眞姫の姿が見えなくなったことに最初に気がついたのは、准であった。
 ほかの少年たちと同じように、お姫様の飛ばされた麦わら帽子目がけて海の中を進んでいた准は、ふと振り返って表情を変える。
「姫……?」
 自分たちが彼女から離れた時間は、5分もなかったはずだ。
 なのに、青い海の中で自分たちを笑顔で見つめているはずの彼女の姿はどこにも見当たらない。
 突然立ち止まって背後に視線を向ける准の様子に、健人が声をかける。
「どうした、准?」
「姫が、いないんだ」
「え?」
 准の言葉に、健人は表情を変えて顔を上げた。
 拓巳と祥太郎もその異変に気がつき、その足を止める。
 少年たちの瞳には、ただ広がる真っ青な海だけが映っていた。
 そして小さく寄せては引いている波をかき分け、健人は眞姫のいた方向に走り出す。
「姫……どこにいったんだ?」
 走り出した健人の後姿を見ながら、拓巳はそう呟いた。
「とりあえず、戻ってみるか?」
 祥太郎は健人に遅れて回れ右をし、歩き出す。
 拓巳も頷いてそれに続いた。
 准は心配そうな表情を浮かべながらも彼らと反対に進路を取り、そして海に浮かんでいる眞姫の麦わら帽子をそっと手に取る。
 軽く帽子についた水を振り払い、それから准もほかの少年たちの後を追うように歩き出した。
「特に変わった気配も感じんかったから、何か用でもあって少しこの場を離れたんやないか?」
 眞姫のいた場所に先に辿り着いていた健人に、祥太郎はそう言った。
 健人はおもむろに、その青い瞳を砂浜に向ける。
 そして、首を横に振った。
「姫のサンダルは、砂浜に置かれたままだ」
「でもよ、もしも誰かに姫が連れて行かれたんなら、気配で分かるはずだぜ?」
 ふたりに追いつき、拓巳は眞姫を探すかのように周囲に視線を向けて言った。
 麦わら帽子片手に、准は3人の少年たちを見回す。
 そして何かを考えるような仕草をした後、口を開いた。
「もう少し待ってみようよ。祥太郎の言う通り、特に変わった気配も感じないし」
 そう言った准に一瞬ちらりと青い瞳を向けてから、健人はザブザブと海から出る。
 そして素早く靴を履き、一緒に置いていた自分のシャツを片手に取った。
 健人の突然の行動に、准は怪訝な表情を浮かべる。
「健人?」
「俺は姫を探しに行く。おまえたちはここにいてくれ」
 それだけ言うと、健人は走りだした。
「ちょっと、健人っ! 人の話、全然聞かないんだから」
 はあっと溜め息をつく准に、拓巳も言った。
「俺も姫を探しに行って来るぜ、こんなところでじっとしてられるかよっ」
「探すって、どこ探すんや? 姫の居場所が分かる“空間能力者”ならいざ知らず、下手に動いたら拓巳まで迷子になるで」
「そうだよ。姫も戻ってくるかもしれないし、それにもしも姫の身に危険な何かが起こっているんだったら、僕たちが気がついているはずだろう?」
「それはそうだけどよ……」
 まだ納得いかない様子の拓巳に、祥太郎はポンッと肩を叩いた。
「確かに姫のことは心配やけどな、大袈裟に騒ぐのもどうかと思うで? 姫のことや、可愛い顔して戻ってくるって、な?」
「そうだな。特に今のところ、妙な“気”とかは感じないしな」
 祥太郎の言葉に頷いて、拓巳は瞳にかかった前髪をかきあげる。
「…………」
 准は手に持っている麦わら帽子を握り締めてから、そして心配そうに大きく溜め息をついたのだった。




 その同じ頃。
 つばさは自分の待ち人の気配を感じて、ふとその漆黒の瞳を細めた。
 場所は、賑やかな駅のロータリー。
 つばさが顔を上げた瞬間、見慣れたブルーのマセラティが彼女の前で停車する。
 そしてその車から出てきた人物を見て、つばさは嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「待たせたね、つばさ」
 普段と変わらない優しい声でそう言って、現れた男・杜木は愛車の助手席のドアを開ける。
 彼の車に乗り込んでから、つばさは運転席の杜木に漆黒の瞳を向けた。
 彼は相変わらず柔らかい表情で、そんな彼女ににっこりと微笑む。
 つばさは、自分に向けられた彼の笑顔に嬉しそうに笑った。
「お車なんて珍しいですわね、杜木様」
「たまにはドライブもいいかと思ってね」
 そう言って、杜木は愛車のブルーのマセラティを発進させる。
 流れる外の景色には目もくれず、つばさは隣の杜木を幸せそうに見つめた。
「どちらかに行かれてたんですか? 杜木様」
 普段、“邪者”の者と杜木とが会う場所はほとんどが繁華街であるために、車は必要ない。
 いつも杜木のそばにいるつばさは何度もこの車に乗っているのだが、それでも愛車で彼が現れることは珍しかった。
 つばさの問いに、杜木はふっと端整な顔に微笑みを浮かべる。
 そして、ゆっくりと言った。
「そうだな、一年に一度の習慣でね」
「……?」
 杜木の言葉の意味が分からず、つばさは首を傾げる。
 杜木は真っ直ぐに前方を見据えながら、呟いた。
「我々の求める波動が、巫女姫を求めている……おまえには、その声が聞こえないかい?」
「え?」
 信号が赤になり、おもむろに車が止まる。
 不思議そうな顔をするつばさに、杜木は深い闇の色を湛える漆黒の瞳を向けた。
 そして彼女の頭を優しく撫で、柔らかな微笑みを浮かべたのだった。




 眞姫は海に背を向け、木々の多い茂る森の中を歩いていた。
 その足はすでに道からも外れ、道なき道を一歩ずつ進み続ける。
 そして大きなブラウンの瞳は、視点が定まっていないかのように宙に向けられていた。
 真っ白だったワンピースの裾や素足の裏は、すっかり土色に汚れている。
 だが、そんな様子を気にすることもなく、眞姫は歩みを止めない。
 眞姫を呼び続けるその“声”は、彼女の記憶の中にあるものと一致していた。
 でも、それが一体何の声なのか……そして、何のために自分を呼んでいるのか、この時の眞姫にはまだ思い出せていなかった。
 その“声”に感じる好奇心と、恐怖。
 眞姫はその声に導かれるかのように、歩き続けた。
 ……その時だった。
「!」
 ふっと人の体温を感じ、眞姫は我に返ったかのように顔を上げた。
 そして、驚いたように振り返る。
「姫っ!」
「あ……健、人?」
 ガッと自分の腕を掴んでいたのは、健人だった。
 その大きなブラウンの瞳が、彼の姿を映す。
 健人はブルーアイをまっすぐに眞姫に向け、ホッとしたように微笑んだ。
「こんなところで何やってるんだ? 心配したんだぞ」
「え? あ、あれ……私、どうしてこんなところに……いたっ」
 ふと我に返った眞姫は、血の滲む足の裏の痛みに顔を顰める。
 小さな葉や枝で、彼女の足は小さな傷が複数ついていた。
 健人はそんな眞姫を見て、ふっとしゃがんだ。
「ほら。おぶってやるよ、姫」
「え?」
 きょとんとする眞姫に、健人は言った。
「そんな足じゃ、歩けないだろう?」
「え? う、うん」
 遠慮気味に、眞姫は健人の背中に身体を預ける。
 眞姫を背中に背負った健人は、難無く立ち上がった。
 そしてもと来た方向に歩き出したのだった。
「…………」
 健人の背中のぬくもりを感じながら、眞姫はふと俯く。
 どうして自分がこんなところにいるのか、分からない。
 ゆっくりと、眞姫は自分の記憶を辿ってみた。
 少年たちと楽しく海で遊んでいたことまでは、鮮明に覚えている。
 それから風に煽られ、麦わら帽子が飛ばされた。
 そして、それから……。
 自分を呼ぶ声が、聞こえた。
 その声は、以前にも聞いたことがある声で。
 でも、その声を自分がどこで聞いたのか、思い出せなくて。
 気がついたら、その声に導かれるままに歩いていたのだ。
 眞姫はそこまで思い出し、そしてもう一度耳を澄ましてみる。
 だが、眞姫を呼んでいたその“声”は、何故か聞こえなくなっていた。
「…………」
 健人は眞姫を背に歩きながらも、彼女を気遣うかのように黙っている。
 それから眞姫は、その大きな瞳をおもむろに閉じた。
 自分を呼んだ“声”が、何の声であるのか。
 以前同じ声を聞いたのは……随分と、昔だった気がする。
 それからゆっくりと、記憶の糸を辿っていた眞姫であったが。
「あ……!」
 突然ハッと瞳を見開き、眞姫は短く叫んだ。
 その声に、健人はふと足を止める。
「姫?」
「そうだ……思い出した、あの声……」
 健人は、そう呟いた眞姫にブルーアイを向ける。
 そして、表情を変えた。
「どうした、姫?」
 健人の背中で眞姫は、その大きな瞳から大粒の涙を零していたのだった。
 ぽろぽろと溢れる涙を止められず、思わず眞姫は手で口を押さえる。
 健人は周囲を見回し、そして近くにあった少し大きめの岩の上に眞姫を座らせた。
 その隣に自分も腰掛け、まだ涙の止まらない眞姫の頭をそっと撫でる。
「姫……何があったんだ?」
 優しくそう言った健人に、眞姫は視線を向けた。
 涙で潤んだ眞姫の瞳は、とても印象的で。
 自分に向けられたその視線に、健人はドキッとした。
「私……」
 しばらく何も言えなかった眞姫だったが、ようやくぽつりと口を開く。
 健人はじっと、そんな彼女を見つめている。
「私のことを呼ぶ、声が聞こえたの」
「声?」
 いきなりそう切り出した眞姫に、健人は首を捻る。
 こくんと頷いてから、眞姫は続けた。
「さっき海にいる時に、私のことを呼ぶ声が聞こえて。それで、無意識的にその声のする方向に歩いてきちゃったみたいで……最初は、聞いたことある声だなって思うくらいで、それが何の声だったのか、いつ聞いたのかとか分からなかったんだけど」
 そこまで言って、眞姫は一息つく。
 あんなに晴れていた空は、いつの間にか太陽を遮る雲で覆われていた。
 風がビュウッと吹き抜けて、栗色の髪を大きく揺らす。
 全身に鳥肌が立つような寒気を感じ、眞姫は思わず腕に手を添えた。
 そんな眞姫の様子を見て、健人は自分の羽織っていたシャツを、そっと彼女の肩にかける。
 その優しさに小さく微笑んでから、眞姫は話を続けた。
「私ね、思い出したんだ。その“声”を、10年前にも聞いたのを」
「10年前?」
 眞姫はふっと俯き、表情を強張らせる。
「拓巳には前に話したことがあるんだけど……私ね、10年前に両親を亡くしてるの」
「え?」
 意外な眞姫の過去に、健人は驚いたように瞳を見開く。
 俯いたまま、眞姫は言った。
「その時もね、今日聞こえたのと同じ声が私を呼んでて。でも私、その声がすごく怖くて。声に抵抗して逃げ出そうとしたのよ。そしたら……いきなり目の前に炎が広がって、それが家中に燃え移って、そしてお父さんもお母さんも……」
 眞姫の瞳から、再び大粒の涙が溢れ出る。
 健人はそんな眞姫を、ぐいっと自分の胸に引き寄せた。
 そして優しく彼女の頭を撫で、言った。
「姫、つらいなら無理して話さなくてもいいからな」
 眞姫は言葉が出ずに、小さくこくんと頷くのがやっとであった。
 健人は青い瞳を彼女に向けたまま、優しく彼女の背中をさする。
 それからしばらく健人の胸の中で泣いていた眞姫だったが、再びゆっくりと話し出した。
「お父さんもお母さんもいなくなって、そしてその声の主・“邪”が私に近付いてきたの……おまえと私はひとつなんだ、って。その瞳は真っ赤で、声は地を揺るがすほど低くて。私、怖くて泣くことさえできなかった」
「姫……」
 眞姫はそこまで言って、ふうっと息をつく。
 それから健人の胸に預けていた身体を起こし、瞳に溜まっている涙を拭いた。
「でもね、その時に“能力者”の人に助けてもらったんだ。“気”で作った剣を持ってて、聖煌学園の制服を着てたの、その人」
「“能力者”に? しかも、“気”で作った剣?」
 眞姫の言葉に、健人は表情を変える。
 眞姫は再び俯いて、ぎゅっと拳を握り締めた。
「もし私が、あの時に“浄化の巫女姫”としての力が使えたら……お父さんやお母さんを、もしかしたら助けられたかもしれない。なのに私は、お父さんとお母さんを助けることができなかった……今だって、みんなに助けられてばかりで。大きな力があったって、使えなかったら何にも役に立たないでしょ? それが、悔しくて……」
 再び溢れてきた涙を、眞姫は零さぬようにと必死で耐えている。
 そんな眞姫の頭をポンッと叩いて、健人は優しく微笑んだ。
「何を言ってるんだ、姫は本当によく頑張っているよ。俺たちだって、姫にたくさん助けられてる。だから、そんな顔するな」
「健人……」
 眞姫は、健人の言葉にふと顔を上げる。
 自分を真っ直ぐに見つめる、潤んだふたつの瞳。
 健人はそっと、そんな彼女の肩を抱いた。
「姫……もうおまえに、そんな悲しい思いはさせたくない。だから、俺がおまえを守ってやる」
 そこまで言って、健人はスッと眞姫の顎を少し持ち上げる。
 健人の瞼がおもむろに閉じられ、彼の長いまつ毛が瞳にかかった。
 彼の整った顔が、ゆっくりと眞姫に近付く。
 再び一陣の風がふたりを吹きつけ、健人の金色に近いブラウンの髪がふわりと揺れた。
「健人……?」
 眞姫はきょとんとした表情で、瞳を大きく見開く。
 それと同時に、目の前の健人の綺麗な顔に、ドキドキと胸の鼓動を早めたのだった。