同じ頃。
 繁華街の喫茶店で珈琲を飲んでいたその男・杜木慎一郎は、ふと漆黒の瞳を細めた。
 黒いシャツにジーンズ姿というラフな格好であるが、その着こなしはどこか垢抜けている。
 くせのない瞳と同じ色の前髪をかきあげて、杜木は言った。
「そろそろ、智也が“浄化の巫女姫”と接触した頃かな」
 その言葉に、彼の目の前に座っている少女・つばさは頷く。
「ええ、どうやらナンパに成功したようですわ。智也と彼女の気配、同じ場所に感じます」
「そうか、それはよかった」
 杜木は相変わらずいつもの柔らかな表情のまま、遠くを見るように窓の外に目を移した。
 つばさは、そんな杜木の整った横顔に視線を向ける。
 綺麗な二重の瞳は神秘的な深い色を湛えており、その瞳にかかるまつ毛は驚くほど長い。
 そんな端整な杜木に、つばさはしばし見惚れていた。
「つばさ?」
 その視線に気がついて、杜木は顔を上げる。
 急に自分を映したその瞳に少し驚いた表情をしてから、気を取りなおしたようにつばさは言った。
「智也にとって今回のお仕事は、プライベートと同じようなものですからね」
「彼なら上手にやってくれるだろうと、私は思っているよ」
「杜木様からお仕事のお話を聞いた時の、あの智也の嬉しそうな顔ったら。本当に“浄化の巫女姫”が好きなんだって思いましたわ」
 つばさはくすっと笑って、数時間前に見た智也の表情を思い返す。
 数時間前、智也は杜木に呼ばれてある仕事を命じられたのだ。
 その仕事とは……。
「それにしても智也、憧れの彼女とのお喋りに夢中で、肝心なことを言い忘れるなんてことないですわよね」
 つばさのその言葉に、杜木はふっと瞳を閉じて言った。
「智也のことだから心配はいらないよ。ただ、男は好きな女性の前ではつい舞い上がってしまう生き物だからな。つばさがそう言う気持ちも分からないこともないが」
「好きな、女性の前では……」
 その杜木の言葉に、つばさはピクッと過剰に反応を示す。
 それと同時に、ギュッと胸の締め付けられるような感情がこみ上げてきた。
 そんな感覚に耐えられず、つばさは漆黒の瞳を閉じる。
 そしてその瞼の裏に映ったものは……美しい魅力的な容姿と風に靡く長い髪、そしてそんな彼女を愛しい視線で見つめる漆黒の瞳。
『彼女は、私の愛している女性だよ』
 私は……私は、こんなに貴方様のことを愛しているのに……!
 湧き上がる嫉妬心に、思わずつばさはキュッと唇を固く噛み締めていた。
 杜木の昔の彼女だったという女性・沢村由梨奈は、あの時以来杜木と接触してはいないようだ。
 杜木も、何もこれまでと変わった様子はない。
 だがつばさは、由梨奈のことを話した時の彼の瞳の色が、未だに忘れられないでいた。
 今まで杜木と一緒の時間を過ごすことが多かったつばさだが……あんな瞳の色の彼は、見たことがなかったのだ。
 しかもその視線は、自分に向けられたものではない。
「杜木様……杜木様にとって、私は……」
 気がつけば、つばさは無意識にそう呟いていた。
 そしてハッと我に返り、その口を噤む。
 俯いて黙ってしまったつばさに、杜木は優しい微笑みを向けた。
「何も心配することはないよ、私にはおまえが必要だ」
 そっと自分の右手を取ってそう言う杜木に、つばさは複雑な表情を浮かべる。
「……杜木様」
 杜木様が必要としているのはこの私自身なのか、それとも……。
 つばさは再び杜木のその漆黒の瞳を見た。
 だが、その瞳の黒は深すぎて……つばさには、彼の心の内が分からなかった。
「そろそろ店を出ようか、つばさ」
 伝票を手にとってから、杜木は立ち上がる。
 その言葉に頷いて、つばさもそのあとに続こうとした……その時。
 おもむろに杜木のしなやかな大きな手が、つばさの頭をそっと撫でる。
 その手の温もりは、とても優しくてあたたかい。
 そしてそんな杜木の手の感触を感じて、つばさはふっとその顔に微笑みを取り戻したのだった。
 それから勘定を済ませて店を出た杜木は、少し薄暗くなった空を見て呟いた。
「あいつのことだ、お姫様にはまだ何も話してはいないだろう……あいつは昔からそうだからな」
「……杜木様?」
「いや何でもない、ただのひとりごとだよ」
 にっこりと微笑んでつばさにそう言ってから、そして杜木はその漆黒の瞳をふっと細めたのだった。




 その頃、鳴海先生は愛用の腕時計にちらりと目を向けた。
 時計は、もうすぐ夕方の6時を刻もうとしている。
 それを確認して、鳴海先生は少年たちの待つトレーニングルームへと足を運んだ。
 合宿1日目のスケジュールでは、これが最後の訓練時間となっている。
 そしてちょうど訓練開始時間を時計がさしたと同時に、先生はトレーニングルームのドアを開けた。
 その時だった。
「……!」
 眩い無数の光が目の前で弾けたのを感じて、先生は顔を上げる。
 そしてそれに動じることなく、その右手をスッと掲げた。
 急速に高まる“気”の大きさを物語るかのように、周囲の空気が大きく渦を巻く。
 それと同時に、先生の目の前に立派な“気”の防御壁が形成された。
 そして繰り出された無数の光はその防御壁にぶつかり、あっという間に消滅した。
「ちっ、“気”の防御壁かよっ」
 悔しそうに舌打ちして、拓巳は何事もなかったかのようにトレーニングルームに入ってきた鳴海先生を訝しげに見る。
 はあっとわざとらしく溜め息をついてから、先生は拓巳に言った。
「あれだけ大きな口を叩いておきながら、この程度か? あんな攻撃しかできない程度では、いつまでたっても夏休みはやれんな」
「んだと!? おまえをぶん殴って、絶対夏休みを手にしてやるっ!」
「拓巳、そんなに感情的になったら……って、全然人の話聞かないんだから」
 准が言葉を言い終わる前に、すでに拓巳は先生に向かって間合いをつめている。
 大きく嘆息する准の肩を労うように叩いて、祥太郎は笑った。
「まぁまぁ、これくらい気合入ったくらいでええんやないか? 准だって夏休みは欲しいやろ?」
「まぁ、それはそうだけどさ」
 まだ怪訝な顔をしている准に、健人は軽く身構えてから言った。
「姫がここに来る前に、絶対に終わらせてやる」
「おー、健人もヤル気満々やなぁ。ま、同じ夏休みゲットって目的目指して頑張ろうやないか、准」
「分かってるよ、僕だって夏休みは欲しいからね」
 やっと納得したように頷いてから、准はふっとその瞳を閉じる。
「……くっ!」
 同じ時、鳴海先生にいち早く攻撃を仕掛けていた拓巳は、先生の繰り出した“気”の衝撃の大きさに顔を顰めた。
 先生は、そんな拓巳に容赦なく次の攻撃を浴びせようと“気”の漲った掌を掲げる。
 そしてそれを振り下ろした、その時。
 先生の掌から放たれた大きな光は拓巳には届かず、カアッと眩い輝きを発して消滅したのだった。
「准の防御壁か……」
「悪いけど、夏休みはもらうでっ! センセ!」
 そしてその直後、背後で風を切るような音が鳴ったと思うと、いつの間にか移動した祥太郎の蹴りが先生に襲い掛かる。
 それを難なく身を翻してかわして、鳴海先生は反撃に転じようと拳を握り締めた。
 その時。
「!」
 健人の右手から鳴海先生目がけて、大きな光が繰り出される。
 轟音を響かせ空気を裂き、眩い光が先生を捉えんと唸りをあげた。
「この程度の“気”など、避けるまでもないっ」
 咄嗟に空いている左手に“気”を漲らせて、その光を先生は弾き返す。
「! 何っ!?」
 攻撃を易々と跳ね返され、健人はその青い瞳を見開いた。
 刹那、ドーンという大きな衝撃音があたりに響き渡る。
「……あの防御壁は少々厄介だな」
 切れ長の瞳を細め、先生はそう呟く。
 健人に跳ね返ってきた“気”は、再び准の張った防御壁に阻まれて無効化されたのだった。
 そんな様子にも目を向けずに、鳴海先生はふっとその瞳の色を変える。
 そして体勢を整え、バッと振り返った。
 その、次の瞬間。
「くらいやがれっ、この野郎!!」
「夏休みいただきや、センセ!」
「これで終わらせてやる!」
 いつの間にか一気に間合いをつめた拓巳と祥太郎、健人の3人が、同時に先生に攻撃を仕掛けてきたのだ。
 ふうっとひとつ息を吐き、先生は動じることなく言った。
「聞こえなかったのか? この程度では、夏休みはやれんとな!」
 3人の攻撃をすべて卓越した運動神経で避けてから、先生はグッとその拳を握り締める。
 そして強大な“気”がその拳に宿ったと思った、瞬間。
「……っ!」
「なっ、何やて!?」
「くっ!」
 カアッと複数の光がその手から弾け、少年たちを吹き飛ばしたのだった。
 吹き飛ばされた少年たちはその衝撃に弾かれて、身体を強く壁にぶつける。
 そんな少年たちに、先生は溜め息をついて言った。
「もう終わりか? 全く話にならん」
 そして先生はその切れ長の瞳を閉じて、誰にも聞こえないような小声で呟いた。
「せめて……5人がかりででも、私を殺せるくらいの力をつけてもらわなければ困る……」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねーぞっ! まだまだだっ!」
 キッと鋭い視線を先生に投げ、拓巳は再び立ち上がって身構える。
 祥太郎と健人、准も拓巳の言葉に頷いて、再び体勢を整えた。
 先生はその瞳を少年たちに向けてから、いつもの威圧的な声で言った。
「それはこっちの台詞だ。まだまだだ、全員全力でかかってこい」




 ――その頃眞姫は、智也と一緒に繁華街のお洒落な喫茶店にいた。
 眞姫は、ちらりと目の前の智也に遠慮気味に目を向ける。
 その視線に気がついて、彼はにっこりと満面の笑みを浮かべる。
「ねぇ、眞姫ちゃんは何にする? もちろん俺の奢りだから、遠慮しないで頼んじゃって」
 本当に楽しそうな表情で、智也は無邪気にメニューを見ている。
 そんな智也とは逆に、まだ警戒した様子で眞姫は言った。
「私、紅茶でいいわ」
「ここのケーキ、すごく美味しいよ? おなかいっぱいじゃなかったら、ケーキセットにしたら?」
「……じゃあ、レアチーズケーキのケーキセットで」
 眞姫の言葉に満足そうに頷いて、智也はウェイトレスに注文する。
 眞姫は、大きく溜め息をついた。
 よく考えると、何で“邪者”である彼とお茶なんてしているんだろうか。
 ただ単に、断るきっかけをなくしてしまったというだけのことではあるのだが。
 でも、相手は自分のことを狙っている“邪者”なのに。
 こんなにのん気にお茶なんてしていていいのだろうか。
 少年たちの殆どが合宿に行っていることを思い出し、眞姫は不安を募らせた。
「眞姫ちゃん、眞姫ちゃん」
 再び溜め息をついた眞姫に、智也は屈託のない微笑みを向ける。
「せっかくのふたりきりのデートなんだから、楽しもうよ」
「デートって……」
 その言葉に反論しようとした眞姫に、智也はニッと笑う。
「眞姫ちゃんから聞かれたことなら、何でも答えてあげるよ? どう、少しは俺とのトークにワクワクしてきた?」
「どう、って言われても」
 眞姫は智也の言葉に、困った顔をした。
 確かに、彼に聞きたいことはたくさんある。
“邪者”のことや“能力者”のこと、それに……あの杜木という人物のこと。
 智也は、無邪気な笑顔を浮かべて言った。
「何でも聞いていいよ。あ、ちなみに僕の好みのタイプは、眞姫ちゃんみたいな可愛い子だよっ」
 あははっと能天気に笑う智也を後目に、眞姫は口を開く。
「貴方たち“邪者”と“能力者”の違いって、まだよく分からないんだけど」
「やっぱり、そっち系の話になっちゃうかぁ。まぁ、眞姫ちゃんとふたりってだけで俺は幸せだからいいけどね」
 少し残念そうに言って、智也は続けた。
「“邪者”と“能力者”の違い、眞姫ちゃんはどこだと思う?」
 逆にそう質問されて、眞姫は一瞬驚いたような表情をみせる。
 それから少し考えてから、ゆっくりと言った。
「使う力の雰囲気が違うって思ったし、“邪者”は“邪”を取り込んで力を得た人たちとは聞いてるわ」
「眞姫ちゃんも見てきたように“邪者”は“邪気”を“能力者”は“気”を使うけど、このふたつって性質はよく似てるんだ。人間にはふたつの種類の力があってね、俺たちはそれを“正”と“負”って言ってるんだけど、“能力者”は“正の力”いわゆる“気”を使い、“邪者”は“負の力”である“邪気”を使っている。そこまでは分かる?」
 こくんと頷く眞姫を見て、智也は話を続ける。
「人間が自分で使える能力は、“正の力”である“気”なんだ。スポーツでも訓練すれば成果がでるだろう? 身体能力も“正の力”の訓練で高くなるからね。そんな“正の力”が、普通の人間よりも卓越して高い人間が“能力者”だよ」
「卓越した“正の力”を操ることができるのが、“能力者”」
「そう。逆に、人間が自分で引き出せない力が“負の力”なんだ。これは人間の身体の中に眠っていて、自分では使うことができない。それを“負”の性質の強い“邪”を取り込むことによって使いこなせるようになったのが“邪者”だよ。ここが“邪者”と“能力者”の大きな違いかな」
 智也の話を聞いて、眞姫は何かを考えるように無言で俯く。
 そして頼んでいたケーキと紅茶が運ばれてきたことにも構わず、眞姫は質問を続けた。
「でも“邪”を取り込むなんて、そんなこと誰にでもできるの?」
「もちろん、誰もが“能力者”になれないことと同じで、“邪者”の素質がある人間も限られているんだよ。中には、杜木様のように両方の素質も持っている人も稀にいるし」
「杜木様……」
 眞姫は、杜木のあの印象的な漆黒の瞳を思い出した。
 柔らかく不思議な色をしている反面、冷酷な何かもその瞳には感じられる。
 そして、ぞくっとするほどの強大な“邪気”。
 元“能力者”で、“邪者”としての資質も兼ね備えている人物。
 智也の話を聞いて、彼の圧倒的な強さの理由が少し分かったような気がした。
「あ、杜木様と言えばさ、杜木様の元カノって“能力者”なんだよね? どんな人?」
「元カノって……由梨奈さんのこと? すごく綺麗な大人の女性よ」
「すごく綺麗な大人な女性かぁ、つばさちゃんが荒れてるわけだ」
 眞姫は、智也の言葉に首を傾げる。
「つばさちゃんって、あの杜木っていう人と一緒にいるセーラー服の子?」
「そうそう。彼女、“邪者”では極稀な“空間能力者”だからね、いつも秘書っぽいカンジで杜木様のそばにいるんだよ」
 智也はそう言って、目の前のチョコレートケーキをひとくち食べる。
 そんな智也に目を向け、眞姫はふと疑問に思った。
 どうして彼は、こんなにいろいろと自分に話してくれるのだろうか。
“能力者”と“邪者”は、敵同士なはずなのに。
 そんな眞姫の心を察するかのように、智也はコーヒーを飲んでから、その瞳をふっとおもむろに細める。
 そして、言った。
「眞姫ちゃんは、少し勘違いしてるんだよ。眞姫ちゃんにとって“邪者”は敵だっていう勘違いをね」
 その言葉に、眞姫は驚いたように顔を上げる。
「だって、“能力者”と“邪者”は敵同士なんでしょう?」
 智也はにっこり笑ってから、首を横に振った。
「確かに“邪者”と“能力者”は敵同士だよ。“能力者”の“気”は“邪”の力を退治するための力だからね。でも、“邪者”と“浄化の巫女姫”は違うんだ。“浄化の巫女姫”の能力には“邪”にとって脅威的なものもあるけど、決して君は“邪者”の敵なんかじゃない」
「それって、どういうこと?」
 智也の言っていることがいまいち理解できず、眞姫は険しい表情のまま彼を見つめる。
 相変わらず屈託のない表情のままで、智也は話を続けた。
「最初に言ったように、人間は“正”と“負”どちらの力も持ってる。ただそれが使えるか使えないかっていうだけでね。それと同じだよ? 君は強い“正の力”を使うことができる。それと同時に、強い“負の力”も内に秘めているんだ。まだ自分自身の力だけではそれを使えないけどね」
「私の中に、強い“負の力”が?」
 驚いた表情を浮かべる眞姫に、智也はにっこりと微笑む。
「眞姫ちゃん、紅茶冷めちゃうよ? 砂糖いる?」
「え? あ……うん、ありがとう」
 ハッと我に返ってから、眞姫はスプーン1杯砂糖を紅茶に入れた。
 そしてゆっくりと紅茶に溶けていく砂糖をじっと見つめたまま、眞姫は今まで聞いた話を頭の中で整理した。
 今まであやふやだったことが、少し理解できた気がする。
 だがそれと同時に、思いもしなかったこともあった。
 自分の中に眠っているのは、大きな“気”の力だけではないのだ。
 そして、何かを考えるように俯いている眞姫に漆黒の瞳を真っ直ぐ向け、智也は言った。
「杜木様がおっしゃっていたよ。君がその気になれば、いつでも“邪者”一同、貴女様のことをお待ちしていますって。“邪者”の敵は、眞姫ちゃんじゃなくて“能力者”だからね」
「……え?」
 複雑な表情をして、眞姫は言葉を失う。
 確かに、“邪者”である智也や綾乃からは、特に邪悪な何かを感じたことはない。
 むしろ親しみやすい雰囲気さえ感じる。
 でも……。
 すっかり黙ってしまった眞姫に、智也は屈託のない笑顔を向けた。
「あ、ねぇねぇ、眞姫ちゃん。今日は何しに繁華街に来たの? 買い物?」
「え? あ、うん。明日ピアノのコンサートに招待されてるから、着ていく洋服を買いに」
 急に話題が変わり、その変化に眞姫は戸惑いながらもそう答える。
「そうなんだ、ピアノのコンサートかぁ。もしかしてそれって、天才高校生ピアニストって言われてる、梓詩音のコンサート? 彼も“能力者”だったよね。あのメルヘンチックな“空間能力”使う人」
 チョコレートケーキをパクッと食べてから、智也はそう言った。
 眞姫はようやく紅茶を一口飲んで、こくんと頷く。
「俺、ピアノのコンサートなんて行ったことないよ。ラブモンスターのライブなら行ったことあるけどね」
 何気なくそう言った智也の言葉に、眞姫は大きく反応する。
 そして興奮した面持ちで言った。
「えっ!? ラブモンのライブ行ったことあるの!? 私もこの間のライブ行ったわ」
「マジで? 俺、ラブモン好きなんだよね。もしかして眞姫ちゃんも好き?」
「うん、大好き。この間発売された新曲も、すごく好き」
 話題がお気に入りのアーティストのことになり、眞姫はパッと表情を変える。
 智也はチョコレートケーキの最後のひとくちを食べてから、うんうんと頷いた。
「あ、俺もあの曲好きだよ、気が合うなぁっ。特にあの曲、サビのところがいいよね」
「うんうん、いいよねっ」
 嬉しそうに笑ってから、眞姫はレアチーズケーキをぱくっと口に運ぶ。
 智也はそんな眞姫をじっと見つめたまま、テーブルに頬杖をついた。
 すっかり冷めてしまった紅茶を飲んで、眞姫は急に黙ってにこにこしている智也に目を向けてふと首を傾げた。
「……どうしたの?」
「眞姫ちゃんってやっぱり可愛いなぁって思って。特に笑った顔、可愛いなぁ」
「え?」
 思いがけないことを言われてきょとんとしてから、眞姫はどうしていいか分からない表情をする。
 そして慌てて席を立って言った。
「あ、手が汚れちゃったから、洗ってくるね」
「うん、行ってらっしゃーい」
 無邪気に手を振って眞姫を見送った後、智也はゆっくりと漆黒の色の珈琲を飲んだ。
 そして、ふっと表情を変えて言った。
「梓詩音のピアノコンサート、か……」