線を向けた。
 少し童顔であるが、いかにも頭が良さそうな知的な雰囲気。
 その瞳の印象は優しく表情も柔らかであるが、しっかりした意志の強さのようなものが彼からは感じられる。
 中学の時も同じ学校であったが一度も同じクラスになったことがないために、あまり彼と話をすることはなかった。
 だが香織は以前からずっと、優しくてあたたかい彼のことを見つめていたのだった。
 何を話していいか分からない香織に、准は思い出したように言った。
「そういえば中学時代も、一度森下さんとふたりで話をしたことがあったよね」
「え……?」
 香織はその准の言葉に、驚いたように顔を上げる。
 そんな彼女の様子を見て、准は笑った。
「あ、何年か前のことだから忘れちゃった? 中学2年くらいだったもんね」
「覚えてるっ、ちゃんと覚えてるよ、その時のことっ」
 興奮した様子でそう言って、そして香織は顔を赤らめる。
 それから、嬉しそうに小声で呟いた。
「覚えててくれたんだ……」
 パッと表情をさらに明るいものに変えて、そして香織は思い出を噛み締めるようにゆっくりと話し出す。
「中学2年の時だったよ、芝草くんと話をしたのって。私その時スランプで、どうしても部活のタイムが縮められなくて落ち込んでいた時だった」
 准は記憶を辿るかのように、香織の言葉に続けた。
「その時も僕は図書館で調べものをした帰りだったんだ、よく覚えてる。すごいどしゃぶりの雨の中、傘も差さずに君が運動場の真ん中に座り込んでいたのを見た時は驚いたよ」
「あの日ね、私、陸上やめてしまおうかと思ってたの。いくら練習してもタイムも伸びないし、焦るばかりで……そんな自分が悔しくて不甲斐なくて、運動場から一歩も動けなかった。そんな私に傘を差し出してくれたんだよね、芝草くんが」
 そこまで言って、香織は思い出に浸るように瞳を閉じ、続けた。
「その時ね、芝草くんが私に言ってくれたでしょ? 頑張ればきっと必ず報われる日が来る、でも諦めたらそこで終わりだよ、って。私その言葉を聞いて、頑張れる気がするってすごく思ったんだ。今の私があるのもその言葉のおかげなの。だから芝草くんには感謝してるんだ」
 少し照れたように頬を染める香織に、准は優しい眼差しを向ける。
「僕のおかげなんかじゃないよ、森下さんの努力があったからこそ今の君があるんだから」
「芝草くん……」
 耳まで真っ赤にさせて、香織は准を見た。
 そんな香織に、准はふと表情を変えて言った。
「でも、身体が一番大切だからね。体調が悪い時には無理しちゃ駄目だよ?」
「うん、ありがとう」
 満面の笑みを浮かべる香織に微笑んでから、准はふと頭上を見上げる。
 それと同時に、いつの間にか薄暗い雲に覆われている空からぽつりと雨が降ってきたのだった。
 准は少し離れたところにある地下鉄の入り口に視線を向けつつ、持っていた傘を開く。
 それから香織が濡れないように傘を差して、言った。
「森下さんって、地下鉄? 駅から家ってどのくらいの距離なのかな」
「え? 地下鉄の駅から、歩いて10分くらいかな?」
 急に聞かれて、香織は驚いた表情をしつつもそう答える。
 准はその言葉を聞き、傘を彼女に手渡した。
「僕はすぐそこのバス停からバスなんだけど、停留所が家の前なんだ。だから、この傘持っていって。駅から歩いて10分なら結構濡れちゃうからね」
 今日の天気予報は曇りだったため、香織は傘を持っていなかった。
 准の言葉に申し訳なさそうに首を振り、香織は彼に傘を返そうとする。
「でもそんな悪いよ、私は駅から走って帰れば大丈夫だから」
「駄目だよ、風邪ひいちゃったら大変だろう? 昨日も体調悪かったって言ってたし。遠慮しなくていいから。それじゃあ、また学校でねっ」
「あっ、芝草くんっ」
 強引に香織に傘を持たせた准は、雨の中駆け足でバス乗り場まで走り出した。
 そんな彼の後姿を見送った後、香織は嬉しそうに准に手渡された傘を見上げる。
 彼の優しい心遣いが、彼女には嬉しくて仕方がなかったのだ。
 そして頬を赤く染めながら、ゆっくりと歩き出し始める。
 ……その時。
 突然胸がドキドキと鼓動を早め、身体が異様なくらいにカアッと熱を帯び始めたのを香織は感じた。
「はあ……っ」
 急に呼吸が苦しくなり、香織は大きく息を吐く。
 身体中が燃えるように熱く、そして意識までもが朦朧としてきた。
 何とか地下鉄の入り口に辿り着いた香織は、傘をたたむと近くの壁に寄りかかる。
 ドクドクと脈を打つ鼓動を感じ、香織は呼吸を整えようと大きく深呼吸した。
「やっぱり、体調……悪いのかな」
 それだけやっと呟き、そして香織は地下鉄の階段を一歩ずつゆっくりと下り始める。
 そんな足取りもおぼつかない香織だったが……彼女の手にはしっかりと、たたまれた准の傘が大事そうに握られていたのだった。