次の日――帰りのホームルームの最中である。
「…………」
 准は机に頬杖をつき、視線を窓の外に向けた。
 教卓では、担任の鳴海先生が連絡事項を淡々と伝えている。
 そんな先生の声も耳に届いていない様子で、准は溜め息をついた。
 昨日の出来事で、クラスメートの岡田が“憑邪”であり、准と眞姫の命を狙っていることが明らかになった。
 当の本人・岡田秀一は、今日は学校を欠席している。
 力の差を見せ、脅しをかけておいたので、今日彼が学校に来ないだろうことは容易に想像できた。
 だが、准が気にかけているのは……岡田のことではなかった。
「……連絡事項は以上だ。ホームルームを終了する」
 鳴海先生のバリトンの声が、教室に響く。
 その声にふと我に返り、准は終令をかけた。
「…………」
 鳴海先生はちらりと一瞬だけその切れ長の瞳を准に向け、そして教室を後にした。
 途端に、教室中に生徒たちの声で満ち溢れる。
「准くん、今日部活の日だよね。一緒に行こうよ」
「姫……」
 にっこりと自分に向けられた眞姫の笑顔に、一瞬准は戸惑いのような表情を浮かべた。
「准くん? どうしたの?」
 いつもと様子の違う准に、眞姫は不思議そうに首を傾げる。
 准は普段通りの微笑みを眞姫に向け、言った。
「いや、何でもないよ、姫」
 准は、眞姫に言えないでいたのだ。
 同じクラスの岡田が“憑邪”であり……眞姫の命を狙っている、ということを。
 鳴海先生は、岡田のことを眞姫に伝えるか伝えないかは准の一存に任せると言った。
 准は、眞姫に言うべきだと今でも思っている。
 だが、なかなか言い出せずにいた。
 事実を知って、眞姫はどう思うだろうか。
 ただでさえ、彼女のまわりは目まぐるしく変化している。
 そんな変化に懸命についていこうと頑張っている眞姫の姿を、准は近くで見てきた。
 日に日に彼女の纏う光は輝きを増している。
 精神的にも、以前とは段違いに強くなっていることも分かっているのだが。
 しかし、クラスメートが自分の命を狙っているなんて聞かされたら……。
「准くん?」
 澄んだ大きな瞳が自分に向いていることに気がつき、准は顔を上げた。
「姫……部活、行こうか」
 それだけ言って、准は眞姫を伴って教室を出る。
 そしてふたりが教室を出て、視聴覚教室までの道のりを歩いていた、その時だった。
 ぴたりとふたりは、同時にその足を止める。
「准、部活動の前に話がある」
 いつの間にか目の前に現れた鳴海先生は、准に視線を向けてそう言った。
 その先生の言葉には答えず、准は隣の眞姫に目を向ける。
「姫、悪いけど先に部活に行っててくれないかな」
「うん、分かった。また後でね」
 鳴海先生にペコリと一礼をしてから、眞姫は先に歩き出す。
 彼女の後姿を見送った後、鳴海先生は相変わらず表情を変えずに言った。
「清家には、まだ何も言っていないようだな」
「……はい」
 先生の言葉に、准は俯く。
 そんな准の様子を見ながら、鳴海先生は続けた。
「おまえは彼女に、このことを言うべきだと思うか? それとも、何も言わずにおまえらだけで片付けるか?」
「僕は姫に、このことを言うべきだと思っています」
 はっきりとした口調で、准は短くそう答える。
 だが、その表情は浮かないものだった。
 鳴海先生は、そんな准に切れ長の瞳を向ける。
「では何故、彼女にまだ何も伝えていない?」
「事実を姫に伝えるべきだと僕は思います。でも、それを知った時の彼女の心情を考えると……」
 ふっとその瞳を閉じ、腕組みをしてから鳴海先生は言った。
「事実を知った時の清家の心情を考えると言い出せない、ということか」
「今でも姫は、目まぐるしく変化する状況についていこうと必死です。それなのに、クラスメートが自分の命を狙っている張本人だなんて知ったら……」
 そう言って俯く准に、鳴海先生はその切れ長の瞳を向ける。
「清家はおまえの言うように、自分の運命と懸命に向き合おうとしている。だからこそ、事実を伝えるべきだとおまえは考えた。そうだな?」
「……はい」
 先生の言葉に、准はこくんと頷く。
 それを見てから、先生は相変わらず表情を変えずに言った。
「だったら、何も問題はない。本日の部活動のミーティングの際、清家に事実を話す」
「……え?」
 人の話を聞いているのかと言わんばかりの瞳で、准は驚いたように先生に目を向ける。
 そんな准の様子を気にすることもなく、先生は言葉を続けた。
「確かに、事実を知った時清家はショックを受けるだろう。だが、彼女の中で生まれる感情は、それだけではないはずだ」
「姫の中で、生まれる感情……」
 准は何かを考えるかのようにそう呟く。
 そして、ちらりと准に目を向けてから、鳴海先生はおもむろに歩き出した。
「……話は以上だ。定刻までに視聴覚室に移動しろ」
 カツカツと廊下を歩き去る先生の後姿をじっと見送った後、准も再び視聴覚室へ向かう足を進めたのであった。




 その頃――都心の高層ビルの一室。
 社長室と書かれた部屋から出てきた由梨奈に、スーツ姿の男は言った。
「由梨奈様、お車はいかがなされますか?」
「んー、今日は少し寄り道して帰りたいから、結構よ」
「かしこまりました」
 由梨奈の言葉にぺこりと一礼して、その男は下がった。
 それを確認して、由梨奈は愛用のサングラスをかける。
 そして、ヒールの高い靴を鳴らしながらエレベーターを待った。
 ――ここは、由梨奈の夫が社長を務める大企業・サワムラカンパニーのオフィスビル。
 社長の妻である由梨奈自身も、サワムラカンパニーの重役である。
 一通り職務を終えた由梨奈は、エレベーターに乗り込み、眼下に広がる高層ビル群に視線を移す。
「…………」
 何かを考えるように俯いて、由梨奈は1階に到着したエレベーターを降りる。
 そして深々と頭を下げる受付嬢たちに軽く手を振り、オフィスビルから出た。
 梅雨の時期ということもあり、空に太陽は見えず薄っすらと曇っている。
 一瞬そんな空を見上げて、由梨奈が歩き出そうとした……その時。
 彼女の目の前に、立派な一台の車が止まった。
 そして、その車から出てきたのは。
「おや、綺麗なお嬢さんが歩いていると思ったら貴女でしたか。よければ、ご一緒にドライブでもどうですか?」
 そう言ってにっこり微笑みかける男に、由梨奈はサングラスを外して笑顔で答える。
「あら、どちらのダンディーな紳士かと思ったら。私でよろしければ、是非」
 声をかけてきたその人物・傘の紳士にエスコートされ、由梨奈は彼のベンツに乗り込んだ。
 優しく助手席のドアを閉め、紳士も車に戻る。
 そして、ゆっくりと車を発進させた。
 車内には、紳士の趣味のクラシック音楽が流れている。
 その旋律を聴きながら、由梨奈は言った。
「お久しぶりですね、どれくらいぶりかしら? おじ様」
「そうだな、どれくらいかな? 君が日本に帰ってきていることは知っていたから、いつデートに誘おうかと思っていたところだったんだよ」
 上品な紳士の顔を見つめて、由梨奈は楽しそうに笑う。
「私もおじ様とデートしたかったんですよ? おじ様も、すっかりお姫様に夢中のようですし」
「お姫様……今回の月照の聖女は、本当に可愛らしい子だからね」
「私ももちろんそうだけど、男たちは彼女にゾッコンですもの」
 由梨奈の言葉に、紳士はくすっと笑う。
「あの子が……あんなに彼女のことに必死になるなんてね。驚いてるんだよ、私は」
「男って可愛い生き物だわぁ、本当に」
 きゃははっと楽しそうに笑って、由梨奈は長い髪をかきあげた。
 そして紳士は、おもむろにCDを入れ替える。
 途端に車内に流れ出したのは、あの美しい曲・『月照の聖女』。
「人は誰にでも、過去に忘れられない思い出があるものだよ」
 美しい旋律に耳を傾けながらも、ふと表情を変えて紳士はそう呟く。
 由梨奈はそんな彼の横顔を、無言で見つめる。
 彼女に優しい視線を向け、紳士は言葉を続けた。
「過去の思い出は宝石のように、年月を重ねることによって輝きを増すものでもあるが……由梨奈、もしも君にとって、過去の思い出が宝石でなく君を縛るだけのものであるのならば……今ならまだ、引き返すこともできる」
 その言葉に、由梨奈は顔を上げる。
 そして真っ直ぐに紳士の瞳を見つめて、言った。
「例え過去が、私を縛るものであったとしても……おじ様、私の決心は変わらないわ」
 由梨奈の瞳を見つめ、紳士は柔らかな微笑みを返した。
「君のことだ、そう言うだろうと思っていたよ」
 紳士の言葉に、由梨奈は悪戯っぽく笑う。
「なるちゃんや詩音ちゃんにも、おじ様と同じようなこと言われましたけど、私はそんなに弱い女じゃありませんわ」
 車内に流れる曲が終わり、一瞬シンとした静寂がおとずれる。
 CDを取り出した後、紳士は優しく言った。
「君は、自分ひとりで何でも背負おうとするところがあるからね……たまには私の胸を貸してあげるから、我慢できなくなったらいつでも飛び込んできなさい」
「あら、おじ様でなくても胸を貸してくれる人はいくらでもいますわ」
 くすっと笑って、由梨奈はもう一度髪をかきあげる。
 紳士は、彼女にあたたかく見守るような視線を向けた。
 そんな紳士に由梨奈は笑顔を浮かべ、言った。
「おじ様、ありがとう」
 由梨奈の言葉に敢えて紳士は何も言わず、その整った顔に優しい微笑みを浮かべたのだった。




「…………」
 鳴海先生は数学教室の窓から、じっと外を眺めていた。
 いや、正確に言うと……その瞳に、外の景色は映ってはいなかった。
 部活動のミーティングで、鳴海先生は眞姫に事実を伝えた。
 准の危惧した通り、最初は信じられない表情を浮かべてショックを受けた様子の眞姫であったが。
 すぐに彼女の瞳は、凛とした輝きを取り戻したのだ。
 そして眞姫は、先生にこう言った。
『岡田くんを助けることができるのは、私だけです』
 その時先生は、眞姫の意思の強さを改めて感じたのだ。
 “憑邪”の張本人である岡田は、数日間は様子をみて学校を欠席するであろう。
 先生は“能力者”たちに、岡田が次に学校に出て来たその日に“憑邪”を消滅させることを指示した。
 彼の背後にいるだろう“邪者”の存在は、まだ明らかにはなっていないが‥おそらく、“憑邪”と対峙すれば、何らかの動きがみられるだろう。
「思った以上に、清家の“気”の成長は早すぎる……優秀すぎる生徒も、考えものだな」
 それだけ呟き、鳴海先生はその瞳を細めたのだった。
 ……その頃。
 学校の校門を出て、祥太郎はひとり賑やかな街を歩いていた。
 帰り道が違う映研部員たちと別れて、祥太郎はふと携帯電話を取り出す。
 そして、受話器を耳に当てた。
 トゥルル……という呼び出し音が、祥太郎の耳に響く。
 祥太郎は今日の部活のミーティングの時から、あることを考えていた。
 それは。
『もしもーしっ、祥太郎くん?』
 その時、能天気な声が受話器から聞こえてくる。
 祥太郎はその声に、ふっと微笑む。
「この色男の祥太郎くんを覚えとってくれたとは、光栄やなぁ。今、ちょっと時間ええか?」
『もちろん覚えてるわよぉっ、色男くんっ。それで? デートのお誘い?』
「可愛い綾乃ちゃんとデートも捨て難いんやけどなぁ。ちょっと聞きたいことあってな」
 祥太郎の言葉に、電話の相手・綾乃は声の雰囲気を変えた。
『なーんだ、デートのお誘いじゃないんだぁ。ていうか、もしかして“憑邪”のこと?』
「察しのいい子やなぁ。って、やっぱり姫たちにちょっかいかけとる“憑邪”と綾乃ちゃんは、何か関係があるってことか?」
 祥太郎は敢えて、気になっていることを単刀直入に聞く。
 そんな祥太郎の直球の質問に動じることなく、綾乃は言った。
『んー、関係ないってコトもないんだけど、そんなに関係してるってほどでもないわねぇ。でも……あの“憑邪”の動きに、もちろん興味はあるわよ? “邪者”として、ね』
「…………」
 何かを考え込むように言葉を切った祥太郎に、綾乃は笑う。
『あの“憑邪”もそろそろ、何か派手なことでもしでかす頃じゃなぁい? “契約”を交わして1週間くらいでしょ?』
「もうそろそろっていうかなぁ、今でも十分に、姫やら誰やら襲ってるで? あの“憑邪”」
『ふーん、そうなんだぁ。ま、あの程度の“憑邪”なら、簡単に退治できちゃうでしょ?』
 のん気にそう言う綾乃に溜め息をついて、祥太郎は近くのビルの壁にその背中を預けた。
 そして、その人懐っこい声からトーンを変え、続ける。
「……一体何が狙いなんや? まさか、あの程度の“憑邪”で“能力者”を倒せるなんて思ってるワケやないんやろ?」
『まっさかぁっ。あの程度の“憑邪”でそんなコトできるなら、私たち楽でいいんだけどねぇっ』
 きゃははっと笑ってから、綾乃は言葉を続ける。
『ていうか……祥太郎くん。綾乃ちゃんさぁ、言ったよね?』
「え?」
 屈託のない無邪気だったものとはうってかわって、途端にまた綾乃の声の雰囲気が変わる。
 祥太郎はそんな目まぐるしい綾乃の声の変化についていけず、思わず驚いた表情を浮かべた。
 そして、綾乃は静かに口を開いた。
『言ったはずだよ? 綾乃ちゃんってば強いから……戦わない方がいいって。私の前に“能力者”として祥太郎くんが現れたら、その時は、ってね』
「……俺も言ったやろ、綾乃ちゃん。俺は姫にベタ惚れやってな」
 そう言って、祥太郎は受話器を握っていない左手をズボンのポケットに入れる。
 そしてどんよりと曇った空を見上げ、溜め息をついた。
「でもなぁ、綾乃ちゃんとは仕事では会いたないなぁ。デートなら全然いつでもオッケィなんやけど」
『んーでもまぁ、その時はその時じゃなぁい? って、そおそお、この間はパフェご馳走様っ、また一緒にお茶でもしようねぇっ』
 本当に不思議な子やなぁっと呟いて、祥太郎は笑う。
 明るく元気な雰囲気を持つ子かと思えば、たまにゾクッとする程の強いものを感じることもあるのだ。
 普段の自分と“邪者”である自分を、彼女なりに無意識に使い分けているのだろう。
「お茶ならいつでもお供するで? 今度は奢ってもらわななぁ」
『マジで? まぁ、また落ち着いたら連絡ちょうだいね、祥太郎くんっ』
「そうやなぁ、落ち着いたら、な」
 呟くようにそう言って俯く祥太郎に、綾乃は言った。
『私が言うのも何だけどさぁ、眞姫ちゃんともお友達だから……彼女のこと守ってあげてね、“能力者”さん』
 その言葉に、祥太郎はニッと笑って答えた。
「当然や。言われんでも、何があっても敵が誰でも、姫は守るからな。言ったやろ? 俺は姫にベタ惚れやってな」
 それから綾乃との電話を終えて携帯電話をしまって、祥太郎は何かを考えるような仕草をした。
 そして薄暗くなった街の中を、ゆっくりと歩き出したのであった。