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 ――8月2日・月曜日。
「あんの野郎っ、絶っ対に鼻をあかしてやるからなっ!」
 悔しそうなその少年・小椋拓巳の声とともに、彼の持っていたシャープペンシルの芯がボキッと折れる音がする。
 それを見て、彼の隣に座っている芝草准は溜め息をついた。
「拓巳の自業自得だし。少し静かにしないと、また怒られるよ?」
「准の言う通りだ。またあいつにボコられるぞ、拓巳」
 青い瞳をちらっと拓巳に向けてから、蒼井健人は再びペンを走らせはじめる。
「はあぁ〜あ。外はいい天気やっちゅーのに、何が悲しくて男4人部屋に閉じこもって、仲良うお勉強なんてせなあかんのや」
 テーブルに頬杖をつき、瀬崎祥太郎は窓の外で輝く太陽に目を移した。
 全員をひと通り見回して、准はもう一度嘆息する。
「あのね、今は勉強の時間なんだよ? ちゃんとやってもらわないと、僕が怒られるんだから」
「そう言うなって、准。ていうか、せめて姫が一緒だったらよかったのによ……姫がいないのをいいことに、容赦なくボコりやがってっ、あの悪魔っ!」
 ぐっと拳を握り締める拓巳に、准はじろっと目を向けた。
「拓巳が鳴海先生の言葉に、まんまと乗せられたりするから……だから僕は最初から、あの先生の提案に乗り気じゃなかったんだよ」
「まぁまぁ、准。うまくいけば、姫と夏のバカンスやで?」
「うまくいけば、だろ? 祥太郎」
 いつものように調子よく笑う祥太郎を後目に、准は浮かない表情をする。
「姫と夏のバカンス、か」
 ぼそっとそう呟く健人に、シャープペンシルをクルクル回しながら祥太郎は言った。
「健人くーん、何を妄想してニヤけてるんや?」
「……それはおまえだろ、祥太郎」
「妄想するのはいいけど、もっと現実を見てよね」
 冷たくそう言い放ってから、准は目の前の問題集の続きを解き始める。
 拓巳はイライラした様子で、必要以上にシャープペンシルをカチカチと鳴らし呟いた。
「見てろよ、鳴海の野郎……絶対、夏休みをゲットしてやるからなっ」



      



 ――数日前・夏補習最終日。
 明日から待ちに待った夏休みということもあり、校内は心なしかいつもよりも生徒たちの声で賑やかである。
 映画研究部のメンバーは顧問である鳴海将吾先生に呼ばれ、視聴覚教室に集められていた。
 その少女・清家眞姫は、何故か異様にテンションの低い少年たちにその大きな瞳を向ける。
「みんな、どうしたの?」
「どうもこうもないわ、姫。世間は夏休みやっちゅーのに、俺らにとっては地獄のような日々が始まるんやからなぁ」
「……?」
 祥太郎の言葉に眞姫が首を傾げた、その時。
 部活開始時刻になり、鳴海先生が姿をみせた。
 眞姫と少年たちは、いつものようにミーティングを行うため、視聴覚準備室へと移動する。
 全員が席に着いたのを確認して、鳴海先生は口を開いた。
「今年の夏合宿を、8月2日から8日までの7日間行う。ただし、今回は詩音は欠席だ」
「え? 何でだよ?」
 拓巳は驚いたように、相変わらず優雅な微笑みを絶やさないその少年・梓詩音に向ける。
 にっこりと微笑んでから、詩音は言った。
「僕も参加したいんだけど、ちょうど僕のピアノのコンサートと日にちが重なってしまったんだ。僕がいなくて寂しい気持ちは痛いほど分かるけどね、拓巳」
「おい待て、誰が寂しいなんて言ったか? 詩音」
「おやおや。そんなに照れなくてもいいんだよ、拓巳」
「あのなぁ、誰が照れてるってんだよっ」
 くすくす笑う詩音に、拓巳は面白くなさそうな表情をする。
 そんなふたりにじろっと視線を向けた後、鳴海先生は眞姫に目を移した。
 急にその切れ長の瞳が自分を映し、眞姫は思わずドキッとする。
「今回は詩音も欠席だが……清家、今回の合宿におまえを参加させる気はない」
「……え?」
 思いがけない先生の言葉に、眞姫はきょとんとした。
「ちょっと待てっ、何で姫まで欠席なんだよっ!?」
「そうや、姫がおらんのやったら、合宿という名のただの地獄やんけっ」
「それ……どういうことだ」
 拓巳と祥太郎と健人の3人が、同時に立ち上がって言った。
 そんな少年たちの態度に構いもせず、ふうっと溜め息をついて鳴海先生は表情を変えない。
「黙れ、何度も同じことを言わせるな。清家は合宿に参加させる気はない」
「鳴海先生、どうしてなんですか? 理由を聞かせて下さい」
 どう言っていいか分からず言葉を失った眞姫の代わりに、准は先生にそう質問した。
 その問いに、鳴海先生はフッと瞳を細めて答える。
「清家、自分でも感じているだろう? おまえの力は日々驚くほど成長しているが、肝心の身体はその力の成長にまだついていけていない。そうだな?」
「…………」
 眞姫は、鳴海先生の言葉に俯く。
 確かに鳴海先生の言うように、力を使った後は必ず倒れてしまう。
 しばらくの間は、自分の足で立つこともままならない。
 まだ力を使うことに慣れていない眞姫にとって“気”を放出することは、身体に大きな負担をかけてしまうのだ。
 黙って俯いてしまった眞姫に、先生は言葉を続ける。
「そう落胆することはない。おまえの成長の著しさには、正直驚かされている。今回は念のために大事をとっての合宿不参加だ」
「えらい姫には優しいんやなぁ、センセ。いたいけな少年たちは平気でいたぶるくせになぁ」
 はあっと頬杖をついてそう言う祥太郎に、先生はじろっと視線を向けた。
「今のおまえたち程度の力では、全く役に立たん。無力なヤツほど口だけは達者だからな。その減らず口が叩けないくらいに鍛えてやる、覚悟しておくんだな」
「んだと!? 本っ当に嫌味言うことには長けてるよな、おまえはっ」
 キッと鋭い視線を向ける拓巳を宥めてから、眞姫はおそるおそる口を開く。
「鳴海先生、確かに先生の言う通りです。私、力を使ったらすぐに倒れちゃうし……でも」
 眞姫はおもむろに俯いていた顔を上げ、そして続けた。
「でも私も、何かの役に立ちたいんです。“気”の訓練はできなくても、合宿には参加させてください。みんなの身の回りの世話でも何でもしますから。私も、映研部員です」
「言ったはずだ、清家。私はおまえを参加させるつもりはないと」
「鳴海先生……」
 すぐさま意見を却下された眞姫であったが、その大きな瞳はじっと先生を見つめたままである。
 そんな眞姫の視線から逃れるかのように、先生は視線を逸らす。
 今までふたりのやり取りをじっと見ていた詩音は、ふっと微笑んで言った。
「鳴海先生、お姫様がああ言ってるんだよ。参加させてあげたら?」
「余計な口出しをするな。おまえは黙っていろ、詩音」
 威圧的な切れ長の瞳を向けられても表情を全く変えず、詩音はポンッと手を叩く。
 そして優雅な笑顔を全員に向けてから言った。
「じゃあ、こうしよう。お姫様は僕のコンサートに行って、それから合宿に合流すればいい。うん、それがいいよ」
「……え?」
 詩音の突拍子もない提案に、全員が一瞬きょとんとする。
 健人は大きく溜め息をついて呟いた。
「何かその提案、ずれてないか? 詩音」
「そうかな? だってお姫様は僕のコンサートに来たいはずだもの。僕ももちろん招待する気でいるしね。そうだろう? 僕のお姫様」
 にっこりと屈託のない微笑みを向けられ、眞姫は思わず頷いてしまう。
「え? う、うん。確かに、詩音くんのピアノは聴きたいけど……」
「じゃあ決まりだね。僕のコンサートにはミセスリリーも来るから、終わって合宿所まで彼女に送ってもらうといいよ、お姫様」
 にこにこと満足そうな詩音を見ながら、残りの少年たちは思い思いに呟く。
「何か勝手に話まとめちまったぞ、あいつ……ていうか、何だか詩音って、ある意味すごいよな」
「めちゃくちゃな理屈なのに、詩音が言うと妙に納得しちゃうよね」
「いつの間にか詩音の不思議ペースにはまってしまうんやなぁ、これが」
「姫が合宿に来るんなら、俺は別に何でも構わないけどな」
 ざわつく少年たちに怪訝な顔をし、ふうっとわざとらしく溜め息をついてから、鳴海先生はバンッと机を叩いた。
「黙れ、おまえたち。静かにしろ」
 鳴海先生は威圧的にそう言い放ち、少年たちを見回す。
 眞姫は相変わらず、じっと澄んだ両の目を先生に向けていた。
 そんな眞姫からフッと視線を外して、そして鳴海先生は切れ長の瞳を閉じる。
 そして次に目を開いたと同時に、先生は言った。
「そこまで言うのなら、私もこれ以上は何も言わん……好きにしろ」
「本当ですか!? 先生、ありがとうございます」
 本当に嬉しそうに、眞姫は深々と頭を下げる。
「お姫様にはめちゃめちゃ弱いんやなぁ。さすがのセンセも」
 ニッと笑う祥太郎を相手にせず、それから先生は手元に持っているプリントを配り始めた。
 それを見た途端……少年たちは、その表情を変える。
「何だよ、この殺人的なスケジュールは!? ふざけんなよなっ!」
 ぐちゃっとそのプリントを力いっぱい握り締め、拓巳は床に投げ捨てた。
「休みナシのしごきだけやなく、一番疲労がピークになる時間帯に姑息に勉強時間入れてるんやからなぁ……その上、毎日1本映画鑑賞かい。もれなくレポートもセットやろうしなぁ」
 深々と溜め息をつく祥太郎をちらっと見てから、眞姫はまじまじと渡されたスケジュールを見る。
 学校の既定で定められた合宿の時間・朝7時から夜7時までの12時間、綿密に立てられたそのスケジュール内容は、尋常のものとは思えなかった。
 基礎体力の鍛錬から実践訓練まで幅広い一日のメニュー、その上に勉強の時間と映画館賞の時間もきっちりと組み込まれている。
 映画研究部とはかけ離れたそのスケジュールに、眞姫は先生が悪魔と言われる理由が少しだけ分かった気がした。
「これでも、おまえたちの力の程度を考えたらまだ足りないくらいだ。しかし学校の既定上、部活動は月曜から土曜の午前7時から午後7時までと決まっている。合宿とはいえ、これは学校教育だ。当然夏の課題の時間も必要であるし、映画研究部として映画鑑賞も当然行わなければならない。私の組んだメニューをこなせば、すべてが効率よく行えるはずだ」
「……その前に死ぬんちゃうか? 俺ら」
 鳴海先生の立てたスケジュール表から視線を逸らし、祥太郎はそう呟く。
 じっとプリントを見ていた眞姫は、ふと首を傾げた。
「あれ? でも帰る日の8月8日って、夕方の反省会の時間までずっと自由時間?」
 8月2日から8日までと予定されているスケジュールの中、最後の日だけほぼ一日、自由時間が取られている。
 それまでの綿密な予定と見比べて、この長い自由時間は不自然な気がしたのだ。
 鳴海先生は、不思議そうな顔をする眞姫に目を向ける。
「言ったはずだ、清家。既定では月曜から土曜までが部活動の許された時間だ。その日は日曜日だから、やむを得ず自由時間としたのだ」
「それなら、土曜日に合宿を終わればいいんじゃないですか?」
 同じく疑問に思ってそう言った准の言葉に、先生は首を振る。
「私の車だけではこの人数を運べないだろう? 由梨奈が迎えに来ることになっているが、あいつが日曜にしか都合がつかないのだ。私も……この日は、少し合宿所の近くで用事があるからな」
「ていうか、待てよっ。何でおまえの立てたスケジュールに従わないといけねーんだよっ」
 キッと鋭い視線を投げ、拓巳はそう言い放つ。
 そんな拓巳に、先生は威圧的な瞳を向けた。
「今のおまえごときの力など、使いものにならないと言ったはずだ。少しはマシになってもらわないと、こちらとしても困るのでな」
「んだとっ!? 使いものにならないかどうか、やってみないと分からないだろうがよっ」
「本当に口だけは達者だな、おまえは。減らず口を叩く前に、使いものになるという証拠でも見せてみろ」
 相変わらず表情を変えない先生とは逆に、拓巳はグッと拳を握り締める。
 それからおもむろに、ガタッと立ち上がった。
 そして鳴海先生を見据えたまま言った。
「ああ、面白いじゃねーかよっ! ていうか、こんなおまえの立てた面倒なメニューなんかに従わないからな。そんなに俺らが使えないって言うんだったら、試してみやがれっ!」
「拓巳。気持ちは分かるけど、ちょっとは落ち着きなよ」
 いきり立つ拓巳の肩を軽く叩いて宥め、准は溜め息をつく。
 そして拓巳の言葉を聞いて、鳴海先生は言った。
「いいだろう。訓練を予定していた時間は、すべておまえらの相手をしてやる。もしもおまえらが合宿中にこの私に一撃でも有効打を与えることができたなら、その時点で合宿は終了だ。残りの日数、すべて自由時間とする。ただしそれができなかった場合、8日に予定している自由時間返上で私が立てた特別メニューをこなしてもらう。どうだ?」
「上っ等だ! やってやろうじゃねーかよっ」
「センセに一撃当てたら、残りの日は楽しいサマーバケーションっちゅーことやな。この地獄のようなスケジュールよりは、少しは楽しめるかもしれんしなぁ」
「姫も後から合宿所に来ることだし……悪くない条件だな」
 拓巳と祥太郎と健人は、思い思いに口を開く。
 詩音は相変わらず微笑みながら、全員を見回している。
 准はひとり浮かない表情をして、大きく溜め息をついた。
「みんな、少しは冷静に考えてよ。下手したら、8日の自由時間すらなくなるんだよ?」
「要は7日までに、鳴海の野郎をぶん殴ればいいんだろ」
「だから拓巳、それができるかどうかなんだってば、問題は」
「ていうか、いつまでもコイツに大きな顔させてたまるかってんだよ。俺らの力を見せてやろうぜっ」
「俺も拓巳の意見に賛成だ。あんなに言われて、俺らにも意地があるからな」
 青い瞳で准を見ながら、健人はそう言った。
 祥太郎は、まだ不安気な表情を浮かべる准の肩をポンッと叩いて笑う。
「たった一撃当てただけで夏休みゲットやで? たまには鳴海センセの鼻をあかしてやりたいやないか、准」
「それはそうだけど、先生にそう易々と一撃当てられるとは到底思えないし」
「まぁまぁ、准。ここは平和に多数決っていうことで、彼らの言うようにさせてあげれば?」
 詩音はくすっと笑って、准にそう言った。
 その詩音の言葉に、准は大きく嘆息する。
「ねえ、詩音。この状況、他人事だと思って楽しんでない?」
「まさか。ただ、君はいつも大変な役回りだなって思ってね」
「…………」
 諦めたように准は、もう一度大きく溜め息をつく。
 鳴海先生はそんな准の様子を見て言った。
「訓練の時間は存分におまえたちの相手をしてやる、覚悟しておけ。だが、本来のスケジュールで組んでいた学習時間と映画鑑賞の時間は変更なく予定通り行う。分かったな」
 思い思いに頷く少年たちの姿を確認して、鳴海先生は席を立つ。
 そして退室する間際に、眞姫に視線を向けた。
「清家、おまえは遅れて合宿に参加ということでいいな」
「え? あ、はい。詩音くんのコンサートが終わってから行きます」
 状況についていけずに取り残されていた眞姫は、慌ててそう答える。
 鳴海先生はドアに手をかけて、言葉を続けた。
「先程も言ったように、おまえには今回は何も指導する気はない。分かったな」
「は、はい、分かりました」
 こくんと首を縦に振る眞姫を背に、鳴海先生は準備室を出て行った。
「あんな約束して……本当に大丈夫なの?」
「心配性だな、准は。あいつに一撃当てるくらい、1週間もあれば十分だぜ」
 まだ心配している准に、拓巳は自信満々に笑う。
 健人はそんなふたりの会話を耳にしながら、眞姫に言った。
「それで姫は、いつ合宿に合流するんだ?」
「え? えっと……」
 急に聞かれて驚いた顔をした眞姫は、ちらりと詩音を見る。
 そんな眞姫の視線に気がついて、詩音はにっこりと笑った。
「僕のコンサートは8月3日から6日までの4日間だから、初日の8月3日に来るかい?そうすれば、合宿3日目の8月4日には合宿に合流できるよ」
「ということは、8月4日までにセンセに一撃当てれば、姫と避暑地で数日間バカンスっちゅーことやな。これは張り切らないかんなぁっ」
「……そう上手くいけばいいんだけどね」
 相変わらず怪訝な表情の准に、眞姫は言った。
「准くん、私は少し遅れちゃうけど……頑張ってね、いろいろ」
「ありがとう、姫。本当に問題は山積みだけど、いろいろ頑張るよ」
 拓巳たちに視線を向けてそう言って、そして准はすでに何度目か分からない溜め息をついたのだった。


      


 そして始まった、合宿一日目の今日。
 決められた学習時間にしぶしぶ問題集を開いた拓巳は、先生の容赦ない攻撃を受けた痛みに顔を顰めながら、鬱陶しそうに前髪をかきあげる。
「ったく、こんなに課題出しやがって……どこまで嫌がらせすれば気が済むんだ、あいつはっ」
「口を動かしてる暇があったら問題進めなよ、拓巳。僕、もうこの時間の課題はとっくに終わったよ」
 問題集から目を離さないまま、准は呆れたように溜め息をついた。
 その言葉に、祥太郎はピクッと反応を示す。
「何やて、もう終わったん!? 准くーん、折り入ってお願いがあるんやけどぉ」
「また僕のを写す気だろうけど、見せる気ないから。僕が祥太郎と拓巳に甘いんだって、いつも先生に怒られてるんだからね」
 サラサラと問題を解きながらそう言う准に、拓巳も手を合わせて言った。
「そう言うなよ、俺にも写させてくれよ、准っ」
「そうやそうや。仲間同士、助け合いっちゅーもんが大事やろ?」
「そんなくだらないことを言ってる間に一問解けるよ、ふたりとも」
 健人はそんな3人のやり取りを気にすることなく、マイペースに問題を解いていた。
 そしてふと、その手を止めて呟く。
「今頃、姫……どうしてるかな」
 ちらりと快晴の青空に視線を向けた後、眩しい夏の太陽に瞳を細めてから、健人は再び与えられた課題を解き始めたのだった。




 ――同じ頃。
 眞姫は友人の立花梨華とともに、繁華街に買い物に来ていた。
 世間は夏休みの真っ最中ということもあり、街は普段よりも活気に溢れている。
「あの買ったワンピース、超可愛かったよ、眞姫」
「本当? でもよかった、梨華が一緒に探してくれて。これで明日のコンサートに着ていく洋服も決まったし、安心したわ」
 にっこりと嬉しそうに笑って、眞姫はそう言った。
 梨華はそんな眞姫を見て、意味あり気に笑う。
「あの服、眞姫に似合ってて可愛いからさ、あのピアニストの彼もすごく喜ぶんじゃない?」
「……え?」
 梨華の言葉に、眞姫は一瞬きょとんとした。
 そんな眞姫を肘で突付いて、梨華は楽しそうに続ける。
「きっと彼のことだから、お洒落した麗しのお姫様の姿にクラクラよぉっ。あの人ってさ、ちょっと性格変わってるけど美形だし、いいんじゃない?」
「いいんじゃないって、何が?」
「だーかーらっ、いい加減に眞姫も、誰かに決めちゃえってことよ」
 ようやく話が見えてきて、眞姫は慌てて首を振る。
「誰かに決めちゃえって、まだそんなこと考える余裕なんてないし、それに映研のみんなは大切な仲間だけど……」
「でも、男どもはめちゃめちゃ積極的じゃない。見てて彼らが可愛そうなくらいだよ?」
「え? 積極的って、誰が?」
「……本当に報われないわよねぇ、彼ら」
 笑いながらポンポンッと眞姫の肩を叩いて、梨華はそう呟いた。
 眞姫は不思議そうに梨華を見ながら首を傾げる。
 それから気を取り直して、腕時計に目を移して言った。
「ところで梨華、もうちょっと付き合ってもらってもいいかな?」
「うん、もちろんいいわよ。どうしたの?」
「あのね、もうすぐ拓巳の誕生日なの。プレゼント何がいいかなぁって」
 梨華はその言葉に、ニッと笑みを浮かべる。
「そういえば眞姫って最近、小椋くんと随分仲良さそうじゃない? この間のデートも、何か楽しかったみたいだし」
「えっ? 確かにこの間は楽しかったよ。でも特に拓巳だけと仲がいいわけじゃ……」
「まぁ相変わらず、Cクラスの青い目の美少年くんとも毎日楽しそうに一緒に学校来てるし、芝草くんとも優等生同士で仲良しだしね。いい男ばっかりだから、いざとなれば選びたい放題じゃん」
「え、選びたい放題って」
 うーんと考え込んでしまった眞姫に、梨華はくすくす笑う。
「やだなぁ、そんなに真剣に考え込まないでよ、眞姫」
「そういう梨華こそ、祥ちゃんとは最近どうなの?」
 悪びれのない表情で、眞姫はふと梨華に聞いた。
 急に話を振られて、梨華は少し表情を変える。
「それがさ……今日アイツに電話したんだけど、全然繋がらないのよね。どこで何やってるんだか」
 はあっと溜め息をつく梨華に、眞姫は慌ててフォローする。
「でもほら夏休みだから、大阪に帰ってたりするんじゃないかな?」
「せっかく、どこかに遊びに誘おうって思ってるのになぁ」
 祥太郎が映研の合宿で一週間いないということを、眞姫は梨華に言えないでいた。
 普通の部活動の合宿ならばともかく、かなり特殊な合宿だからだ。
 そして数日前の映研のミーティングを思い出し、少年たちが今無事に合宿を行っているのだろうかとも同時に思ったのだった。
「それにしても、小椋くんの好きそうなものねぇ。彼って眞姫のこと大好きだから、何あげても喜ぶんじゃない?」
「うーん、私なりにいろいろ考えては見たんだけど、何がいいか迷っちゃって」
「じゃあ、とりあえず何か探してみよっか」
 眞姫はその言葉に頷いて、近くの百貨店へと向かう。
 それから眞姫と梨華はメンズの小物が置いてある売り場をいくつか回り、目ぼしいものを見つけることができた。
 そして支払いを済ませ、商品を綺麗にラッピングしてもらっているのを待っていた。
 ……その時。
 何気なくショーケースをのぞいていた眞姫は、ふいに誰かに肩を叩かれて振り返る。
 次の瞬間、眞姫はその表情をふっと変えた。
「こんなところで会えるなんて、奇遇だなぁ。こんにちは、眞姫ちゃん」
「! あなたは……」
 声をかけてきた人物を確認して、眞姫は思わず言葉を失う。
 にっこりと嬉しそうに微笑むその少年・高山智也は、警戒する眞姫に言った。
「そんな顔しないでも大丈夫だよ、お姫様」
「どうして……あなたが、ここに?」
 智也の身体から、“邪気”は全く感じられない。
 だが、反射的に眞姫は数歩後ずさりをする。
 そんな眞姫とは対称的に、智也は優しい笑顔を眞姫に向けた。
「どうしてって、ただ単に買い物に来たんだよ。ていうか眞姫ちゃん、俺とお茶しない?」
「え? いや、友達と一緒だから……」
「あれ? どうしたの、眞姫?」
 眞姫の様子に気がついて、梨華がふたりに近付いてくるのが見える。
 これで智也の誘いが断れると、眞姫は安堵した。
 智也はすぐそばまで来た梨華ににっこりと笑いかけ、言った。
「眞姫ちゃんのお友達? 俺、眞姫ちゃんのファンの高山智也って言うんだ。よろしくね」
 最初はナンパか何かだと思い少し怪訝な表情を浮かべていた梨華だったが、彼の名前を聞いた途端に驚いた顔をする。
「高山智也って……もしかして、綾乃の友達の? 私、眞姫の友達で綾乃の幼馴染みの立花梨華って言うんだけど」
「え? これはまた偶然だなぁ。綾乃が言ってた眞姫ちゃんのお友達の梨華ちゃんって、君なんだね。綾乃から話は聞いてたよ」
 美形ではないが十分にハンサムなその顔に、智也は人懐っこい笑みを浮かべる。
 そして誰とでも気兼ねなく話せる梨華は、すっかり智也に対する警戒を解いていた。
「綾乃のことだから、智也くんのことも散々振り回してるんでしょ?どうせ」
「この間だって、自分から誘っておきながら1時間以上遅刻してきたしなぁ、あいつは」
「綾乃は遅刻の常習犯だから。一度ガツンと……言っても同じよね、あの子」
「そうそう、もう俺なんてすっかり諦めてるよ」
 何だか話が盛り上がっているふたりに、眞姫はきょとんとするしかなかった。
 そんな眞姫の様子に気がついて、智也は再び眞姫に微笑みを向ける。
「せっかくだから俺とお茶しない? ね、いいでしょ? 梨華ちゃんも一緒に」
 そんな智也に、梨華は意味深に笑った。
「あら、智也くんって眞姫のファンでしょ? 私はもう帰るから、ふたりでごゆっくり!」
「えっ? り、梨華っ!?」
 思いがけない梨華の言葉に、眞姫は思わず叫ぶ。
 梨華は眞姫の耳元で、小声で囁いた。
「智也くんって、なかなかいい男じゃない。話もしやすそうだし。せっかくだからふたりでお茶してみたら? 頑張って、眞姫っ」
「えっ、ちょっとっ、でも梨華っ」
 明らかに動揺している眞姫を後目に、梨華は楽しそうに手を振って歩き出す。
「また近いうちに電話するからっ。じゃあねぇ、眞姫」
「り、梨華ってばっ」
 そそくさと足早に去る梨華を追いかけようとした眞姫に、智也は言った。
「眞姫ちゃん、何かプレゼントのラッピングができたってお店の人が言ってるよ?」
「あ……」
 どうしようか少し迷った眞姫だったが、梨華を追うのを諦めてプレゼントを受け取りに行く。
 それから、まだ警戒した目でちらりと智也を見た。
「眞姫ちゃん、何にもしないからさぁ。ね?」
「…………」
 その屈託のない彼の表情に、嘘はなさそうだと眞姫は思った。
 だがやはり彼が“邪者”の一員であると思うと、それだけで不安になるのだ。
 明らかに自分のことを信用していない眞姫の姿に苦笑しながら、智也は言った。
「困ったな、どうしたら信用してくれるのかなぁ。俺から今、“邪気”感じないだろう? それだけじゃ、まだ足りない?」
「あなたが何かするつもりはないってことは……私にも分かってるわ」
 おそるおそるそう言った眞姫に、智也は嬉しそうに笑う。
 そして眞姫の手を優しく取ってから、歩き出した。
「分かってくれたっ? 俺はただ、可愛い眞姫ちゃんとお茶がしたいだけなんだよ。さ、行こうか」
「えっ!? ちょ、ちょっとっ」
 智也の手の温もりに少しドキドキしながら、眞姫は彼の誘いを断るきっかけを完全に失ってしまっていた。
 それどころか、ウキウキと嬉しそうな彼の無邪気な姿は、“能力者”と敵対する“邪者”とはとても思えなかった。
 今、彼から“邪気”を全く感じないことが理由のひとつではあるが、それだけではない気がする。
 綾乃に対しても、同じ印象を眞姫は受けていた。
「俺さ、眞姫ちゃんと話したいことがたくさんあるんだよねっ」
 本当に嬉しそうな智也の表情を見ていると、少しずつ抱いていた警戒も解れていく。
 敵意を感じるどころか、何だか優しい印象すら受けるような気がするのだ。
 そう眞姫が思った、その時。
 今までで一番嬉しそうな笑顔を眞姫に向け、智也は言った。
「やっと俺のこと……少し信じてもらえたみたいだね。眞姫ちゃん」
「え?」
 智也の漆黒の瞳に見つめられ、何だか恥ずかしくて眞姫は視線を逸らした。
「本当に可愛いなぁ、眞姫ちゃんって」
 顔を赤らめる眞姫を見て、智也は満足そうに笑う。
 その時。
「! きゃっ……」
 ポケットの中の携帯電話が急にブルブルと震えだし、思わず眞姫は身体をビクッと震わせる。
 ドキドキと早い鼓動を刻む胸を押さえながら、眞姫は携帯に受信されたメールを確認した。
「…………」
 そのメールを見た眞姫は、深々と溜め息をつく。
『頑張ってね、眞姫。報告を待つ! 梨華』
 梨華ってば……と呟いて、眞姫は携帯電話をしまった。
 そんな眞姫の気持ちも知らず、智也はうーんと考える仕草をする。
「どこに入ろうか。眞姫ちゃんは何が食べたい? ケーキ? それともパフェ?」
「……どこでもいいわ、お任せする」
 諦めてそう言った眞姫は、隣を嬉しそうに歩く智也を後目に、もう一度小さく嘆息したのだった。