8月5日・木曜日――合宿4日目。
 外は夏の日差しが照りつけているが、眞姫のいる自習室は冷房が効いていて快適である。
 夏休みの課題を解きながら、眞姫はふと顔を上げる。
 壁にかかっている時計に目をやり、そして先生が作成した合宿の予定表を見た。
「訓練の時間、もう終わる頃かな」
 あと10分程で、訓練時間も終わりを告げる。
 今回、“気”を使う訓練は参加しないという条件で、眞姫は合宿に来ることを許された。
 実質上彼女が参加するのは、訓練の合間に巧みに組み込まれている学習時間と1日を締めくくる2時間程の映画鑑賞の時間だけである。
 少年たちが訓練に明け暮れている時間は、学習時間に行われた少年たちの小テストの採点をしたり、自分の夏の課題に取り組んだり、施設に備わっている図書館で読書をしたりして過ごしている。
 自分の能力を高める訓練はできなくても、何か少年たちの役に立ちたい。
 そう眞姫は思い、この合宿に合流することを決めたのだった。
 鳴海先生の言うことにも一理ある。
 徐々に少しずつではあるが、力を使えるようになってきた。
 だが、それをコントロールすることができず、いつも力を使った後倒れてしまう。
 身体がまだ“気”を使うことに慣れていないのだ。
「みんな、今頃頑張ってるんだろうな」
 それだけ呟き、眞姫はノートを閉じる。
 果たして少年たちは、晴れて夏休みを手中に収められるのだろうか。
 だがその前には、鳴海先生という大きな壁が立ちはだかっている。
 それにしても、あれだけ力を自在に操ることのできる少年たちが4人がかりでも一撃も当てられないなんて。
 少年たちに悪魔と呼ばれる先生の強さを、眞姫は改めて感じるのだった。
 あの鋭く射抜くような切れ長の瞳に見つめられると、妙に緊張してしまう。
 だがそんな厳しい印象とは裏腹に、その奥底に隠れている優しさのようなものを眞姫は時々感じるのだった。
「訓練時間の後は、今日最後のスケジュールの映画鑑賞か」
 そう呟きもう一度計画表を見て、そして眞姫は荷物をまとめて自習室を出たのであった。
 ――その、まさに同じ頃。
 鳴海先生は、ふっと切れ長の瞳を細めた。
 彼の瞳に映るのは、眩い4つの“気”の輝き。
 その光は唸りを上げ、先生目がけて襲いかかってくる。
 だがそんな様子に全く動じもせず、鳴海先生は軽く手を掲げた。
 瞬間、彼の前に強力な防御壁が形成され、その輝きは光を失う。
 そして先生は振り返り、素早く身を屈めた。
「このっ、くらいやがれっ!!」
 予想通り間合いをつめた拓巳の拳が、鳴海先生を捉えられずに空を切る。
 だがすぐさま身体を翻し、拓巳は蹴りを放った。
 それを左腕で受け止め、先生は右の拳を握る。
 拓巳の攻撃能力は“能力者”の中でも高いものであるが、闇雲に攻撃しすぎてごく僅かに隙が生じることがある。
 そんな彼の癖を知り尽くしている先生は、握りしめた拳を容赦なく放った。
「ぐっ!」
 その攻撃は確実に拓巳の鳩尾を捉え、上体がぐらりと揺れる。
 刹那、いつの間にか先生の掌に漲った“気”が放たれ、拓巳の身体を吹き飛ばした。
「! つっ……!」
 ドンッと拓巳の身体が壁に激突し、ずるりと地に崩れる。
 そんな拓巳をちらりと見るだけで、鳴海先生は改めて振り返った。
「夏休みはいただくで、センセ!!」
「今日こそ終わりにする!」
 拓巳が倒されたタイミングを狙い、祥太郎と健人が同時に攻撃を仕掛ける。
 派手な光を放ちながら枝分かれする祥太郎の“気”と、空気を裂くように鋭い健人の“気”が、一斉に四方から先生を襲った。
 先生はもう一度“気”の防御壁を張らんとその腕に光を宿す。
 次の瞬間、あたりに耳を劈くような音が響き渡った。
 祥太郎と健人の放った攻撃と先生の防御壁がぶつかりあい、その衝撃の大きさに空気が震える。
 そしてまだ余波の晴れない、その時。
 先生が背後を振り返ったと思うと、間合いをつめた祥太郎の拳と健人の蹴りが同時に繰り出されていた。
 それを素早い身のこなしで避けた先生だったが、少年たちは攻撃の手を緩めない。
 祥太郎が放った上段への拳を屈んでかわした先生に、健人の下段への蹴りが繰り出される。
 それを後方へ地を蹴ってやりすごした先生を狙いすまし、再び祥太郎の足蹴りが襲いかかった。
 祥太郎と健人のふたりの息はよく合っている。
 だが、相手が悪かった。
 祥太郎の蹴りを受け止めた後、先生はふっと健人に視線を向ける。
 それと同時に健人は“気”を漲らせた右腕を掲げ、振り下ろした。
 カッと眩い光が弾け、衝撃が放たれる。
 先生はその攻撃を読み身を翻してそれを避け、そして一気に健人への間合いをつめた。
「なっ……!」
 素早く健人の懐に入った先生は、瞬時に漲らせた“気”の衝撃を健人目がけて繰り出す。
 健人には、相手をまだ十分に追い詰めていない状態で隙のできやすい攻撃を放つ傾向があり、それが悪い癖だった。
 一瞬の隙をつかれた健人だったが、何とか唇を噛み締めその攻撃を受け止める。
 だが、身体のバランスが崩れた健人に、先生は容赦なく攻撃を続けた。
 体勢を立て直すこともかなわず、その攻撃にじりじりと押される。
 そして再び先生から放たれた強大な“気”が、ついに健人を捉える。
「くっ!」
 光の塊が命中したその衝撃に健人は表情を顰め、思わず片膝をついた。
 そんな健人に、容赦なく先生は蹴りを放とうと体勢を変えた。
 その時。
 ひとすじの光が、突然先生に襲いかかる。
 健人と祥太郎に意識が向いていた先生に、今まで攻撃の機会をうかがっていた准が“気”を放ったのだった。
 先生はおもむろにバッと右手を掲げ、それを受け止めた。
 准の放った光は消滅せず、先生の掌で受け止められてくずぶっている。
 そして掌でくすぶるその光を、先生は威力を倍にしてから逆流させた。
「!」
 准は跳ね返ってきた衝撃に瞳を見開き、素早く“気”を漲らせる。
 途端に強固な防御壁が形成され、その光は激しい衝撃音を立てて防がれたに見えた。
 だが、次の瞬間。
「なっ……くっ!!」
 准は驚いたような表情をして、唇を噛み締めた。
 いつの間にか放たれていた先生の第二波が、准の防御壁を突き破ったのだ。
 そして無効化されたそれを再度形成させようと、准が“気”を宿したその時。
「……っ!」
 体勢を立て直す隙を与えまいと放たれた先生の攻撃が、准が再び防御壁を張るよりも早くその身体にヒットする。
 その攻撃にたまらず表情を歪め、准は右手を地につけた。
 そんな准を一瞥してから、先生はふっと顔をあげる。
 それと同時に、耳元でビュッと風を切るような音が鳴った。
「俺のこと忘れんで欲しいわ、センセ!!」
 背後から襲ってきた祥太郎の右拳が、身を翻した先生の頭上を掠める。
 だがそれを避けられることを予想していた祥太郎は、狙いすましたように間髪入れず“気”の漲った左手から光を放った。
「悪いな、センセ! 夏休みはもらったでっ!!」
 そう言って、祥太郎はそのハンサムな顔に笑みを浮かべた。
 先生の至近距離で放たれた祥太郎の眩い“気”が、一瞬視界を奪う。
 だが、次の瞬間。
「! な、何やてっ!?」 
 祥太郎は、目の前の状況に声をあげた。
 確実に先生を捉えたと思ったその光の攻撃が、バチバチと音を立ててしっかりと彼の右手に受け止められていたからだ。
 そして衝撃を受け止めていた先生の“気”が大きくなり、弾けるのを感じた瞬間。
「なんてヤツや……くっ!!」
 一気に祥太郎の放った光を飲み込み、先生の“気”は勢いを増した。
 光の塊は先生の掌を離れ、唸りを上げて祥太郎に襲いかかる。
「ぐっ!」
 至近距離で放たれたそれを無効化することができず、その衝撃をもろに受ける。
 ドッと鈍い音がしたかと思うと近くの壁まで吹き飛ばされた祥太郎は、顔を顰めながら悔しそうに舌打ちをした。
 ……その時だった。
 単調な電子音が流れ出し、訓練時間終了を知らせる。
 先生はちらりと時計を見た後、相変わらず淡々と言い放った。
「本日の訓練は終了だ。15分後から予定通り映画鑑賞を行う。くれぐれも遅刻のないように」
「くっ、待ちやがれっ!! まだだっ!」
 バッと立ち上がったかと思うと、拓巳は素早く間合いをつめた。
 そして、握り締めていた右拳を鳴海先生に放つ。
 唸りをあげて襲いかかるその拳を先生はスッと身体をずらして避け、そして右手に瞬時に漲らせた“気”を繰り出した。
「何っ、かはっ!」
 ドンッと拓巳の腹部に衝撃がはしり、そして再びその身体は吹き飛ばされる。
 受けたダメージに表情を歪ませながら、拓巳は握り締めた拳を悔しそうに床に叩きつけた。
 そんな拓巳を一瞥して、先生は言った。
「本日の訓練は終わりだと言ったのが聞こえなかったか? 出直せ」
 それだけ言うなり、鳴海先生は少年たちを残して部屋をあとにする。
 そして廊下に出てから自室へと歩き出した。
 その時。
「あ、鳴海先生っ」
 訓練が終わるのを見計らい待っていた眞姫が、先生の姿を見つけて駆け寄る。
 表情を変えずに向けられた先生の切れ長の瞳に見つめられドキッとしながらも、眞姫は遠慮がちに言った。
「あの、数学の問題で分からないところがあったんですけど」
「どの問題だ? 見せてみなさい」
「この問題、どうしてここの値がこの式で求められるんですか?」
 眞姫の指差した問題を確認してから、先生はおもむろに胸ポケットにさしていたボールペンを取り出す。
 そしてその場で、解説を始めたのだった。
 普段は近寄りがたくて厳しい先生であるが、教え方は丁寧で分かりやすい。
 その的確な解説に頷きながら、眞姫はその栗色の髪をかきあげる。
 眞姫のつぶらな両の目は、一生懸命数学のテキストを追っていた。
 一通り解説も終わり、質問箇所を理解し終えた眞姫は先生に頭を下げる。
 そしてテキストを抱えたまま、少年たちのいるトレーニングルームへと入っていった。
 一瞬だけそんな眞姫を振り返り、鳴海先生はふと息をつく。
 本来は、あまり彼女の能力を刺激することは避けたいのに。
 彼女の熱意に負け、条件付きではあるが合宿参加を認めてしまった。
 眞姫の体内に秘める能力は、想像以上に速いスピードで大きくなっている。
 だが……。
「まだ彼女の完全な覚醒には、時が早すぎる」
 そう言って瞳を閉じてから、そして鳴海先生は再びカツカツと歩き出したのであった。
「お邪魔します……どう? みんな」
 トレーニングルーム内にいた少年たちは、お姫様の思いがけない登場に表情を変える。
「! 姫……」
「おっ、姫じゃねーかよ!」
「お姫様やんかっ、ささ、俺の隣にどうぞ。そない照れんでもええってっ」
「こんなところに来て、どうしたの? 姫」
 思い思いに話しかける少年たちに微笑んでから、眞姫はおそるおそる言った。
「あのね、私に出来ることが何かないか考えたんだけど……」
 そう言って、眞姫は隣にいる健人の腕をそっと取る。
 急に眞姫の指の感触を感じ、健人は驚いた表情を一瞬浮かべた。
 だが、次の瞬間。
「!」
 少年たちは、目を見張った。
 眞姫の身体に光が宿ったかと思うと、翳した手からあたたかくて優しい“気”が流れ込む。
 その光は健人の腕にできていたあざを包み込み、跡形もなく消滅させたのだった。
「癒しの“気”か。すごいな、あざだけじゃなくダメージまで完全に消えた」
 健人は腕を数度回して、感心したようにそう呟いた。
「癒しの“気”なら、力を使いすぎることなくちゃんとコントロールできるみたいだから。うまくいったかな、健人?」
「ああ。ありがとう、姫」
 右目のブルーアイを嬉しそうに細め、健人はポンッと眞姫の頭を軽く撫でる。
「お姫様は、可愛いだけやなくてほんまに健気やなぁ。その気持ちだけでも嬉しいんやから、無理だけはしたらあかんで?」
「そうだよ、姫のその気持ちだけで十分だよ」
「そうだな。姫が合宿に来てくれただけでも、俺は幸せだぜ」
 眞姫を労わるように、少年たちは思い思いに優しく彼女を見つめて言った。
 祥太郎はそれから、ふっとハンサムな顔に悪戯っぽく笑みを浮かべて続ける。
「でも、俺も姫に癒されたいってのがめっちゃ本音なんやけどな」
「私でよければ、喜んで」
 くすっと笑って眞姫は祥太郎の手を取り、再び掌に癒しの“気”を宿した。
「あっ! ずるいぞ、祥太郎!」
 眞姫に手を握られた祥太郎を羨ましそうに見て、拓巳は叫ぶ。
 そんな拓巳に、准は仕方がないなという感じで微笑んで、言った。
「祥太郎、拓巳。言ってることとやってることが伴ってないんだけど」
 眞姫の“気”は、訓練で受けた傷やダメージはもちろん、少年たちの心も癒している。
 それに何より、自分たちのために何かしたいと考えてくれている眞姫の気持ちが少年たちには嬉しく思えた。
 そしてそんな一生懸命な姿の眞姫を見て、少年たちは改めて夏休みゲットに向けて意欲を燃やしたのだった。




「今日も一段と美しいね、ミセスリリー」
 そう言って、正装しているその少年・詩音は上品な顔に微笑みを浮かべる。
「はぁい、詩音ちゃん。今日の公演も素晴らしかったわ、お疲れ様っ」
 今日のコンサートも無事に終えた詩音に労いの言葉をかけようと、由梨奈は楽屋におもむいていた。
 デザインはシンプルであるが派手な真っ赤なドレスに身を包む由梨奈に、詩音は花瓶にいけてある一輪の薔薇の花を手に取り、彼女に差し出す。
「薔薇の花も美しいけど、ミセスリリーの美しさには敵わないようだね」
 それを受け取って、由梨奈はその顔に笑みを浮かべた。
「本当に詩音ちゃんは口が上手いんだから。まぁ、本当のことなんだけどねっ」
 きゃははっと笑う由梨奈に、詩音は再び口を開く。
「その薔薇の花を見てごらん、ミセスリリーの美しさに嫉妬して棘を出しているだろう? その薔薇のように、貴女を妬んでいる人間がいるかもしれない。気をつけてね」
「ありがとう、詩音ちゃん」
 それから、由梨奈は笑いながら続けた。
「でもね、昔からそういうの慣れてるからっ。なーんてね」
 詩音は愛飲のジャスミンティーをひとくち飲み、母親似の瞳を細める。
 そして同じく色素の薄い髪をかきあげ、言った。
「そういえば、昨日はお姫様を合宿所まで送ってあげたんだよね? 様子はどうだった?」
「詩音ちゃんの想像通りよぉ。ボーイズ、いつものようになるちゃんにいじめられてたわぁっ。なるちゃんの性格考えても、あの調子じゃ夏休みはないかもね」
 楽しそうにそう言って、由梨奈はくすくす笑う。
 詩音はその言葉に頷いてから、そして何かを思いついたように顔を上げた。
「そうだね、何せこの僕もいないことだし。あ、そうだ、ミセスリリー。合宿最終日、彼らを迎えに行くんだろう? その日には僕もコンサート日程すべて終了しているし、よかったらお供させてもらえないかな?」
「ええ、いいわよ。詩音ちゃんもボーイズを冷やかしに行くなんて、結構いい性格してるわねぇ」
 悪戯っぽく笑う由梨奈に、詩音はにっこりと柔らかな笑みを向ける。
「冷やかし? 誤解しちゃダメだよ、ミセスリリー。僕はただ、僕のお姫様を迎えに行きたいだけなんだ。騎士たちが悪魔に苦戦している姿を高みの見物しようなんて、そんなことほんのこれっぽっちも思ってなんかいないよ」
 楽しそうにそう言った詩音だったが、ふとその顔を上げた。
 それと同時に、彼の母親である静香が楽屋に入ってくる。
「私の可愛い王子様。美しい貴婦人とのお話中申し訳ないのだけど、あちらにお客様がいらしてるわ。挨拶にいらして」
「今行くよ、母君。ミセスリリー、忙しいのにコンサート聴きに来てくれてありがとう」
「こちらこそ、素晴らしい演奏を堪能させてもらったわ。また連絡するから」
 軽く手をあげて楽屋を出て行く詩音を見送り、由梨奈はふうっと溜め息をついた。
 そして、ふと詩音にもらった一輪の薔薇の花を見つめて、呟いた。
「嫉妬する薔薇の花、ね」




 その日の、夜。
 時間はすでに夜の11時を回ろうとしていた。
 今日もハードな訓練を終えそしてまた明日も朝の早い少年たちは、すでに各個人の部屋で休んでいる。
 そんなシンと静まり返っている施設の中、ひとつの部屋のドアが開いた。
 健人は何か飲み物を取ってこようと、部屋を出て冷蔵庫のあるキッチンへと足を向ける。
 廊下は消灯時間が過ぎて薄暗かったが、特に気にする様子もなく健人は歩を進めていた。
 その時。
 別の部屋のドアの開く音が聞こえ、健人は振り返った。
 そして、部屋から出てきたその人物にブルーアイを向ける。
「……姫?」
 廊下に姿を見せたのは、紛れもなく眞姫であった。
 健人に声をかけられ、眞姫は驚いたようにその大きな瞳をさらに見開く。
 そして、慌てたように言った。
「け、健人っ!? ど、どうしたの? こんな時間に」
「喉が渇いたから、飲み物でも取ってこようかと思って。姫は何やってるんだ?」
「私? えっと……ちょっと、手を洗いに行こうと思って」
「部屋に洗面台あるのに、わざわざ外にか?」
 そう言って首を傾げる健人に、眞姫は瞳をぱちくりさせる。
 そして、誤魔化すように笑って言った。
「えっ、いや、部屋でじっとしてるのも何だし、外の洗面所でも行こうかなって。じゃあ健人、また明日ね。おやすみなさい」
「……姫」
 そそくさとその場をあとにしようとする眞姫を、健人は呼び止める。
 眞姫は振り返り、その瞳を健人に向けた。
 そんな眞姫を見つめて、健人は言った。
「洗面所、そっちじゃないだろう?」
「えっ? あ、そうだったね。ここの施設広いから、迷っちゃった。じゃあ、おやすみなさい」
 急いでUターンしてにっこりと健人に微笑んでから、眞姫は手を振り近くの女子トイレに入っていく。
「ああ。おやすみ、姫」
 何だか様子のおかしい眞姫にもう一度首を傾げながらも、健人は再びキッチンに向けて歩き出した。
 ――それから、数分後。
 女子トイレにいた眞姫は、健人がキッチンから部屋に戻ってきたのを確認して足音を立てないように廊下を歩く。
 そんな眞姫が向かったのは、ひとりの少年の部屋。
 トントンと遠慮がちにノックすると、そのドアがゆっくりと開いた。
「おおっ、待ってたで、姫」
 姿を見せたのは、祥太郎だった。
 ハンサムな顔に嬉しそうに笑みを浮かべ、祥太郎は眞姫を部屋に招きいれる。
 音を立てないように静かにドアを閉めてから、祥太郎は眞姫に視線を向けた。
「誰にも見つからんかったか? 姫」
「それがね、部屋を出た時に健人が廊下にいて。何とかトイレに行くふりして誤魔化したけど、もうすごく焦ったわ」
 はあっとひとつ溜め息をつき、眞姫は胸を撫で下ろす。
 そんな眞姫に微笑み、そして祥太郎は言った。
「くれぐれも、これはふたりだけの秘密やからな、姫」
「うん、分かってるよ、祥ちゃん。でも、本当に大丈夫なのかな?」
 少し不安そうな表情を浮かべる眞姫の頭を優しく撫で、祥太郎は笑う。
「大丈夫や、姫。俺に任せとき。俺を信じて……な?」
 その言葉に、眞姫はふっと笑顔を見せた。
「うん、祥ちゃんを信じるよ」
 自分に向けられた微笑みに見惚れながらも、祥太郎は気合を入れるために腕まくりをする。
 そして瞳にかかる前髪をかきあげて、言った。
「じゃあ、早速始めようやないか、姫」