8月3日・火曜日。
 小さなレースのついた清楚な白いワンピース姿の眞姫は、落ち着かない様子で時計を見た。
 それからショーウインドウに映る自分の姿に目を移して、後ろで綺麗に編みこまれた髪をそっと手櫛で整える。
 今日は詩音のピアノコンサートに招待されている日であり、普段着慣れないドレスの裾を気にしながら、眞姫は一緒に会場へ行く約束をしている由梨奈との待ち合わせ場所へと向かっていた。
 眞姫は緊張した面持ちで、再び身だしなみを整える。
 持っていたすみれ色のショールを羽織り、もう一度時計に視線を向けた。
 ……その時。
 携帯電話の着信音が鳴り出し、眞姫は小振りのビーズで飾られたバックからそれを取り出して急いで通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『はぁい、眞姫ちゃん。こんばんはぁっ』
 受話器から聞こえてくる女性の声に、眞姫は微笑む。
「由梨奈さん、こんばんは。今、待ち合わせ場所に向かっている途中です」
 そんな眞姫とは対照的に、電話の相手・沢村由梨奈は申し訳なさそうに言った。
『あのね、眞姫ちゃんには本当に申し訳ないんだけど……実は私、仕事が長引いて少し遅れそうなのよね』
「そうなんですか? 大丈夫ですよ、待ってますから」
 由梨奈は眞姫の言葉に、うーんと考えこむように唸る。
『でも、結構開演ギリギリになっちゃうかもしれないのよね……あ、そうだ!』
 その時、おもむろに由梨奈は何かを思いついたようにポンッと手を叩いた。
『あの人なら、きっと大丈夫よね……眞姫ちゃんも知っている別の人にお姫様のお迎え頼むから、ちょっとそこで待ってて』
「別の人?」
 きょとんとする眞姫に、由梨奈は楽しそうに笑って続けた。
『そうそう。たぶんすぐ来てくれるだろうから』
「私も知ってる人、ですか?」
 眞姫はそれが一体誰だろうかと考えてみたが、思い当たらなかった。
 唯一思いついた鳴海先生は、少年たちとともに合宿中であるし。
『私も開演には間に合うように行くから、先にその人と会場に行っててね、眞姫ちゃん』
「……分かりました。また会場で」
 由梨奈の知り合いならば、心配はいらないだろう。
 そう思って眞姫は、由梨奈の言葉に頷いて電話を切った。
 それをバックにしまって、眞姫は薄暗くなった空を無意識に見上げる。
 そしてもう一度、ショーウインドウに映る自分の姿で身だしなみを整えた。
 普段あまり着る機会のない少しかしこまった装いの自分を見て、眞姫は何だか妙にワクワクした気分になる。
 誰のものかは覚えてはいないが、ピアノのコンサートは幼い頃一度だけチケットをもらって行ったことがあった。
 だが今回は友人である詩音のコンサートということもあり、眞姫の胸は大きな期待感でいっぱいである。
 音楽室で聴いている詩音のピアノは、いつも眞姫の心を柔らかく包んでくれる。
 自分に向けられる彼の優しい微笑みと同じように、眞姫を癒してくれているのだ。
「どんな曲演奏するのかな、詩音くん」
 薄暗くなった空に視線を上げてそう眞姫が呟いた、その時だった。
 すぐ目の前に、見たことのある1台の立派な車が止まった。
 そして、その運転席のドアがおもむろに開く。
「あっ……」
 眞姫は車から出てきた人物を見て、思わず声をあげた。
「こんばんは。お迎えにあがりましたよ、お姫様」
 上品な微笑みを眞姫に向け、その人物はスマートに助手席のドアを開ける。
「え? どうして?」
 驚いたように大きな瞳を見開く眞姫に、その人物・傘の紳士は笑った。
 そして、意外な人物の登場でその場に立ち尽くす眞姫を優しく促した。
「美しい貴婦人に、お姫様のお迎えを頼まれてね。さ、どうぞ」
 そう言って微笑む紳士にエスコートされ、眞姫は車に乗り込んだ。
 ゆっくりとそのドアを閉め、紳士も運転席へと戻る。
「シートベルトは締めたかな?」
「あ、はい」
 頷く眞姫ににっこり笑って、紳士は車を発進させた。
「いつもお姫様は可愛いが、今日のお姫様はまた一段と綺麗だよ」
「えっ、あ……ありがとうございます」
 にこにこと笑ってそう言う紳士の言葉に、眞姫は何だか恥ずかしくなって俯く。
 それから、ちらりと隣で運転する紳士を見た。
 普段から紳士的な彼であるが、今日はいつもとは少し雰囲気の違うスーツに身を包んでいる。
 決して派手ではないが、センスの良いそのスーツはとても高そうなものであると眞姫は思った。
 そしてそれがまた、この紳士には似合っていた。
 眞姫は、おそるおそる紳士に聞いた。
「おじさまも、詩音くんのコンサートに?」
「そうだよ、私は彼のピアノが大好きでね。いつも公演には足を運んでいるんだ」
 それから紳士は、にっこりと笑顔を眞姫に向けて続ける。
「でも今日のコンサートは格別だ、麗しの姫君と一緒だなんてね」
 紳士の言葉に、眞姫は顔を赤らめた。
 彼の言葉はいつも優しいが、真っ直ぐに受け取るには照れくさいものが多い。
 そういうところが、詩音と少し似ているなと眞姫は思ったのだった。
 この紳士も詩音も、人一倍ロマンチストな感性の持ち主なのだろう。
「そういえばお姫様は、明日から合宿所に行くんだってね」
「え?」
 急にそう聞かれ、眞姫は驚いた顔をする。
 どうして紳士は、合宿のことを知っているのだろうか。
 だが、彼も“空間能力”を操る“能力者”だということを思い出し、眞姫はひとりで納得した。
 詩音や由梨奈、そして鳴海先生とも、この紳士は知り合いのようであるし。
 びっくりした顔をして黙ってしまった眞姫に、紳士は優しく笑いかける。
「君のそういう向上心旺盛なところが好きだよ、私は。そんなお姫様に、ご褒美をあげるよ」
「……ご褒美?」
 信号が赤になり、紳士はゆっくりとブレーキを踏んだ。
 そして信号の待ち時間中、何かをおもむろに取り出して眞姫の間の前に差し出す。
 眞姫はそれを見て、あっと声を上げた。
「あっ、これって」
「約束しただろう? この次に会った時に君にプレゼントするってね。どうぞ、お姫様」
 眞姫は、紳士から差し出されたそれを手に取った。
 それは、1枚のCDだった。
「これは“The holy woman of moonlight・月照の聖女”のCD……ですか?」
「そうだよ、受け取ってもらえるかな?」
 眞姫はその大きな瞳に紳士を映してから、嬉しそうに頷く。
「はい。すごくこの曲好きなので、嬉しいです」
 柔らかな微笑みを眞姫に向け、紳士は満足そうに言った。
「それはよかった、こちらこそ喜んでもらえて光栄だよ」
「ありがとございます、おじさま」
 そして眞姫は本当に嬉しそうにお礼を言って、紳士からもらったそのCDを見つめたのだった。
 ――それから数分間紳士とのドライブを楽しんだ後、眞姫を乗せた紳士の車は目的のコンサート会場に到着した。
 受付でパンフレットをもらってから、眞姫は自分の席を探す。
 大きなホール内は、思った以上にたくさんの人で溢れていた。
 そんなきょろきょろとあたりを見回す眞姫の手を、紳士は優しく取る。
 その紳士の行動に少し驚いた眞姫であるが、あたたかい手の温もりにドキドキした。
「お姫様の席はこっちだよ? おいで」
 そして案内されたのは……VIP席であろう、普通の席と区別してある席だった。
「詩音くんの要望でね、お姫様には一番いい席をって」
「私に?」
 おそるおそる席に着いて、眞姫は目をぱちくりさせる。
 それにしても、場内は空いている席が無いほどに人が入っていた。
 天才ピアニストと謳われている詩音の人気の高さに、眞姫はただただ感心するしかなかった。
 そんな、眞姫が周囲に気を取られていた、その時。
「あら、もしかして貴女がうちの王子様のプリンセスかしら?」
 突然眞姫にそう話しかけてきたのは、ひとりの女性。
 眞姫は驚いたように顔を上げ、その女性を見た。
 その印象は空気のように透明で、その声はまるで歌っているかのように綺麗なものである。
 それに何より、背中に流れる色素の薄い長い髪と、目を見張るような美しい容姿。
 その美形な顔の作りは、誰かのものにそっくりだった。
「これはこれは、お久しぶりだね」
 隣に座っていた紳士が、その女性に声をかける。
 女性はブラウンの瞳を細めて、眞姫から紳士に視線を移した。
「彼女がプリンセスでしょう? うちの王子様のお気に入りなんですから、くれぐれも貴方は手を出さないでくださいな」
 くすっとその女性は笑って、紳士に冗談っぽくそう言った。
 まだ状況が分かっていない眞姫に気がついて、紳士は笑う。
「お姫様、彼女は詩音くんのお母様だよ」
「え?」
 一瞬きょとんとした眞姫であったが、慌てて立ち上がって深々とお辞儀をした。
「私、詩音くんと仲良くさせてもらっています、清家眞姫と言います」
「貴女のことは毎日詩音から聞いているわ。うちの王子様のお気に入りなだけあって、とても可愛らしい女性だわ」
 そう言って眞姫に向けられた優しい彼女の微笑みは、詩音のものと同じだった。
 息子がいると思えないくらいに若々しく、とても魅力的な気品に溢れた女性。
 詩音のあの日頃の振る舞いや台詞も、彼女を見ていれば納得がいくような気がした。
「今日は足を運んでくださって感謝しています。詩音が言っていましたもの、今日の公演は特別なものだと」
「ありがとうございます。私もすごく楽しみにしていましたから」
「それでは、ゆっくりと楽しんでいらして。公演後、うちの王子様にも会いに行ってあげてね」
 そうにっこりと微笑んで、彼女はその場を去っていく。
 ふわりと靡く彼女の長い髪を見つめながら、眞姫ははあっと溜め息をついた。
「すごく、綺麗な女性(ひと)ですね」
「彼女は有名な声楽者なんだよ。梓静香といえば名前の知れた声楽家なんだけど、知っているかな? 詩音くんの父親は世界的に有名な指揮者だから、音楽一家ということだね」
「音楽一家ですか、何だかすごいなぁ」
 日頃触れることの無いような別世界に来た感覚で、眞姫はもう一度周囲を見回してから大きく感嘆の息をつく。
 それから気を取り直して席につき、もらったパンフレットに目を移した。
 パンフレットには、簡単な詩音のプロフィールと今日のコンサートで演奏される演目が載っている。
 それを見ていた眞姫は、その大きな瞳を見開いた。
「あっ、この曲……!」
「これは、今日だけ特別に演奏するみたいだよ? お姫様が来る今日だけにね」
 眞姫の視線を追って紳士は、嬉しそうに笑う。
 眞姫はもう一度、パンフレットに目を移した。
 その瞳には“The holy woman of moonlight”という文字が映っていたのだった。
 それから開演までのしばらくの間、眞姫は飽きることなく周囲の様子を見たり、紳士との会話を楽しんでいた。
「あっ、いたいたっ。さっきはごめんね、眞姫ちゃん!」
 開演ギリギリに現れた由梨奈は、シックな黒のスリップドレスを着ている。
 シンプルなデザインのドレスなのに、由梨奈が着るととても華やかに見える気がした。
「由梨奈さん、こんばんは。気にしないでください、おじさまに来ていただけたし」
「明日はオフだから、ちゃんと由梨奈お姉さんが合宿所まで送ってあげるからね」
「はい。すみません、送ってもらうことになって」
「いいの、いいの。私も眞姫ちゃんとドライブするの好きだから」
 ぽんぽんっと軽く眞姫の肩を叩いて、そして由梨奈は紳士に目を向ける。
「おじ様、どうもありがとう。でもおじ様も、お姫様とのドライブ楽しめたんじゃない?」
「そうだね。君には感謝しているよ、由梨奈」
 それから眞姫の隣の席に座って、由梨奈はちらりと時計を見た。
「もうそろそろ、はじまる頃じゃないかしら」
「そうですね、何だかドキドキしてきた……あっ」
 その瞬間、ふっと会場の照明が落ちて舞台だけが明るく照らされる。
 それから大きな拍手に迎えられ、正装した詩音が姿を見せた。
 丁寧にその拍手に応えて、詩音は優雅な身のこなしでお辞儀をする。
 そして彼がピアノに座った、その瞬間。
 眞姫は、ドキッとした。
 いつも自分を見守ってくれている優しい詩音の瞳が眞姫を映し出し、そして嬉しそうにフッと細くなったのだ。
 柔らかな笑顔をじっと眞姫にだけ向けたあと、詩音はゆっくりと鍵盤に手をかける。
 そして細くて綺麗な詩音の指が美しいメロディーを奏で始め、会場があっという間にその旋律で満たされたのだった。




 繁華街で人を待っていたその少女は、ふと顔を上げて大きな溜め息をついた。
 漆黒の瞳に映し出された相手は、全く悪びれもなく少女に近付いてくる。
 もう一度嘆息して、その少女・つばさは言った。
「待ち合わせ時間、私が間違えたのかしら?」
 その言葉に、遅れてきた相手・藤咲綾乃は笑う。
「つばさちゃんは間違ってないと思うよぉっ。あ、もしかして待った? ごめんねっ」
「あのね、綾乃。もしかしなくても1時間半待ったわ」
「ごめんねぇっ、つばさちゃん」
「いつものことだから、もう慣れているわ。やはり貴女と話したい時は、学校の帰りにつかまえるのが一番いいようね」
 それだけ言って、つばさは歩き出した。
 あははっと他人事のように笑って、綾乃は言った。
「まぁまぁっ。ところで、つばさちゃんから誘ってくれるなんて珍しいじゃない? どうしたのぉ?」
 綾乃の言葉に、つばさはふと険しい表情をする。
 そんな様子を見て、綾乃はその瞳を細めた。
「あ、もしかして杜木様のこと?」
「…………」
 口を噤んだつばさを慰めるかのように、綾乃は彼女の頭をそっと撫でる。
「大丈夫だって。杜木様はつばさちゃんのこと、特別に扱ってくれてるでしょ?」
「でもそれは私が、“邪者”では特殊な“空間能力者”だからかもしれないでしょう? あの“能力者”に向けられた杜木様の視線……あんな杜木様の目、はじめてみたもの」
 大きく首を振って、つばさはぎゅっと拳を握り締めた。
「でも、今はもう結婚してるんでしょ? その“能力者”って。つばさちゃんのこと、杜木様すごく大事にしてるじゃない。深く考え込んだらダメよぉ」
「それは、分かっているんだけど」
 彼にとって自分以外の“特別”な存在があるというだけで、つばさには許せなかった。
 確かに、杜木様は自分に特に優しい。
 だが……彼は、誰にでも優しくて慈悲深い人なのだ。
 それがよく分かっているつばさにとって、本当に彼の気持ちが垣間見れたあの瞳が、どうしても忘れられないのだった。
 すっかり俯いてしまったつばさに、綾乃はその表情を引き締め、瞳の色を変える。
「つばさちゃん、これだけは言っておくけど、早まった真似だけはしたらダメだよ? “能力者”は思った以上に力を持ってるわ。それがこの間、よく分かったもん」
「…………」
 綾乃の言葉に、つばさはその漆黒の瞳を閉じた。
 そしてその目を開けてから、溜め息をつく。
「そうね、杜木様にご迷惑をかけるわけにはいかないもの」
 綾乃は、まだ険しい表情のつばさににっこりと微笑んだ。
「んじゃ、今日はパーッと遊んじゃおーうっ! ね、つばさちゃんっ」
「! ちょっと、綾乃っ」
 急にぐいっと手を引かれて、つばさは驚いた顔をする。
 そんな様子にもお構いなしで綾乃は笑った。
「うーんっとぉ、じゃあつばさちゃんのために、美味しい甘いものでも食べに行こっか!」
「綾乃が行きたいだけなんでしょう、それって」
「あははっ、ばれちゃった?」
 楽しそうにそう言う綾乃にふっと微笑んでから、つばさはおもむろに振り返る。
 それからすっかり暗くなった空を一瞬だけ見て、そして歩き出したのだった。




 眞姫はしばらく、席を立てずにいた。
 詩音のコンサートも終わり、人で溢れていた会場も大分静かになってきている。
 あっという間に終わってしまったその旋律の余韻に浸りながら、眞姫は大きく溜め息をついた。
 舞台には大きなピアノと詩音だけしか存在しなかったのに、目の前にはその曲ごとの世界が一瞬にして広がった。
 眞姫の思っている純粋な優雅なクラシック曲もあれば、印象のまったく違う激しい情熱的な曲や遊び心を取り入れたような曲もあり、聞き応えがあったのだ。
 何よりも、詩音自身がピアノとじゃれあっているかのようにとても楽しそうに演奏していたように眞姫は感じた。
 そして、時折見せる眞姫だけに向けられた詩音の微笑みがとても印象的で。
 あの優しい微笑みを見ると、まるで自分のためにだけその美しい旋律を奏でてくれているかのような錯覚に陥ってしまう。
「眞姫ちゃん、詩音ちゃんのところに行きましょうか」
「そうだね、お姫様のことを待ちわびているんじゃないかな?」
 由梨奈と紳士の言葉に頷いて、眞姫はようやく立ち上がった。
 会場から帰路に着く人たちと逆方向に歩きながら、眞姫の頭の中にはあの曲・“月照の聖女”がずっと流れていた。
 どの曲ももちろん素晴らしかったが、特にこの曲は何とも言えずに綺麗で。
 そして、この曲を演奏する前。
『この曲は、僕の守るべきプリンセスのためだけに演奏します』
 じっと眞姫から視線を外すことなく、詩音はこう言ったのだった。
 その柔らかな中にも強い光のようなものを感じる瞳は、とても輝いていて。
 眞姫はそんな詩音の瞳を思い出し、ドキドキと胸の鼓動が早まる。
 それから詩音の控え室のドアをノックし、3人は部屋へ入った。
 だが、その部屋に詩音の姿はなかった。
 不思議そうにあたりを見回す眞姫に、詩音の母親・静香は優しい微笑みを向ける。
「詩音なら、きっと屋上ですわ。王子様は公演後の余韻を楽しむことがとても好きなの。行ってさしあげて、お姫様」
「屋上、ですか?」
 一瞬きょとんとした眞姫だったが、ぺこりと深くお辞儀をして部屋を出て行こうと足を踏み出した。
 その様子を優しい瞳で見守っていた紳士が、ふとその表情を変える。
 そして、眞姫を呼び止めた。
「お姫様、私も一緒に屋上に行ってもいいかな?」
「え? あ、はい。一緒に行きましょう、おじさま」
 紳士の言葉に、眞姫はその足を止める。
 そんな眞姫ににっこりと微笑んで、紳士は彼女をエスコートするように歩き出した。
 ふたりが退室したのを確認して、静香は由梨奈に言った。
「由梨奈さん、聞いたわ。彼、お姫様に自分のことを隠しているんですってね」
「ええ、本当に子供のような人ですよね、おじ様って」
 そう言ってふたりは顔を見合わせ、楽しそうにくすくすと笑ったのだった。
「今日の公演、すごく素敵でしたよね」
 紳士と屋上に続く階段を上りながら、眞姫は詩音の奏でた旋律を思い出してそう呟く。
「彼の演奏はいつ聴いても感動するが、今日は特に素晴らしかったよ」
 優しい笑顔を眞姫に向けて、紳士は言葉を続けた。
「今日はお姫様がいたからだろうね。お姫様の姿を見つめる詩音くんは、とても嬉しそうだったよ」
「私がいたから、ですか?」
 紳士の言葉に、眞姫はきょとんとする。
 そんな眞姫にもう一度微笑んでから、紳士は屋上に続くドアを開ける。
 眞姫は吹きつける風で乱れる髪を気にしながら、周囲を見回した。
 そして。
「あ、詩音くん!」
 すっかり暗くなった空を見上げている詩音の姿を見つけて、眞姫は彼に駆け寄る。
 眞姫の声に、星空を眺めていた詩音がふっと視線を向けた。
 その笑顔はとても優しく柔らかで、いつもの詩音のものである。
 だが、まだ正装のままである詩音のその雰囲気は、いつも以上に優雅でしなやかなものだと眞姫は感じた。
「僕のお姫様、今日は来てくれてどうもありがとう」
 丁寧に一礼をして、詩音はスッと眞姫の右手を取る。
 そして眞姫は次の詩音の行動に、その大きな瞳を見開いた。
「詩音くん……」
 眞姫の手を取った詩音の唇が、ゆっくりと軽くその手の甲に触れたのだ。
 その柔らかで羽のように軽いその感触に、眞姫は思わず顔を赤らめる。
 それから、気を取り直して言った。
「あ……お礼を言うのはこっちの方よ、詩音くん。私こそ、夢のような時間を過ごせて感激だったわ」
「今日の僕はね、今までで最高の演奏ができたと満足しているんだ。これも全部、お姫様という魔法のおかげかな」
 本当に嬉しそうにそう言う詩音に、眞姫は照れながらも微笑みを向ける。
「どの演奏も、とても素敵だった。特に“月照の聖女”、あの曲は本当に素晴らしくて」
「あれはお姫様への気持ちを込めて演奏したからね。そう言ってもらえて光栄だよ」
「ありがとう、詩音くん」
「今日の夢の国の王子の公演は、楽しんでいただけたということかな? お姫様」
 眞姫は詩音にその大きな瞳を向けて、興奮したように大きく頷いた。
「ええ、とても! 優雅な曲だけでなくて、あのアンコール時に弾いた曲みたいなすごく明るくて元気なイメージの曲なんかもあって、ピアノの可能性の大きさを感じたわ」
「アンコールの曲、あれは“Blue Sunshine”っていう僕の作曲した曲なんだ。この間の部活のミーティングの時に旋律が思い浮かんで、急遽作ったものなんだよ」
「部活のミーティングの時に?」
 詩音の意外な言葉に、眞姫は不思議そうな表情を浮かべる。
 そんな眞姫にふっと笑顔を向け、詩音は言った。
「うん、みんなお姫様と夏休みを過ごしたい一心だっただろう? 輝く夏の太陽と爽やかな少年少女の休日……そんなイメージが湧いてきてね」
「確かに、すごく夏の太陽って雰囲気の曲だったわ。でも面白いわね、部活の時に思いつくなんて」
「実際の合宿は、到底そんな爽やかなものではないとは思うんだけどね」
 くすっと笑ってそう呟き、詩音はその瞳を細めた。
 それから、眞姫を気遣うように優しく彼女の栗色の髪を撫でて言葉を続ける。
「そういえば、お姫様も明日から彼らと合流するんだろう? 今日は美しい旋律と王子様の夢でも見ながら、ゆっくり休んで」
「うん、ありがとう。詩音くんもね」
 にっこりと微笑んで、眞姫は詩音に手を振る。
 そして、歩き出そうとした眞姫に詩音は思い出したように口を開いたのだった。
「そうそう、お姫様。合宿に行ったら……そうだな、祥太郎に伝えてくれないかな」
「え? 祥ちゃんに?」
「鳴海先生に一矢報いるためには、彼の嫌がることをしてみたらどうかな、とね」
 楽しそうにそう言う詩音とは逆に、眞姫はその言葉の意味することが分からずに首を傾げる。
 だが、とりあえず眞姫はこくんと頷いた。
「うん、分かったわ。伝えておく」
 まだ何かを考えるような仕草をする眞姫に柔らかな表情を向けて、詩音は笑う。
 そして、自分たちを無言で見守る紳士にちらりと視線を移し、言った。
「僕はもう少しここにいるから、お姫様はおじさまに送ってもらうといいよ。気をつけて帰ってね」
「うん、今日は本当にありがとう。詩音くんのおかげで、とても素敵な時間が過ごせたわ」
 満面の笑みを浮かべ、眞姫は嬉しそうに詩音にその大きな瞳を向ける。
 それから改めて彼に手を振って、背後で待つ紳士のもとへと歩き出した。
 そんな眞姫を優しく促しながらも、今まで黙っていた紳士はふっと詩音を振り返る。
 そして、言った。
「……大丈夫かい? 詩音くん」
 その紳士の言葉に、詩音は相変わらずその優雅な表情を変えないまま軽く右手をあげる。
「僕のことは大丈夫だよ、おじさま。おじさまは、僕のお姫様を送ってあげて」
「分かったよ、詩音くん。お姫様は私に任せてくれ」
 それだけ言って、紳士は眞姫を連れて屋上から足早に去っていく。
 眞姫は時々振り返り、何度も詩音に手を振っていた。
 優しい眼差しでそれを見送った詩音は、その姿が見えなくなったのを確認して、ふと風に揺れる髪を軽くかきあげる。
 そして。
 視線を先程までとは全く違う方向に向けて、ゆっくりと言った。
「それで……僕に、何の用かな?」
「さすが“空間能力者”だね。俺がいることなんて、とっくにお見通しってことか」
 ふっと笑って漆黒の闇から姿を現したのは、一人の少年。
 そんな少年の出現にも動じず、詩音は相変わらず優雅な笑顔を絶やさない。
 そしてその少年・高山智也は、人懐こい表情を浮かべて言った。
「俺、ピアノのコンサートなんてはじめてだったけど、正直こんなに感動するものとは思わなかったな。さすがあの“空間能力”の使い手なだけあるなって感心したよ」
「どうやら、僕の旋律を気に入ってもらえたようで嬉しいよ。僕の旋律は聴く者すべての心を癒すからね。たとえそれが、“邪者”であったとしても」
 そして詩音は、その瞳を閉じて言葉を続ける。
「でも僕の演奏の感想を、ただ言いにここに来たわけじゃ当然ないよね?」
 その詩音の言葉に、智也は笑みを浮かべた。
 それからその漆黒の瞳をまっすぐに詩音に向けてから、軽く身構える。
「そうだなぁ。俺は“邪者”で、君は“能力者”だからね」
 智也がそう言い終わると同時に、彼の右手に大きな“邪気”が宿った。
 刹那、その“邪気”が弾けたと思うと、周囲に立派な“結界”が形成される。
 智也はもう一度右手を掲げて、再び漆黒に輝く光を集結させた。
 そしてそんな智也の様子に、詩音は閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
 次の瞬間。
「……!」
 智也はピタリと動きを止め、そしてその表情を変える。
「これは……」
 改めて体勢を整え、智也は詩音に目を向ける。
 詩音は上品な微笑みを智也に向けて、そして言った。
「僕の空間へようこそ。僕の芸術を、君に見せてあげるよ」
「俺の“結界”内を、こんなに短時間で自分の“空間”で満たすとはね……面白いな」
 先程の殺風景な屋上の風景とはうって変わり、智也の瞳には一面の花畑が映っている。
 そして優しくもあり何故か恐怖を感じるほどの美しい旋律が、耳に響いている。
「本当に、見事なまでの“空間”だよな。でもそう簡単には、この俺には通用しないよ」
 智也は幻影に惑わされないようにしっかりと詩音を見据え、そしてふっと口元に笑みを浮かべてから、その手に再び強大な“邪気”を宿したのであった。