――11月1日・月曜日。
 ブルーのマセラティは、繁華街に向けて進路を取っていた。
 今にも空を赤に染めてしまおうとしている夕焼けを見て漆黒の瞳を細めてから、杜木は赤信号のためにブレーキを踏む。
 そしてそばにあった携帯電話で、おもむろに誰かに電話をかけ始める。
 杜木の予想通り、一度コールが鳴ったか鳴らないかですぐに相手が出た。
 彼はゆっくりと、そして優しく口を開いた。
「私だよ、つばさ。今日は車だから駅のロータリーで待っていてくれないかい? そうだな、あと10分程度で到着しそうだよ」
 そう言って杜木はちらりと腕時計を見る。
 駅のロータリーまでそれほど距離はなかったが、夕方の繁華街は少し渋滞していた。
 だが人で賑やかになってきた繁華街には目もくれず、杜木は黒い前髪をそっとかきあげる。
 それから携帯電話から聞こえるつばさの声に瞳を細め、ふっと笑った。
「どこかに出かけていたのか、だって? そうだね、今日はとても大切な日だから……いや、もう用事は済んだから大丈夫だよ。おまえは本当にいい子だね、つばさ。私が行くまでいい子に待っているんだよ」
 それだけ言って、杜木は携帯の通話終了ボタンをピッと押す。
 それと同時に信号が青に変わり、ブルーのマセラティーが再び走り出した。
 そしていつの間にか夕日によって真っ赤に染まった風景をその漆黒の瞳に映し、杜木は呟いた。
「大切な日、か。おまえとまた会うその日を、楽しみにしているよ……」




 同じ頃・聖煌学園。
 教室は放課後の雑踏から少し落ち着きを取り戻し、残っている生徒も疎らである。
 だが、眞姫の周囲だけは違っていた。
 眞姫とふたりで下校しようと思いBクラスを覗いた健人は、怪訝な顔をする。
「おまえら、何やってるんだ?」
 教室に姿を見せた健人に気がつき、眞姫はにっこりと微笑んで手を振った。
「あ、健人」
「またまたお姫様の親衛隊がひとり増えたわね」
 はあっと溜め息をついて、梨華は現れた健人を見る。
 拓巳は鬱陶しそうに前髪をかきあげてから言った。
「何って、せっかく姫とふたりで帰ろうと思って迎えに来たのによ、祥太郎がついてきやがって」
 わははと笑いながら、祥太郎はブツブツ呟く拓巳の方をぽんっと叩く。
「まぁまぁ、たっくん。抜け駆けはいかんで? みんな仲良うせななー。それでもって、隙を見て俺がお姫様とふたりきりになればバッチリやなっ」
「ねえ、祥太郎。そういうのを抜け駆けって言うんだよ、意味分かって使ってる?」
 わざとらしく嘆息し、准はちらりと祥太郎に視線を向けた。
 そんな准を楽しそうに見て、祥太郎はハンサムな顔に笑みを浮かべる。
「おー、相変わらずシャープでクールなツッコミやなぁ、准」
「ツッコミっていうか、あんたが勝手にひとりで漫才やってるだけでしょ」
「姐さんも相変わらずキツイなぁ、もっと祥太郎くんに愛の手を、なんてな」
「あのねぇっ、姐さんって誰がやねんっ」
 祥太郎の言葉につられ、梨華は裏拳でバシッと彼の胸にツッコミを入れた。
 准は今度は梨華に目を向けて冷静に言った。
「ていうか立花さん、十分立花さんも祥太郎と漫才してるように見えるのは僕だけ?」
「……放っといて、芝草くん」
 ちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめ、梨華は俯く。
 そんな一連のやりとりを見た後、健人はまるで今までの掛け合いがなかったかのように眞姫に視線を移した。
「じゃあ、姫。一緒に帰ろう」
「待て待てっ、祥太郎と准だけでも邪魔なのによ……姫と一緒に帰るのは俺だっ」
 眞姫と健人の前に立ちはだかり、拓巳はムキになってそう言った。
 その拓巳の言葉に、准は怪訝な表情を浮かべる。
「邪魔ってね、ここは拓巳たちのクラスじゃないだろう? どっちが押しかけてきたんだか。それにね拓巳、今日僕が貸した国語の問題集にドラえもんのパラパラ漫画落書きしたまま返さないでよね。しかも、ドラえもんの“え”までカタカタで書いてたけど、“え”は平仮名なのはもはや一般常識だし」
「おっ、あのパラパラ漫画、なかなかいい出来だっただろ?」
 得意気にそう言う拓巳に、准は甘いと言わんばかりに首を振った。
「いい出来ってね……ドラえもんが寄り目になってて、別の生き物みたいだったし。それに第一“ネコ集め鈴”が描かれてなかったよ」
 表情を変えずにさらりとツッこむ准に、梨華は嘆息する。
「ねぇ、芝草くん。芝草くんも十分小椋くんと漫才してる気がするんだけど? ていうか、詳しすぎっ」
 祥太郎はそんな梨華の肩を軽く叩いて、楽しそうに笑った。
「ちなみにな、ドラえもんの“ネコ集め鈴“は今故障中なんやで、知ってたか?」
「本当にあんたって、知らなくていいことは知ってるわよねぇ」
「ハンサム雑学王って言って欲しいわ、姐さん」
「だからねっ、誰が姐さんって!?」
 梨華はじろっと祥太郎に視線を向ける。
 健人はやれやれと首を振った後、再び眞姫に向き直った。
「外野は放っておいてふたりで帰るか、姫」
「ねぇ、蒼井くん。その外野に、もしかして私も含まれてるワケ?」
 心外だという表情の梨華に、健人は青い瞳をちらりと向ける。
「ていうか立花、もしかして含まれないと思っているのか?」
「ちょっと待って、僕もまさかその外野の一部とか言うんじゃないだろうね? 健人」
 訝しげな顔をして、准はいつもよりも低いトーンの声で言った。
 そんな中、今までみんなの会話を聞くだけだった眞姫は、その場にいる全員を見回してにっこりと微笑む。
「本当にみんなって、やっぱりすごく仲がいいよねぇっ」
「……姫、本当にそう思うか? 今ので」
 そんな拓巳の言葉にこくんと頷き、眞姫はぽんっと手を打った。
「あ、ドラえもんって言えば、出来杉くんの名前って英才っていうんだよね」
「侮れんな、姫……マニアックなところつくなぁ」
 感心したように祥太郎は眞姫に視線を向ける。
 その時。
「これはこれは、僕の愛しいお姫様じゃない。そしてご機嫌いかがかな、レディー」
 いきなりその場に現れ、眞姫と梨華ににっこりと上品な微笑みを浮かべるのは。
「ていうか、レディーって……貴方も相変わらずね」
 言葉とは裏腹に満更でもなさそうな表情で、梨華はいつの間にか現れた詩音を見た。
 眞姫は笑顔を彼に向けて、栗色の瞳を細める。
「あ、詩音くん」
「お姫様、昨日の夜の君はとても綺麗だったよ。深紅色の上品なドレス姿、王子はますます姫の虜になってしまったもの」
 眞姫の手をスッと取って、詩音は柔らかな微笑みを浮かべた。
「昨日の夜? どういうことだ、詩音」
 怪訝な表情をする健人に、詩音は笑う。
「おや、騎士たちもいたんだね。みんなお揃いで、どうしたの?」
「どうしたの、じゃねぇよ。ドレス姿って、一体何だよ?」
 拓巳も首を傾げながら、詩音に向き直った。
 詩音はぐるりと少年たちを見回した後、眞姫の髪を優しく撫でる。
 そして、言った。
「僕のお姫様、昨日のことはかけられた魔法が解けちゃうから秘密だよ? それじゃあ、僕は失礼するね」
「あっ、おい! どういうことなんだよっ!? き、気になる……」
 風のように去って行った詩音の背中を見送り、そして拓巳は眞姫に視線を移す。
「なぁ姫。詩音のヤツ、何のこと言ってたんだ?」
「そうよ、眞姫。昨日の夜って何のこと? なになーに?」
「そうだ、どういうことだ?」
「秘密って言われたら、やっぱ人として気になるもんやからなぁっ」
「昨日の夜、何かあったの? 姫」
 全員に一斉に尋ねられて、眞姫は言葉に詰まった。
 詩音に秘密と言われた矢先、昨日のことを話すのも気が引ける。
 どうしようかと迷って大きな瞳をぱちくりさせてから眞姫は慌てて言った。
「あ、私今からちょっと職員室に用事があるの。だからみんな先に帰ってて。じゃあ、また明日ねっ」
 それだけ言って、眞姫は鞄を小脇に抱えて歩き出した。
 一度だけ振り返って手を振り、そして彼女の姿は教室から見えなくなる。
「あっ……姫っ!?」
 教室に取り残された少年たちは、揃って大きく溜め息をついた。
 そんな少年たちに、梨華は言った。
「ったく、あんたたちが一斉に聞くからでしょ!? デリカシーないわねぇっ」
「いやいや、一番興味津々やったのは梨華っちやった気がするんやけど?」
「うるさいわねぇっ。ほらみんな、諦めてさっさと帰るわよっ」
 じろっと祥太郎を見てから、梨華は少年たちを促す。
 全員が梨華の言う通りに教室を出て、そしてぞろぞろと靴箱に向かう。
 そんな中、健人はふと振り返って呟いた。
「ていうか、姫……昨日の夜、一体何があったんだ?」
 ……少年たちが梨華に率いられて下校しようとしていた、その同じ頃。
 何とか質問攻めから逃げ出せた眞姫は、職員室に向かって歩いていた。
 昨日のことを話そうにも、どこからどこまで話をしていいのか眞姫には分からなかった。
 詩音と先生の関係は、詩音本人も特に内緒にしているわけではないと言っている。
 だが、自分が軽々しく話すのもどうかと思ったのだった。
 きっと少年たちは、ふたりの関係を聞いたらものすごく驚くだろう。
 とりあえず今日のところは質問から逃げることができて、眞姫はホッとする。
 そして栗色の髪をかきあげて、眞姫は職員室のある一階へと階段を降りた。
 その時。
「あ、職員室じゃなくてこっちかな……?」
 ふと振り返り、眞姫はそう呟いた。
 それから進路を180度変え、廊下を歩き出す。
 しばらく歩いた眞姫が立ち止まったのは、数学教室の前だった。
 緊張気味にドアをノックし、そして眞姫はそっとそのドアを開ける。
「鳴海先生、いらっしゃいますか?」
「清家。どうした、何か質問か?」
 眞姫が来たことにさほど驚く様子もなく、数学教室にいた鳴海先生は切れ長の瞳を彼女に向ける。
 その視線に緊張しながらも、眞姫は数学教室に足を踏み入れてゆっくりとドアを閉めた。
「いえ、質問ではないんですけど……」
 それから先生に数歩近付き、鞄からあるものを取り出す。
 そしてそれを先生に差し出した。
「先生、今日お誕生日なんですよね? 昨日先生のお誕生日のこと知ったから、大したものは用意できなかったんですけど……これ、誕生日プレゼントです」
「…………」
 先生は眞姫の言葉に、一瞬意外そうな表情を浮かべる。
 そしてひとつ溜め息をつき、言った。
「気持ちは嬉しいが、生徒からの個人的なプレゼントは教師として受け取りかねる」
 眞姫はそれを聞いて少し俯き、頷く。
「そうですよね、ごめんなさい。でもせっかくのお誕生日だしと思ったんです」
 俯いてしまった眞姫にちらりと視線を向け、先生はもう一度嘆息した。
 それから少し間を置いて、口を開く。
「……しかしながら、昨日のこと然り、普段から父が君に迷惑をかけている。今回は特別だ、有難く受け取っておこう」
「本当ですか!? ありがとうございますっ。先生、開けてみて下さい」
 眞姫は先生の言葉に、表情をぱっと変える。
 眞姫からプレゼントを受け取った先生は、言われた通りに几帳面に中身を開けた。
 ――プレゼントの中身は、小さな手作りのケーキだった。
 眞姫は照れたように遠慮気味に先生を見る。
「先生が今日お誕生日なこと昨日の夜知ったから、お店はスーパーくらいしか開いてなくて……急いで材料買って作ったから、美味しいかどうか分からないんですけど」
 2・3人用の小さなホールのケーキを見つめていた先生は、ふと立ち上がる。
 そして言った。
「そんなところに立っていないで、座りなさい」
「えっ?」
 きょとんとする眞姫に背を向け、先生は言葉を続ける。
「見たところ、このケーキの大きさなら2・3人分の量あるようだ……君も食べていくといい。インスタントしかこの場にはないが、コーヒーでも淹れよう。そこに座っていなさい」
「えっ、でも先生……」
「清家、聞こえなかったか? 座っていなさいと私は言ったんだ」
 相変わらず強引な言葉に、眞姫はただ頷いて座るしかできなかった。
 そしてインスタントコーヒーを淹れる先生の後姿を見て、笑顔を浮かべる。
「先生、お誕生日おめでとうございます」
「……意外とせっかちだな、君は。今コーヒーが入る、もう少し待ちなさい」
 先生はそう言って淹れ終わったコーヒーを机に運び、切れ長の瞳を眞姫に向けた。
 それから少し間を置き、ひとつ咳払いをして言った。
「生徒からプレゼントを貰うことは、教師として考えかねることであるが……一個人としては嬉しく思っている。ありがとう」
 眞姫はそんな先生の言葉に、嬉しそうに満面の微笑みを向ける。
「先生に喜んでもらえて嬉しいですっ。あ、ケーキ食べてみてくださいっ」
「待ちなさい、今正確にケーキを二等分するところだ。コーヒーに砂糖とミルクが必要ならば、そこに置いてあるものを自由に使用するように」
 慎重にケーキにナイフを入れる先生を、眞姫は満足そうに見つめている。
 それから鼻をくすぐるコーヒーの香りに微笑んで棒状の砂糖をひとつ入れ、ゆっくりとかき混ぜたのだった。




 その日の夜。
 一日の職務を終えた鳴海先生は、自宅である高級マンションへと帰路に着いた。
 エレベーターが自宅のある階に到着し、先生はカツカツと歩き出す。
 そして自分の部屋の前で、ぴたりと足を止めた。
 だが部屋に入るための鍵を取り出すわけでもなく、先生は視線を下に向けたまま立ち止まっていた。
 その切れ長の瞳が見つめているものとは。
「…………」
 鳴海先生は無言で屈んで、部屋の前に置いてあったあるものを手に取った。
 それは――純白のダイヤモンドリリーの花束。
 光を反射するその花びらが、鳴海先生のブラウンの瞳に眩しく映る。
 そして花束に添えてあるカードを見つけ、先生はそれを開いた。


“Happy Birthday”


 カードにはただ一言、それだけが手書きで書かれている。
 だがその筆跡は、見覚えのあるとても懐かしいものだった。
 先生はもう一度ダイヤモンドリリーの花に視線を戻し、呟いた。
「……杜木」


 ダイヤモンドリリーの花言葉は、“また会う日を楽しみに”。


 先生は瞳を閉じて何かを考える仕草をしてから、部屋の鍵を開けて室内へと歩を進める。
 そして光を反射するその純白の清楚な花束が、先生の腕の中で何かを語りかけるかのようにそっと揺れたのだった。

 





第5話「意志を継ぐ者」 あとがきへ