8月6日・金曜日――合宿5日目。
 今日も窓の外は、太陽の輝く快晴に恵まれている。
 そんな外の風景も気にとめない様子で、まだ眠い目を擦りながら拓巳は自室から出た。
 そしてもう一度大きなあくびをした、その時。
「おはよう、拓巳」
 背後から聞こえてきた声に、拓巳はさっきまで眠そうだった瞳を見開く。
 それから、寝ぐせのついている髪を慌てて手櫛で整えて振り返った。
「おっ、姫! おはよう」
「拓巳、髪の毛ぼさぼさじゃない」
 眞姫はくすくすと笑いながら、栗色の髪をかきあげる。
 まだパジャマ姿の眞姫の姿に、拓巳はおもわず見惚れた。
 そんな拓巳の視線に気がつかず、彼女はポンッと手を打つ。
「あっ、拓巳。ちょうどよかった、ちょっとそこで待ってて」
 それだけ言って、眞姫はパタパタと自室へと慌しく入っていく。
 拓巳は首を傾げつつも、言われるままその場で彼女を待った。
 ふわあっともう一度あくびをしたその時、眞姫が再び廊下に姿をみせる。
 そしてにっこりと微笑み、拓巳にあるものを渡した。
「拓巳、もうすぐ誕生日だよね? ちょっと早いけど、これ私からのプレゼント」
 眞姫の言葉に、拓巳は一瞬きょとんとする。
 そして。
「ええっ、マジでっ!? こ、これ、俺にくれるのか!?」
「うん、気に入るか分からないけど、開けてみて」
 突然の幸せに瞳をぱちくりさせる拓巳に、眞姫はコクンと頷いて言った。
 拓巳はまるで壊れ物でも扱うかのように、慎重に包装紙を取る。
「あっ、これ……DIESELのパスケース?」
「拓巳の定期入れ、確かほつれてたでしょ? そういえば拓巳ってDIESEL好きだったなぁって思って。ちょうど可愛いのを見つけたから」
 濃いブラウンのお洒落なパスケースを感無量な様子でまじまじと見つめながら、拓巳は呟いた。
「マジで嬉しいぜ……これ、家宝にするっ」
「あはは、家宝なんてオーバーなんだから」
 拓巳にとってお姫様からのプレゼントは、家宝と言っても過言ではないものである。
 それに何より、眞姫が自分のことをちゃんと考えてくれていたことの方が彼には嬉しかったのだ。
 まだ夢見心地の拓巳に、眞姫は続ける。
「あのね、それから……ちょっと女の子っぽいものなんだけど、オマケのプレゼントがあるの」
 そう言って眞姫は、もうひとつ小さな紙袋を拓巳に渡した。
 首を傾げてそれを受け取り、拓巳は中身を取り出してみる。
 眞姫は少し心配そうに、彼を見つめた。
「おっ? これは……キティ?」
 小さな紙袋から出てきたのは、ハローキティーのストラップだった。
 そのキティーはサッカーボールを持ち、日本代表のユニフォームを着ている。
「拓巳、サッカー好きだったなって思って。可愛かったから買ってみたの。でも、やっぱりキティーちゃんだから女の子向けかな?」
「いやいや、姫から貰ったものだし、嬉しいぜ」
「本当? 実は、私もお揃いで同じもの買って携帯に付けてるの。ほら」
 拓巳の言葉にホッとした様子で、眞姫は持っていた自分の携帯電話を拓巳に見せる。
 そこには、同じくサッカーボールを持ったキティーの姿があった。
 拓巳はそれを見て、さらに瞳を見開いて呟く。
「って、マジでっ!? 姫と……お揃いっ!?」
 拓巳は慌ててポケットにしまってあった自分の携帯を取り出し、キティーのストラップをつけた。
 今まで特に何もつけていなかった拓巳の携帯が、途端に女の子らしく変わる。
 拓巳はそんな携帯を見つめながら、この上ない幸せを噛み締めていた。
 眞姫は幸せに浸っている拓巳を満足そうに見て、そして笑う。
「よかった、拓巳が気に入ってくれたみたいで。拓巳って、結構可愛いものも好きなのね」
 拓巳が喜んでいるのはキティー云々よりも眞姫とお揃いだからだということに、彼女は全く気がつかないようである。
 ようやく我に返って、拓巳は照れくさそうに前髪をかきあげて言った。
「サンキュー、姫! マジで大切にするぜ、プレゼント」
「うん、私も喜んでもらえて嬉しいよ」
 そう言ってにっこり微笑んでから、眞姫はちらりと腕時計を見る。
「あっ、もうすぐ朝のミーティングの時間なのに、まだパジャマだ。急がないと、拓巳」
「そうだな、鳴海は時間にうるせえからな」
 もう一度、携帯電話で揺れるキティーを幸せそうに見てから、拓巳は頷いた。
 そして腕まくりをし、パチパチと頬を軽く叩いて気合を入れる。
「よおしっ、今日こそは夏休みゲットしてやるぜーっ!」
 眞姫は栗色の大きな瞳をふっと細め、そして言った。
「頑張ってね、拓巳」
「おう! 何だか今日は絶好調な感じがするぜ、姫っ」
 そんな気持ちが浮かれてご機嫌の拓巳に目を向け、眞姫はもう一度微笑んだのだった。




 少年たちが合宿のスケジュールをこなしている、ちょうどその頃。
 黒髪の少女・つばさは、繁華街へ続く通り道であるオフィス街を歩いていた。
 その表情は、浮かないものである。
 つばさは意味もなく宙に視線を向けてから、大きく溜め息をついた。
 そんな彼女の隣には、大抵一緒にいるはずの杜木の姿はない。
 彼は雑誌の撮影の仕事があるため、今日一日都内にはいないのである。
 仕事だと分かっていても、実際に自分の隣に彼の姿がないと落ち着かない。
 不安な気持ちが胸にこみ上げてきて、つばさはたまらずにその漆黒の瞳を閉じた。
 その時だった。
「!」
 つばさはその漆黒の瞳を見開き、顔をあげる。
 そして足を止め、ある一点に視線を向けた。
 つばさの両の目の色が、ふいに変化する。
 ……そんな彼女の視線の先には。
 誰もが振り返るような美しい容姿に、見栄えのする派手な服装。
 ブラウンのウェーブの長髪をなびかせ、颯爽と歩く女性。
 忙しそうに携帯電話で誰かと話しながら、カツカツとハイヒールを鳴らしている。
 つばさはそんな彼女を、立ち止まってじっと見つめた。
「今日の夕方の会議で使うから、例の資料まとめて私のデスクに置いておいてちょうだい。あ、それを念のために社長にもファックスで送っておいてね。じゃあ、そういうことでよろしくっ」
 ふうっと溜め息をついて、その女性・由梨奈は携帯電話を切る。
 それから早足で歩を進めようとした、その時。
 彼女は足を止め、ふと顔を上げた。
 そして自分に向けられる異様な殺気に気がつき、表情を変える。
 次の瞬間。
「なっ!?」
 由梨奈は、その瞳を大きく見開いた。
 途端に空気の流れが変化し、閑散とした風景が目の前に広がる。
 由梨奈の周りに、“結界”が張られたのだった。
 周囲に張り巡らされた“結界”を見回して、そして由梨奈は目の前に現れた少女・つばさに目を向ける。
「あのね、お姉さんはとっても忙しいのよ。用があるのなら、簡単に済ませてもらえる?」
「貴女への用は、ただひとつだけよ」
 つばさはそう呟き、グッと拳を握り締める。
 そして嫉妬という色で支配された視線を由梨奈に投げ、続けた。
「許せない……殺してやるっ!!」
「!!」
 カアッとつばさの右手に漆黒の“邪気”が宿ったかと思うと、衝撃波が掌から放たれる。
 由梨奈はそんな様子に動じることなく、“気”の光を掌に漲らせた。
 そしてジュッという音がしたかと思うと、つばさの放った衝撃は由梨奈の“気”によって浄化され、消滅する。
「ていうか、イキナリ襲うなんてないんじゃない?」
 ふうっと溜め息をついて、由梨奈は長い髪をかきあげた。
 つばさは殺気を漲らせたまま、吐き捨てるように呟く。
「許せないわ、杜木様の愛情を受ける女なんてっ」
 そのつばさの言葉を聞いて、由梨奈は状況を理解したように言った。
「あら、そう言えばこの間、慎ちゃんと一緒にいた“邪者”の子? もしかして、慎ちゃんと私の仲を疑ってたりしちゃってるわけ? 言っておくけど、私ってばもう人妻で、慎ちゃんはただの昔の男よ」
 それから由梨奈は、ふっと笑みを浮かべて続けた。
「昔から多いのよねぇ、慎ちゃんハンサムだから仕方ないんだけど。嫉妬する女ってのがねぇ」
 わざと煽るように言った由梨奈の言葉に、つばさはより一層鋭い視線を彼女に向ける。
 そしてぎゅっと唇を結び、再び拳を握り締めた。
 そんな様子にくすっと笑って、由梨奈はおもむろに右手を掲げる。
 瞬時に美しい“気”がその手に輝きをもたらし、カッと弾けた。
「……っ!」
 ハッとつばさは、その顔をあげる。
 由梨奈は真っ直ぐにつばさに瞳を向けたまま、言った。
「貴女、“空間能力者”のようね。でも残念、この由梨奈さんがそう易々と“空間能力”を使わせたりしないんだから」
「くっ……」
 張り巡らされている“結界”内の空間の主導権を握ろうと目論んでいたつばさは、由梨奈の“気”によってそれを阻まれたことに唇を噛み締める。
 同じ“空間能力者”でも、戦闘に適した“気”の使い方も会得している詩音とは違い、つばさの能力は戦いには不向きであった。
 補助的な能力には長けているが、攻撃的な要素はあまり持ち合わせていないのだ。
 衝撃波を放つことはできるが、空間を支配していない状態ではその威力は低いものである。
 それでも目の前の憎き標的を殺さんと、つばさは再びその手に“邪気”を漲らせる。
 そして体内を流れる負の力・“邪気”を集結させ、衝撃を繰り出した。
 空間を支配していない今の状態でも、普通の人間がこれをくらえば吹き飛ばされるであろう。
 だが、相手は“能力者”の由梨奈である。
「その程度じゃ私は殺せないわよっ!」
 つばさの衝撃波を軽々と受け止め、そして由梨奈はそれを跳ね返した。
「!!」
 ゴウッと音をたて、威力を増した光の塊がつばさに襲いかかる。
 それを食い止めようと、つばさは掌に“邪気”を宿し、防御壁を作り出そうと身構えた。
 その時。
「……!」
 由梨奈は、ふとその表情を変えた。
 つばさに襲いからんとしていた光が、一瞬にしてその輝きを失ったからだ。
「なるほどねぇっ、つばさちゃんの監視と護衛かぁ」
 いつの間にそこに現れたのか、衝撃を無効化させた人物はそう言ってふっと笑う。
 その少女の肩より少し長い漆黒の髪が、ふわりと揺れた。
「! 綾乃っ!? 貴女、何でここに」
 そんな自分の盾になるように位置を取る少女・綾乃に、つばさは驚いた視線を向けた。
 ちらりとそんなつばさを振り返り、綾乃は黒の瞳を細める。
「まぁまぁ、つばさちゃん。ここは綾乃ちゃんに任せなさーいっ。心配しなくても……すぐ終わらせてあげるから」
 そう言い終わる前に、綾乃の身体から強大な“邪気”が解放される。
 ビリビリと空気を震えさせる漆黒の光に臆せず、由梨奈は軽く身構えた。
「あら、“邪者”のお友達? 私も忙しいのよね、悪いけどお嬢さん方の遊びに長い間付き合っていられないの」
 そう言った由梨奈の掲げた右手にも、大きな“気”の輝きが宿る。
 眩いふたつの輝きが、“結界”内をあっという間に満たす。
 だが由梨奈がそれを放つよりも早く、綾乃の掌から漆黒の光が放たれた。
 その光は凄まじい勢いで空気を真っ二つに裂き、由梨奈目がけて襲いかかる。
 由梨奈はふっと瞳を細めて、右手に集結させた“気”を胸の前に掲げた。
 くっと唇を噛み締め、由梨奈はその右手で綾乃の放った衝撃を受け止める。
 そしてその右手にくすぶる光が衝撃を飲み込み、漆黒の光を跡形もなく浄化させた。
 その時。
「!」
 由梨奈は反射的に振り返り、身を屈めた。
 そのほんの僅か数秒後、耳元でビュッと空気の鳴る音が聞こえる。
 一瞬にして背後に回った綾乃の蹴りが、空を切った。
 由梨奈はそんな綾乃に、振り返り様に回し蹴りを放つ。
 それを左腕でガードして、綾乃は右拳を繰り出した。
 由梨奈は軽い身のこなしでそれを避け、そして綾乃から離れ一定の距離を取る。
 体勢を整えて身構えてから、綾乃は楽しそうに笑った。
「へーえ、格好はケバいのに、“邪気”を浄化させたりする守りの“気”が得意なんだぁ。その上、そんな高いハイヒール履いててこんなに動けるなんてねーっ」
「あのね、ケバいは余計なんだけど。華やかって言ってくれない? ていうか、そーいう貴女こそ“邪者四天王”クラスの“邪者”かしら? その“邪気”の感じからして、ね」
「! どうして“邪者”の間でも知られていない四天王のことを!?」
 ふたりの戦況を見守っていたつばさが、由梨奈の言葉に反応する。
 由梨奈はちらりとつばさに目を向け、言った。
「貴女たちの付き従う“杜木様”とは長い付き合いよ? それに、私だって結婚前までは“能力者”として頑張ってたんだから、その存在くらいは知ってて当然よ」
「…………」
 つばさは、俯いてその漆黒の瞳を伏せる。
 そんな様子を見てから、綾乃は再び右手を掲げた。
「お喋りはこのくらいにしない? そろそろ……本気で終わらせよっかな」
 綾乃の瞳の色が変化したことに気がつき、由梨奈は表情を変える。
 そして美しい容姿に相手を煽るような笑みを浮かべ、言った。
「そうね、私もまだ仕事が山のように残ってるしね。遊びも終わりよ、この“結界”から開放させてもらうわ」
 そう言って、由梨奈も再びその手に力を込める。
 そして、眩い“気”と漆黒の“邪気”が同時に放たれようとした、その時だった。
「……っ!?」
 つばさはいち早く周囲の異変を感じ取り、顔を上げる。
 そして、漆黒の瞳を背後に移した。
「!?」
「これは……!」
 つばさから遅れて数秒後、由梨奈と綾乃も動きを止める。
 綾乃は突如として現れた光景に、目を凝らした。
 目の前に広がるのは、真っ赤な薔薇の花畑。
 いつの間にかびっしり埋め尽くされた薔薇の花びらが、ひらひらと宙を舞う。
 綾乃はそんな真っ赤な薔薇を後目に、ふっと視線をある場所に移した。
「ミセスリリー、嫉妬する薔薇の棘に傷つけられなかったかい?」
 花霞の中から姿を見せた少年・詩音は、由梨奈に向けて優雅な微笑みを浮かべる。
「ええ。大丈夫よ、詩音ちゃん」
「! 詩音って……あの、天才ピアニストで“空間能力者”の梓詩音?」
 先日の智也の話を思い出し、綾乃は詩音に目を向けた。
 そう呟く綾乃ではなく、詩音はつばさに視線を移す。
 それからスッと瞳を細め、一輪の薔薇を手に取った。
「真っ赤な薔薇の花言葉は“情熱的な愛”だけど……度を超すと、醜い“嫉妬”に姿を変えるものだよ」
「!」
 つばさは空気の変化を感じ取り、漆黒の瞳を見開く。
 次の瞬間、あたりを埋め尽くしていた真っ赤な薔薇が、一瞬で黄色に変わった。
 そんな状況に満足したように笑って、詩音は言った。
「黄色い薔薇の花言葉は“嫉妬”。少し前に事件にもなったくらいだから、有名だよね?」
「空想の具体化、ね」
 つばさは足元の黄色い薔薇を一輪摘み、その手でグッと握り締める。
 漆黒の光を湛えた手に握りつぶされ、黄色い薔薇はシュウッと音を立てて跡形もなく消滅した。
 そして詩音を見据え、その身体に“邪気”を宿す。
「貴方だけじゃなくて、あいにく私も“空間能力”が得意なの。貴方の空想の世界、消してあげるわ」
 そう言ったと同時に、つばさの体に漲る漆黒の“邪気”が黄色い薔薇を包み込んだ。
 黒の光に覆われた薔薇は、跡形もなく消し飛んでいく。
 そして詩音の“空間”が無効化された、その瞬間。
「!」
 ふっと詩音は表情を変え、顔を上げる。
 刹那、詩音の“空間”が解除されるその時を見計らっていたかのように、綾乃の掌から唸りを上げて強大な“邪気”が繰り出された。
 そして詩音がそれに対抗して、“気”を漲らせようとした時。
 綾乃の放った衝撃は詩音に届くことはなく、その前でジュウッと音を立てて消滅する。
「私もいること、忘れちゃだめよ」
 咄嗟に詩音の前に立ちふさがった由梨奈が、“邪気”を浄化させたのだった。
 お互いがお互いを見回す女性陣を後目に、詩音はふっと笑みを浮かべる。
 そして、ゆっくりと言った。
「女性同士が争うのは美しくないよ。今日のところはこの辺にしておかないかい?」
「…………」
 詩音の言葉を聞いて少し考える仕草をしたが、無言でつばさはその手を掲げる。
 つばさの張った“結界”が解除され、慌しいオフィス街の光景が目の前に戻ってきた。
 由梨奈にもう一度だけ鋭い視線を投げてから、つばさは彼女たちに背を向けて歩き出す。
 綾乃はそんなつばさに遅れまいと、早足で隣に並ぶ。
 ふたりの少女の後姿を見送り、詩音は笑った。
「随分と恨みを買っているようじゃないか、ミセスリリー。美しいのは罪と、よく言ったものだね」
 ふうっと大きく溜め息をついてから、ふたりの少女の背中で揺れる黒髪を複雑な表情で由梨奈は見つめ、そして向き直って詩音に微笑む。
「ありがと、詩音ちゃん。公演に向かう途中だったんでしょ?」
「ちょうど通りかかったところだったから、大丈夫だよ」
 そう言って色素の薄い髪をかきあげ、詩音は優雅な笑顔を由梨奈に向けたのだった。
「つばさちゃん、大丈夫?」
 先程から無言で歩くつばさに、綾乃は声をかける。
 つばさは漆黒の瞳を綾乃に向け、言った。
「いつから監視してたの? 全然気がつかなかったわ」
「うーんと、2日前くらいからかな。つばさちゃん相手だから、気付かれないように気配絶って監視するのってめちゃめちゃ大変だったんだからぁっ」
「…………」
 つばさは、ふと俯いた。
 綾乃が自分の監視と護衛についていたのは、杜木の指示である。
 嫉妬心から由梨奈を襲い、そして苦戦することを彼は予測していたのだ。
 そんな自分が不甲斐なく思え、つばさは唇を噛み締める。
 綾乃は複雑な表情でその様子を見つめてから、明るい声で言った。
「さ、甘いものでも食べに行きましょ、つばさちゃんっ」
 ぽんっと肩を叩かれ、つばさは顔を上げる。
 そしてふっと溜め息をついてから、言った。
「ありがとう、ごめん……綾乃」
「何? 何で謝るの? さ、パフェ食べに行こっ」
 にっこり微笑み、綾乃はまだ俯いているつばさの手を取って歩き出したのだった。




 その日の夜。
 准は自室を出て、飲み物を取りにキッチンへと入って行った。
「おっ、准?」
 同じく飲み物を取りに来ていた拓巳は、准の姿を見つけて顔を上げる。
 そして飲み物を手にしたふたりは、お互いの自室に向かうべく一緒に廊下を歩き出した。
「くそっ、結局今日も鳴海をぎゃふんと言わせることできなかったしよ……今日は何となくいける気がしたのになっ」
 面白くなさそうな表情を浮かべ、拓巳は溜め息をつく。
 合宿5日目の今日も、少年たちは夏休みを手中におさめることができなかったのだ。
「まだあと残り2日あるし、せめて最後の日くらいは夏休みになるように頑張ろうよ」
 ぶつぶつ言っている拓巳を後目に、准はそう言って苦笑する。
 拓巳はおもむろに、ポケットから携帯電話を取り出す。
 眞姫からもらったキティーのストラップが、ゆらゆらと揺れた。
 それを幸せそうに見つめて、拓巳は前髪をかきあげる。
「まぁ、今日はいいこともあったしな。明日頑張るか」
 小声でそう呟く拓巳を後目に、准はふとその時、顔を上げた。
 そして拓巳の肩を叩き、言った。
「ねぇ、拓巳。人の話し声がしない?」
「え?」
 准の言葉に、拓巳は口を噤んで耳を澄ませる。
 時間は夜の11時を過ぎており、部員は各々自室にいる時間のはずである。
「……姫?」
 拓巳は、そう呟く。
 准も同意したように頷いた。
 聞こえてくる声のひとつは、どうやら眞姫の声のようである。
「祥太郎の部屋、か?」
「そうみたいだね。でも、こんな時間にどうして?」
 声の聞こえる祥太郎の部屋の前まで来て、拓巳は耳をドアにつけた。
「ちょっと拓巳、何やってるの」
「シーッ、いいからおまえも聞いてみろよ。でも、何で祥太郎の部屋に姫が?」
 仕方がないという表情をしつつも、准も聞こえてくる声に耳を澄ませる。
 祥太郎の部屋に眞姫がいることは、まず間違いなさそうだ。
「昨日の夜の感想はどうやったか? 姫」
「……昨日の夜?」
 聞こえてくる祥太郎の言葉に、拓巳は眉をひそめる。
 准はシーッと指で口を押さえる仕草をする。
 まさか拓巳たちが聞いているとも知らず、眞姫は祥太郎の問いに答えた。
「私、まだこういうの慣れてないから……」
「大丈夫や、最初は誰でもそうやで。俺に任せとき、姫。俺が手取り足取り教えたるからな」
「うん……ありがとう、祥ちゃん」
 ドアの外で聞き耳を立てている拓巳と准は、そのふたりの会話に耳を疑った。
「ちょっ……一体、どういうことだよっ」
「そんなこと、僕に聞かれても知らないよっ」
 小声で喋りつつも、拓巳はすでにいてもたってもいられない様子である。
 そんな拓巳に首を振り、准は彼を諭す。
「待ってよ、まさか乗り込む気じゃないだろうね!?」
「当たり前だろっ、黙ってられるかってっ!」
「ちょっと拓巳、そんなことできる状況じゃないだろ!?」
「離せ、准っ! ここでじっとしてなんか……うっ!」
 止めようとする准の手を無理矢理振り払おうとした瞬間、拓巳は言葉を失う。
 ドスッと鈍い音がしたかと思うと、准の右拳が的確に拓巳の鳩尾を捉えていた。
 油断していたため、その突然の衝撃に拓巳は思わず片膝をついてむせる。
 准はふうっと大きく嘆息し、呆れたように言った。
「あのね拓巳。気持ちは分かるけど、乗り込むなんて止めた方がいいって。考え直してよ、ね?」
「けほっ……ていうかよ、結構おまえって鬼だよな」
 まだうずくまっている拓巳の首根っこを掴まえて廊下をずるずると引っ張りながら、准はもう一度溜め息をつく。
 そして、ちらりと拓巳に視線を向けた。
「拓巳が無茶ばかりするからだろう? あんな状況で、外野が何言っても同じだよ」
「何でそんなに冷めてるんだよっ。俺は我慢ならねーぞっ」
「僕だって我慢ならないよ。だから、これ以上聞きたくないんだ」
「准……」
 廊下を引っ張られながら、拓巳は俯く准を見る。
 その時。
 おもむろに祥太郎の部屋のドアが開いた。
「何や、ズルズル廊下で妙な音がすると思ったら。何やっとるんや? おふたりさん」
 二人の気持ちも知らず、のん気に祥太郎は笑う。
 ひょこっと祥太郎から遅れて、眞姫も顔を見せた。
「あ、どうしたの? ふたりとも」
 どう言っていいか分からず、拓巳と准は思わず言葉を失う。
 そんな様子も気がつかず、眞姫は祥太郎に言った。
「じゃあ祥ちゃん、おやすみなさい」
「明日はバッチリ頼んだで。んじゃおやすみ、姫。祥太郎くんの夢見てなーっ」
「……明日? ていうか、いくらなんでも早くないか? 今からだぞって会話だったのに……イテッ!」
 ゴツッと頭を殴られ、拓巳は顔をしかめる。
 余計なことを言う拓巳を睨んでから、准は眞姫に笑顔を向ける。
「祥太郎の部屋にいたんだね、姫」
 准の問いに、眞姫はちょっと表情を変えた。
 だが、すぐさまいつもと変わらない微笑みを浮かべて答える。
「うん。祥ちゃんが……数学で分からないところがあるから教えてって」
「そっか。明日も早いから、今日はもう寝ようか」
 あえて深く追求せず、准はそう言った。
 眞姫はその言葉に頷き、手を振って自室に歩き出す。
「うん。じゃあおやすみなさい、ふたりとも」
「おやすみ、姫」
「おやすみ。また明日な、姫」
 眞姫が部屋に入るのを確認してから、拓巳は准に目を移した。
「ていうか、どう考えても勉強教えてる会話じゃなかったよな」
「そうだけど……とりあえず、健人にはこのことは内緒だよ、拓巳」
「ああ。健人のヤツ、あれでも俺よりキレやすいからな。でも、ふたりで一体何やったんだ?」
 うーんと首を傾げて、拓巳は何かを考えるように腕組みをする。
 それからおもむろに携帯電話を取り出し、複雑な表情をしつつ揺れるストラップを見つめていた。
 そしてそんな様子を後目に、准は深く溜め息をついたのだった。