8月7日・土曜日。
 外はうだるような真夏の猛暑だが、喫茶店内は冷房が効いていて少し肌寒いくらいである。
 そんな快適な環境の中、綾乃は嬉しそうに練乳とイチゴシロップのたっぷりかかったカキ氷を食べていた。
「ねぇ綾乃、さっきパフェ食べたばっかりじゃない。相変わらずよくそんなに甘いものばっかり食べられるわね」
 呆れたように綾乃を見てから、連れの少女・立花梨華はそう言った。
 綾乃はそんな梨華に、屈託のない笑顔を浮かべる。
「まぁまぁ、梨華。このカキ氷美味しいよぉ、食べてみる?」
「私も甘いもの好きだけど、綾乃には負けるわ」
 梨華はそう言って紅茶をひとくち飲んだ。
 そして何かを考えるように、ふっと視線を下げる。
 それからバックから携帯を取り出し、画面に目を移した。
 テーブルに頬杖をついて、梨華はぽつりと呟く。
「今週に入ってから1日も連絡が取れないって……何してるんだか」
 梨華は、はあっと大きく嘆め息をついた。
 綾乃はそれを見て、意味あり気に笑う。
「ねぇ、それってもしかして、祥太郎くんのこと?」
「えっ? う、うん」
 綾乃の言葉に一瞬驚いた表情をした梨華だったが、こくんと頷いた。
 綾乃はカキ氷を食べる手を止めて、何かを考える仕草をする。
「今週に入って連絡が取れない、ねぇ」
「何やってるんだか、あいつ。メールすら返事ないのよ? いつもはマメなくせに……」
「ふーん、祥太郎くんのことがそんなに心配なんだぁ。可愛いなぁ、梨華ってばっ。まさに恋する乙女は何とやらってねーっ」
 きゃははっと楽しそうに笑う綾乃に、梨華は顔を真っ赤にさせて首を大きく振る。
「なっ、別にあんなヤツのことなんか心配とかするわけないでしょっ、どうせどこかで女の子ナンパしてたりしてるんじゃないのっ?」
「本当は心配なくせに、照れちゃってぇ」
「だから、照れてなんかないってばっ」
 ぷいっと綾乃から視線を逸らしてから、梨華は再び俯いた。
 そして太陽のギラギラ照りつける外に視線を移し、呟く。
「でも……本当に何やってるのかしら、あいつ」
「…………」
 綾乃も梨華の視線を追うように、漆黒の瞳を外に向けた。
 ……次の瞬間。
 そんな綾乃の表情が、ふと変わった。
 持っていたスプーンをおもむろにテーブルに置いてから、急に立ち上がる。
 そして梨華ににっこりと微笑んで、綾乃は言った。
「あ、そうだ、外で電話してきていい? すぐ済むから、ちょっと待っててーっ」
「うん、いってらっしゃい」
 綾乃は携帯電話を持って梨華に手を振り、店の外に出る。
 涼しい店を出た瞬間、ムッとした外の熱気を感じた。
 綾乃はその暑さに顔を顰めながらも、その漆黒の瞳を細める。
 そして気を取り直して笑顔を浮かべ、言った。
「杜木様……どうされたんですか?」
「ちょっと通りかかっただけなんだが、綾乃の気配を感じてね」
 そう言って優しく微笑み、目の前のその男・杜木は前髪をかきあげる。
 かけていたサングラスを外して、彼は続けた。
「今からつばさと会うんだよ。昨日のことは聞いたが、君の口からも直接聞きたいと思ってね」
「昨日のこと、ですね」
 綾乃は杜木の言葉に頷いて、漆黒の瞳を彼に向ける。
 その色は、先程とはまったく印象が変わっていた。
「つばさちゃんが“能力者”と対峙してたから、私は杜木様に言われた通りにそれを助太刀したんです。そして例の“空間能力者”の梓詩音が来て、一時引き上げたんですけど」
 綾乃の報告に、杜木は首を振る。
「それは聞いているよ。それよりも……君は、どう感じたかい?」
 柔らかな表情のまま、杜木は真っ直ぐに綾乃を見てそう言った。
 風に煽られ、彼の黒い髪がふわりと揺れる。
 深い闇の色を湛える杜木の両の瞳は、不思議と見るものを惹きつける何かがあった。
 そんな杜木を見つめ、綾乃は首を傾げる。
「どう感じたか、ですか?」
「ああ。彼女と……由梨奈と対峙して、君はどう感じた?」
「え? えっと……格好は派手なのに、戦い方は結構慎重だなぁって思いました。それにハイヒールであんなに動けるなんて、ちょっとびっくりしました」
 うーんと昨日のことを思い出しながら、綾乃はそう答える。
 綾乃の答えに、杜木は満足そうに頷いた。
「そうか。変わっていないんだな、由梨奈」
「…………」
 今まで見たことの無いような杜木のその表情に、綾乃は思わず言葉を切る。
 そしてふっと漆黒の瞳を彼に向けて、言った。
「杜木様、あの“能力者”と杜木様は……」
「彼女は僕の愛している女性だよ、綾乃」
 綾乃の言葉が言い終わる前に、杜木はそう言って笑う。
 それとは対称的に、綾乃は表情を固くした。
「じゃあ杜木様にとって、つばさちゃんはどういう存在なんですか?」
「つばさかい? 彼女は、僕にとってかけがえのない存在だよ」
 端整な顔に笑みを浮かべてから、杜木は言葉を続ける。
「つばさはね、よく似ているんだ……僕の宝物だった人に。だから心配しなくても、つばさのことは特別に思っているよ」
「宝物?」
 彼の言葉の意味がよく分からず、綾乃はもう一度首を傾げる。
 そんな綾乃を見て、杜木は言った。
「それはそうと、綾乃。この間も言ったが、近いうちに四天王全員が揃うだろう。おまえはいい子だから……僕が何を言おうとしているのか、分かっているね?」
「四天王が揃う……」
 綾乃は険しい表情を浮かべて、その言葉に俯く。
 外していたサングラスをかけてから、杜木は優しく綾乃の頭を撫でた。
「もちろんおまえのことも、私は大切に思っているよ? 綾乃」
 それだけ言って、杜木はゆっくりと歩き出す。
 生ぬるい風に揺れる漆黒の髪を気にもとめず、綾乃はしばらくそんな彼の後姿を黙って見送ったのだった。




 同じ頃。
 少年たちと眞姫は、合宿所のトレーニングルームにいた。
 合宿6日目の今日までに、少年たちは鳴海先生に有効打を与えなくてはいけない。
 もしもそれができなければ、明日の休み返上で先生特製の地獄のような訓練メニューをこなさないといけないからだ。
 夏休みをゲットすべく頑張っている少年たちであるが、何せ相手はあの鳴海先生である。
 ここ数日間、ことごとく返り討ちに合い、今日に至っていた。
 眞姫は、いつも以上に気合いの入っている少年たちをぐるりと見る。
「みんな頑張って。でも怪我だけはしないでね」
「おうっ、今日こそは死ぬ気で夏休みゲットしてやるぜっ」
 ぐっと拳を握り締めてから、拓巳は気合いを入れるために軽く頬を叩いた。
 健人は拓巳に青い瞳を見て、深々と嘆息する。
「くれぐれも、そのやる気が空回りにならないようにな。拓巳」
「あ? それは俺の台詞だ、健人。おまえこそ一番に鳴海に吹っ飛ばされないようにしろよっ」
「何だと?」
「まぁまぁ。みんなで力合わせな、あの悪魔に一矢報いれんやろ?」
 ムッとした表情をお互いに浮かべるふたりの肩をポンッと叩いて、祥太郎はニッと笑った。
「悪魔……」
 眞姫は祥太郎の言葉を聞いて、鳴海先生の切れ長の瞳を思い出す。
 確かに近寄り難い雰囲気を醸し出し、そして桁外れの強さを誇る先生ではあるが。
 少年たちに悪魔と言われている彼の瞳は、厳しい裏側に優しい光も宿っているような気が眞姫にはしていた。
 だが日頃から先生は、少年たちに対しては必要以上に厳しく指導している。
 そんな様子を見てきている眞姫は、少年たちの言うことも頷けるのである。
「姫、もうそろそろ訓練の開始時間で鳴海先生が来る頃だよ? 自習室に戻った方がいいんじゃないかな?」
 眞姫を気遣って、准が優しくそう言った。
 その言葉に、彼女はふと室内の時計に目を移す。
 時計の針がひとつ、カチッと動いた。
 それと同時に、訓練開始を告げる無機質な電子音が室内に響き渡る。
 その時だった。
 少年たち全員の表情が、無意識的にふっと引き締まる。
 眞姫は振り返って、大きな瞳を部屋の入り口に向けた。
「鳴海先生……」
 ガラッとドアの開く音がしたかと思うと、鳴海先生がトレーニングルームに入ってきたのだ。
 少年たちが全員いることを無言で確認した後、先生は眞姫に目を向ける。
「清家、訓練開始時間だ。君は自習室へ移動しなさい」
 そう言われて眞姫は、一瞬言葉を失って俯く。
 そして相変わらず鋭い先生の視線に臆しながらも、眞姫はおそるおそる言った。
「あの、見学させてもらったりとか……できないでしょうか?」
「何?」
 眞姫の意外な申し出に、先生は少し考える仕草をする。
「お姫様もれっきとした部員なんやから、ここにおる権利はあるんやないか? センセ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべ、祥太郎は眞姫の頭に優しく手を置いた。
「姫がここにいたいって言ってるんだ。おまえに姫の行動を指図する権利なんてないはずだっ」
 早々と戦意を漲らせた鋭い視線を先生に向けて、拓巳は続けて口を開く。
「…………」
 健人は敢えて何も言わなかったが、青い瞳で眞姫をじっと見つめている。
 准は大きく溜め息をつきながらも、先生の指示を待っていた。
「鳴海先生、お願いします」
 大きな瞳を先生に向けてから、眞姫は深々と頭を下げる。
 先生はちらりと彼女を見て、そして仕方がないというように言った。
「いいだろう、認めよう。ただし危険が伴う、十分に気をつけるように」
「はい、ありがとうございます」
 先生の言葉に、眞姫はパッと表情を明るく変える。
 眞姫が邪魔にならないように部屋の隅に移動したのを見計らい、鳴海先生は右手を翳した。
 瞬時にその掌に大きな光が宿ったかと思うと、あっという間に周囲に“結界”が形成される。
 健人はその時、ふと背後の眞姫を振り返った。
「頑張ってね、健人」
 その視線に気がついて軽く手を振り、眞姫はにっこりと微笑む。
 自分に向けられた笑顔に青い瞳を細めながら、健人は頷く。
「ああ。ありがとう、姫」
「お姫様も見とるんや、ええ格好するなら今がチャンスやで?」
 健人の肩をバシバシ叩いて、祥太郎はそう言って笑った。
「姫も見てる、か」
 それだけ呟き、健人は軽く身構える。
 いつも以上に気合いの入っている健人を見てもう一度笑った後、祥太郎はふっと表情を変化させた。
 そして鳴海先生に視線を投げて、言った。
「鳴海センセ、もう一度確認しとくけど……映研部員の誰かひとりでもセンセに一撃当てれば、夏休みくれる約束やったよな?」
「おまえたちにそれができれば、の話だがな」
「んだとっ!? 今日こそは、絶対にぶん殴ってやるからなっ」
 キッと先生を睨みつけ、拓巳はグッと拳を握り締める。
 准は険しい表情を浮かべつつ、周囲の状況を注意深く見ている。
 そんな少年たちを一瞥し、先生は言った。
「ごたくはいい。ごちゃごちゃ言う時間など、おまえたちには1秒もないはずだろう? 時間の無駄だ、さっさとかかってこい」
「今までのように、いくと思うなよっ!!」
 そう言うやいなや、拓巳は眩い光を漲った右手をバッと振り下ろす。
 それと同時に、健人と祥太郎の掌からも大きな“気”が放たれた。
 先生の張った“結界”内を、目を覆う程の光が弾ける。
 眞姫は思わずその光に瞳を細めながらも、戦況をじっと見守った。
 夏休みを手にするためには今日一日しかチャンスがないということもあり、少年たちは最初から積極的に果敢に攻めている。
 だが鳴海先生は何事もないかのように、少年たちの繰り出す攻撃を無効化していく。
 眞姫はそんな様子を見て、改めて鳴海先生の凄さを感じたのだった。
 そして大きな光を纏う鳴海先生に目を奪われていた眞姫は、ハッと我に返ったように顔をあげる。
「あ、私が見ていなきゃいけないのは……」
 そう誰にも聞こえない声で呟いてから、眞姫はある人物の動きに視線を移した。
 先程までは“気”による攻防が繰り広げられていたが、いつの間にか少年たちは今度は一気に間合いをつめ、接近戦へと持ち込んでいた。
 四方八方から襲ってくる拳や蹴りをすべて避け、鳴海先生はスッとおもむろに瞳を閉じる。
「どうした、所詮4人がかりでもこの程度かっ!?」
 カッと先生が瞳を見開いたと同時に、大きな衝撃波が少年たちを襲う。
「くっ!!」
 准は素早くほかの少年たちの前に立ち、“気”の防御壁を張った。
 ドオンッと激しい衝撃音が響き渡り、先生の攻撃がそれにより無効化される。
 その時。
「!!」
 准はハッと顔をあげ、表情を変えた。
 衝撃を防ぐことで手一杯だった准の瞳に、いつの間にか自分の目の前まで移動してきた先生の姿が映る。
 右手に光を宿した先生の拳が、そんな准目がけて放たれた。
 咄嗟にそれを避けようとした准だったがすでに遅く、攻撃が彼を捉えんと唸りを上げる。
 その瞬間。
「……!」
 バチッという音がしたかと思うと、先生の拳は准の直前でピタリと動きを止めた。
 准は顔を上げ、自分と先生の間に割り込んできた人物を見る。
「! 健人っ」
 掌に“気”を漲らせた健人が、准を捉えんとしていた先生の拳を咄嗟に受け止めたのだった。
 青い瞳で先生に鋭い視線を投げ、健人は空いている左手で至近距離の先生目がけて“気”を放つ。
 カッと大きな光があたりを包み、健人の攻撃が鳴海先生を捉えたかに思えた。
 だが咄嗟に跳躍して、その攻撃を先生はかわす。
「甘いでっ、センセ!!」
 そう言って祥太郎は跳躍した先生の着地地点を予想し、瞬時に大きな“気”を繰り出した。
 切れ長の瞳を細め、先生は冷静に目の前に“気”の防御壁を張ってそれを防ぐ。
 お互いの威力の大きさを物語るかのように、再び大きな音が耳を劈いた。
「!」
 すべて祥太郎の攻撃を防いだ先生だったが、今度は背後に視線を向ける。
 そしてふいに背後から放たれた拳を、身を屈めて避けた。
「逃がすか、この野郎っ!!」
 素早く背後に回っていた拓巳は、先生を追従するように蹴りを繰り出す。
 拓巳の攻撃をひとつひとつ避けながらも、先生は瞳を細めた。
 そして瞬時に掌に眩い“気”を漲らせ、一瞬の隙をついて拓巳にそれを放つ。
「ちっ!!」
 クッと唇を噛み締め、拓巳は目の前に襲ってくる衝撃に表情を変えた。
 カアッと大きな光が衝撃音とともに弾け、“結界”内にその余波が立ち込める。
「……しぶといヤツらだ」
 先生はちらりと切れ長の瞳を少年たちに向けて、そう呟く。
「大丈夫? 拓巳」
「おうよっ。サンキュー、准っ」
 衝撃の余波が晴れてきたその場には、拓巳を守るように准が張った“防御壁”が形成されていた。
 眞姫は一生懸命に目の前の状況についていこうと、大きく瞳を見開いて見守っている。
 だが常識を卓越した攻防に、ただ唖然とすることしかできないでいた。
「姫……」
 祥太郎はそんな眞姫に気がつき、ふと声をかける。
 その言葉にハッと顔を上げ、眞姫は祥太郎を見つめた。
 そして、何かを決心したようにおもむろに頷く。
 祥太郎はそんな眞姫に微笑んでから、そして再び鳴海先生に目を向けた。
 健人はその神秘的な瞳に情熱的な青い炎を宿らせ、グッと拳を握り締める。
 それから、ゆっくりと言った。
「まだまだこれからだ」
「全員一緒にかかってこい。だが、おまえらごときが何人かかってこようとも同じだがな」
 拓巳は先生の言葉に、キッと鋭い視線を投げる。
「そんな口を叩いていられるのは、今のうちだっ!」
「その言葉、そっくりおまえに返してやる」
「何だとっ!? できるもんなら、やってみやがれっ!!」
 クッと唇を噛み締め、拓巳は地を蹴って一気に間合いをつめた。
 拓巳の手刀に光が宿り、気合一閃、先生目がけて放たれる。
 それを“気”を漲らせた右手で防ぎ、先生は反撃の機会をうかがう。
「健人、お望み通り全員で攻撃したろうやないか。なっ?」
 ちらりと隣の健人を見て、祥太郎はニッと笑った。
 健人は何も言わず、祥太郎の言葉に頷く。
 そして、青い瞳を細めて掌に“気”を漲らせた。
 祥太郎も同時に、眩い光を宿した右手を先生に振り下ろす。
 再び少年たちと先生の、双方の大きな“気”のぶつかり合いが始まった。
 眞姫は、じっと大きな瞳を彼らに向けている。
 驚異的な身体能力で、少年たちは先生に攻撃を仕掛ける。
 だがそれ以上に、先生の動きが尋常ではなかった。
 少年たちの攻撃を素早くかわした先生の背中が、眞姫の瞳に映る。
 間髪いれずに健人と拓巳は、そんな先生に攻撃を仕掛けようと地を蹴った。
 ……その時だった。
 祥太郎は眞姫に視線を向け、叫んだ。
「姫っ、今や! 思いっきり、ぶちかましたれっ!!」
 その祥太郎の言葉を聞いて、眞姫は意を決したように頷く。
 そして、ふっと瞳を閉じた。
「!」
 今まで表情を変えなかった鳴海先生だったが、咄嗟に振り返って切れ長の瞳を眞姫へと向ける。
 次の瞬間。
「何っ!?」
 鳴海先生は、驚いた表情を浮かべた。
 それと同時に眞姫の掌が眩いばかりの光を放ち、球体の衝撃が繰り出される。
 球状を成したそれは、大きさでいうと野球ボールほどの小さなものであった。
 だが、眞姫の掌を離れたその衝撃は凄まじい勢いと唸りを上げ、周囲の空気を切り裂く。
「……!!」
 鳴海先生は素早く身を翻し、突然襲ってきた光の球体を直前で避けた。
 鳴海先生の右頬をかすめ、目標を捉えることができなかったその小さな光の塊は威力を失わず後ろに逸れ、“結界”の壁に勢いよく激突し消滅する。
 そして目の前で起こった出来事に鳴海先生以上に驚いていたのは、祥太郎以外の3人の少年たちだった。
「えっ、何で!?」
「ひ、姫っ!?」
「……姫!?」
 准と拓巳そして健人は、驚きを隠せない表情で眞姫を見つめた。
 そんな3人を後目に、眞姫は祥太郎に視線を向ける。
「ごめん、祥ちゃん……狙いが外れちゃって」
 申し訳なさそうにそう言う眞姫に、祥太郎は満面の笑みを浮かべた。
「狙いが外れたやて? 何言ってるんや、よく見てみ? お姫様っ」
「え?」
 祥太郎の言葉に、眞姫は鳴海先生に視線を移した。
 次の瞬間、眞姫は瞳を見開く。
 鳴海先生のその端整な顔に、一筋の鮮血がはしっていたのだ。
 眞姫の放った光の塊を完璧にかわせなかった先生の右頬に、衝撃で受けた浅い傷ができている。
「ていうか姫、いつの間に“気”を放てるようになったんだよ!?」
 驚いた表情のまま、拓巳は祥太郎と眞姫を交互に見る。
 祥太郎は悪戯っぽく笑って、言った。
「そりゃあもう祥太郎先生指導の下で、夜な夜な特訓したんよな、姫」
 こくんと祥太郎の言葉に頷きながらも、眞姫はまだ信じられないように瞳をぱちくりさせる。
 そしてふと、その顔を上げた。
「!」
 少年たちもハッと顔を上げて、途端にその表情を険しくする。
「……どういうことだ、これは?」
 驚くほど静かな声とは裏腹に怒りのような激しいものを感じて、眞姫は思わず背筋がゾクッとした。
 祥太郎に向けられる鳴海先生の瞳は、今までに見たこともない程に厳しい色を湛えている。
 そして先生を取り巻く“気”がその大きさを誇示するかのように、空気をビリビリと震わせた。
 滲む鮮血を気にも留めないまま、先生は祥太郎を睨みつける。
「祥太郎、どういうことだと聞いているのが聞こえないのか?」
「どういうことって、聞いての通りや。約束やったろ? 映研部員の誰かが一撃当てれば、夏休みくれるってな。姫もれっきとした映研部員や」
 空気を震わす程の先生の“気”の圧力に表情を変えつつ、祥太郎はそう言った。
 クッと唇を噛み、先生は拳を握り締める。
 そして。
「……!!」
 カアッと眩い光が弾けたかと思うと、鳴海先生の右手から突然大きな衝撃が放たれた。
 凄まじい勢いで先生から繰り出された光は、祥太郎目がけて唸りをあげる。
 先程までと比にならない光の大きさに祥太郎は瞳を見開き、咄嗟にその手に“気”を漲らせた。
「くっ!!」
 何とか襲いかかる衝撃を受け止めて耐え、祥太郎は歯をくいしばる。
 その時。
「! なっ……」
 ハッと背後に視線を移した祥太郎だったが、一歩遅かった。
 背後に回り放たれた鳴海先生の第二波が、もろに祥太郎の身体を捉える。
「ぐっ! ていうか……何キレとるんやっ、このっ!!」
 受けた衝撃に顔を顰めつつ、祥太郎も応戦するために“気”を放った。
 祥太郎の放った眩い光が、幾重にも重なって“結界”内に広がる。
 そんな様子にも動じず、先生は切れ長の瞳を祥太郎に向けた。
 そして信じられない程の運動能力でそれらの光をかわし、間合いをつめる。
「!」
 次の瞬間。
 鳴海先生の繰り出した拳が、祥太郎の右の頬を捉えた。
 ガッと鈍い音がしたかと思うと、祥太郎はその威力に飛ばされて壁に身体をぶつける。
 思わず片膝をつく祥太郎を一瞥し、先生はゆっくりと彼の方に歩を進めた。
「私が何故、清家を合宿に参加させないと言ったか……おまえも聞いていたはずだ」
「くっ……ああ、もちろん聞いてたで」
「ではおまえは、分かっていながらも清家に“気”の放ち方を教えたというのか?」
 そう言った鳴海先生の右手が再び輝きを増し、バチバチと“気”を宿して激しい音を立てる。
 唇を噛み締め、祥太郎は先生に鋭い視線を向けた。
 そして立ち上がり、大きく頷く。
「ああ、その通りや。センセの言ってることは分かってたけど、俺の判断で姫に“気”の放ち方を教えたんや」
「…………」
 祥太郎の言葉に先生は怪訝な表情を浮かべ、ふっと右手を振りかざした。
 その時だった。
「鳴海先生っ!」
 あまりの展開に驚いて動けなかった眞姫だったが、たまらずにふたりのそばに駆け寄る。
 そして真っ直ぐに鳴海先生に瞳を向けて、言った。
「先生との約束を破ったのは私です、だからもう……っ!」
「……清家」
 先生は、その切れ長の瞳を近づいてきた眞姫に向ける。
 そして視線を逸らして瞳を閉じ、掲げていた右手をスッと下ろした。
 それから鳴海先生は、眞姫と少年たちを残して無言でトレーニングルームを出て行く。
「つつつっ……思いっきり殴りよって、ハンサムな祥太郎くんの顔が台無しやんけ」
 ぺたんとその場に座り込んで、祥太郎は苦笑した。
「祥太郎、僕は殴られて当然だと思うんだけど?」
 冷めた視線を投げ、准は祥太郎にそう言い放つ。
 拓巳はまだ驚いた様子で呟いた。
「それにしても“気”の塊は小さかったとはいえ、すっげースピードだったよな、姫の放った“気”。いくら不意打ちとはいえ、あの鳴海が避けられなかったなんて」
 健人はどうしていいか分からない表情の眞姫に近付き、声をかける。
「姫、大丈夫か?」
「健人……」
 肩をぽんっと叩かれ、眞姫は我に返った。
 そして振り返って健人を見つめる。
 その瞳は、困惑の色を湛えていた。
 健人は優しい青い瞳を向け、彼女の頭を撫でる。
「そんな顔するな、姫はよく頑張ってるよ」
 その言葉に、眞姫は俯いた。
「でも……」
 視線を地に向けていた眞姫だったが、急にふっとその顔を上げる。
「やっぱり私、鳴海先生に……」
 そしてそれだけ呟き、眞姫はおもむろにドアを開けて部屋を駆け出す。
 そんな後姿を見送って、健人は青い瞳を祥太郎に向けた。
「姫に“気”の放ち方を教えてたなんて知らなかったよ、それにしてもよく考えたな」
「信じられないよっ、姫の体調のこととか少しは考えてるの? まったくっ」
「ていうか祥太郎、姫が止めなかったら、おまえ確実に鳴海に殺されてたぞ?」
 思い思いに口を開く少年たちに、祥太郎は苦笑する。
「確かに実行したのは俺やけど、ヒントをくれたのは詩音やで? 姫の放った衝撃の勢いには、正直俺も驚いとるんやけどな」
 その頃。
 眞姫は廊下で鳴海先生にようやく追いつき、足を止めた。
「鳴海先生っ」
 眞姫の声に、先生はふと立ち止まる。
 まだ息を切らしている眞姫であったが、大きな瞳で先生を見つめて言った。
「先生、すみませんでした……でも私、もっと自分で自分の力を使いこなせるようになりたくて。だから、祥ちゃんに“気”の放ち方を教えてもらったんです」
 ふっと振り返り、先生はじっと切れ長の瞳に眞姫を映す。
 それから目を閉じて、溜め息をついた。
「向上心が高いことは大いに結構。だが、くれぐれも無理だけはするな」
 そして再び歩き出し、言葉を続ける。
「今回の件は、まったくもって感心できないが……約束は約束だ」
「え?」
 眞姫は顔をあげ、先生の言葉に首を傾げた。
 まだよく分かっていない眞姫を後目に、先生は言った。
「明日は夏休みにする。あいつらにもそう伝えておけ」
「鳴海先生……」
 それだけ言って歩き出した先生の後姿を、眞姫は黙って見送る。
 先生は、ふと右の頬に受けた傷に手を当てた。
 傷は浅かったが、それは眞姫の放った“気”の塊が小さく未完成なものだったからである。
 だが、未完成ながらもその衝撃の速さと勢いは、正直目を見張るほどのものであった。
 先生は“浄化の巫女姫”である眞姫に眠る能力の大きさを、この時改めて感じたのである。
 そして大きく溜め息をついて掌に“気”を漲らせ、その端整な顔にできた傷をスッと消したのだった。