8月8日・日曜日。
 都会の喧騒から離れた、小高い丘の上。
 派手ではないがセンスのよい黒を基調とした服に身を包み、端整な容姿の男・杜木慎一郎はそこにいた。
 激しく照りつける夏の太陽も気にせず、涼しげな表情で彼はゆっくりと歩いている。
 そんな彼の手に抱えられているのは、白いカサブランカの花束。
 彼の黒い服装に真っ白な花がよく映えていた。
 そしてしばらく歩いていた彼の足が、ある場所でぴたりと止まる。
 漆黒の瞳を優しく細めて、杜木は呟いた。
「今年も会いに来たよ、俺の宝物……」
 愛おしそうに柔らかな表情を浮かべて、彼はふとしゃがみ込む。
 そして、持っていた花束をそっと置いた。
 そこは――誰のものであろうか、ひとつの墓の前であった。
 杜木は深い色を湛える漆黒の瞳を、ただじっとその墓に向けている。
 その眼差しは、部下である“邪者”に向けるものとも、最愛の女性である由梨奈に向けるものとも、また違った色をしていた。
 周囲はシンとしていて人影も見えず、セミの鳴き声がうるさいくらいに耳に響く。
 だが、彼の耳にはそれさえも届いてはいないようだった。
 ただじっと、異様なまでに真っ白なカサブランカと太陽に照らされた墓だけを見つめている。
 それから、どれくらい時間が経っただろうか。
 しゃがんでいた杜木が、ふっと立ち上がる。
 漆黒の瞳を背後に向けると、フッと整った顔に笑みを浮かべて言った。
「まだ、おまえと再会するのは早すぎる……おまえもそう思っているんだろう? 今はまだ、な」
 そう言って笑って、そして杜木は歩き始める。
 瞳と同じ漆黒の髪が、ふわりと揺れた。
 杜木は足を止めないまま、一瞬振り返る。
 微笑みを浮かべるそんな杜木の漆黒の瞳には、花の鮮やかな白だけが映っていたのだった。




「おはよう、姫」
 鼻をくすぐるいい匂いにつられて台所を覗いた健人は、その場にいた眞姫に声をかけた。
 トントンと軽快な音を立てていた包丁の音が、ぴたりと止まる。
「あ、健人。おはよう」
 にっこりと微笑んで振り返った眞姫には、レースのエプロンがとてもよく似合っている。
 普段見ることのできない彼女のその姿に、健人はしばし目を奪われていた。
 そんな健人の様子にも気がつかず、眞姫はふと時計に目を移す。
「みんな、もう起きてくる頃かな? ちょっと待ってて、朝ごはん作るね」
「もしかして、姫が朝食作ってくれるのか?」
 少し驚いた様子の健人に、眞姫は照れたように頷いた。
「うん。こういうのって、女の子の仕事でしょ?」
「大丈夫か? ちゃんと食べられるものにしてくれよ」
 ふっと微笑んで、健人は眞姫の頭をポンと叩く。
 その言葉にムッとした表情を浮かべた眞姫だったが、得意気に皿に乗っているウィンナーをひとつ摘んだ。
「こう見えても私、料理得意なのよ? ほら見て、このタコウィンナー可愛いでしょ」
「タコウィンナーか、うまそうだな」
 少し感心したようにそう呟いた健人だったが。
「……えっ!?」
 次の瞬間、眞姫は大きな瞳を見開いた。
 健人が眞姫の手首を掴んだかと思うと、彼女の持っているタコウィンナーをパクッと口に運んだのだ。
 急に彼の柔らかな唇の感触が指に伝わり、眞姫は思わず顔を赤らめる。
「うん……なかなか美味いよ、姫」
 自分を見つめる青の瞳が、嬉しそうに細くなる。
 綺麗なブルーアイに見つめられ、眞姫は慌てて言った。
「あっ、お、美味しかった? よ、よかった」
「姫って器用なんだな、不器用そうに見えるけど」
「不器用そうって……健人食べちゃったから、タコウィンナーみんなよりひとつ減らしとくからね」
 くすっと楽しそうに微笑む健人を振り返り、眞姫は悪戯っぽく笑う。
「姫、おはよう。あれ、健人もいたんだ」
 その時、起きてきた准が台所にひょこっと顔を出した。
 そんな准に笑顔を向け、眞姫は言った。
「おはよう、准くん」
「准、拓巳と祥太郎はまだ寝てるのか?」
「さっき洗面所でふたりとも会ったよ。まだ寝ぼけてたみたいだから、ここに来るのはもうちょっとあとだと思うけど」
 健人にそう答えてから、准は再び眞姫に目を向ける。
「いい匂いだね。姫が作ってくれたの?」
「うん。でもこれはね、お弁当用なんだけど」
「お弁当用? もしかして、弁当まで作ってくれてるのか?」
 驚いた表情をする健人に、眞姫はにっこり微笑む。
「せっかくいい天気だから、外でお弁当っていうのもいいでしょ? あ、朝ごはん作るからふたりとも座ってて」
「そんな、姫にだけ作らせて悪いよ、何か手伝うことない?」
「ありがとう、准くん。でも大丈夫よ?」
 自分を気遣う准に、眞姫はそう言った。
 その時。
「おっ、何かうまそうな匂いがしてるな。おはよう、姫っ」
「いやぁ、エプロン姿もまた可愛いなぁっ。何か新婚さん気分やなぁっ。おはようさん、お姫様っ」
 拓巳と祥太郎が姿を見せ、途端に台所が賑やかになる。
「拓巳、祥ちゃん、おはよう。もうすぐ朝ごはんできるから、みんな座ってて」
「えっ、姫が作ってくれてるのか!? 何か、マジで新婚みたいじゃねーか……」
 少し照れたようにそう呟く拓巳に、健人は溜め息をついた。
「ていうか、こんなにぞろぞろいたら姫の邪魔だろう? 大人しく座ってろ、拓巳」
「あのな、おまえだって邪魔なのは同じだろーがよっ」
 健人の言葉に、拓巳はムッとしたような表情を浮かべる。
「こう見えても祥太郎くん、料理も得意なんやっ。姫、俺の華麗なテクニック見せたろか?」
 ちゃっかり眞姫の肩を抱き、祥太郎はニッと悪戯っぽく笑った。
「祥太郎。健人の言う通り、姫の邪魔しちゃ駄目だろう?」
 呆れたように、准は冷たい視線を祥太郎に向ける。
 眞姫は賑やかな台所の状況にくすっと笑って、そして言った。
「もうできるから、みんな座ってて。私は大丈夫だから」
 わいわいと騒いでいた少年たちは、眞姫の言う通りに台所から食堂へと移動しだす。
「何か手伝うことがあったら遠慮なく言ってね、姫」
 最後に食堂をあとにしようとした准は、振り返り様に眞姫に微笑む。
「うん、ありがとう。あ、そういえば准くん……」
 眞姫は、ふと思い出したように准に視線を向けた。
 そして、言葉を続ける。
「鳴海先生知らない? 朝ごはん、いらないのかな?」
「先生なら、用事があるって出かけたよ? さっき急に呼び出されたんだ、僕」
「もう出かけちゃったんだ、先生」
 うーんと考える仕草をしてから、眞姫はお皿を一組ずつ食器棚に戻した。
「それにしても、准くんいろいろと大変ね」
 何かあるたびにいつも先生に呼び出されるのは、何故か准である。
 それを思い出して眞姫はそう呟く。
 苦笑しながらも、准は言った。
「大丈夫だよ、慣れてるから。それに、何だか知らないうちに僕が映研の部長になってるみたいだし」
「し、知らないうちに?」
 自分が強引に学級委員にされたことを思い出し、眞姫はあの先生らしいなと妙に納得する。
 そんな眞姫の様子を見ながら、准は微笑んだ。
「それにね、副部長は祥太郎みたいだよ? 本人は知らないっぽいけどね」
「祥ちゃんは知らないの? 何だか可笑しいね」
 くすくす笑う眞姫に優しい笑顔を向け、准は再び歩き出した。
「それじゃあ姫、何かあったら言ってね」
「うん、すぐ朝ごはんできるから」
 准が台所から出て行ったのを見送ってから、眞姫はもう一度時計を見る。
 そしておかずをひとくち味見して満足そうに頷いたあと、呟いた。
「それにしても鳴海先生、どこに行ったんだろ?」




 愛車のダークブルーのウィンダムで走ること、数時間。
 すでに、太陽が南中に位置するほどの時間になっていた。
 鳴海先生は長いドライブを終え、ようやく愛車を止める。
 車を降りた瞬間、生ぬるい風が彼の濃いブラウンの髪を撫でた。
 切れ長の瞳にかかる前髪をそっとかきあげ、先生は歩き出す。
 そして、ある場所で足を止めた。
 切れ長の瞳に映ったものに、鳴海先生はふと表情を変える。
「これは……」
 目の前には、墓前に供えられた美しいカサブランカの花が風に小さく揺れている。
 それが誰によって添えられたのか、先生には分かっていた。
 そして複雑な表情でしばらくそれを見つめていたが、おもむろにふと背後を振り返る。
「あ、やっぱりここに来てたんだ、なるちゃんっ」
「ご機嫌いかがかな、鳴海先生」
「おまえたち……」
 先生の背後から、由梨奈と詩音が姿をみせた。
 相変わらず露出度の高い服を着ている由梨奈は、スッとかけているサングラスを外す。
「今日は8月8日ですものね、いるかなぁって思って合宿所に行く前に寄ってみたの。ね、詩音ちゃん」
「ミセスリリーとのドライブは、僕は嫌いじゃないからね」
「…………」
 先生は何も言わずに、再びその墓に目を向けた。
 そんな彼に、由梨奈は言った。
「カサブランカの花……慎ちゃんと会った? なるちゃん」
「いや、俺も今着いたところだ。杜木とは、会っていない」
「そっか、会ってないんだ」
「それに……まだ俺たちが再会するには、少し早すぎる」
「……なるちゃん」
 鳴海先生の言葉に、由梨奈は複雑な表情を浮かべる。
 詩音はおもむろにしゃがんで、カサブランカの花をそっと手に取った。
「本当に威厳があって上品だ。花言葉は“純潔”、純白のこの花にぴったりだね」
 詩音はそう言って、上品な顔に微笑みを浮かべる。
 そして鳴海先生は無言のままその切れ長の瞳に、眩しいほど白い美しい花をじっと映していたのだった。




「姫の作った弁当、めちゃめちゃ美味しかったよ。ご馳走様っ」
 ごくごくと麦茶を飲みながら、幸せそうに拓巳はそう言った。
「本当? よかったぁっ」
「姫は将来、いいお嫁さんになるでっ」
「あはは、祥ちゃんったら。あとは相手が見つかるかどうかだけどね」
 くすくす笑う眞姫に、その場にいる少年たちがみんな反応したのは言うまでもない。
 時間は、昼を過ぎている。
 夕方帰るまで夏休みをもらった少年たちは、今までにない幸せを感じていた。
 照りつける日光を後目に、拓巳は勢いよく立ち上がる。
「よしっ、姫の特製弁当も食ったことだし、パーッと遊ぼうぜっ」
「澄んだ空、青い海、輝く太陽、それに隣にはお姫様。最高の夏休みやなぁっ」
「せっかくだから、海に入りたいな」
 眞姫も持ってきた麦わら帽子をかぶって、拓巳と祥太郎に続いて立ち上がった。
「そうだね、水着持ってくればよかったな」
 そう言った准に、眞姫も同意したように頷く。
「本当ね、そこまで気が回らなかったわ」
「いやぁ、俺も姫の水着を拝み……いやいや、水着で豪快に泳ぎたかったわ」
「本音が見え隠れしてるぞ、祥太郎」
 健人は青い瞳を細め、祥太郎に向けた。
「よーし、海に入ろうぜっ!」
「あっ! 待って、拓巳っ。私も行くっ」
 はしゃぐように走り出した拓巳に続いて眞姫もサンダルを脱ぎ、楽しそうに砂浜を駆け出す。
 勢いよく海に入った瞬間、ひやりとした水の感触を感じた。
 小さな波が、彼女の足に向かって寄せては引いている。
 裸足になった少年たちは童心に返ったかのように、夏の海の中をザブザブと歩を進めた。
 何よりも楽しそうに笑う眞姫の姿が自分のそばにあるというだけで、彼らにとってこの上ない幸せである。
「おーい、姫っ」
 その時、拓巳は眞姫を手招きした。
 首を傾げながらも彼女はパシャパシャと海の中を歩き、彼のそばに近寄る。
「ほら、海の中よーく見てみろよ、姫」
「え? 何なに?」
 拓巳に言われ、眞姫は膝を曲げて海の中を覗いた。
 その時。
「きゃっ!」
 パシャッと顔に水をかけられ、眞姫は思わず声をあげる。
 驚いたと同時に、頬に触れた水がとても気持ちよかった。
「もうっ、拓巳ってばっ!」
「わははっ、怒った顔も可愛いな、姫……わっ!」
 大声で笑う拓巳に、眞姫は両手で水をすくってお返しと言わんばかりにかける。
「やったな、姫っ。おりゃっ」
「キャッ、もーうっ」
 パシャパシャと楽しそうに水をかけ合うふたりの間に、ほかの少年たちも割って入る。
「お姫様は、このハンサムガイ・祥太郎くんが守ってやるでっ」
「わっ、おまえなっ! 水かけすぎだぞ、祥太郎っ」
「水もしたたるいい男っていうやろ? ま、たっくんにそれが当てはまるかは別やけどなっ」
「何だよ、ぴったりじゃ……おい、かけすぎだって言ってんだろっ!」
 むきになって水のかけ合いをする拓巳と祥太郎に、眞姫はくすっと笑った。
「姫、白いワンピースがびしょ濡れだよ?」
 優しく笑って、准も眞姫に加勢する。
「わわっ、何だよっ、准まで俺をいじめる気かっ?」
「いじめるとは随分な言い様じゃない、拓巳。拓巳の行動に対して、それ相応に対処してるだけだよ。ね、健人」
「仕方ないだろ、拓巳。おまえはそういう役回りなんだからな」
 青い瞳を細め、健人は拓巳の背後から思い切り大量の水をかけた。
 もろにそれをかぶり、拓巳はブルブルと頭を振って振り返る。
「わっ、冷てぇっ! 健人、おまえなぁっ!」
「!」
 ふっと拓巳が動いたかと思うと、健人の身体を力いっぱい押した。
 急に押され、健人の身体がバランスを崩す。
 だが健人はただでは倒れず、咄嗟に拓巳の袖を掴んだ。
「わわわっ!」
「……!」
 バシャッと、ふたりの身体が同時に海の中に倒れこむ。
 全身びしょ濡れになった健人は、青い瞳を隣の拓巳に向ける。
「拓巳、おまえな……」
「くそっ、倒れるならひとりで倒れろよなっ」
 倒れたふたりに、祥太郎はさらにバシャバシャとかける。
「わはは、まさに水もしたたる、やなっ」
「っ、祥太郎っ!」
「まったく、ふたりとも全身びしょびしょじゃない」
「とか言いながら……何気に一緒に水かけてんじゃねーよ、准っ」
 じゃれ合う少年たちに、眞姫は楽しそうにくすくすと笑っている。
 夏休みらしいこの時間は、眞姫にとってとても幸せなものだと強く感じた。
 そして目の前ではしゃぐ少年少女の姿は、どこにでもいる普通の高校生の姿だった。
 ……その時。
「あっ!!」
 眞姫は、思わず叫んだ。
 その声に、少年たちは振り返る。
 それと同時に一陣の風が吹きつけ、眞姫の麦わら帽子が風に飛ばされたのが見えた。
 風に乗った麦わら帽子は結構な距離を飛ばされ、ふわりと海に着水する。
「あ、取ってこなきゃ」
 そう言った眞姫に、拓巳はニッと笑った。
「よーし、姫の麦わら帽子争奪競争だっ」
「んじゃ、勝ったもんが姫と一日デート、なんてどうや?」
「姫とデートか。いいな、それ」
「まったく、子供なんだから。仕方ないな、姫はそこで待っててね」
 4人は顔を見合わせ、そして示し合わせたように海の中を駆け出す。
 お互い水をかけ合ったり身体を押し合いながら麦わら帽子目がけて走る少年たちの姿を見て、眞姫は楽しそうに微笑む。
 ふと、その時だった。
「……?」
 眞姫は、おもむろに振り返る。
 風が再び吹き、栗色の髪が大きく揺れた。
 そんな乱れる髪の様子も気にとめず、眞姫は少年たちに背を向ける。
「誰かが、呼んでる?」
 それだけ呟いて、眞姫は無意識的に声のする方角へと視線を移した。
 眞姫を誘うかのように、真っ白なワンピースの裾をパタパタと風が煽る。
「この声、どこかで聞いたことがある……」
 そう言って眞姫はまるで何かに憑りつかれたかのように、大きな瞳を凝らした。
 そして真っ青な海に背を向けて、足早に歩き出したのだった。