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 6月27日・日曜日。
 眞姫と待ち合わせしている繁華街の噴水広場で、拓巳は落ち着かないように時計を見た。
 それから、またそわそわとした様子で人の波に目を移す。
 考えてみれば……眞姫とふたりきりで休日出かけるなんて、はじめてだ。
 学校ではクラスも違うため、長く一緒にいられるのは部活の時間くらいである。
 学校が終わって偶然帰りが一緒になれば、ふたりで少し寄り道することはあった。
 だが、長い時間プライベートでふたりきりだなんて。
 1週間前、半ば勢いで約束を取り付けた拓巳だが、いざという時に妙に緊張していた。
「……ちょっと早かったかな」
 30分も前から噴水広場で待ってる拓巳は、時計をもう一度見て溜め息をつく。
 あと10分ほどで、眞姫との約束の時間なのだが……いつも遅刻常習犯の時間にルーズな彼にとって、この時間がまたとても長いものである。
 昨日のどんよりとした天気とはうって変わり、今日は紺碧の空が晴れ晴れとしている。
 そんな太陽の眩しい天気など見る余裕もない拓巳は、気合を入れるようにペチペチ頬を叩いた。
 眞姫は時間に几帳面な性格なので、待ち合わせ時間には現れるだろう。
 そう考えると、再び心臓の鼓動が早まる。
「あぁっ! ちょっとは落ち着けよっ、俺っ」
 首をぶんぶん振って、拓巳はそう小さく呟いた。
 その時。
「あ、もう着いてたんだね。お待たせ、拓巳」
 ポンッとおもむろに肩を叩かれ、拓巳はびっくりした表情を浮かべて振り返る。
「うわっ!! ひひひ、ひっ、姫っ!」
「おはよう、拓巳。って、どうしたの?」
 きょとんと自分に大きな瞳を向けているのは、まぎれもない眞姫だった。
 心の準備がまだできていなかった拓巳の心臓が、ドキドキとすごい早さで鼓動を刻む。
 そんな彼の様子に首を傾げながらも、眞姫はにっこり微笑んで言った。
「じゃあ、今からどこに行こうか?」
「姫……」
 自分に向けられた笑顔に見惚れて、拓巳は思わず固まってしまう。
 眞姫はもう一度首を捻ってから、そしておもむろに拓巳の額に手を当てた。
「拓巳、何だか顔が赤いよ? もしかして、熱でもあるんじゃない?」
 眞姫の白くて細い指先の感触がして、拓巳は耳まで真っ赤にさせる。
 そして、ハッと我に返ったように慌てて言った。
「大丈夫だよ、俺は絶好調だぜっ? さ、時間が勿体無いからどこか行こうぜっ」
 そう言って、拓巳は賑やかな街を歩き出す。
 楽しそうに周囲に目を向けながら、眞姫もその隣に並んだ。
 胸に小さなフリルのついた白のキャミソールに、歩くたびにフワフワと揺れる花柄のスカート、それに軽く羽織った薄手の上着。
 そんなフェミニンな服装は、眞姫の可愛らしい雰囲気ととても合っていた。
 肩より少し長いその髪は、太陽の光でさらに薄い栗色に輝いている。
 そして歩くたびに、小さなクロスのイヤリングが耳元でさり気なく揺れていた。
 自分の隣を楽しそうに歩く眞姫に見惚れつつも、拓巳は言った。
「姫はどっか行きたいとこってあるか? 今日は何ていうか、強引に誘っちまったからな。姫の行きたいところに付き合うぜ?」
 そんな拓巳の言葉に、眞姫は屈託のない笑顔を向ける。
「ううん、強引だなんて。私も楽しみにしてたから、気にしないで」
「俺もっ、俺も……すっげー楽しみにしてたよっ。な、何か……こう一緒に歩いてたら、まるで恋人同士がデートしてるみたいだよなっ」
 照れながらそう言った拓巳に、眞姫はパッと表情を変えて言った。
「あ、拓巳の靴ってDIESELのスニーカー? このデザイン、カワイイねっ」
「えっ? あ、ああ。この間買ったばかりなんだよ、これ」
 悪びれもなく無意識に拓巳の言葉をスルーして、眞姫は話を続ける。
「そういえば、Tシャツもだね。好きなの?」
「そうだな、ここの服は結構好きだぜ。それよりよ……」
 そこまで言って、拓巳はちらりと眞姫を見た。
 そして溜め息をつき、言葉を続ける。
「ていうか……わざとじゃないところが反則なんだよな、姫は」
「え?」
「姫ってさ、よく鈍いって言われねーか?」
 拓巳の言葉に瞳をくりくりさせ、眞姫は言った。
「うん……健人に何か最近、よく言われるけど、私何かヘンかな?」
「健人か、あいつは俺以上にストレートそうだからなぁ。まぁ、そういうところも可愛いぜ、姫は」
 ポンッと眞姫の頭に手を乗せて、拓巳は仕方ないなといった様子で笑う。
 拓巳の言っていることが見えず、眞姫は小さく首を傾げた。
 気を取り直して拓巳は、眞姫に目を向ける。
「んじゃ、どこ行きたい? 姫」
 拓巳の言葉に少しだけ考え、眞姫は言った。
「今日すごく天気いいから、ひなたぼっこがしたいな」
「え? ひなたぼっこ?」
「うん、気持ち良さそうじゃない?」
 女の子が好きそうな店や流行のスポットを何気に予習していた拓巳は、眞姫の意外な言葉にきょとんとする。
 だが、ふっと笑顔を眞姫に向け、言った。
「おっし、じゃあ近くの森林公園まで歩くか、姫」
「うん」
 嬉しそうに頷く眞姫を見て、拓巳は満足そうに微笑む。
 人の雑踏の中、ふたりは繁華街を通り抜けて、近くの公園に向かった。
 歩いている間のふたりの会話も弾み、目的地まで本当にあっという間に感じられた。
 若い年頃の子の多い繁華街とは違い、公園内は家族連れが多い。
 そして、男女のカップルの姿も結構多くみられる。
「うーん、ポカポカしてて何だか光合成してるーってカンジで気持ちいいよね」
 大きく息を吸い込んで、眞姫は満足そうに言った。
 そして何かを見つけた様子で、その大きな瞳を輝かせる。
 おもむろに拓巳の手を取り、眞姫は続けた。
「あっ、ねぇ見て拓巳、貸しボートあるよ? 乗らない?」
 緑色の芝生と公園の真ん中にある大きな池の水色が、太陽の光に照らされて輝いている。
 急に手を取られて驚いた表情を一瞬浮かべた拓巳だったが、楽しそうにはしゃぐ眞姫の姿を見て嬉しそうに言った。
「ボートか、いいな。よーし、俺がビュンビュン漕いでやるぜ、姫っ」
「ビュンビュン? あはは、期待してるね」
 こうしてみると、どこから見てもごく普通の年頃の女の子。
 だが……彼女の背中には、大きな使命が背負われている。
 しかも今まさに、自分の命を“憑邪”に狙われている真っ只中なのだ。
 楽しそうにしている眞姫だが、きっと心の中には、不安な気持ちがあるだろう。
 そうふと思い、拓巳は目の前の眞姫がいじらしくて愛しくなる。
 そして、何があっても眞姫のことを守ろうと、そう強く拓巳は思ったのだった。
「大丈夫か、姫? ほら、手ぇ掴まれよ」
「きゃっ、揺れてる……でも、何だかワクワクするねぇっ」
 二人乗りの手漕ぎボートに乗り込もうとする眞姫に手を貸して、拓巳はオールを握る。
 それから眞姫が座ったのを確認して、ゆっくりと漕ぎ出した。
 眞姫は子供のようにその大きな瞳を輝かせ、少しずつ動いていく景色を眺めている。
 その横顔は、儚げでもあり凛としたものでもあるような、美しいものだった。
 景色を見ている眞姫に配慮して、拓巳はゆっくりとボートを進める。
 そして、ふたりの乗ったボートがちょうど池の中心あたりに来た、その時。
 眞姫は、おもむろに口を開いた。
「小さい時ね……お父さんとよく、こうやって貸しボートに乗ってたんだ」
 拓巳は漕ぐ手を休め、眞姫に視線を向ける。
 少し俯き加減で、眞姫は話を続けた。
「私、小さい時に両親亡くしちゃったんだけど……お父さんとボートに乗ってて楽しかったっていう思い出は、すごく今でも覚えてるんだ」
「え? 小さい時に、両親を?」
 はじめて聞くその話に、拓巳はどう言葉を返していいか分からない様子で呟く。
 ふっと寂しそうに微笑んでから、眞姫は言った。
「あ、ごめんね。こんな天気のいい日に、何か湿っぽい話」
「いや、俺こそ……そんな事情知らないで、一緒にボート乗って。ツライこと思い出させたんじゃねぇか?」
 拓巳の言葉に、眞姫は大きく首を横に振る。
「ううん、私が乗ろうって言ったから。むしろ久しぶりに乗りたかったんだ、だから全然気にしないで」
「姫……」
 拓巳は、真っ直ぐに眞姫を見つめている。
 そんな彼にちらりと視線を向け、眞姫は話を続けた。
「私ね、今考えると、小さい頃から“邪”に襲われてたの。それが“邪”だって知ったのは、ついこの間なんだけどね。お父さんとお母さんが亡くなったちょうど10年前も……私が“邪”に襲われた時だったんだ」
 そこまで言って、眞姫は俯く。
 拓巳は見守るように、じっと眞姫の話を聞いていた。
 少しずつ昔を思い出すかのように、眞姫は言った。
「両親が亡くなったのはもちろん悲しいことだけど、私を引き取ってくれた叔母さん夫婦と暮らしてきて今まで幸せよ、私。でも……今でも時々思うんだ。私の中に眠ってる力がその時に使えたら……もしかしたら、お父さんもお母さんも……」
 眞姫がそう言って顔を上げた、その時。
 ぐいっと力強く拓巳に身体を引き寄せられ、眞姫は驚いたようにその瞳を見開く。
 ……ぎゅっと小さな眞姫の身体を、拓巳はその胸に抱きしめたのだ。
 そして突然の拓巳の行動に驚いて固まっている眞姫に、言った。
「姫の背負ってるもの、俺も持ってやるから。姫のこと、俺が絶対に守ってやるからな……不安なことがあれば俺にぶつけてこい、泣きたい時は我慢しなくていいんだぞ」
「拓巳……」
 最初はびっくりした様子の眞姫だったが、その涙線がふっと緩む。
 拓巳の言葉を聞いて、思わずぐっと我慢していた涙が溢れてきたのだ。
 そんな眞姫の頭を優しく撫で、拓巳は微笑んだ。
「姫は頑張りやだからな。ていうかすげぇよ、姫の成長の早さ。俺も負けてられねぇな」
「ありがとう、拓巳」
 拓巳の体温のあたたかさに心地よい感覚を覚えながら、眞姫は瞳から落ちる涙を拭う。
 そして拓巳から離れて、その顔に微笑みを取り戻した。
「本当に私は幸せだなって思うの。優しいみんなが、私のことを支えてくれるから」
「それは俺たちだって同じだぜ? 姫にどれだけ支えられてるか分かんねーし。ていうか、ドンドン支えてやるからな、遠慮なんてするなよ」
 そう言ってから、拓巳は再びオールに手をかける。
 そして、ニッと笑って言った。
「よーし、約束通りビュンビュンいくぜっ、しっかり掴まってろよ、姫!」
「えっ? きゃっ! た、拓巳っ」
 まわりにほかのボートがいないのを見計らい、拓巳は力いっぱいボートを漕ぎ出す。
 急にボートが動き出して驚いた眞姫だったが、すぐに楽しそうな表情を浮かべた。
 先ほどまで止まっていた景色が、今度は急速に動き出す。
 気持ちよい風を頬で感じながら、眞姫は目の前の拓巳に言った。
「拓巳……本当にありがとうね」
「ん? 何だ? 姫っ」
 子供のように必至に漕いでいる拓巳に、どうやらその声は聞こえなかったようだ。
 眞姫は敢えて何も言わず、にっこりと彼に微笑みを向けたのだった。
 それからレンタル時間いっぱいまでボートを楽しんだ後、眞姫は買ってきたジュースを拓巳に差し出す。
「拓巳ったら、ムキになって漕ぐんだもん。でも、すごく楽しかったーっ」
 近くのベンチに座って、拓巳は眞姫からジュースを受け取り、悪戯っぽく笑った。
「お、ちょうど喉乾いてたんだよな、サンキュー。ていうか、あれが俺の実力だと思ったら大間違いだぜ、姫っ。今日は姫が怖がると思って、少し手を抜いてやってたんだよ」
「あはは、じゃあ今度は本気見せてよね」
 拓巳の隣に座り、眞姫も買ってきたジュースをあける。
 それをひとくち飲んでから、眞姫はふと思い出したように言った。
「あ、そうだ。前からね、聞きたかったんだけど」
「ん? 何だ?」
 ごくごくと一気にジュースを飲み干し、拓巳は眞姫に視線を向ける。
 そんな拓巳に、眞姫は言葉を続けた。
「あのね、さっき10年前に“邪”に襲われたって話したでしょ? その時ね……私、たぶん“能力者”だと思うお兄さんに助けられたんだ」
「え? “能力者”だって?」
 眞姫の言葉に、拓巳は少しその表情を変える。
「うん。その時その人がね、すごく綺麗に輝く“気”で作った剣みたいなものを持ってるように見えて……実際、“能力者”の“気”で剣を作るなんて、そういうことできる人っているのかなって」
「“気”で作った剣か、できない事はないと思うんだけどよ。よっぽど強い“気”を持ってないと、難しいんじゃないか?」
 うーんと考え込んで、拓巳はそう言った。
 そしてそれから眞姫は、遠慮気味に言葉を続ける。
「強い“気”……鳴海先生とか……そういうこと、できたりするのかな」
 10年前眞姫を助けた輝く剣を持つ少年はその時、聖煌学園の制服を着ていた。
 眞姫が聖煌学園に憧れて、受験しようと思った一番の理由。
 自分が入学する頃にはとっくにその人物は卒業していることはもちろん分かっているのだが、どうしても同じ学校に入りたいと何故か強く思っていたのだ。
 そして年を逆算すると、ちょうどその人は今の鳴海先生くらいの年のはずだ。
 鳴海という言葉を聞いて、途端に拓巳は怪訝な表情を浮かべる。
「鳴海? いや、あいつと知り合って1年半くらい経つけど、そんなことできるなんて見たことないけどな」
「そっか、そうだよね」
 そんな簡単に10年前のあの時の人が、見つかるはずないか。
 そう思いつつ、眞姫は少し残念な気持ちになる。
 もしかしたら先生があの時の人なんじゃないかと、ほんの少しだけ思っていたからだ。
「ところでよ、これからどうする? 姫」
 よっ、と飲み終わった空き缶を狙いを定めてゴミ箱に投げ入れてから、拓巳は立ち上がる。
 眞姫はちらりと時計を見て、そして言った。
「少しおなかすかない? もうお昼すぎだし」
「そうだな。んじゃ、どっかで何か食うか」
 大きく伸びをしてそう言う拓巳に微笑んでから、眞姫は頷く。
 そして、残っていたジュースを急いで飲み干して、ベンチから立ち上がったのだった。




 ――すっかりあたりも暗くなってきた頃。
「…………」
 休日の人の多さにウンザリした様子で、健人は溜め息をつく。
 繁華街の本屋で欲しかった本は手に入れられたが、人ごみが苦手な彼は今日出かけたことを後悔していた。
 明日の学校帰りにでも、ことは足りたのに。
 そう思ってもう一度溜め息をついた、その時。
 ブルブルと健人の携帯が振るえ、誰かからの着信を知らせる。
 液晶画面に出た着信者の名前に少し意外な表情を浮かべてから、健人は受話ボタンを押した。
「もしもし?」
『俺や、祥太郎やけど……今、もしかして外か?』
「ああ。でも今から帰るところだから、構わないよ」
 歩みを止めないまま、健人はそう言った。
 祥太郎から電話がかかってくるなんて珍しい。
 何かあったのだろうかと思いながらも、健人は彼の次の言葉を待つ。
『そうそう、健人は知っとったかなぁって思ってな』
「…………」
 健人は聞こえてくる祥太郎の声を聞いて、訝しげな顔をした。
 もちろん祥太郎の表情は見えないが……何かを企んでいる時の彼の声だということが、健人には分かったからだ。
 そして少し警戒した様子で、健人は言った。
「何のことだ? ていうか、また何かくだらないことだろう?」
『くだらないなんてヒドイわぁ、いつドコでこの真面目な祥太郎くんが、くだらないコトなんて言ったんや?』
「……いつもだろう。それで、何のことだ?」
 冷たくツッこんで、健人は足を止める。
 健人の反応にふっと笑って、祥太郎は悪戯っぽく笑った。
『なんやぁ、くだらないとか言いつつ、何か気になってるんやろ? 健人くん』
「……いいから早く言え、祥太郎」
 少しイライラした様子で、健人は足元の石を軽く蹴る。
 そんな健人に、祥太郎は楽しそうに言葉を続けた。
『今日な、拓巳と姫がふたりきりでデートしてるんや。気になるよなぁ。って、知っとったか?』
「拓巳と、姫が?」
 ふと祥太郎の言葉に、健人は表情を変える。
『お? 知らんかったんか? あ、でも健人は家に帰るんやったな、もし見かけたらどんなカンジか知りたかっただけやからっ。そーいうことでまた明日学校でなぁ』
 それだけ言ってワハハと笑い、祥太郎は一方的に電話を切った。
 ツーツー……という音を聞きながら、健人はふと何かを考えるように俯く。
 そして雑踏の中を再び歩き出した。
 それからおもむろにその青い瞳を腕時計に向けて、呟いた。
「もう少し、寄り道して帰るかな」




 その、同じ時。
「…………」
 拓巳はちらりと時計を見た。
 あれから昼食をとり、森林公園でひなたぼっこをしてから、ふたりは繁華街に戻って来たのだった。
 それからカラオケに行って、ゲーセンで遊んで、喫茶店でお茶して、と……眞姫にとって充実した楽しい一日になった。
 拓巳にとってはこれ以上ない至福の時間であったのは、言うまでもない。
 暗くなってきて、繁華街はますますその賑わいを増している。
「少しまだ時間早いけど……明日学校だし、そろそろ帰るか」
「そうだね。何かすごく、今日遊んだーって感じで楽しかったよ、拓巳」
 にっこり微笑んで、眞姫はそう言った。
 そんな眞姫の笑顔に、拓巳は照れたように笑う。
「俺こそめちゃめちゃ楽しかったぜ、姫。たまには、あいつらに邪魔されないようにふたりで遊び行こうなっ」
「あはは、その時はまたボート乗せてね。今日は本当にありがとう、拓巳。また明日学校でね」
 くすくす笑ってその栗色の髪をかきあげてから、眞姫は地下鉄の駅の方向に歩き出した。
 軽く手をあげて、拓巳はそんな眞姫をじっと見守った。
 そして、何度も振り返って手を振る眞姫の姿が人の波に消えたのを確認して、拓巳はおもむろにその瞳を閉じる。
 それから次にその瞳を開いた、その拓巳の表情は……先ほどまでとは、まったく違うものに変わっていた。
「……ったく、コソコソつけ回しやがって。俺が気がつかないとでも思ったのか?」
 ふっと振り返って、拓巳はそう言い放つ。
 その言葉に、拓巳の視線の先にいる人物はくすっと笑った。
「あら、デートの邪魔をしたら悪いと思って、気配を殺していたんだけど」
「あんたはあの時、化け物みたいな“邪者”を退治した時にいたヤツか」
「覚えていてくれたなんて光栄だわ、“能力者”さん」
 キッと自分を見据える拓巳にふっと微笑み、その少女・つばさは続ける。
「でも生憎だけど、貴方には用はないの。私が用があるのは、“浄化の巫女姫”である彼女の方だから」
「何だって? おまえ、姫に何をっ!?」
 つばさの言葉に、拓巳はさらに鋭い視線を彼女に投げた。
 くすっと笑ってから、つばさは言った。
「何もしないわよ、安心して。ただ……彼女の眠っている力が、今どれくらい蘇っているのか、それが知りたいだけ。ということだから、私は失礼するわ」
 そう言ってつばさは、拓巳に背を向けて歩き出そうとする。
 その時。
「姫はもう、地下鉄に乗った頃だな」
 そう呟き、拓巳はおもむろに右手に力を込めた。
 次の瞬間、その掌に美しい光が宿る。
「!!」
 つばさはハッと顔を上げ、振り返った。
 その途端、まわりの風景がその表情を変える。
「これは“結界”……どういうつもりかしら?」
 あたりに張り巡らされた拓巳の“結界”に、つばさは漆黒の瞳を向けた。
「どうもこうもねぇよ。これ以上、姫に付きまとうのはやめろ」
「あら、女の子を“結界”に閉じ込めて、今度は脅す気?」
 瞳を細めて、つばさは拓巳に向き直る。
 そんなつばさに、拓巳は無言で光の宿った右手を振り下ろした。
「……っ!」
 次の瞬間大きな光が弾け、ドンッという衝撃音があたりに響き渡る。
「お喋りで時間稼いで、俺の“結界”を自分の“空間”で満たそうって魂胆だろうが……そうはいかないぜ?」
「この私を、退治する気?」
 咄嗟に拓巳の攻撃を防御壁を張って防いだつばさだったが、その表情は険しいものに変わっていた。
 グッと拳を握り締め、拓巳は再び“気”を漲らせる。
「俺は“能力者”だ。“邪者”をみすみす逃がすわけにはいかねーんだよっ!」
 そして掌で大きな球状を形成している“気”の塊を再び放とうと、右手を掲げた。
 ……その時だった。
「何っ!? ぐっ!!」
 ハッと顔を上げたのも一歩遅く……拓巳は、突然襲ってきた衝撃に吹き飛ばされる。
 そして近くの壁に身体をぶつけ、その痛みに表情を歪めた。
「くっ! 何だ、この“邪気”はっ!?」
 拓巳はぎりっと歯をくいしばって立ち上がり、その瞳を大きく見開く。
 ……いつの間にか、恐ろしい程の大きな“邪気”があたりを包んでいたのだ。
「! 杜木様っ」
 つばさはそう叫び、自分の背後に現れた男に視線を向ける。
「大丈夫だったかい? 怪我はないかな、つばさ」
「ええ、どうもありませんわ」
 嬉しそうにその男に駆け寄り、つばさはにっこり微笑んだ。
「……杜木様?」
 拓巳は、急に現れたその男に目を移す。
 漆黒の髪と、同じ深い色を湛えた瞳。
 つばさに向けられた微笑みは優しく、物腰柔らかな印象を受ける。
 だが……その雰囲気からは想像もつかない程、男のまわりには大きな“邪気”が渦巻いていた。
「何者だ、おまえっ!?」
 彼の身体から漲る“邪気”のあまりの大きさに、拓巳の額から冷や汗が流れ落ちる。
 ここまで威圧的で強大な“邪気”を、今まで拓巳は感じたことがなかった。
 そんな“邪気”に押されまいと、拓巳はキッと杜木に視線を投げる。
「“能力者”か、なるほどな」
 ふとそれだけ言って、杜木は拓巳に目を移した。
 その深い黒の瞳は、先程つばさに向けていた柔らかなものとはまるで違い、ゾクッとするほど冷酷なものに変わっている。
 それから口元に笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「そういえば、この間……私の手の者が、君たち“能力者”に倒されたのだったな」
「!!」
 静かな口調とは裏腹に、グワッと渦を巻いている“邪気”がさらに大きなものに変わる。
 その“邪気”に圧倒されながらも素早く身構え、拓巳も右手に光を集めた。
「くっ、これでもくらえっ!!」
 ぶんっと右手が振り下ろされ、拓巳の右手から光が放たれる。
 眩いばかりの光が唸りをあげ、杜木に襲い掛かった。
 だが、そんな様子に動じることなく彼は言った。
「私の手の者を倒したお礼を、是非しておかなければならないな」
「なっ、何だとっ!?」
 スッと杜木が手を軽く翳した瞬間‥拓巳の放った光は、彼の“邪気”に飲み込まれる。
 そして刹那、その何倍もの威力の攻撃が拓巳に放たれた。
「ちっ、くそっ!!」
 カアッと目を覆うほどの眩い光が、“結界”内を覆う。
 それと同時に、耳を劈くような衝撃音が空気をビリビリと振動させた。
 杜木はまだ晴れない余波の中、その漆黒の瞳を細め、言った。
「報告にあった通り、“能力者”はよく訓練が施されているというわけだな」
「……杜木様」
 自分に目を向けているつばさに、彼はふっと微笑む。
「危ないから下がっていなさい、つばさ」
 優しく彼女の髪を撫でてから、改めて彼は向き直った。
 ようやく余波も晴れてきて、周囲の状況も確認できるまでに回復してきた。
「ぐっ、何て“邪気”だっ……防御壁を張らなかったら、確実にヤバかったぞっ」
 拓巳はそう呟いて、目の前の杜木を見据える。
 そしてクッと唇を結んで、再び身構えたのだった。
 ……その頃。
 拓巳と分かれて地下鉄に乗った眞姫は、ふと顔をあげる。
 その瞳に映るのは、たくさんの乗客と車内の吊り広告。
 だが、眞姫の見ているものは、そんな目の前の風景ではなかった。
「!?」
 ゾクッと突然寒気がし、眞姫はその大きな瞳を見開く。
 何だかすごく、いやな予感がする。
 それが一体何なのか、眞姫には分からなかった。
 でも何かが今、起こっている気がする。
 ……そう思った、その時。
 電車が駅に着き、扉が開いた。
 車内の人の流れが大きく変化する。
「…………」
 何かを考えるように俯いていた眞姫だったが。
 電車のドアが閉まる直前、眞姫は咄嗟に車内から出る。
 そして、ふわりと花柄のスカートが揺れるのも気にせずに、眞姫はちょうど反対側のホームに到着した電車に乗り込んだ。
 何故だか分からないが、自分は戻らないといけない。
 そう、眞姫は感じたのだった。
 それからぎゅっと唇を結び、眞姫は祈るようにその澄んだ瞳を閉じたのだった。