智也は詩音の“空間”で支配された“結界”をぐるりと見回してから、その漆黒の瞳を細める。
 彼の目の前に広がるのは、色とりどりの花が咲き乱れている花畑。
 まるで夢の世界に迷い込んだかと思う程にそれは美しく、それと同時に何故か恐怖も感じていた。
 そして見渡す限りの花畑の真ん中に立っている正装の少年・この空間を作り出している詩音からは、淡い“気”の光が立ちのぼっている。
 ひらひらと舞う花びらをそっと手に取って、優雅な微笑みを絶やさずに詩音は言った。
「どうかな、美しい花たちに囲まれた気分は。こんなに美しい花畑だったら、妖精たちが舞い遊んで住んでいてもおかしくないと君も思わないかい?」
「……!」
 智也は表情を変え、ハッとその顔を上げる。
 そして次の瞬間、驚いたように目を見開いた。
 詩音の言葉通りキラキラと光り輝く羽を揺らして宙を舞う妖精たちの姿が、彼の目の前に現れたのだ。
 驚いた表情の智也とは対称的に、楽しそうに微笑んで詩音は言った。
「僕の作り出した空間・フェアリーテイルにようこそ。君を歓迎するよ」
「フェアリーテイルか。まさかこれほどまでに強い“空間能力”とは思わなかったな」
 智也はそう言って、改めて身構える。
 そんな智也を見て、詩音はふっと笑った。
「おや? 妖精たちは君の事を気に入ったみたいだね。見てごらん?」
「何?……!」
 今まで自由に花畑を飛びまわっていた妖精たちが、示し合わせたかのように一斉にその動きを止める。
 そして数え切れない妖精たちが、智也の周りを取り囲んだのだった。
 妖精たちの放つ眩い輝きは、あっという間に智也の身体を優しく包み込む。
 耳には、いつの間にか優しくて心地よい旋律が響いていた。
「くっ、幻影かっ」
 智也は右手を掲げて“邪気”を漲らせようとした。
 その時。
「!! なっ……身体の自由が、利かないっ!?」
 いくら力を込めても、智也の右腕はぴくりとも動かなかった。
 いや、右腕だけではない。
 全身の自由を奪われ、智也はくっと唇を噛み締める。
 ひらひらと舞う妖精たちの輝きだけが、その漆黒の瞳には映っていた。
 妖精たちに囲まれて身動きの取れない智也に視線を向け、詩音は右手を軽く掲げる。
「妖精たちにいざなわれて眠りにつくのも、なかなかいいかもしれないよ?」
 そう言って、詩音はパチンと指を鳴らした。
 それと同時に、目の前ではらはらと舞っていた花びらがおもむろに渦を巻く。
 そしてその空気の渦がひとつの塊と化した、次の瞬間。
「!!」
 漆黒の瞳を見開き、智也は表情を変える。
 刹那、大きな衝撃が空気を震わせて彼に襲いかかったのだ。
 カアッと目を覆うほどの光が“結界”内に弾ける。
 そして、ドーンという大きな衝撃音が耳に響いた。
 周囲は、その大きな衝撃の余波が立ち込めている。
 次第に余波の晴れてきた空間内は、何事もなかったかのように花びらと妖精たちが宙を舞っていた。
 その時。
「……!」
 詩音はふっと、その視線を上空に向ける。
 それと同時に、瞬時に膨れ上がった強大な“邪気”が詩音目がけて放たれた。
 詩音はそんな様子に臆することもなく、すっと右手を翳す。
 再び花びらが旋回を成し、彼の前に空気の渦を形成する。
 強大な“邪気”は形成された空気の渦に阻まれ、その威力を失う。
「よくあんな短時間で、僕の妖精たちの呪縛から抜け出せたね」
 襲ってきた攻撃を無効化してから、詩音はそう言った。
 跳躍して詩音の攻撃を避けていた智也は着地し、体勢を整える。
 そしてそのハンサムな顔に笑みを浮かべ、笑った。
「幻影に惑わされそうになったけど、要は動きを封じている空間の磁場から抜け出せさえすれば体の自由は取り戻せるからね。それにしても、空想の具体化か……面白いな、君の能力」
「なるほどね、君は“邪者”でも特に強い“邪気”を操ることができるみたいだね」
「んー、そうだなぁ。以前言ったけど、結構“空間能力”と相性が合うみたいでね、俺の“邪気”って」
 そう言って、智也はグッと右腕に力を込める。
 その瞬間、大きな“邪気”が彼の身体中に漲った。
 バチバチと音をたてる右手を掲げ、智也は口元に笑みを浮かべる。
「さてと、次はこちらの番かなっ!」
 その言葉と同時に、強大な“邪気”がその掌から放たれた。
 ゴウッと唸りをあげ、その漆黒の光の塊は詩音に襲い掛かる。
 空気を裂き、それはあっという間に詩音の目の前まで迫ってきた。
 だが何故か、詩音はその場からぴくりとも動かなかった。
「……忘れていないかい? この空間のマスターは僕だということをね」
「何っ!?」
 目の前の光景に、智也は再びその表情を変える。
 完全に詩音を捉えた智也の“邪気”であったが……その光の塊は、詩音の身体をスッとすり抜けたのだった。
 そしていつの間にか詩音の姿は、花霞に溶けるように消えていた。
「あの彼の姿自体も、幻影だったってわけか」
 ふっとおもむろに漆黒の瞳を閉じ、智也はそう呟く。
 そして再び身構えた後、注意深く空気の流れに神経を傾ける。
 妖精の舞い遊ぶ花畑の空間を、数秒間の静寂が支配した。
 その時。
 漆黒の瞳をカッと開き、智也はバッと振り返る。
 そして、“邪気”を纏った右手を振り下ろして言った。
「俺も言っただろう? そう簡単に、俺には通用しないってなっ!!」
 グワッと大きな漆黒の光の塊が、その右手から放たれる。
「!」
 次の瞬間、今までで一番大きな衝撃音が耳を劈いた。
 しかしなお智也は攻撃の手を緩めず、同じ方向に第二波を放つ。
 それと同時に大きな“気”の力が弾け、そして大きな漆黒の衝撃は消滅した。
 智也は目の前の詩音を見据え、ふっと笑う。
「君自体が幻影だったなんて、驚いたな。でも俺は、攻撃対象を見失ったりはしないよ」
「よく僕の実体の位置が分かったね。“空間能力”と相性がいいという言葉は、あながち嘘ではなかったんだ」
 詩音はそう言って、上品な顔に微笑みを浮かべた。
 そんな相変わらず表情を変えない詩音に、智也は言った。
「これで君の自慢の“空間”も消滅したけど……どうする?」
 先程の智也の攻撃を受け、詩音の支配する“空間”は消滅していた。
 最初に放った“邪気”で詩音の実体に攻撃を加え、第二波で周囲の空間を無効化させたのだった。
 目の前には、美しい花畑ではなく殺風景な屋上の風景が戻ってきている。
 智也の言葉に慌てる様子もなく、詩音はふうっと息をつく。
 そしてその色素の薄い髪を、そっとかきあげた。
「仕方がないな、僕は本来こういう戦い方は好まないんだけどね」
 そう言って翳した詩音の右手に、強大な美しい“気”の光の塊が形成される。
 智也もそれを見て、ぐっと拳を握り締めた。
「随分と器用なんだな、普通の“気”の戦い方もできるなんて」
 そう言ってニッと笑った智也の手にも、強大な漆黒の“邪気”が美しい弧を描くように球体を成していたのだった。




「ていうか、姫が合宿に合流するのって明日だろ?」
 はあっと溜め息をついて、拓巳は面白くなさそうな表情をする。
 それを慰めるように拓巳の肩を叩いてから、祥太郎は苦笑した。
「姫がここに来るのは、明日の昼過ぎなんやろ? まだ明日の朝もチャンスはあるからな、夏のバカンスに向けて頑張ろうやないか」
 夏合宿二日目の今日も、結局少年たちは鳴海先生に一撃を与えることができなかったのだ。
 そして学校の既定どおりに夜7時に部活動を終えた少年たちは、容赦なく先生が与えた数学の課題に取り組んでいるところである。
「今更言っても遅いけどよ、詩音のヤツもいないしな」
「そうだね、詩音がいないのは結構痛いよね……ほら、口ばっかりじゃなくて手も動かさなきゃ終わらないよ、今日の課題」
 はあっと溜め息をつく准に、拓巳はますます気に食わない表情を浮かべる。
「ったく、こんなに鬼のように数学の課題なんて出しやがってよ。どこまで俺たちに嫌がらせすれば気が済むんだ、鳴海はっ」
「……せめて、姫がここにいたらな」
 もくもくと課題に取り組んでいた健人が、おもむろにそう呟いた。
「まぁ、明日には姫が来るんやから。それよりも、夏休みを是が非でもゲットせんとなっ」
「祥太郎、この課題を終わらせるのが先だってこと忘れちゃダメだよ」
 問題集から視線を外さないままで、准はそう言った。
 そんな准に、祥太郎はペロッと舌を出す。
「まぁまぁ、そんなコト言わんでっ。ここはひとつ、助け合いってことで……」
「言っておくけど、課題うつさせてあげないからね」
 祥太郎の言葉が終わる前に、准は即そう言った。
 そして、拓巳に目を向けて言葉を続ける。
「先生に散々釘を刺されたんだから、今回は自力で頑張ってよね」
 それだけ言って、准は席を立った。
「そんなカタイこと言うなよ……って、どこ行くんだ?」
 ノートを小脇に抱えて、准は拓巳の問いに答える。
「今日の課題終わったから、先生に提出しにいくんだよ」
「げっ、もう終わったん!?」
 准の言葉に、祥太郎は驚いたように目を見開く。
「俺も終わった」
「なっ!? 健人、おまえも終わったのかよ!? 俺なんて、まだあと何ページ残ってるんだか分かんねぇよ」
 准に続いて立ち上がった健人に、拓巳は溜め息をついた。
「じゃあお先に、おふたりさん。頑張ってね」
 そう言って、准はスタスタとその部屋から出て行く。
 健人も一瞬ちらりとふたりにその青い瞳を向けてから、准に続いた。
「ていうか祥太郎、おまえあと課題何ページ残ってる?」
「あと5ページも残ってるで。准のノートあてにしとったのになぁ」
 はあっと溜め息をついて、祥太郎は諦めたように問題集に視線を移す。
 拓巳はクルクルとシャープペンシルを指で回しながら、もう一度深く溜め息をついた。
「明日には姫が来るってのによ。明日は必ずアイツをぶん殴って、夏休みを手にしてやるからなっ」
 拓巳の言葉に頷きながらも、祥太郎はうーんと考える仕草をする。
「何としてでも姫とのバカンスを楽しみたいんやけど、さっきも言ってたように詩音がおらんのはツライよなぁ」
「あいつって、空間能力だけじゃなくて普通の“気”の戦いもできるからな。でも自分には合わないとか何とか言って、空間能力しか使わねーけどよ」
「空間能力は特殊やし、戦いを自分に有利に持っていきやすいしな。それにしても今頃コンサートも終わって、姫と一緒とか羨ましい状況やったりするんかな、詩音は」
 祥太郎は、そう言って深々と溜め息をついた。
 シャープペンシルをカチカチ言わせながら、拓巳は怪訝な表情をする。
「ちぇっ、こっちは地獄だってのによ。あー、さっさと終わらせようぜ」
 ようやく問題集に目を向け、拓巳は課題に取り組みだした。
 祥太郎も瞳にかかる前髪をかきあげてから、問題集のページを捲ったのだった。




 何度目か分からない衝撃が、その“結界”内に再び響いた。
 バチバチと音をたててその手でくすぶる強大な“邪気”を、智也はもう一度詩音目がけて放つ。
 詩音は慌てることもなく、瞬時に漲らせた“気”をその“邪気”にぶつけて相殺させた。
 その時。
「……!」
 詩音はその瞳を細め、そして本能的に振り返る。
 次の瞬間、ビュッと空気を裂くような音が鳴った。
 詩音は咄嗟に跳躍し、智也と一定の距離を保った位置に着地する。
 ……詩音が“気”で攻撃を相殺させることを読んでいた智也が、素早く彼の背後へと回り拳を放ったのだった。
「どうした? 自分の空間じゃないとやっぱり戦いにくかったりするのかな」
 挑発するような漆黒の瞳を詩音に向け、智也はふっと笑う。
 優雅に身だしなみを整えてから、その言葉に詩音は微笑んだ。
「僕はジェントルマンではあるけど、そんなにお人よしじゃなくてね」
 そしてブラウンの瞳を閉じて、続けた。
「僕たち“能力者”の……いや、この僕の力を探っているんだろう? 今日もそのために、わざわざお姫様が帰ったあとに姿を現した。違うかな?」
「それはどうだか。もしかしたら、君のことを殺しに来たのかもしれないよ?」
 相手の出方をうかがうように、智也は構えを解かないままでそう言った。
 詩音はそんな智也の言葉に、くすっと笑う。
「僕を殺しに来た“邪者”が、そうすんなりと“結界”内を僕の“空間”で支配させることを許したりしないし。特に、君ほどの“邪者”だったらね」
「そう簡単に、手の内は見せないってことか」
 智也はそう短く言って、その漆黒の瞳を細める。
 詩音は優雅な笑みを智也に向けて、そして言った。
「そういうことだから、今日は“結界”を解いて退いてくれないかな」
「そう言われて退くと思っているのか? ……と言いたいところだけど」
 ふうっと嘆息してから、智也はおもむろにその構えを解く。
 そして右手を掲げ、周囲に張り巡らせていた“結界”を解除した。
「ま、楽しい夢の世界も体験できたし。それなりにいろいろ分かったしな」
 それから智也は、口元に笑みを浮かべて続ける。
「君の優雅な外見や能力には、騙されちゃいけないってね」
 それだけ言って、智也は詩音に手を振って歩き出した。
 詩音は相変わらず柔らかい表情でその背中を見つめ、そして言った。
「機会があったら、また僕の公演にも足を運んでくれたら嬉しいよ」
「そうだね、たまには高尚な雰囲気が味わえていいかも」
 そして智也の姿が夜の闇に消えたのとちょうど入れ替わりで、屋上のドアが開く。
 詩音は振り返り、上品な笑みを浮かべた。
「貴婦人がこんなところに来て、どうしたの?」
「今日の主役がこんなところで遊んでいたらダメじゃない、詩音ちゃん」
 ふうっとわざとらしく溜め息をついて、現れた由梨奈はそう言って笑う。
 そして、言葉を続けた。
「手を貸そうかとも思ったんだけど、詩音ちゃん結構楽しそうだったから」
 詩音はその由梨奈の言葉に、ふっと微笑む。
「そうだね、僕もいろいろ楽しかったよ。さてと、そろそろ戻ろうかな」
 もう一度身だしなみを整え、詩音はゆっくりと歩き出した。
 それからすっかり暗くなった空を見上げ、輝く月の光を浴びて輝くブラウンの髪をそっとかきあげたのだった。