拓巳が張った“結界”の中は、大きな“邪気”が生じて渦巻いている。
 くっと唇を噛み締め、拓巳は目の前の冷淡な表情の男を見据えた。
 杜木様、と呼ばれたこの男が何者かは分からないが……彼の内の“邪気”の大きさは、全身でいやというほどに感じる。
 ぐっと拳を握り締め、拓巳は再びその右手に眩い“気”を漲らせた。
「なるほどな、“気”の高まりも早い。訓練された“能力者”か」
 ドッと拓巳の手のひらから放たれた“気”に臆することなく、杜木はそう呟く。
 それからスッと瞳を細め、軽く手を翳した。
 その途端、彼を取り囲むように渦巻いていた“邪気”が、拓巳の“気”を飲み込む。
 そして先程と同じように、何倍も威力を増した衝撃が拓巳目がけて跳ね返ってきた。
 グワッと唸りをたて、渦を巻くように大きな“邪気”が空気を振るわせる。
「くっ!!」
 拓巳がその瞳を大きく見開いた、瞬間。
 ドオンッという、今までで一番大きな衝撃音が響いた。
 その衝撃の大きさに、杜木の後ろにいたつばさは思わず耳を塞ぐ。
 衝撃の余波が立ち込めるその場の視界は悪く、杜木の“邪気”の威力の大きさを物語っていた。
 ……その時。
「!」
 杜木はふと、その視線をあげる。
 それと同時に、まだ晴れない余波を打ち破るかのように眩い光が弾けた。
「もらったっ!!」
 いつの間にか間合いをつめて杜木の頭上に跳躍した拓巳は、右手の手刀に瞬時に“気”を漲らせる。
 そして、ビュッと空気を裂く音が鳴り、その手刀が振り下ろされた。
 だが杜木はそんな拓巳の攻撃を避ける仕草もしない。
 それどころか……次の瞬間。
「!? 何っ!」
 バチッと大きな音がしたかと思うと、拓巳の放った手刀はその動きを止める。
 いや、正確にいうと、杜木のまわりに形成された“邪気”の壁に阻まれ、それ以上振り下ろすことができなかったのだ。
「く……っ!!」
 ググッとより力をこめ、拓巳は手刀に一層大きな光を宿す。
 力任せに“邪気”の壁を破ろうとする拓巳に、杜木はふっと笑った。
「どうした? この“邪気”の壁が邪魔か? では、解いてやろう」
 その言葉と同時に杜木のまわりの“邪気”が、一瞬にして消えうせる。
「……っ!」
 急に行く手を阻んでいた壁が消え、拓巳はバランスを崩し、思わず前のめりになる。
 そして拓巳が咄嗟に体勢を整えようとした、その瞬間。
「! ぐっ!!」
 杜木の放った強烈な膝蹴りが、拓巳の腹部に突き刺さる。
 それから間髪入れずに、その右手から強大な“邪気”が放たれた。
「うあぁっ!!」
 まともにその“邪気”の攻撃を受け、拓巳の身体が吹き飛ばされる。
 そしてドンッと強く壁に打ちつけられ、拓巳の身体がずるっと地に崩れた。
 杜木はゆっくりと、そんな拓巳に歩み寄る。
「っ、はぁっ……くっ」
 全身を駆け巡る痛みに顔をしかめながらも、拓巳は近付いてくる杜木に鋭い視線を投げた。
 杜木はそんな拓巳にふっと柔らかな笑顔を向ける。
「君はよく訓練された“能力者”のようだね。ここで殺すのは惜しいよ」
「おまえになんか……誰が殺されるかってっ」
 拓巳は肩で息をしながらも、ようやく立ち上がる。
 そして杜木は、ゆっくりと言葉を続けた。
「そこで君に提案だが……“邪者”として、私のもとで働く気はないかい?」
「何だって?」
 意外な杜木の言葉に、拓巳は驚いた表情を浮かべる。
 それから軽く身構え、言った。
「ふざけんなっ、誰が“邪者”なんかになるかよっ!!」
 ビュッと音が鳴り、拓巳は握り締めた拳を放つ。
 立派な凶器であるその拳が、空気を裂く。
 そんな拓巳の放った攻撃をバシッと受け止めてから、杜木は続けた。
「君が“邪”を受け入れれば、今以上の力を得ることができるんだよ? そう、この私も、昔は“能力者”だったのだからな」
「!! なっ、“能力者”だって!?」
 そう拓巳が声を上げた、瞬間。
「ぐっ!!」
 杜木の掌から放たれた“邪気”が拓巳を襲い、再び壁にその身体が叩きつけられる。
「どうかな? 君にとって悪い話ではないはずだよ」
「っ、ざけんなっ! 誰が、“邪者”なんかに……ぐあっ!」
 フッと軽く振り下ろされた杜木の掌から放たれた強大な“邪気”が、バチバチっと身体中に衝撃がはしり、拓巳は思わず声を上げる。
「君のその選択は、あまり賢いものとは言えないな」
 そう言って拓巳を見る杜木の深い漆黒の瞳は、冷たい色をしている。
 ……この男なら、自分のことを簡単に殺せる。
 拓巳はそんな冷たい瞳を見据えながら、そう感じていた。
 だが、流れ落ちる汗を気にもとめず拓巳は言った。
「何度聞いても同じだ。“邪者”なんかに、誰がなるかよっ!」
 キッと自分を鋭く射抜くような、拓巳の好戦的な瞳の色。
 その瞳には少しの迷いもなく、“能力者”としての使命の色が漲っていた。
 そんな拓巳の視線から目を逸らし、杜木はゆっくりとその右手を掲げる。
「そうか、君の気持ちはよく分かった」
 次の瞬間。
 杜木の周りに渦巻く“邪気”が途端にその大きさを増す。
 その強大さは、ぞくりと背中に鳥肌がたつ程のものである。
 この“邪気”をその身に受ければ……ただでは済まないということも、拓巳には分かっていた。
 しかし、それに負けじと鋭い視線を向ける。
 そして右手を振りかざし、“気”を漲らせた。
「くらいやがれ、この野郎っ!!」
 先手必勝といわんばかりに、拓巳はその右手に宿る“気”を放った。
 それと同時に杜木のまわりでくすぶっていた“邪気”が、一気に膨れ上がる。
「! 何っ!?」
 その“邪気”は拓巳の“気”を押し返し、そしてその威力をさらに大きなものにさせた。
 勢いを増して唸りをあげる衝撃に、拓巳は瞳を見開く。
 そしてカアッと大きな光が弾けたかと思うと、ドオンッという衝撃音が耳を劈いた。
「……杜木様っ」
 自分にかけよろうとするつばさを制止して、杜木はふっとその瞳を細めて呟いた。
「別の能力者、か」
「え?」
 その杜木の言葉に、つばさはまだ余波の晴れない周囲に瞳を凝らす。
 そこには。
「大丈夫か、拓巳」
「ちっ……見りゃ分かるだろ。俺はこの通り……ピンピン元気だぜ」
 言葉とは裏腹に衝撃の大きさに顔を顰めながらも、拓巳は目の前に現れた少年に言った。
「それだけの口叩ければ、大丈夫だな」
 ちらりとそのブルーアイを拓巳に向けてからいつの間にか現れた健人は、目の前の杜木に目を移した。
 拓巳の助太刀に現れた健人を見て、杜木はふっと笑う。
「咄嗟に“気”の防御壁を張ったのか。だが、ひとり増えたくらいで何ができる?」
「今度は、俺が相手だ」
 そう言って身構える健人に、拓巳は言った。
「待てよっ! あいつの“邪気”の大きさ、半端じゃないっ」
「受けたダメージも大きいだろう、おまえは黙って見てろ」
「! おい、健人っ」
 制止する拓巳の声を振り切り、健人は右手を掲げる。
 カアッと眩い光が生まれ、それは一瞬にして美しい球体に変化した。
 そして健人は、それを杜木目がけて放つ。
 眩い光が唸りを上げ、衝撃が空気を真っ二つにした。
「…………」
 杜木はそんな強大な“気”にも動じることなく、その漆黒の瞳を細める。
「! 何っ!?」
 次の瞬間、健人は驚いたように目を見開いた。
 グワッと瞬間的に大きくなった“邪気”に飲み込まれ、健人の“気”は跡形なく消滅したのだ。
「今度はこちらの番かな」
 そう言って、杜木はスッと右手を翳す。
「!!」
 途端に渦を巻いている“邪気”が、その右手に急速に集まるのを感じた。
 そして瞬時に大きくなったそれが、健人に向かって放たれる。
「くっ!!」
 空気を振動させるほどの大きな衝撃に、健人は咄嗟に防御壁を張って歯をくいしばった。
 杜木の放った“邪気”と健人の防御壁がぶつかる大きな音があたりに響く。
 その衝撃に顔をしかめてから、健人は再び杜木に鋭い目を向ける。
「先程、そちらの彼にも言ったのだが……君たち、“邪者”として私の元で働かないかい?」
「何度も言わせるなっ、誰が“邪者”なんかになるかってんだよっ」
 キッと視線を投げ、拓巳は杜木にそう言った。
 そんな拓巳から視線を健人に向け、杜木は続ける。
「そちらの青い瞳の彼は、どうかな」
「断る」
 短く、そう健人は答える。
 その瞳は静かな青の色を湛えながらも、深く激しい炎が垣間見れた。
「そうか……それでは仕方がない」
 そう言ってふたりを見た杜木の漆黒の瞳が、おもむろにふっと色を変える。
 それと同時に、グワッと彼の“邪気”が何倍にも膨れ上がった。
「!!」
「ちっ!」
 バッと素早く身構え、拓巳と健人もそれに応戦すべく、その手に“気”を漲らせたのだった。




 同じ頃。
「今回ばかりは、相手が悪すぎる」
 そう呟き、鳴海先生は車のキーを掴んだ。
 ……その時。
 おもむろに、先生の携帯が鳴り始める。
 着信者表示を見て一瞬表情を変えた鳴海先生だったが、すぐさま受話ボタンを押した。
 先生が口を開くその前に……電話をかけてきた人物がある言葉を発する。
 その言葉を聞いて、鳴海先生は何かを考えるかのように瞳を閉じた。
 それからゆっくりとその目を開け、口を開く。
「おまえのことだ、俺が止めても行くんだろう?」
 窓の外はすっかり陽も落ち、薄暗くなっている。
 そんな外の景色をじっと見据え、先生はひとつ大きく溜め息をつく。
 そしてゆっくりと、言った。
「本当にいいのか?」
 遠くで繰り広げられている“気”と“邪気”のぶつかり合いを感じながら、先生は受話器から聞こえてくる返答にふと俯く。
 それから仕方ないといった表情を浮かべ、言った。
「分かった。どうせ止めても無駄だろう? 好きにしろ」
 先生の言葉を聞いて電話の相手は礼を言い、携帯を切る。
 ツーツー……としかすでに聞こえない携帯をテーブルに無造作に置き、先生は窓の外に視線を向けた。
 そしてもう一度溜め息をつき、瞳にかかる前髪をふっとかきあげたのだった。




 ドオンッという大きな衝撃音に、再びつばさはその耳を手で覆った。
 杜木の放った“邪気”と健人の張った“気”の防御壁が、激しくぶつかる。
「くっ!!」
 その“邪気”の威力を何とか防いだ健人であったが、じりじりと杜木の力に圧されて数歩後退する。
 逆に杜木は相変わらず表情を変えず、健人の力をはかるかのように少しずつ“邪気”を大きなものに変化させている。
「君の張った防御壁は、なかなかの防御力があるようだな。では、これではどうかな?」
「!!」
 今までで一番大きな“邪気”を感じ、健人はその右手に力をこめた。
 だがそれも遅く、杜木の掌から強大な“邪気”の塊が放たれる。
「! なっ!?」
 ゴウッと唸りをたてて襲いかかってきた“邪気”は、健人の前に形成された防御壁を突き破り、無効化させた。
 そして行く手を阻むもののなくなった“邪気”の塊は、一斉に健人目がけて襲い掛かる。
「ちっ!!」
 健人は咄嗟にその“邪気”を受け止め、何とかその威力を浄化させた。
 だが、次の瞬間。
「何っ、ぐっ!!」
 いつの間にか放たれていた杜木の第二波が、健人の身体を直撃する。
 その衝撃に吹き飛ばされ、近くの壁に健人の身体が激しく打ちつけられた。
「く……っ」
 ぎりっと激痛に歯をくいしばり、健人は表情を歪める。
 杜木がまだ立ち上がれない健人に近付こうと、一歩足を踏み出した……その時。
「……くらえっ!!」
「!」
 いつの間にか杜木の頭上に跳躍し移動していた拓巳は、右の手刀に眩い光を宿す。
 そしてそれを、ブンッと振り下ろした。
「杜木様っ!」
 今まで黙って見ていたつばさは、ハッと表情を変えて声を上げる。
 カアッと光が弾け、一瞬視覚が失われる。
 そして視界が開けた、その時。
「驚いたよ……私の攻撃をあれだけ受けていながら、まだこれほどまでに動けるとはな」
「……くっ!」
 バチバチッと音をたて“邪気”の宿った杜木の右手が、拓巳の手刀を受け止めていた。
 そしてその漆黒の瞳を拓巳に向けた瞬間、あいている左手を取り囲むように“邪気”が渦を巻く。
 拓巳はその“邪気”の高まりに、瞳を見開いた。
「なっ、ぐあっ!!」
 ドンッと身体に重い衝撃がはしり、そしてそれと同時に拓巳の身体が吹き飛ばされる。
「!!」
 まだ先ほどのダメージを残している健人は、ハッと顔を上げた。
 そして自分目がけて飛んでくる拓巳の身体を避けきれず、ふたりは揃って壁に激突する。
「っ!! 早くどけ、拓巳っ!」
「……くっ、おまえがそんなトコにいるからだろっ……っつ!」
 そんなふたりに近付き、そして杜木は大きな“邪気”をその手に漲らせる。
「素直に私の手の者になれば、死なずに済んだものを」
 そう言って漆黒の瞳を細める杜木の右手に、瞬時に大きな“邪気”の塊が形成された。
 その大きさに、空気がビリビリと振動する。
「!!」
「くっ!!」
 素早く体勢を整えようとするふたりであったが、それよりも早く、杜木の“邪気”が大きく弾けた。
 グワッと唸りをたて、ふたりを捉えんと衝撃が襲いかかる。
「! くっ、この間合いじゃ防御壁を張る余裕はないっ」
「くそっ! これくらったら、マジでヤバいぞっ」
 そして、ふたりにまさに“邪気”が迫ってきた……その時。
「!!」
 杜木は、ふとはじめてその表情を変えた。
 そして次の瞬間、今まで感じたことのないような眩い光が溢れる。
 強大な“邪気”で満たされていた“結界”内が、美しい光に包まれたのだ。
 杜木の放った大きな“邪気”の塊は、眩い光に包まれてその動きを止めている。
 そして、その強大な衝撃を止めているのは……。
 拓巳と健人は、同時に驚いたように声を上げた。
「姫っ!?」
「姫、どうしてっ!?」
 拓巳と健人の前に立ちはだかっていたのは、紛れもなく眞姫だったのだ。
 杜木の放った“邪気”をしっかりと受け止め、そして手のひらでくすぶっていたそれを浄化させる。
「拓巳、健人……よかった……」
 大きな“邪気”を浄化させた眞姫はふたりを振り返り、ふっと微笑んだ。
 そして。
「! 姫っ!?」
「おい、姫っ!!」
 ふらりと全身の力が抜け、倒れかかってきた眞姫を健人は咄嗟に支える。
「姫、どうして……帰ったんじゃなかったのかよ!?」
 驚いた表情の拓巳に、健人に支えられながら上体を起こして眞姫は言った。
「うん、帰ってたんだけど……途中で何だか、胸騒ぎがして。戻ってきたの」
「姫、まだ無理するな」
 無理に立ち上がろうとする眞姫を、健人は制止する。
 まだ力のコントロールができず一気に身体の中の大きな“気”を放出したため、全身の力が抜けているのだ。
 そんな眞姫に、杜木はふっとその漆黒の瞳を向ける。
 そして柔らかで優しい笑顔を向け、言った。
「貴女が、“浄化の巫女姫”様」
「それ以上、姫に近付くなっ」
 キッと鋭い視線を向ける拓巳を後目に、杜木は満足そうに呟く。
「私の“邪気”を咄嗟に受け止め、浄化させるとは……まだ強大な“邪気”には慣れていないようだが、思った以上に力の成長が早いということか」
「姫から離れろって、行ってるだろーがっ!」
 拓巳は素早く立ち上がって身構え、右手に“気”を漲らせた。
 その時。
「はいはーい、ちょっと待ったぁっ」
「!!」
 突然聞こえてきたその声に、拓巳は動きをぴたりと止める。
 そしてその人物の姿を見てから驚いた表情を浮かべ、言った。
「ゆり姉っ!?」
「あらぁ、拓巳ちゃん。意外と元気そうじゃなーい。もっとボコボコにされてるかと思ったのに」
「うるせーよっ、ていうか何しに来たんだ? ゆり姉」
 首を傾げる拓巳に微笑んでから、由梨奈はふと視線を杜木に向ける。
 杜木はそんな由梨奈に優しい笑顔を浮かべ、言った。
「由梨奈……久しぶりだな」
「誰かと思えば、慎ちゃんじゃない。お久しぶりね」
 わざとらしくそう言ってから、由梨奈は彼に近付いた。
 杜木の後ろにいたつばさは、由梨奈の言葉に眉をひそめる。
「慎ちゃん……?」
 杜木は目の前まで歩み寄ってきた由梨奈に、にっこりと微笑んだ。
「由梨奈、いつ日本に戻って来たんだい?」
「あら、慎ちゃんには関係ないでしょ」
 長い髪をかきあげて、由梨奈は杜木の整った顔をじっと見た。
 ふっと由梨奈に笑顔を向け、杜木は数歩彼女に近付く。
「関係あるよ、俺がどれほどおまえに会いたいと思っていたか」
 そして、次の瞬間。
 眞姫たちは、目の前の光景に目を見張った。
 くいっと由梨奈の顎を持ち上げ、杜木の顔がゆっくりと彼女に近付く。
 端整な容姿の杜木と美しい美貌を誇る由梨奈のふたりは、不思議と絵になっていた。
 杜木の漆黒の瞳が閉じられ、そのまつ毛の長さがよく分かる。
 そして、ふたりの唇が重なろうとした、その時。
「!」
 パチンッと、杜木の頬が鳴った。
 由梨奈の平手が、彼の左頬を捉えたのだ。
 ふうっと大きく溜め息をついて、由梨奈は言った。
「ねぇ慎ちゃん、忘れてない? 私、れっきとした人妻なんだけど?」
 殴られた頬を気にすることもなく、杜木はふっと微笑む。
「相変わらずだな、おまえは」
 眞姫たちは、目の前で繰り広げられている状況が理解できないでいた。
 そんな様子の眞姫たちに気がついて、由梨奈は杜木から離れる。
「ていうか、慎ちゃん。悪いんだけど、今日はこの子たちみんな連れて帰るから」
 そう言ってくるりと杜木に背を向け、由梨奈は眞姫たちの方に歩みを進めた。
 杜木はそんな由梨奈の揺れる長髪を見つめてから、背後にいるつばさに目を移す。
「つばさ、今日のところは帰るぞ」
「え? 杜木様?」
 驚くつばさの頭を優しく撫で、杜木はおもむろに“能力者”に背を向けた。
 そんな杜木の姿を確認して、由梨奈は拓巳に言った。
「拓巳ちゃん、そういうことだから、“結界”を解いてくれない?」
「え? でもよ、ゆり姉っ」
「いいからっ、言う通りにしなさい、拓巳ちゃん」
 由梨奈にそう言われ、拓巳はしぶしぶ右手を掲げる。
 途端に賑やかな街並みが、目の前に戻って来た。
 健人に支えられながら、少し体調も回復してきた眞姫は立ち上がった。
 そしてその澄んだ大きな瞳を、去りゆく杜木に向ける。
 その時。
「……由梨奈」
 ふと歩みを止め、杜木は振り返る。
 そして柔らかな微笑みを由梨奈に向けて、言葉を続けた。
「またおまえに会えて、本当に嬉しいよ。あいつにも……よろしく伝えておいてくれ」
 それから杜木は、一瞬眞姫にその漆黒の瞳を向ける。
 急に見つめられ、眞姫はその視線にドキッとした。
 柔らかで優し気な雰囲気を持つその瞳の奥に見えるのは、漆黒の深い闇。
 眞姫は彼の両の目に、そんな印象を受けたのだった。
「さ、あっちに車止めてあるから、送ってあげるわよ」
「ゆり姉、一体これはどういうことなんだ?」
 眞姫を支えながら、健人はその青い瞳を由梨奈に向ける。
「そうだよ、あの杜木って野郎と知り合いなのか?」
 拓巳の問いには答えず、由梨奈は眞姫に視線を移した。
「眞姫ちゃん、大丈夫? それにしても驚いたわ、あんな大きな“邪気”を受け止めて浄化させるなんて。すごいわぁっ」
「え? 私もあの時、必死だったから……」
 ようやく自分で立てるまで回復した眞姫は、照れたようにそう言った。
「おい、ゆり姉、説明しろよ」
 相変わらず険しい表情の健人をちらりと見て、由梨奈は仕方ないという表情をする。
「そんなコワイ顔しないでよ、健人ちゃん。車の中ででも、話してあげるから」
 そういうなり、スタスタと由梨奈は歩き出す。
「姫、大丈夫か?」
「うん、もう大丈夫……行こう、拓巳」
 自分を気遣う拓巳に笑顔を向け、眞姫も一歩足を踏み出した。
「それにしてもよ、まさか姫が戻ってくるなんて、驚いたぜ」
「いやな胸騒ぎがしたから……拓巳が心配で、戻ってきちゃった」
「そっか。まったく、姫には負けるよ」
 そう言って、拓巳は少し乱暴に眞姫の頭を撫でる。
「あっ、もーうっ、拓巳ってばっ」
 ぐしゃぐしゃにされた髪を手ぐしで整え、眞姫は楽しそうにくすくす笑った。
「…………」
 そんなふたりのやりとりを見て、健人は怪訝な表情を浮かべる。
 眞姫は、そんな健人に気がついて首を傾げた。
「健人? どうしたの?」
「……別に何でもないよ、姫」
 ふうっと溜め息をつく健人に、拓巳は思い出したように言った。
「ていうか健人、何でおまえがいるんだよ?」
「たまたま近くにいただけだ……って、俺が来なかったら、おまえヤバかっただろうが」
 まさか、祥太郎にふたりのデートのことを聞いて気になって今まで繁華街にいた、なんて言えるはずがない。
 面白くなさそうな表情をしながら、健人も由梨奈に続いて歩き出す。
 もう一度首を捻ってから、眞姫と拓巳もそれに続いた。
 それから由梨奈の愛車の助手席に乗り込んで、眞姫は運転席の彼女に目を向ける。
 見た感じでは、いつもの由梨奈と何ら変わった様子はない。
 でも……何だか少し寂しい瞳の色をしているように、眞姫には思えた。
 そして全員が車に乗り込んだことを確認し、由梨奈はゆっくりと車を発進させる。
 しばらく車を走らせて、由梨奈は口を開いた。
「さっきの彼は、杜木慎一郎(とき しんいちろう)……事実上“邪者”を統括している人物よ」
「! “邪者”を!?」
 由梨奈の言葉に、拓巳は反応を示す。
 バックミラーでちらりと拓巳を見て、由梨奈は話を続ける。
「そうよ。彼、強かったでしょ? よくその程度で済んだわねぇ。さすがいつもなるちゃんにいじめられてるだけあるわね、拓巳ちゃん」
 くすっと笑う由梨奈に、拓巳は面白くなさそうに舌打ちをする。
「あれくらいなんてことねーぜっ……って、何だよいじめられてるってよっ」
「身体だけは頑丈だからな、おまえ。だてに鳴海先生に人一倍ボコられてないな」
 ちらりと青い瞳を自分に向けてそう呟く健人に、拓巳はムッとした顔をした。
「健人、おまえ人のこと言える立場か? いつも鳴海に一番にぶっ飛ばされるのは、おまえだろっ」
「何だと?」
 じろっと拓巳を見て、健人は怪訝な表情を浮かべる。
 眞姫はそんなふたりの会話を遮るように、慌てて由梨奈に言った。
「あ、あの……それで由梨奈さん、その“邪者”を統治してるっていう杜木って人のことですけど」
 信号が赤になりブレーキを踏んでから、由梨奈は眞姫の方に視線を移して話を続ける。
「眞姫ちゃん、知らないかな? 有名ブランド“Toki”の御曹司で専属モデルなのよ、彼」
「え? あ……どうりで、どこかで見たことあるなぁって思ってたら」
 由梨奈の言葉に、眞姫は思い出したように言った。
 それから由梨奈は、ふうっと溜め息をついて口を開く。
「かっこいいでしょ、彼。それでもって……私の幼馴染みで、昔の男だったりするのよね」
「……え?」
 由梨奈の言葉に、一瞬眞姫はきょとんとする。
 そして、驚いた表情を浮かべた。
「えっ、昔の男って」
「さすがゆり姉だよな。“邪者“が元カレかよ」
 はあっと溜め息をついて、拓巳は呆れたようにドカッとシートに背を預ける。
「何よ、私が付き合ってた時は、まだ彼は“能力者”だったのよ?」
「“能力者”だったって、どういうことだ?」
 健人の言葉に、由梨奈はふと表情を変える。
 その美しい横顔は、心なしか寂しいもののように眞姫は思えた。
「そういえば、あいつ自身もそんなこと言ってたけどよ」
 杜木との会話を思い出しながら、拓巳もそう呟く。
 由梨奈はひとつ嘆息して、いつもの笑顔を拓巳たちに向けた。
「まぁ、詳しいことはなるちゃんが話してくれるんじゃない?」
 そんな由梨奈の顔を見ていた眞姫は、ふと思いついたように口を開く。
「由梨奈さん、あの人が由梨奈さんの幼馴染みっていうことは、鳴海先生も……」
「そうね、なるちゃんと慎ちゃんは……幼馴染みで親友だったの」
「鳴海先生の、親友」
 そう呟く眞姫を後目に、拓巳は面白くなさそうな表情を浮かべる。
「その親友が、何で“邪者”なんだよ」
「まぁ、その辺はいろいろと、ね」
 そう言って、由梨奈はおもむろに車を止める。
 そして眞姫に微笑んで、言った。
「さ、眞姫ちゃん。おうちに到着しましたよーっ」
「えっ? あっ、ありがとうございました、由梨奈さん」
 いつの間にか自分の家のすぐ近くまで来ていることに気がつき、眞姫は慌ててお礼を言った。
 そして助手席から車を降りてもう一度頭を下げ、拓巳と健人に手を振って歩き始める。
 眞姫の背中で揺れる栗色の髪を見ながら、健人は言った。
「ていうか、拓巳。今日、姫とふたりきりで、どこに行ったんだよ」
「げっ、何でおまえまでそのこと知ってるんだよっ」
「……そんなことはどうでもいいだろ」
 怪訝な顔をしている健人に、拓巳はニッと笑みを浮かべる。
「ん? もしかして、気になるのかよ?」
「……別に」
 面白くなさそうな顔をして、健人は拓巳から視線を逸らした。
 健人の反応を見て、拓巳はわざとらしく笑う。
「あっそ、じゃあどーでもいいだろ」
 嘆息して、健人はイライラした様子で言った。
「だから、どこ行ったのかって聞いてるんだ」
「やっぱ気になってるんじゃねーかよ。ていうか、誰が教えるかよっ」
「…………」
 ワハハッと大笑いする拓巳をじろっと睨みつけ、健人は大きく溜め息をついた。
 由梨奈はそんなふたりを後目に、車を走らせ始める。
 ゆっくりと、まわりの景色が窓の外を流れ出す。
 そんな景色も、由梨奈の瞳には映ってはいなかった。
 昔と少しも変わらず……自分だけを見つめる彼の漆黒の瞳は、夜の闇よりも深く吸い込まれそうなものだった。
 でも……。
「…………」
 由梨奈は何かを振り払うかのように小さく首を振り、そしてアクセルをグッと踏み込んだのだった。